https://note.com/muratatu/n/n5bfd01174fd6 【春日石疼句集『天球儀』考―命から宇宙まで重層的に貫く表現思想 Ⅰ】より 武良竜彦(むらたつひこ)
天球儀 春日石疼
Ⅰ 『天球儀』の思想的背景
春日石疼氏の俳句を語るには、診療所の所長として医療業務に携わることで、彼の内面に形成された思想について触れておく必要がある。私は診療所のユニークな「歌声喫茶活動」に参加し、春日石疼氏の医療に対する次のような考えを直接伺ったことがある。
「私が追及している医療の姿は、一人ひとりの利用者(注 患者のことをこう呼ぶ姿勢もとても印象的だった)さんが、家族や地域や社会の中で、その方の過去と現在と未来の時間を大切にして、自分らしくあることをお手伝いすることです。医者の専門性を活かしつつも、私自身も生活者のひとりとして共感する気持ちを大切に、皆さん自身が健康づくりをすることをお手伝いする事だと思っています。在宅(注 往診のこと)での人生の最終時期を共に歩むということも大事にしたい仕事の一つです」
その話を聞きながら脳裡に浮かんだのは、春日石疼氏の次の俳句だった。
夕焼や哀しみの端持たさるる
死にゆく人の脈を取っている医師の姿が目に浮かぶような句だ。ここに春日石疼氏の医師として命に接する「共振」的姿勢が窺える。
それは未病とか予防医学とかの考え方ですかという私の問いに、春日石疼氏はその医学用語に違和感を示してこう教えてくれた。
「病気というのは生物学的な概念ですが、そこにその人一人ひとりの物語・価値観・社会背景などの要素が加わった『病い』という、もっと広い概念で健康状態を捉えるべきだと思っています。過去・現在・未来の概念と同様で、すべては連続線上にあるのですから」
患者の「過去と現在と未来の時間を大切にして」寄り添うという言葉に、春日石疼氏の俳句の背景にある、独特の悠久の時間の流れに「今」という時を置いて捉える思想を感じたのだった。その思想に基づけば掲句の「哀しみの端持たさるる」というのは「仕方なく持たされた」というような受動的な姿勢のことではなく、命の悠久の流れの中での、かけがえのない固有の「哀しみ」に共振している深い思いの表現であることに思いが至る。それは次のような句にも通底する思想だ。
もの言はぬひと日を百の木の根開く 夏の葬死者のみ生きてゐる如し
一幹が世界支へる夏樹かな 人よりも秋津は古し千枚田
動きの見えない樹木の姿に「木の根開く」という命の時間を透視したり、「死」に「生」の続きを視ていたり、過去・現在・未来を貫き、この命の全世界を支えている「世界樹」を幻視し、「人よりも秋津は古し」と、命の時間の分厚さを感受している。下五の人為の結晶のような「千枚田」の季語が秀逸だ。
このように春日石疼氏の俳句には、永く診療活動に携わって紡ぎ出された深い「時間の思想」というものが息づいている。
春日石疼氏はクラシック音楽にも造詣が深い。会うとよく音楽の話になる。「音楽って時間の芸術ですね」という話題から、現代的なクラシック音楽への扉を開いたクロード・ドビュッシーの話になったことがある。
「音楽の本質は形式にあるのではなく、色とリズムを持った時間なのである」というドビッュシーの言葉について語り合った。その時、この言葉の「音楽」を「俳句」に置き換えて、「俳句の本質は形式にあるのではなく、色とリズムを持った時間なのである」
と換言すれば、それは春日石疼俳句の世界のことになるのではないかと思ったのだった。
春日石疼氏の俳句の場合の「色」とは一つひとつの命の固有性であり、「リズム」とは宇宙的規模の命の波動のことだろう。その波動が悠久の流れの中の「今」という「時間」を形成する。春日石疼俳句にはそんな「時間」がいつも流れている。俳句は「今」を詠む文学であるが、春日石疼氏が詠む「今」は、過去と未来を含む波動的現在という意味の「今」である。そこが多くの俳人たちと一線を画すところだろう。
