「モノに語らせ、 目に見える俳句を」

https://fragie.exblog.jp/32955661/ 【「モノに語らせ、 目に見える俳句を」という私の作句信条。】より

芽吹く木々。辛夷の芽だ。足元を見れば犬ふぐりが。。風は冷たくても、ダンゼン、春である。

26日付けの讀賣新聞の長谷川櫂さんによる「四季」は、西池冬扇著『臼田亞浪の百句』より。

 山蛙けけらけけらと夜が来る     臼田亞浪

「『けけらけけら』と笑うように鳴いているのは何蛙だろうか」と長谷川櫂さん。

「けけらけけら」と鳴く蛙に夜が来るように、それを聞いている人間にも夜が来る。

「けけらけけら」と蛙の鳴き声を聞く人間にはいったいどんな夜が来るのだろうか。。

今日の毎日新聞の坪内稔典さんによる「季語刻々」は、小澤實句集『瓦礫抄』より。

 茹飯蛸みひらけるものなかりけり    小澤 實

「今は飯(卵)を持つイイダコのうまい時期。瀬戸内のどこかの漁港へイイダコを食べに行きたくなっている。」と坪内さん。

いいなあ、瀬戸内海の蛸とか魚とかはそれは美味しいんだろうなあ。もしかしたら私は魚介のほんとうのおいしさを知らないかもしれない。

新刊紹介をしたい。林昭太郎句集『花曇(はなぐもり)』

A5判変型ハードカバー帯有り 182頁

作者の林昭太郎(はやし・しょうたろう)さんは、1941年(昭和16)千葉県生まれ、現在は千葉・佐倉市在住。1976年(昭和51)年に作句を開始し、「沖」に入会。途中、作句の中断があり、2004年(平成16)作句再開、「沖」に再入会。2006年(平成18)「沖」海鳴集同人、2013年(生成25)「沖」珊瑚賞受賞、「沖」蒼茫集同人。2015年(平成27)沖俳句コンクール入選一位。第1句集『あまねく』(2012年)上梓。俳人協会会員。本句集は、2012年から2022年迄の12年間の作品を収録した第2句集である。

本句集『花曇』の上梓について、著者はこんなふうに「あとがき」で書いておられる。

句集『花曇』は『あまねく』に続く私の第二句集です。2012年から2022年までの310句を収めました。

前句集『あまねく』のあとがきに「自分の目で校正できるうちにと上梓することにいたしました」と書きましたが、幸いなことにまだなんとか文字が読めます。これが最後のチャンスと思い上梓に踏み切りました。

本句集の担当はPさん。

 虫の音を小さく分けて分譲地    桜貝濡れては色をとりもどし

 風の無きときは陽にゆれ秋桜    パレットに春待つ指を通しけり

 炎天を来し黒髪に火の匂      火照りたる耳持ち歩く春の雪

Pさんの好きな句をあげてもらった。

 虫の音を小さく分けて分譲地

おおきな空き地だったときはいっせいに景気よく鳴いていた虫たちも、分譲地として小さく切り分けられてしまった今、分譲地ごとに鳴いている。実際に分割されたのは土地であるけれども、この一句の巧みさは、「虫の音を小さく分けて」と詠んで、下5の分譲地であることの現実で着地させていることだ。そうか、分譲地だからねと。威勢よく鳴いていた虫の音さへも分割された土地ごとにその勢いを失ってこじんまりとしてしまったのだ。狭い土地にぎゅうぎゅうと建てられる分譲住宅の現実を虫の音に託している。それでも虫の声が聞こえてくるのは嬉しい。わたしの家がまさにそうであるように。

 パレットに春待つ指を通しけり

やがてこのパレットに絞り出される絵具の色がみえてくるよう。明るい色彩にみちて。「春待つ指」が上手いと思う。春ともなれば絵心がいっそうかき立てられるもの。絵具の色もそろえたし、郊外にでてスケッチもしたい。パレットに通した指を絵具でよごして、思いっきり絵を描きたい。極度に狭い空間に焦点を絞って詠んでいるのだが、そこから広がる世界は際限なく広く鮮やかである。

