https://www.1101.com/n/s/natsuiitsuki/2024-06-29.html?srsltid=AfmBOop1s7g3ITSSyQMQfVq_67lNQ5kfVz3GX9CSoqY4qYtIGGxZMASR 【第4回 共感の土台】より
胸のすくような気持ちのいい解説で、俳句のたのしみ方を広く伝えている俳人の夏井いつきさん。テレビ番組で、その俳句愛に満ちた指導を目にしたことがある方も多いと思います。
夏井先生の「教える」こともたのしむ姿に惹かれているという糸井が、たっぷりと話を伺いました。俳句の道へ一歩踏み出したくなる、全7回です。
第4回 共感の土台。
夏井俳句っていう文芸の一番大きな特徴は、作り手にも読み手にもなれることなんです。アーティストや画家の場合は、受け取る人は一方的に見るばかりかもしれないけれど、俳句の場合は作ったり読んだりする。人の俳句を読んで、感動して、自分でも作ってみて。作ることと読み解くこと、その両方をやれる文芸ってなかなかないと思います。
糸井いいですよねえ。楽しむことが一番の目的というか。
夏井それはありますね。
糸井ありますか。
夏井やっぱり、句会が一番楽しいです。
糸井永遠に、作ったり読んだりするわけですよね。
夏井はい。そこで褒められたらうれしいし、どうしたんだよ、うっかりにもほどがある、なんて言われると、それはそれでネタになって大笑いできます。褒めもうっかりも、全部含めて楽しいんです。
糸井そういうことを、先生は毎週おやりになっているじゃないですか。
夏井たしかに考えてみたら、『プレバト‼』っていう場所は姿の違う句会ですね。
糸井僕にはそう見えてます。番組のように教えることはお好きですか?
夏井好きですね。人の句のいいところを見つけられただけで、私自身がしあわせな気持ちになりますし、表現しようとしていることには惹かれるけれど、なぜわかりにくいのか、原因を分析して、自分なりに究明して「ここを変えるといいかも」とニュアンスがわかったときは大よろこびです。
糸井人の句だけれど。
夏井自分ごとみたいにうれしい。それを句会で共有して、みんなで「おおー!」って共感してよろこぶのが楽しいです。
糸井短い句だとしても、どういう方向に転がるのかわからなくなっちゃうことがあるじゃないですか。そのときに夏井先生が「こうです」と言い切る姿を僕は何度も見てきたので。
夏井言い切ってますよね。
糸井あれがないと、たぶんジャイアンが勝っちゃいますよね。
夏井そうですね。声が大きい人が勝っちゃいますね。
糸井そこで、夏井先生がバシッと出てきて、胸のすくような指導をされているのが気持ちいいです。
夏井ありがとうございます。番組で言えば、特に平場などは俳句の技術的にまだまだの言ってしまえば凡人の塊みたいな句が多いですから、迷わずに、伝わらないものは伝わらないと。
糸井そういう瞬間がありますね。
夏井「こんな句、山ほどある」って、収録で数え切れないくらい言いました。
糸井よく、耳にしております(笑)。
夏井作った人は「すごいものができた」と思っていることもあります。その気持ちもわかるけれど、あなたと同じことを考えて俳句を作る人は「ごまんといる」という説明をすると、
納得してくださいますね。
糸井あらゆる表現の世界である、「ごまんとある問題」ですね。
夏井コピーでもありますか?
糸井あります。基本的にいいか悪いかジャッジする前に、それ、みーんな思ってるよって、つっこまれてしまうことはあります。
夏井どこもそうなんですね。
糸井でも同時に、プロになると、「みんな思ってるよ」って言われて勝つ仕事があるんですよ。
夏井ああ! それは、すごくわかります。
糸井ありますよね、俳句でも。
夏井誰もが思いつきそうな凡人的発想から生まれた俳句のことを、類想類句(るいそう るいく)と言うんですが、ここを恐れていては俳句は作れないんですね。最初は類想類句になってしまうことは避けられないし、別の視点からとらえれば「共感の土台」という意味にもなるんです。
糸井ああ、共感の土台。
夏井共感の土台を自分のものにしておくと、ほんの一匙なにかを乗っけるだけで、この共感の土台がとんでもない味方になってくれる。
糸井なってくれるんですよね。
夏井一緒じゃないですか!