診療所の「歌声喫茶」活動は、診療時間が終わった後、待合室を患者に開放して歌唱を楽しむという活動である。春日所長自らギター伴奏を担当して歌声をリードする。伴奏者として診療所の「利用者さん(注 患者のこと)」も加わる。そんな活動のことを知って地域の人が参加するようになり、地域を超えて集う人が増えてゆき、診療所の職員ではない人たちが世話人会を作り、その活動を支えている。まるで心の「世界樹」である。
春日石疼氏は、二〇一二(平成二四)年、第六五回福島県文学賞(俳句部門)を受賞している。選者の黒田杏子氏はこう評した。
「私はこの作者の五十句ことごとくに感銘を受け、ほぼ全句に共鳴しておりました」「日本の俳壇を革新、背負われる作家となられることを確信、期待します」
春日石疼俳句は完成の域に達している。
次の世も小雨聴く世か昼寝覚 米研げば光のなかを春の雪
全能や蛞蝓どこにでも湧いて 埋火や我らにミトコンドリア・イヴ
春日石疼氏は命の波動や煌めきを悠久の時間の流れの中に置き「今」を詠み続けている。
Ⅱ 『天球儀』の四つの主題とその思想
本句集『天球儀』に収録された俳句から、悠久の時間の中の命の波動を感じさせる句を、題材(主題)別に分類して摘録しておこう。
句集『天球儀』は第一主題「命・死生観」、第二主題「家族・社会」、第三主題「自然・宇宙」、第四主題「我という内在律」に大別できる。
中心に命の根源的波動があり、周りに家族・社会があり、それらを生み出した自然・宇宙がある。そしてそれらすべてが「我」という内在律の中にある。つまり春日石疼氏の精神世界のすべてである。それを悠久という時間の流れの中において「今」を表現しているのが、この句集『天球儀』の世界である。
○第一主題 命・死生観
雪しまき乳房かならず熱を持つ シランクス吹くや乳房に夏来る
ヴィーナスの固き乳房よ秋気澄む
この句集の「乳房」三句。通常の女性性・母性性を突き抜けた根源的な命の波動を感じさせる。「シランクスSyrinx」はクロード・ドビュッシー作曲の無伴奏フルート作品の題名で、ギリシャ神話の女性の姿をした精霊(ニンフ)のことでもある。天空を天女が舞っているような煌めく旋律の曲だ。
女体とは違ふ静けさ蟻の道
この句を見ても解る通り、作者のエロスに対する感性も常識とは違う。この句の「静けさ」には前句の「熱」と同じものを微量に含んでいる。地球熱、惑星熱とでもいうべき静かな命の営みの熱量である。
胎児まだ勾玉に似て星月夜
生まれ出でようとしている命の形容に、古代的文明の曙の香り、歴史的波動を纏わせる表現も独特である。下五の「星月夜」の瞑想性の響きを持つ季語の置かれ方が秀逸だ。
風無き日桜は永遠に咲くつもり
「桜」は、明日は散る、いつかは散るという諦念の中で咲いているわけではない。そう見做しているのは日本人だけだ。宇宙的時間の波動という流れの中で、桜は「永遠に咲くつもり」なのだ。このような「命」の把握に共感できない限り、春日石疼俳句は理解できないだろう。それは死生観にも言えることだ。
いつか皆死ぬる安らぎ水中花
医師としてたくさんの現場に立ち会ってきた人ならではの表現である。死を「安らぎ」と表現するのは類型的かも知れない。だが下五に「水中花」を置く表現は風変りだ。子どもの頃、透明な球体の中に造花その他をあしらった玩具を初めて見たときの、その閉じられた別世界の景に魅せられたことを思い出す。そんな別世界への誘いの喩の表現として読むと味わいが深くなる。視界がぱっと開けてくる。死というと暗黒の閉ざされたイメージが付きまとうが、ここにはその暗さは微塵もない。掌の中のような親さの中で生と死が呼応し合うような世界が広がってくる。
澄む秋の斯くも遺影と見つめ合ふ 亡き人は今も快活春の虹
踊る手のかへす手首が死者生者
これらの句にも生死を、時空を超えた往還可能な波動のように捉えている春日石疼氏独特の視座が感じられる。
母逝くを母に告げ得ず吾亦紅
自分の死を他者の目のように見届けることはできない。また死を見届ける他者も死にゆく人にその死の時の有り様を告げることはできない。そんな絶望感を詠んだ句だと読むことも可能だろう。だが、作者の思いは別にある。独自の死生観を自己の内部に育んだ作者には、先ほどから述べているように、母の死は他の者とは違って見えている筈だ。それを母と共有することは叶わないという、深い思いの中にいるのだ。
若き死の爪先までも冬木の香
