「たましひ(魂)」の語源

https://ameblo.jp/gogen3000/entry-12835390619.html 【「たましひ(魂)」の語源】より

「たましひ(発生ましひ)」。動詞「たみ(発生み)」に関してはその項(発生を表現する)。「たまし(発生まし)」はその動詞「たみ(発生み)」に尊敬の助動詞「し」のついたその連用形。すなわち「たまし」は「たみ(発生み)」の尊敬表現。語尾の「ひ」は感応的動感を表現する。H音の感覚性とI音の進行感によるこの「ひ」は「ひひき(響き)」にもある。「まがつひ(禍つ霊)」にもある。要するに、影響を表現する。それも、ただ浸透していく、深奥へ消え去ってしまうような影響です。すなわち、「たましひ(発生ましひ)→たましひ」は、発生している「ひ」。すなわち「たましひ(魂)」は、発生感のある影響の尊敬表現。その場合、影響は客観的に認識され、「たましひ」は客観的影響になる。その影響主体も想像され、それは一般的には、「たま(玉)」のように球体であり、生命力を表現するように光り、浮遊し、動くと進行方向の逆方向へ光の尾のようなものが流れる。それは客観的影響ですが、その主体的影響を感じさせるのは生命体であり、一般的にそこに「たましひ(魂)」は感じられ、最も印象深く感じられるのは人(ひと)です。その結果、「たましひ(魂)」は生命体たる人(ひと)の客観世界との影響のあり方、その特性の根源的・基本的あり方(顕(あらは)れ)、のような意味にもなる(あらゆる人(ひと)においてあらゆる人(ひと)は客観世界にいる)。

「魂(たましひ)は(多麻之比波)朝夕(あしたゆふべ)にたまふれど我が胸痛し恋の繁きに」(万3767:「たまふれ」は「たまへ(給へ)」の已然形であり、「たまへ」は「たまひ(給へ)」の自動表現。つまり、「たまふれど」は、発生するが、顕(あらは)れるが、のような意。これはこれ以前に幾度もこの歌を届けた相手から歌が届いていることが前提になっている歌)。

『和名類聚鈔』では「識(サトル、シル、タマシヒ)、神(カミ、オニ、タマシヒ)、精(クハシ、ワキマフ、タマシヒ)、精霊(タマシヒ)、魄(タマシヒ、キハマル)、性(ココロ、タマシヒ、人トナリ、ココロザシ)、霊(ミタマ、ミカゲ、スタマ、タマシヒ)、魔(オニ、タマシヒ)、魂魄(タマシヒ)」といった字が「たましひ」と読まれている。

「其(か)の東(ひむがし)の夷(ひな)は、識性(たましひ)暴(あら)び强(こは)し」(『日本書紀』)。

「筆取る道と碁打つこととぞ、あやしう魂のほど見ゆるを…」(『源氏物語』:筆で文字を書くことと碁を打つことには魂(たましひ)のそれに関する質の違い、レベルの違いのようなことが現れるという)。


https://ameblo.jp/deguchi-hikaru/entry-12271261876.html 【魂の語源は】より

みなさん、 こんにちは!「魂」は「たましい」と読みますね。もともとある和語「たましひ」に漢字「魂」が当てはめられたました。

それでは、「たましい」という和語は「たまわりしひ」に由来すると言われています。

賜りし霊(ひ)つまり天帝からの分け御霊(みたま)だというのです。

天帝とは?古事記では「天之御中主」(アメノミナカヌシ)の大神を 日本書紀では

「国常立」(クニトコタチ)の大神を意味します。

この根源神は呼び名が違うだけで同じだと言われています。

生きとし生けるものに「賜りし霊」、たまわりしひがあるという日本古来からの伝統的な考え方です。しかも万物に命が宿る、神が宿るという。全てに命の輝きを観る!

