https://note.com/yukarimurasaki/n/ne730f3c6d55f 【トカゲのしっぽ切りはけっこう大変・・・】より YUKARI
本日は『トカゲのしっぽ切り』について考察します。実は以前お墓参りに行ったときに一匹のトカゲ?カナヘビ?と出会いました。お墓は緑豊かな場所にあるので、たくさんの生き物と出会います。緑の芝生からチョロチョロと出てきたトカゲ君は多くの人間がいるのにビビッておりました。そして、固まっているなぁ、と観察していると、おもむろに尻尾を切って逃げ出しました。尻尾はビチビチッ、と威勢よく、まさに囮らしく跳ねました。
イヤイヤ、誰も君に危害を加えようとはしてないよ~ というか、君の存在に気づいているのは私だけなんだけど・・・。トカゲ君は必死に芝生を横切って日陰に飛び込みました。
私はそのトカゲが気になったので、後を追いかけました。するとトカゲ君の様子は呆然としているように見えました。放心しているようで、まさにボー然自失という言葉がピッタリ。
なるほど、尾を切るというのはかなりのダメージなのでしょう。
『トカゲのしっぽ切り』という言葉があります。
会社や集団などで不都合が起きた場合に、その責任を下っ端に押し付けて免責しようという喩えですね。
しかし実際にトカゲのしっぽ切りを目の当たりにしましたら、切った本体のダメージがかなり大きいということがわかりました。
社会に必要のない人間はいない!
とすれば、その人間を切った側にもそれなりのダメージがあるということなのではないでしょうか。物事は穏便に平和的な解決が望ましいですね。そうつくづく感じました。
FacebookOSHO Japaneseさん投稿記事
OSHO:私たちはひとつの存在の一部だ誰を傷つけるとしても長い目で見れば、それは自分自身を傷つけていることになる 今日はそれに気づかないとしてもいつの日か、もっと目醒めたときにあなたは言う「何ということだ!これは私がつけた傷ではないかーーしかも自分自身に対して」あなたは人は別々の存在だと思ってほかの人を傷つけていた誰ひとり別個ではない
この存在全体はひとつ宇宙的な統合体だこの理解から非暴力が生まれる
Facebook長岡 美妃さん投稿記事
映画『国宝』の余韻が続いている。
主人公二人は、まるで量子力学でいう粒子と波動のような二人。片方が粒子になっている時にはもう片方は波動となっている。それは時期によってお互いがコロコロと入れ替わるようであるが、実は二人はコインの表裏のようにひとつなのだ。
ひとつのコインが、たった一つの景色を探しながら歌舞伎をする。人間的にみたら栄光と退廃が交互に繰り返され、周りの人々は退廃は無きものにして、栄光に輝く一方にばかり光を当てる。
人間は誰もがたった一つの景色を観るために体をもって生まれる。そしてこの体は即制限となり、自然法則に縛られ、社会規則に縛られ、自分自身に縛られて不自由さそのものになる。
だから賢者シレノスは言うのだ。「人間にとって最善なのは、生まれてこないこと、次に良いのは早く死ぬこと」だと。しかし鈴木大拙はその逆を言う。「不自由が自由」と。
映画の二人は、血の制限と才能の制限それぞれの制限にもがき苦しむ。その制限は人間が自然法則から自由になれないのと同じくらい、人間の力では抗うことができない。どれだけの不自由を感じ抜いたことだろう…しかし二人はこの制限を超える。(この映画が人々に振動を与えるのはここなのではなかろうか。)人間が生まれた瞬間から持つ不自由を不自由ではなく、不自由だからこそ真の自由を得ることができる逆説を最後にみせてくれる。。。生の真実が魂を揺さぶる。
人間が決めた成功不成功とは何か?
人間国宝とまでなった彼、いやその前に、人間国宝としてその地位を長く生きた師匠。彼ら二人にとって、名誉と栄光などは魂の栄養になりはしなかった。人間が追い求める名誉や栄光は虚飾でしかなく、魂はただただ本当の自分への帰還だけを望んでいる。
「何かがいつも見てるよな」と舞台の向こう側を見つめながら話す二人のシーン。。。私たちは誰もが皆、その何かに見守られている。栄光の時も失意の時も片時も離れることなく、精一杯生をまっとうする姿をいつも見つめている。。。魂の振動と、とてつもない安堵の心がこの映画から伝わってくるのだ。
映画『国宝』は、日本に対しメッセージを投げかける。「日本は心の国であることを思い出せ」と。歌舞伎とは、観ている者を生きたまま死ぬ世界に誘う。
男が完全に死んで女になる。赤を完全に消して白にする。すべてを差し出して芸を極める。
それは正しく、生きたまま死ぬ境地。迷いなし、打算なし、刀の刃の上を歩むが如く、一切の執着を許さない。そうしてはじめて、本当に生きることが出来るのだと伝えてくる。これが日本の精神性なのだと思い出させる。
いかに生死を超えるか、これが人類の課題である。
生死の超越がなければ、人間は裏切りたくなくとも裏切ってしまう。仕組みだから仕方がない。それ故、完全な共同体になることは不可能だったのだ。
人類の夢は、世界恒久平和でありOne Worldである。それは完全な共同体の完成である。
しかしなぜ、人間共同体がこんなにも歪であるのか、、、暴力で財力で人が人を支配し、それは生命を脅すやり方でしか秩序が作れないことの象徴である。真の秩序というのは、個々が個性爆発させながらも一糸乱れぬ協働が起こせること。一つ一つの個性ある細胞が集まり一つの身体を作り出せているように、である。
その為には、人間一人一人が生死を超越しなければならない。
日本の義をまっとうする文化、切腹文化、水に流すAll Zero化文化は、正に生死を超える文化である。
映画『国宝』は、私たちに覚悟を突き付けてくる。曾根崎心中、鷺娘、、、映画の中の歌舞伎でも、何度も何度も死ぬる覚悟を問うてくる。それは体の死という条件付きの死ではなく、生きたまま死ぬ完全死である。
『国宝』がここまでの私たち日本人の魂を揺さぶるのは、日本人の精神が映画の中に現れる決断と覚悟の生き様に響くのかもしれない。
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