この句は春日石疼氏にしか詠めないだろう。悲しみを誘わずにはいられない若年者の死であっても、慟哭や悲痛の陰りもない。「冬木の香」とは、まるで春になったらまた芽吹いてきそうな内的波動を溜め込んでいるような表現ではないか。春日石疼俳句の独特な詠法がここにもある。
流星のたび骨壺の揺るるとか
この句は私が個人的に大好きな句だ。人の死と天体のどこか朗らかな響き合いがいい。
○第二主題 家族・社会
先ず家族詠から。春日石疼氏の家族詠が独特なのは、例えば次の句のように、両親を俳句の題材としては決して詠んでいないという点にある。韻文的感慨・詠嘆の対象としてではなく、自分自身の過去であるかのような時間の流れの中に両親を置いている。
白粉花父母より街のなつかしき
これは単純に「なつかし」がっている句ではない。そう思う自分を訝しんでいるのだ。「父母」も自分もいた時空に懐古の情を感じている自分がここに居る。その共感覚の中に両親は置かれている。だから今でも、
父亡き冬欅の瘤に問はれをり
と、生前と変わらないかのように、まるで今日的課題のように「問はれ」ているのだ。
父の日の厠の棚に貘詩集 十六の母の眉根と開戦日
陽炎の母臍の緒と骨遺す 臍の緒を辿れば母のうすものへ
これらの句を読むとき、読者がその時のその現場に立ち会わされている気持ちになるのは、春日石疼俳句独特の時間把握の為である。
遠ざかる虫売のごと逝き給ふ
両親あるいは年上の敬愛する人の死さえ、このような時空感覚の中で詠まれている。
そんな眼差しが「社会」にも向けられる。
霾や地球の言語一つ消え
地域言語の消滅は、その対極にあるグローバル化のせいである。英語という一地域言語にアドバンテージを与えてはならない。そんな理念でエスペラントが作られたのではなかったか。宮沢賢治もその理念に深く共鳴した一人だ。イーハトーボ童話には精神的世界共通思想が根底にある。英米発の侵略的言語を世界共通語の座に置き続けることは、世界の地域言語消滅を加速させるだけだ。エスペラントを世界語に。地域語に永遠なる固有の煌めきを。そんな祈りの響きを感じる句だ。
玉音を聴きたるといふ夏座敷 わだつみのこゑを恐れし父の夏
夏座敷遺影のほかの貌知らず
戦後の日本の「夏」に刻まれた「時間」に焦点を当てて静かに造形した句である。
不知火海(しらぬゐ)に声あるならば夜の蟬
石牟礼道子が『苦海浄土』で水俣病の被害者たちの声なき声に言葉を与えたように、不知火海の潮騒に、夜を劈く「蟬」のような通奏音を聞き取っている。
樹はかつて畏れられたり福島忌 熔融の春また忘る百年後
脱原発デモ夏蝶が横切りぬ
原発事故禍を詠んだ俳句は、時間の象徴である大樹に対する敬虔な畏怖心を失くした人間が起こした業が、静かに批判されている。
国家幻想に向けられた眼差しも鋭い。
鉄鎖匂ふ夕焼の国亡ぶとき 国棄てよ国棄てるなと残る虫
潦の中にも国家朝ざくら 鶏頭の赤らむまぎは亡ぶ国
この世界は国家の集合体でできていると、当然のことのように共同幻想されている。そのことの危うさに揺さぶりをかけている句だ。国家は単なる決まり事の中にだけ存在する幻であって、自然や命の実在性やその固有性に優先するものではない。そんな確固たる思想がここにある。
われわれの旗は白地に後の月
国旗に象徴される国家像への強烈な叛旗である。日本人の日の丸神話に基づく怪しげな信仰的精神に対して、「白地に後の月」と反語的に季語を置く技が冴えている。
ふらここや聞こえぬやうに厭戦歌
オール日本、頑張ろう日本と声高に叫ぶスローガン言語は、命の固有性の敵である。その言語は私たちの生きる場所を息苦しいものにすることになるからだ。だから、しっかり耳を澄まさなければ聴き取れない、文学的自己表出語である俳句で、作者は囁くのだ。
○第三主題 自然・宇宙
陸を捨て陸を信じて鶴帰る 世界今朝生まれしばかり金木犀
伸び伸びともし人類が土筆なら
私たちは鶴のように「陸を捨て」たり「信じ」たりする自然なリズムを喪失していないか。まるで今生まれたばかりというような眩しさで命を見つめたことがあるか。土筆と人類の躰に同じ命の波動を感じる感性の持ち主が詠む俳句である。
宇宙にも誕生日ありクロッカス