そう想うと世界が輝きますよ。


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─「たましひ」は「ひ」と「たま」が堅く締(し)まったもの

霊魂について考える前に、霊魂に類似した言葉が少なからず存在することを想い起こしてお

きたいと思います。霊、魂、霊性、心霊、心魂、心性、心理、精神、精霊などです。人文系の

学問、たとえば哲学や宗教学において、それらの用語が厳密に区別されておらず、論者によっ

て使い方がまちまちであることが、それらの学問の進展や深化に好ましからざる影響を与えて

いるように思います。霊魂関連の用語について厳密な意味での使用を初めから諦めている研究

者もいるのですが、ここでは敢えてそれらの用語に関する整理を試みてみたいと思います。

まず、どのような人間観に立脚してこの問題に取り組むかということを明確にしておく必要

があります。人間の存在構造、、、、の観点から人間観を捉えると、一元論、二元論、三元論に大別できます。一元論は唯心論(観念論)や唯物論(実在論)が典型的であり、二元論は心身二元論(相互作用論、並行論、随伴現象論)などが知られています。一元論は極端な学説のため、考察から外しておきますが、真理が一つだとすれば、最終的には再浮上する可能性も秘めているものです。心身二元論は、人間は心と身(体)から成るとするもので、経験的な実感とも合致しており、たぶん最も一般に普及している人間観です。それらに対して、小生が立脚している人間観は、三元論です。これは人性三分説(trichotomy)とも呼ばれ、人間は霊魂体(霊魂魄)、あるいは霊心身(spirit-mind-body[flesh], esprit-âme-corps[chair], Geist-Seele-Leib[Fleisch],spiritus-anima-corpus[caro], pneuma-psyche-soma[sarks], ruaḥ-nephesch-guph,atman-manas-śarira)という三重の存在構造を持つとする見方です。古今東西を問わず、宗教の奥義に関わる教説や神秘主義的思想に普遍的に見られる人間観です。心身二元論は、常識的な人間観に違いありませんが、その致命的な欠点は、心的様態を一括して「心」とするために、心が内蔵する次元や分節を洞察できないことにあります。従って、心身関係を支える根拠や心身全体が超越する方位が見えず、理論的にも実践的にも、心身内に自我は留まらざるをえません。たとえば、大乗仏教では「心真如、心生滅」(大乗起信論)といい、心は真如のレベルと生滅のレベルに二分されるのですが、心身二元論では単に「心」と一括するために、その区別が掻き消されて曖昧模糊とならざるをえません。

ところで、三元論では、心と身(体)の他に、霊が実在するとします。霊とは心身の存在根

拠、心身の価値(尊厳)の源泉です。霊と心、あるいは霊と魂、この両者の混同ないしは両者

の区別の消滅が、余計な混乱と数多の誤解を招いて来ました。因みに、心と魂こんは、ほぼ同義と見てよいでしょう。漢字の「魂こん」はギリシア語 psyche に相当するもので、植物や動物や人間など生き物は、全て魂こん(psyche )を持ち、植物魂、動物魂、人間魂と呼ばれています。ただ、和語の「たましひ」に漢字の「魂こん」を当てたことは、大きな誤訳でした。三元論でいう霊魂体(霊心身)は、おおよそ和語では順に「ひ」「たま(こころ)」「からだ(み)」に相当するでしょう。本田親ちか徳あつ(幕末から明治初期に活躍した神道家)の唱えた一霊四魂説に従えば、一つの霊(直なお霊ひ )が四つの魂、即ち荒あら 魂みたま、和 魂にぎみたま、幸さち 魂みたま、奇くし 魂みたまに分かれて働いています。その四魂は、それぞれ順に勇気、親和、愛情、智慧の働きを分担しており、直霊はそれらを顧みて(省みて)統括するものです。「ひ」は「なおひ」の他にも、「むすひ」「ひと」「ひこ」「ひめ」など複合語として残っていますが、「ひ」には漢字の「霊」や「日」が当てられています。

本田説によれば、「たましひ」とは、「ひ」と「たま」が堅く締(し)まったものであり、霊

魂体の中の「霊魂」に相当するものと言えます。「たましひ」(spirit-soul と英訳すべきですが、通常は soul が当てられます)は、霊魂体の上位二項(霊と魂)を包括した用語ですから、正に「霊魂」に違いありません。「たましひ」に漢字の「魂こん」を当てたことで、上位一項(霊)が切り捨てられる結果となったのです。つまり、三元論が二元論に収縮したわけです。その代償は、計り知れぬほど甚大でした。不生不滅の実在、、が消えて、生滅する(生じては滅する)現象のみ残ったからです。このことは、人間観が矮小化されて、認識上の視野狭窄が生じたことを意味します。霊魂体の三元論が、頭部・胸部・腹部を具備した全き人体像だとすれば、心身(魂体)二元論は、首(頭)なき人体像に等しいものです。実に奇妙な人体像です。しかも、それが常識的な人間観として世間に流布しているのですから厄介です。ホリスティック(holistic)とは、この霊が本来の地位に復権した全き人間、つまり「全人」であることに他なりません。

