心象風景

https://note.com/makotoshirasu/n/n8276d7681311 【心象風景。身体の有限性、心の無限性。】より                            Makoto Shirasu

「心象風景」という言葉が好きだ。

人には「身体の有限性」と、「心」のキャンバスに描き出され、どこまでも広がる「世界の無限性」が共存している。

象は「目に見える姿、あらわれた物の形。目で見られない物を、何かの形で示したり、似せた形を作る」ことを指す。心象風景。森羅万象。有象無象。

「風景」という言葉を最初に作った人の感性はとても豊かだと思う。風と景。景は景観や情景などに含まれるが、すなわち「光」であり、転じて「日の光に照らし出されるすべてのものの形」を意味する。

風そのものは目に見えない。肌で感じたり、あるいは樹々や葉がそよぐ様子からその存在を連想する。ふれた風の質感。温たたかさや冷たさ、厚みや重さ。風に乗る香り。そうした経験は心の奥深くまでしみ込み、思い起こせばあたかもその時間、場所に戻ることができる。(少なくとも現在のところ)物理的な時間は巻き戻せないけれど、人は心の中に流れる時間を巻き戻して「心的旅行」を自由に楽しむことができる。

光そのものも目に見えない。光とは物理的に言えば「電磁波」であり、人が目で見える範囲の波長のものを「可視光線」と呼ぶ。これはすなわち、人が生まれ持った感覚器としての目では捉えることのできない世界があることを意味する。

たとえば、トナカイは「紫外線」が見える珍しい動物で、主食のコケを探すのに有利なように進化したとする説がある。紫外線が見えない人間、紫外線が見えるトナカイ。はたして、トナカイに見えている世界を想像することはできるだろうか。トナカイにはどんな心象風景が広がっているのだろうか。

科学の発展は、未知のベールに包まれた自然の神秘を解き明かし、自然法則として体系化し、有意な形での応用可能性を広げ続けてきた。ここでの有意性とは具体的に何を意味するのだろうか。

「それぞれの動物が知覚し作用する世界の総体が、その動物にとっての環境である」という環世界説を唱えたのは、ドイツの生物学者であり哲学者でもあるヤーコプ・フォン・ユクスキュルである。

これまで想像もできなかった異なる環世界をつなぎ、未知の心象風景を描くことで「わかりあう」ことの扉が開かれてゆくのかもしれない。心象風景が「正しい真実」を表すのかを問うのではなく、むしろ「多様な真実」が存在することを前提に、ありえる世界の可能性を提示することで、自らをほどくために科学が開かれてゆく。そんな未来を描くことができるはずだ。

心的状態に関連する神経活動は、パターンが自然に構成されるかたちで、多数のニューロンへと空間的に分散している。そのはっきりした例は、視覚、聴覚、触覚などの感覚装置や、内臓の活動を探る装置で見られる。これらのパターンは、その神経活動を刺激した事物、活動、質に空間的な意味で対応するが、空間的のみならず、その活動が展開する時間という意味でも、その事物や活動を描き出していく。この神経活動は、対象となる事物や活動を事細かにマップ化するのである。

アントニオ・ダマシオ『教養としての「意識」機械が到達できない最後の人間性』

この「マップ化されたパターン」は、私たちの神経系の周囲にある世界、つまり目や耳といった感覚装置へと提示される世界に存在する事物や活動の物理的詳細に従って、その場その場で描かれていく。私たちの心を構成する「イメージ」とは、そうしたパターンを脳へと伝達する、とても整然とした神経活動の結果なのだ。言い換えれば、神経生物学的な「マップ化されたパターン」が、私たちがイメージと呼ぶ「心的事象」へと変わるわけだ。そして、こうした心的事象が感情や自己の視点を含む文脈の一部へと組み込まれると、そのときは初めて、それは心的体験へと変わり、意識的なものになる。

見ようによっては、この「変換」や「転換」を魔法のような出来事と捉えることもできるし、ごく自然な現象と捉えることもできよう。私は後者派だが、だからといって完璧な説明が可能であるとか、詳細がすべて白日の下にさらされている、などと言うつもりはない。これから述べるように、この"心の物理学"には、いっそうの説明の努力が必要なのだ。ただし、この"不完全さ"を、意識のいわゆる「ハード・プロブレム」と混同してはならない。この不完全さは、マップやイメージを下支えしていて、古典物理学では十分に説明できない心の深い構造とかかわっている。その不完全さがはたしてどれほどの難問なのかは、時のみぞ知るといったところだろう。


https://ncode.syosetu.com/n2873ck/ 【極私的俳句論。その24客観写生?それとも、、心象風景?】より                       作者: 舜風人