あの愛らしいクロッカスの群生。ビッグバンの宇宙開闢からこの時に至るまでは一瞬である。そういう大きな時の流れの把握がここにもある。今は今だけでは成り立たない。そのことを認識して生きる者には、世界は違って見える筈だ。
球根植う今も火星に大砂塵
地球の砂漠とは比にならない火星の荒野である。命のない所に時間は流れない。
滴りや宇宙膨張してやます
水という命の元の小さな滴りに、大宇宙の膨張エネルギーを感受している。
○第四主題 我という内在律
この第四主題の俳句の数は少ない。少ないだけに推敲を重ねて生み出されたような濃密な精神世界を感じさせる句ばかりだ。
慾望の数だけ烏瓜真っ赤
木の実の熟した色はまさに天衣無縫の自然の色の鮮やかさだ。人間は自然の一部としてのこのような命の鮮やかさを喪失している。そんな鑑賞に終わるなら、この句は自然や生命力の句として分類されるべきかもしれない。だが、私はそんな現代人一般の感じ方とは違って、作者が自分の中に剥き出しの命の発露でもある「慾望」の赤き炎、命そのものの内在律を見つめている句のように感じられる。
寒林に入る己が音を聴くために
この「音」は自分の内なる内在律、自分を今かく在らしめている命の根源的な響き、波動のことだ。「音を聴く」という表現で明らかなように、作者は命を波動で捉えている。
風光るわが反骨の尾骶骨 記憶とは一代限り柳絮飛ぶ
大嚔われは銀河の一欠片
自我、自意識というと、普通、固執的で閉鎖的な表現になりがちだが、春日石疼氏は内省的な句を詠むときでも、どこか不思議な明るさ、朗らかさを響かせる。全身、明朗な波動型人間である。
https://note.com/muratatu/n/n0eb5051f97e1 【春日石疼句集『天球儀』考―命から宇宙まで重層的に貫く表現思想 Ⅱ】より 武良竜彦(むらたつひこ)
Ⅲ 大いなる助走―『天球儀』第一章
最後に句集の題名と章題、そしてこれまで触れなかった第一章の俳句について述べておきたい。『天球儀』という句集名は句集の内容、主題と響き合う、とてもいい題名である。句集の中には「天球儀」という言葉は登場しない。
天球に逃げ処なし冬すみれ
この句だけに「天球」という言葉が使われている。これだと作者の立ち位置が地上にあって宇宙を見上げている景になる。「天球儀」という言葉には俯瞰的な眼差しが込められている。宇宙というこの「天球」を律する命の波動と、その悠久の時間の流れの中の「今」を詠むという彼の俳句思想と共鳴する言葉である。
本稿で今まで述べてきた春日石疼氏の俳句の作句法と思想が明確な形になってくるのは、この句集で言えば第二章と第三章の時代になってからだ。その前の第一章はそこに至る大いなる助走の時代である。そのことが、この句集の構成でよく解る。
Ⅰ 月光の檻 (平成十年~二十年)
Ⅱ 未完の驟雨(平成二十年~二十六年)
Ⅲ 鳥の道 (平成二十六年~三十年)
Ⅰの「月光の檻」の時代が四十歳代半ばから五十歳代半ば、Ⅱの「未完の驟雨」が五十歳代後半、Ⅲの「鳥の道」が六十歳代前半に当たる。このⅡの時期が完成期で、Ⅲが円熟期である。Ⅰがそこに至る大いなる助走の時期だった。おそらくそれ以前の青春期の模索、試行錯誤の時代もあったに違いない。その時代の習作は潔く排除されている。そのことで逆にその余韻を残すⅠの「月光の檻」の作品が味わい深いものになっている。
第一章の章題「月光の檻」は次の句から採られている。
触れる手に月光の檻天降り来ぬ
先に第二章、第三章で見た春日石疼氏の明晰で明朗な人柄から滲む作風とは違い、まだ青春の屈折した余韻の残る句である。
世界、社会、他者に「触れる」自分の「手」を「月光の檻」が照らしているという表現は、自分が何者かも気に留めず、すべてから自由だった青春時代を過ぎて、自分が自分であることを証しだてする世界、社会、他者に繋ぎ止められることを意味している。少し自分というものが何ものか見えてきている年齢である。だが未来がすっきり見通せているわけではない。青春時代の「昭和」という「高度成長」神話の混乱の時代は終わったが、その後始末の課題を引き摺っている「平成」は、さらなる混迷を深めている。その中で春日石疼氏は第二章、第三章で見たような自分の表現のスタイルと主題を確立していくことになる。その前章の「月光の檻」の時代にも、後に明確なっていく四つの主題が、すでに詠まれ始めているのだ。主題別に印象的な句を以下に摘録しておこう。