糸井そこで大事なのは、どちらも相手がいるっていうことだと思います。相手がいる中での表現の遊びですよね。
夏井そうですね。ただ、読み手・受け手を強く意識するっていうのはとても大事なことだと思っているのですが、それは「おもねる」とは違う。
糸井機嫌を取ることとは、違いますね。
夏井「きちんと伝える」っていう、そういう話なんだろうと思います。
糸井手をつながなくても、手を出してる状態ですよね。まだ握ることはできていなかったとしても、両者がものすごく必死に手を出しているのは、それは芸術としてすばらしいと思います。
夏井そうですね。
糸井あの、先生が本のなかで例に出していた句があるじゃないですか。「じゃんけんで負けて蛍に生まれたの」(池田澄子)
夏井池田澄子さんの句ですね。
糸井あれはもう‥‥、たまんないです。
夏井私も大好きな句ですけど、これを「たまんない」と言えるあなたは、もう俳句を作るしかないです。
糸井そうですか。
夏井私がたしかまだ教員をやっていたころに、この句が国語の教科書に載ったんです。
糸井この句が教科書に載るって、いいですね。
夏井それを載せたいとおっしゃった大学の先生から相談を受けていたときも、私は絶対載せるべきだと思うと伝えたんですが、教科書を使い始めた現場の先生たちがその句を読んで、その‥‥どう教えたらいいかわからないと。
糸井ああ、はい。
夏井この句についてどう教えるのが正解なのか、わからないから苦労しているという声がありました。私はいまだに「こういう句が必要だ」と強く言いたいんですけれど。
糸井わからない先生は正直に、「私にはわからないけれど、君たちはもう覚えちゃっただろう。忘れないでいたら、それでいいよ」と言うくらいでも、この句が教科書に載っている意味がありますよね。
夏井まさしく、そうなんです。無意識のうちに覚えてしまうっていうのも、俳句の力なんですよね。
糸井短いから覚えやすいですしね。
夏井無意識のうちに覚えていて、人生を何十年と過ごしていくうちのどこかで、ふと句を思い出す瞬間があるかもしれない。そのときに、この句の力が発揮されます。
糸井どこかで、言葉は完全だと思われているところがありますけど、「言い足りないことのほうが多いんだよ」っていうことは、俳句をやっている人は感じながら生きているんだろうなと思います。
夏井また俳句へのハードルがあがったのでは(笑)。
糸井だから、和歌だったり俳句だったり、言い足りないことのほうが多いことを感じながら
言い足りないことを読んでいこうとする力というのは、すばらしいことだと思います。
夏井私の教員根性が出てきてしまうんですけど。
糸井聞きましょう(笑)。
夏井大きなことを言うようですけど、日本語を使える人みんなが本気で俳句をしてくださるようになったら、日本語の心というものが、恐ろしい勢いで耕されていくと信じてるんです。
糸井はい。
夏井私が目指しているのは1億2000万人総俳人計画で、なんでみんな俳句をやらないだろうって、ずっと思っています。だから、高みにある文芸に祭り上げるだけでは、俳句のほんとうの力を発揮できない。俳句を作る、読むっていう日々のトレーニングをみんなにしてもらうことで、自ずと言葉を扱う技術と筋肉がついてきます。
糸井なるほど。トレーニングですか。
夏井俳句は才能ではなくて筋トレだっていつも言うんですけど、とにかく作るトレーニングをし続けると否応なく筋肉がつきます。真面目に、コツコツじゃなくてもいいんです。
コンテストに出して賞金をもらうことを目当てにしてもいい。モチベーションがあると勝手に歯車が回りだして、自然と季語を覚えて、語彙が増えて、作るだけじゃなくて読むと、もっと楽しい。
糸井読むときは、先生はどんなことを考えていますか?
夏井どんな句でもひとまずは謙虚に、「この句のいいところはどこだろう」っていう姿勢で読むようにしています。
糸井なるほど。
夏井決まった良さはありません。一人ひとり違って、みんないい。認めることを日々練習するような感覚です。
糸井身近に、常に褒めるきっかけがあるのはいいですね。褒めるクセがつくと思いますから。
夏井まさにそうですね。
Facebook杉山和彦さん投稿記事
再放送2025年7月5日(月)13時から地上波Eテレで放送 こころの時代 おぎないあう いのち 全盲ろう 福島智
9歳で視力、18歳で聴力を失った東大特任教授の福島智さん。周囲とのつながりを絶たれ直面したのは人間の根源的苦悩。福島さんはつながりをどう取り戻していったのか?
障害学を研究する、東京大学特任教授の福島智さんは、9歳で視力、18歳で聴力を失い、全盲ろうとなった。
周囲の人々とのコミュニケーションが失われる中で、自分が存在しているのかどうかも分からない、孤独に襲われたという。
福島さんが世界とのつながりを取り戻すきっかけになったものとは何か?その半生をたどる。
障害者にとどまらず、すべての人が抱える“根源的苦悩”を乗り越えるため、福島さんが人々に託した願いとは?