 着膨れて失せざるものに負け嫌ひ

これはわたしの好きな一句である。滑稽なまでに着込んで着ぶくれてかっこ悪い、もう体裁などどうでもいいや、なんていう気持もある。そんな自分をあるいは鏡に映して笑ったりもするかも。しかしである、この作者、この着ぶくれのわが身をとおして、その身体の奥にあって決して消えることのない闘争心を見つめているのだ。「負けず嫌い」の気持を自負しているといってもいいかもしれない。この気骨がいいではないですか。厚着してまんまるとなって温厚にみえるかもしれないが、侮る勿れ、その負け嫌いの情念はなおも健全なのである。油断してはいけない。この句の前にある句「まばたきは瞬の黙祷冬銀河」は作者の自選15句に抄出されている。

 包帯の中の脈拍新樹の夜

この句、すこし異常な感じがあって心惹かれる。どう異常かというと、「包帯の中の脈拍」がヘンだ。包帯に巻かれているのはどこだろうか、腕か、あるいは脚か、あるいは頭か、それとも胸か。それにしても、包帯の中の脈拍は見えない、包帯で覆われているわけだから感じるしかない。作者はそれを神経を研ぎ澄まして聴こうとしているのだ。なにかちょっと普通でない感性を思う。そして「新樹の夜」である。夜の静けさのなかに木々の緑はどんどん成長をしている。命のエネルギーが横溢している。そんな気配を十全に身に感じつつある夜に、包帯をした作者は、そのさきにある自身の命の鼓動に耳を傾けている。包帯の白、新樹の緑、夜の黒、それらの色に支配されつつ、作者の肉体の鼓動と木々の命の波動が重なっていく。あれ、わたし病的って書いたけど、どうなんだろう。しかし、包帯というものがやはり、健全さとは反対のベクトルを差しているようで、ゾクッとする。わたし好みである。

ほかに「朧夜を水の袋のやうに猫」「葉桜や常につめたき膝頭」なども心惹かれた。

タイトルの「花曇」は、高齢の私にはいささか華やか過ぎると思いますが〈水飴の気泡うごかず花曇〉によるもので、「モノに語らせ、目に見える俳句を」という私の作句信条がよく表れていると思いタイトルといたしました。

句集名について「あとがき」にこう書く著者である。

装丁は和兎さん。前句集『あまねく』同様、林昭太郎さんのご指名である。

ピンクを中心に淡いいろを配した装丁となった。タイトルの文字は、パール箔。

表紙は濃紺である。角背に金箔がシャープである。花切れと栞紐は白。表紙の紺と花布とスピンの白によって、甘さから救われた。清潔感もある。格をうしわず、しかもスマートに仕上がった。林昭太郎さんより上梓後の思いをうかがった。

(1)できあがってのご感想は。

デザイナーの目で見れば、タイトルの文字がやや弱かったかな、とか帯の用紙はカバーと大きく違った色合いにした方が、互いのレイアウトが邪魔しあわないで良かったかな?など、小さな反省点はありますが、大きくみれば「花曇」の感じがよく出ているデザインで良かったと思っています。

地の写真とパール箔の響き合いが素晴らしいです。

本文は全くイメージどおりの仕上がりで100パーセント満足しています。

(2)第一句集『あまねく』のあとの第二句集となりますが、第一句集とはちがう点や、この句集に籠めたお気持ちがあればお聞かせ下さい.

緑内障が進んで、目が見えにくくなっていますが、第一句集も第二句集も目に「見えるように詠む」という基本は全く変わっていません。読み返して、少しは進歩しているな、と楽しく読めました。第二句集を出して良かったと思っています。