第一主題 命・死生観
さざなみの畦より生まれ畦に消ゆ 恋猫の数だけ闇に吐息あり
死者と食ふ男ばかりの大根汁 死者がゐて椅子百脚に秋の風
生者には死者見え夜の風信子
「さざなみ」の句の命を波動と捉える視座が早くも登場している。死を生の後という時間軸に置く視点ではなく、共時的に「今」を構成する要素とみる視点もすでにある。
第三主題 家族・社会
〇家族
掌に乗りさう吾娘と秋夕焼 ままごとの父すぐ帰る桃の花
手花火や身のうちの闇妻も負ふ 嘘の子の真顔を宥す青林檎
花野踏む間も幼子に死は育つ ひらひらと忘れて母は春の蝶
この時期の家族詠は実に美しい。吾子への眼差しに溢れる愛おしさ、社会や家族にも潜む「闇」もろとも共有する夫婦愛。「母」は人びとが過去と名付ける時間感覚ゆえに陥る「不幸」から解き放たれて、無限波動の中を「蝶」のように軽やかに舞っている。
〇社会
昭和史は昭和私史なり鯨鍋 脱ぎしもの畳む一室広島忌
バンザイが国滅ぼさむ虫時雨 地雷踏むそのあとさきのうららけし
朝靄に傷痍兵佇つごとく百合
世に溢れる指示表出語の典型である社会概念語や統計的視座は、「個」を圧殺する力となって作用する。作者が「昭和史」と呼ばず「昭和私史」と敢えて呼ぶのは、そんな指示表出語的社会に対峙して、自己表出的文学語で、ものごとを深く考えて生きることを選び始めたからに他ならない。「広島忌」を国家あるいは社会の悲劇として語らず、「脱ぎしものを畳む」個としての「一室」に刻まれた悲劇として語りなおしているのだ。「万歳」という同調圧力語のようなスローガン言語が人間の自由な実存的時空を狭めてゆく。その先に亡国の景を視る視座もここにある。「地雷踏む」と「朝靄に」の句には、健忘症的国民性への強烈な批判意識が込められている。
第三主題 自然・宇宙
春日石疼氏の自然・宇宙詠のダイナミズムはこの時期からすでにあったものだ。
杖百本齢千年滝桜 その先は大瀑布なり生命樹
水母群る月光の子を孕まんと 宇宙より見し半分は虫の闇
おほどかに地球廻して大夕焼 赤白帽コスモスと無重力ごっこ
この波動感、悠久の時間の中の「今」の命の煌めき。
第四主題 我という内在律
そして第一主題から第三主題を包摂する自分自身の精神世界までも、句に詠み込もうとする独特の作句法もこの時代から、その片鱗を覗かせている。
遠夜汽車われも真白き繭ならむ 晩年は二十歳にも来む銀河の尾
飛ぶ夢をこのところ見ず蝸牛 わが死後も金木犀よ匂ふべし
私という存在は漆黒の闇の中を疾走する「繭」であるという自意識。その「今」は青春にして「晩年」であるという理由定かでない確信。疾走、飛翔中のものは「飛ぶ夢」など見ないのだ。「死後」は未来ではなく、我が宇宙的感性の「今」という波動の中にある。そんなことを詠んできた、青春の面影を残す、大いなる助走の第一章の俳句である。
そして第二章、第三章へ。
第二章には次のような句もある。
若き日の冬銀河まだ連れ歩く
第二章になってもまだ彼の「青春」は終わっていない。第二章の章題「未完の驟雨」は次の句から採られている。
偉大なるものは未完の驟雨かな
悠久の時間の中に「今」を置く感性は、物事に「終わり」を付与しない。常に「未完」である。そんな宣言にも思われる。
第三章の章題「鳥の道」は次の句から採られている。
鳥の道空に見えねど葛の花
宇宙は、人間には不可視のもので出来ている。その一つの例が「鳥の道」である。人間には見えない力で「葛の花」は咲き、あらゆる生命が「今」という花を咲かせている。
そして第三章の最後、つまりこの句集の掉尾に、次の句を置いて巻を閉じている。
一宇宙一生命体虫の闇
こんな俳句を大真面目に詠み続けているのはおそらく春日石疼氏だけではないか。
春日石疼俳句のすべてを象徴する味わい深い句である。
――了
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