ギリシア語ホロス(holos)には、全体(whole)、神聖(holy)、健康(health)、治癒(healing)という、少なくとも四つの意味が重なり合っており、その意味の中核をなすのは、たぶん「神聖」ではないかと推察されます。

なお、「心」は「魂こん」とほぼ同義と言いましたが、「魂こん」が「霊」をも含むほどに意味が拡張された用例があるのと同様に、「心」にも「心真如、心生滅」のように、その意味が「魂こん」に止まらずに、「霊」(本心、本つ心)をも指す場合があるので、注意を要します。しかし、このことは、「霊」が幽霊や亡霊のように、土俗的で怪奇な心象を帯びることもあることを想えば、さほど驚くべきことでもないかもしれません。

「霊」と「魂」、また「霊魂」は、以上のように解することができます。では、霊魂関連の

他の用語はどうでしょうか。「霊性」(spirituality)とは、「霊であること」(to be spiritual)を意味する抽象名詞です。「心霊」も、「霊性」とほぼ同義と思われますが、心霊写真、心霊現象などの用法から見て、抽象的な「霊性」よりも、多少なりとも具体的で超常的な現象を指す傾向が強いでしょう。不可視的な「霊性」に対して、可視的な「心霊」と言えるでしょうか。「心魂」は、もともと同義的であった「心」と「魂」が合わさったもので、「魂」が実体を指し、「心」がその働きを指す意味合いが強く、「心魂」で実体と作用の双方を含むものと見なすことができます。また、「心性」(mentality)が、人間や民族の特殊性を帯びた心の様態、有り様を意味するのに対して、「心理」は、よりいっそう普遍的な用語として意識状態や心的過程を指す傾向が強いように思われます。

また、「精神」は、人性三分説でいう「霊」と「魂」のいずれをも指す用法を持つ、意味の

揺れ幅が大きい用語ゆえに、十分な注意が必要です。ヘーゲルの『精神現象学』の原題は、

Phänomenologie des Geistes です。Geist が「精神」と訳されており、三分説でいう「霊」を指します。ところが、医療関係者が使う用語としての「精神分裂病」「精神疾患」「精神科」などの「精神」は、mental や psychic のことですから、三分説の「魂(心)」レベルに相当するものです。「精神」は、「霊」と「魂」のいずれをも指すのみならず、霊と魂を総括した「霊魂」(和語「たましひ」に同じ)の意味でも使われます。たとえば、「身体」(physical)に対する「精神」のように。こうした訳ですから、「精神」という用語は、予め明確に規定した上でない限り、使うべきではないでしょう。漢字の「精」は五穀の精美なるものから、全ての純粋・清明なるものに用いられ、「神」は万物を引き出すものとしての天神や一般に意識や心を指しました。漢字の熟語「精神」は、「精巧・精緻など、すべてことの精微に入る」ことをいうので、元は霊魂的な実体を指す言葉ではなかったようです。内丹術では、「精」と「神」の間に両者を媒介する「氣」を想定しています。「精霊」は、山川草木など自然に宿る魂や死者の霊魂のことで、使用法が限定されています。

実は、最初に言及すべきでしたが、和語と漢字の対応の是非が常に問題となることにも注意

を払う必要があります。ここでは詳細な考察は控えますが、和語の「ひ」「たま」「こころ」「からだ」「み」などが、漢字の「霊」「魂」「魄」「心」「体」「身」などと、どの程度まで正確に対応しているのか否かを、厳密に吟味・検討する作業が、本来ならば必要となるはずです。最後に、上述したような用語の混乱が、身体観に深刻な混乱と誤解を与えたことを指摘しておかねばなりません。霊魂体(霊心身)の三分説では、「体(身)」は、いわゆる物質的身体だけではなく、「魂(心)」や「霊」にも想定されています。つまり、微細身から粗大身に至るまでの重層的な身体観、存在構造を持つことになるわけです。ところが、心身二元論では、心は身体ではなく、身体も心ではありえません。心が身体を持つことはあっても、心としての身体心的な身体を想定する視点が、最初から欠落しているのです。ここから、肉体の機能停止によって人間存在は終わるとする「肉体人間観」が蔓延することになります。死は生の終わりであっても、決して存在の終わりではないため、この錯誤にいかにして気づくかが、今後の人類の命運を握っているといっても過言ではありません。

(2020/06/30 棚次正和)

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