(3)句集を上梓されて、今後の句作への思いなどございましたらお聞かせ下さい。

基本姿勢は変えずに深化していければ幸いだと思っています。これまでどおり楽しく作句して行ければと思っています。林昭太郎さんご自身、職業がデザイナーでおられる。 

山茶花の盛り山茶花散るさかり  林昭太郎

林昭太郎さま ろいろとお世話さまでございました。ふたたびのご縁を感謝しております。

更なるご健吟をお祈り申し上げております。


http://buntan.la.coocan.jp/back2/animism.html 【俳句のアニミズムとは?】より

  まえおき

 1993年8月、「小夏とかつお」(自分史・高校編)を自費出版した。その文集の一つに、藤田洋一さん(故人)の次のような文章が掲載されている。

 ー 歳を取るとやっぱりアチラの方の事情も幾らか気になる。遠藤周作さんはよく「生かされている」と言っている。若い頃のフランス留学時代の事を書いた『牧歌』は彼のクリスチャンに至る壮絶な体験が描かれているが、理解する所はあってもあの異国の宗教を信じることで救われるきがしない。梅原猛さんの動物はおろか山川草木総てに魂が宿るアニミズムの方が心和やかに感じられる。-

 アニミズムとは何か、私は洋一さんの文章に書かれているように理解していた。今でも、それ以上でもそれ以下でもない。

  俳句のアニミズムとは?

 著書『中沢新一 俳句の海に潜る 小澤實』に、「俳句のアニミズム」(中沢新一)の章がある。その中に、金子兜太と佐々木幸綱の対談が紹介されている。

 佐々木 「俳句の本質はアニミズムなんではないですか」

 金子  「そうなんだよ アニミズムを無視して俳句を作るなと言いたいぐらいです」

 上記「俳句のアニミズム」は、私の初歩的なアニミズムをはるかに超えている。「俳句のアニミズム」には、そのことが具体的に書かれてある。

   閑さや岩にしみ入る蝉の声      松尾芭蕉

 「この句はまさにアニミズムの極致。蝉を流れるスピリット(※①)と岩を流れるスピリッツが相互貫入を起こして染みこみあっている」、と書かれている(※②)。

※①動くもの。②私にとっては、難解。

   凍蝶(いててふ)の己が魂追うて飛ぶ  高浜虚子

 「この句をアニミズム的な詩と呼ぶことができても、じつは近代的なアニミズムである」、と評している(※)。

※中沢氏は、この句を「アニミズムの俳句」に位置付けていない。

   採る茄子の手籠にきゅァとなきにけり  飯田蛇笏

 「<きゅァ>っと音がした。その<きゅァ>を、茄子が泣いていると言った瞬間に、茄子の中に意識が入ってしまっている。茄子と俳人の間で意識の相互貫入が起こってしまっている」、と解説されている(※)。

※アニミズムの代表的な俳句としてあげられている。

   おおかみに蛍が一つ付いていた     金子兜汰

 「まさに「東国」のアニミズム感覚。蛍はお尻を光らせ、その体につけたおおかみは、自分の力をもって存在の光をしめす。おおかみはもういなくなってしまったが、じっさいに見たこともないのに、私たちの中には、おおかみの目の光の記憶があるように思える。たぶんこの目の光は「東国」の自然の放つ霊妙な原始的エネルギーの化身なのか。俳句とアニミズムが根源的なところでつながっている」、と評価している。

  おわりに

 詩の表現に擬人法がある。「物や動物を人になざられえた表現」と言われている。

   木啄も庵はやぶらず夏木立       松尾芭蕉

 この句は、木啄を人に見立てているから、擬人法だと言われている。但し、擬人法とアニミズムは関係がない。

 俳句に「物」に語らせる手法がある。「アニミズムとの関わりは?」、と思ったことがあった。しかし、語らせるのだから、アニミズムではない。

 本文で、蛇笏は茄子に兜太はおおかみに、意識を集中し俳句の世界として詠まれている。その五七五の音の世界では、茄子やおおかみに魂があっても自然な描写になる。そのアニミズムに、俳句の本質があるのかも知れない。


https://note.com/ohanacya/n/n41108af00505 【俳句とアニミズム】より

新川ありさ  「俳句の海に潜る」

文化人類学者 中沢新一さんと俳人 小澤實さんの対談本を読んだ。「俳句の本質はアニミズムだと思う」中沢新一さんのこの言葉は、心動かされる言葉だった。

アニミズムとは、生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方。太古の縄文時代から続く日本人の持つ自然信仰的な世界の見方。