本の説明
3歳で右目を、9歳で左目を失明、14歳で右耳を、18歳で左耳を失聴し、光と音の世界を喪失した福島智氏。氏は当時のことをこう綴っている。
「私はいきなり自分が地球上から引きはがされ、この空間に投げ込まれたように感じた。
自分一人が空間のすべてを覆い尽くしてしまうような、狭くて暗く静かな『世界』。
ここはどこだろう。(中略)私は限定のない暗黒の中で呻吟(しんぎん)していた」
著者はまず他者とのコミュニケーションをいかに復活させ、言葉=情報を再び得ることができるようになったかを語る。
だがそれはプロローグにすぎず、自ら生きる意味を問い、幸せの在処を探し求める。
その深く鋭い思索の足跡は、両親や友、師との交流に始まり、フランクルや芥川龍之介、北方謙三といった人物たちの著書や谷川俊太郎、吉野弘の詩、はたまた落語にまで及んでいく。
苦悩の末に著者が見出した生きる意味、幸福の形は読む者にもまた深い思索をもたらしてくれるであろう。
人間と人間が本当に繋がり合うとはどういうことか、仲間との信頼関係を築くためには何が大事かといったことが説得力を持って迫ってくる。
https://note.com/honda_tokyo/n/nfca4718e599a 【一冊に殴られる 「ぼくの命は言葉とともにある」福島智】より
人の急激な成長が、何かに気付くことで促されるというのなら、私はある本に殴られたような経験を持った事があります。友人に怒鳴られる、恩師に叱られる、先輩に注意される、人生の節々で気付きを頂く事は、もちろんありました。ただ、この一冊は、それまでとは痛みが違いました。自分の自惚れや無知を、この一冊がその存在だけで、私を殴り、そして去って行きました。
非常に恥ずかしい経験でありますが、懺悔のようにここに記します。私はある仕事において、大変だと感じた事がありました。今考えると、ただ、もうひと絞りの努力をすれば良いだけなのに、躊躇し、大変だと目を閉じ、見ないふりをしていた事があります。目を閉じても、自体は悪くなるだけなのに。ただ、この稚拙な行動よりも、もっと卑劣な行動を次に起こしました。
こういう辛い時は、自分より苦境にある人のことを考え、その彼らを助けるつもりで、仕事に挑もう。
なんと浅はかな、自惚れた考えだろう。今では、そう思います。そして、卑劣な私は、想像を絶する苦境と恐怖の中で生きている人について検索を試みます。思いついたのは、目が見えなくて、耳が聞こえない人は、どれだけ大変な人生を歩んでいるだろうか。どのような施設にいて、どのような人たちが助けているのか、何かボランティアは出来るだろうか。検索結果は1秒で出てきて、そして目を疑いました。
福島 智(ふくしま さとし、1962年12月25日 - )日本のバリアフリー研究者。東京大学教授(博士(学術)、東京大学)。専門は、バリアフリー教育、障害学、障害者福祉、アクセシビリティ。
自惚れた私が助けようとしていた方は、東大教授であり、そして自らバリアフリーの研究で社会的に大活躍されている事が、検索結果に登場しました。その瞬間、「恥を知れ」と低い声が聞こえたような気がしています。そして、読んだ本がこの本でした。
「ぼくの命は言葉とともにある」福島智
福島先生は、9歳で失明し、18歳で聴力を失います。小学生の時に読んだ「ヘレン・ケラー」の伝記について、数年後に自分が同じ状況に陥るとは思わなかったと、冒頭で書いています。このように、思春期の成長と共に、段々と目と耳の感覚を失う様子が、先生の独特の表現で綴られて行きます。
では、この本は、光と音を失う過程を描いて、人生は大変だ、でも生きることは素晴らしい、と書いたものなのか?全く違います。幼少期の章から読み取れますが、福島先生は、元々とても前向きで、探求心の旺盛な方であったようです。それを支えるご両親も、とても聡明な方であるように読み取れます。その環境から、先生は様々な言葉を探し、繋げていきます。全てを失った時、「むしろすっきりした」という仰天する言葉を残されておりますし、更には、友人が先生の手のひらに文字を書き、それが別の友人へ伝わり、言葉が会話となった時に、この繋がりを「他者との関わりが唯一自分の存在を確かめる」という表現で記されたりしています。この本は、もちろん聴力や視力が不自由な著者が書いた本であり、読み手はそれを体感してはいるのですが、読み進めていくうちに、福島先生の言葉の選び方に魅了されていることに気付くのではないかと思います。言葉が煌めき、音を放つのです。もちろん、先生の書かれた原稿を商業的に仕上げる過程には、通常の出版物のように編集者は存在したでしょう。しかし、この言葉の選択と表現とは、福島先生独特の書き方と語彙の選択によるものです。私は、この本に殴られてから、「ことばは光」など、短期間に多数の先生の書物を読ませて頂きました。いずれの本にも言える事は、先生の言葉は色と音を放ち、美しい絵画のように表現され、そして強く鋭い説得力を持つという事であります。