それこそが俳句の本質だという。俳句は必ず季語を立てないといけない。

動植物と気象を立てて、それを季語にして詠むという芸術の一種のルールがある。

つまりそれは「人間の目で見るな」ということです。

人間の目で世界を見るのではなくて、人間と動植物の関係性で見ていく。

あるいは、例えば鷹を詠むときは、鷹の目になる。

動植物の目になって世界を認識することをルールにしているわけです。

中沢新一 世界は人間のためだけにあるのではないということを歳時記は示している

小澤實 そんな風に思ったことがなかった。

川柳や短歌といったより自由な形式なものに淘汰されることなく、あくまで季語を入れることに拘る古典的な手法をとる俳句が続いている意味が深いものに思えてくる。

自然と人の世界は分かれすぎているけれど、本来であれば人も自然界の一部。

それを忘れてしまっている。自分も含めて。

自然との境界線が曖昧で、輪郭が薄い状態になれたなら、自然界から奪いすぎることもないだろう。アニミズムは人間中心の世界ではない世界の見え方を教えてくれる。

現代の日本人も無意識にアニミズム的な感覚はあると思う。

10年は前にはなるけれど、トイレの神様がヒットした。トイレにも神様はいるんだよ。という考え方。まさしくアニミズムである。今尚、持ってはいるものの意識をすることのなくなっている力。このアニミズムが今、必要なのではないかと思う。

芭蕉の持つ目の凄さが、この本を通して伝わってきた。

人間の持つ生者のルール、様々な人間的な部分を薄くして、自然に対して浸透膜のように接することができないとこんな句は詠めないと芭蕉を評していた。

彼の宇宙観を知りたいと思った。面白かったのが小澤氏が選んだアニミズム的俳句10選

この中の一つに高浜虚子の句があった。 凍蝶の 己が魂 追うて飛ぶ 高浜虚子

美しい言葉選びだと惹かれるものがあったけれど、中沢新一さん曰く、虚子の俳句はアニミズム的なようで実は近代的な思想をもとに作られているということだった。

生きている凍蝶の肉体が、別れ出てしまった魂を追っているということは、

魂と身体とを別のものと捉えているということである。

小澤さんがこの言葉を受け、いくつかの虚子の句を再検討してくれたけれど、確かに自然モチーフでアニミズム的に見えるものの、そうではないものが多かった。

一方、10選に挙げられた句でこういうものがあった。

採る茄子の手籠にきゆァと鳴きにけり 飯田蛇笏

かごに入れる時に茄子と茄子が触れ合ってきゆァと鳴いた。

なんとも茄子がいとおしく感じられる。

茄子が精霊のように感じられる。植物の中に宿っているような、一体になるような、この感覚。この感覚なんだ。

私が中学時代授業で作った俳句の数々は、まるで本質を理解していなかったなぁと思う。

言葉の寄せ集め。簡素なコラージュのようで。

アースダイバーな芭蕉をはじめとする俳句の偉人に学び、自分もアニミズム的な俳句を作ってみたくなった。面白いではないか!

あと、とても面白かったのが「なぜ俳句を縦に書くか」俳句を縦一行に書くことに神の依り代をみることができないかと以前小澤さんは問題提起を行ったらしい。

諏訪大社の祭御柱祭の深山から切り出したもみの巨木をはるばる曳いてきて神社の境内に立てる御柱を挙げて、縦書きの俳句とそれらの依り代が似ているということだ。

縄文から続く柱や石を立てる行為。芸術行為。

そこに日本人の精神史を組み立てることができるのではないかという話にも広がった。

それは世界にも見られるかもしれないので、もっと世界の根源的な感覚かもしれない。

俳句の海は、遡れば深い、人間と地球の歴史。

天 地(あまつち) の 間 に ほ ろ と 時 雨 か な

最後が高浜虚子で締めくくられたのも、なんだか俳人高浜虚子への敬意も感じられてよかった。

自然と中沢新一さんを追いかけているようで、すっかりファンになってしまっている。

同時代を生きているって、すごいことだ。嬉しい。

 

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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