私は、この恥ずかしい経験をした夜から、一度足りとも、何かを躊躇したり、あと一絞りの努力を忘れたりはしておりません。悩んで時間を無駄にするのは、もってのほか。その断言は大げさではなく、この本が記す「思索」による影響と言ってよいでしょう。
「しさくは きみの ために ある」
聴力も視力も失った福島智先生が、家族や友人から気付いた繋がり、恩師の言葉や落語から拾う感性、谷川俊太郎や芥川龍之介を自分のものとして読み解く力、生きている毎日から鋭い感性で感じるもの。これが全て、先生の「思索」を支える糧となるのかもしれません。この本で救いとなった「思索」という言葉は、読み終えた時、その読み手を救う言葉になっていることでしょう。
https://www.youtube.com/watch?v=gdJqDKmOO-0
https://note.com/e_nhkk_haiku/n/ncb2739b9d80b 【福島智『ぼくの命は言葉とともにある』・福島令子『さとしわかるか』】より
日本俳句教育研究会(nhkk)
「盲ろう者として世界で初めて大学教授となった」東京大学の福島智さんの実話を小雪さん主演で映画化した『桜色の風が咲く』を見て、ぜひ読んでみたいと思ったのが、お母さん(福島玲子さん)の書かれた『さとしわかるか』でした。
9歳で失明してから、18歳で耳が聞こえなくなり、「指点字」という独自の会話法を編み出すまでの苦難の日々を、母親である令子さんが初めて綴った感動の子育て、闘病記。
書籍紹介より
福島さんと意思疎通をとろうと、偶然にお母さんが生み出し、福島さん(そして、盲ろう者の方々の)新しいコミニュケーション手段となった「指点字」。『さとしわかるか』は、その「指点字」で初めて話した言葉がタイトルとなった、心揺さぶられる母の体験記でした。
そして、『さとしわかるか』を読んでみると、やはりご本人の著書が読みたくなって、『ぼくの命は言葉とともにある』へ手を伸ばしました。この書籍が素晴らしかった! 凄まじい読書量に支えられた示唆に富む内容で、綺麗ごとではないご自身の体験を語る中で、人間が豊かに生きていくための新たな視点を与えてくれる濃厚な読書体験でした。
私がおかれている状況、つまり「光と音のない世界」でどう生きるかということは、戦場などのある種の極限状況におかれた人間がそこでどう生きるかということと共通する部分があるのではないかと思います。
もっとも、私の場合、生きて命ある限り、その戦場での戦いは終わりません。光も轟音も硝煙の臭いもない、暗く静かな、しかし途絶えることのない戦闘状態が日夜続いています。
(略)おそらく人間は、全員がいつも何かと闘っているのです。究極の敵は自分です。私にとっても敵は自分自身です。これはすべての人に共通することではないでしょうか。自分の中にすべての答えがあるのです。
本書の根っこにあるメッセージは、「自分がいかにちっぽけな存在で、つまらなくてくだらないものか」、「自分の非力さ、無力さ、怠惰さ」を認め「どん底まで落ち込んだところで」それでも「どんな人にも生きる意味がある」というものでした。ただ生きていることの大切さ、そこに至るまでの福島さんの思索が素晴らしいので、ぜひ本書を読んで頂きたいです。
また、「物質的に孤立するだけでなく、心理的に孤立することこそが、より深刻な孤立」であり、「コミュニケーションが水や空気や食べ物のように、生きるうえで絶対に必要なものだなと私は痛感しました」と語る福島さん。盲ろう者となり、宇宙空間の中にたった一人だけおかれて窒息しそうな時、最初に空気を供給してくれたのが、お母さんの指点字「さとしわかるか」であり、友人の「しさくは きみの ために ある」という言葉だったといいます。そして、「真っ暗の宇宙にたった一人漂う私に再び光を当てて」くれた「コミュニケーションはぼくの命」であり、「ぼくの命は言葉とともにある」というタイトルへと繋がっていくのです。
広範囲にわたる様々な引用も心揺さぶられるものが多く、読みどころばかりなのですが、最後に引用されていた福島さんご自身の平成19年の「東京大学入学式(学部)の『祝辞』」の全文に心震えました。東京大学のHPにも載せられていましたので、ぜひ読んでいただきたいです。(八塚秀美)
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