子規、、虚子から始まるいわゆる近代俳句に於いては写生が重視された。

写生とは、、読んで字のごとく、見たありのままを俳句にするということです。

さらに、もっと写生を突き詰めると「客観写生」とか言って見えた通り見た風景だけを俳句にしなさい、なんて一派が輩出するのである。この一派は、たとえば、、猫の歯茎をよーく見たら、、なんとそこに猫蚤が一匹張り付いていた、なんて句を作ってこれこそ客観写生の神髄だなどと唱え出したのである。

だがさすがにここまで至るとそんな些細な、、細かすぎる際日だけの俳句ではたして良いのか?というという疑問が噴出して次第にこの一派は衰退したのだが、、。

まあ、あまりにも細かすぎて、、顕微鏡でのぞいたような俳句ばかりでは、、困りものですよね。穏当なところでせいぜい「花鳥諷詠」くらいで良いでしょう。

さてところででは?俳句で虚構を、、つまりフィクションを歌ってはいけないのだろうか?

見たもの、みた風景だけを素直に詠いなさい。まあこれはこれで結構な提言ですが。

そもそも俳句も創作でありつまり大きいくくりではドキュメントとか新聞記事でなないですね。

あくまでも作者の感性というフィルターを経て生み出された 創作物であり 創造物であり

つまりということは、、フィクションなのですよ。言うまでもなく事実そのままの報告が俳句ではないです。

見た風景 見えた事物を 一端、作者の感性の中に取り入れて、それを咀嚼して 作者なりの色付け?を施して つまり脚色して敷衍して、そののちに 575の俳句形式で吐露する。

表白する。それが俳句ですよ。

見た事実そのままを新聞記事のようにただレポートしてもそれでは俳句になりませんね。

その過程で錯書の感性のせんっべつ作業が施されてこそ俳句となりうるのです。

ということは、俳句とは、、つまり有り体に申せば「フィクション」そのものです。

写生といってもタダそのままの生煮えの?風景描写では誰も感動しませんよね。そこに作者なりの情意とか、空想とか、敷衍とか、、そういう創作活動を施さなければ俳句にはなりません。というわけで俳句とは「創造されたフィクション」である。という結論になります。

それで正解というかそうしなかったら、先ほどの猫蚤のような句ばっかりになって味気ないこと限りないですよね。あの芭蕉だって実際経験したことに+想像を敷衍して脚色してあの名句に結晶させているんですからね。

たとえば「古池や蛙飛び込む水の音」というあまりにも有名な句がありますが、、あれなど虚構の最たるものですね。

芭蕉が古い池に来てカエルがぽちゃんと飛び込んだのを見て作った?と信じますか?

そもそも。池に小さなカエルが立った一匹跳びこんだくらいでは、、音なんか聞こえないでしょ?それが芭蕉には聞こえた?

というか芭蕉の心の耳には聞こえたという、、そういうイマジネーションの句なんですよ。

実際の風景なんかではないです。

あくまでも芭蕉の創作であり終えて言えば完全なフィクションです。まあとはいえ芭蕉には見えた?というか芭蕉の心象風景にはそう見えたということに於いては事実?でもあるわけですよね。まあざっくりまとめてしまうと、、俳句とは作者の心の眼とか心の耳に、、見えた、、聞えた、、心象風景である、、、。という結論であるといえるでしょう。


https://philosophy.hix05.com/izutsu/izutsu22.basho.html 【芭蕉の心象風景:井筒俊彦の松尾芭蕉論】より

芭蕉の句は深層意識に映った光景をそのまま詠んでいる、と指摘したのは井筒俊彦だ。深層意識に映った光景というのは、井筒によれば分節以前の未分節の状態で、したがって混沌としたものだ。その混沌から余韻が生まれる。芭蕉の句の強みはその余韻にある。俳句とはそもそも余韻の芸術なのだ。芭蕉がその余韻を重んじたのか、あるいは余韻が芭蕉によって見出されたのか。どちらとも言えないが、芭蕉の登場によって、余韻の芸術としての俳句が成立したのは間違いないようだ。そこで小生は、芭蕉の句に一々あたり、そこにどのような事情が成立しているのか、考えてみたいと思う。考えてみたいというのは、とりあえずは井筒からもらったヒントをもとに、それがどのくらいの妥当性を主張できるかについて、いささか納得できるものを得たいと思うからだ。

分節とか未分節といった言い方をしたが、分節というのは、ものごとやことがらを理知的に認識することを言う。分別とも言い換えることができる。意識に現われて来る対象に、切れ目を入れて、あるものを別のものから区別し、そのものをそのものとして認識する作用が分節である。この作用があるおかげで、我々は理知的に経験世界を認識することができる。この作用というか、能力が働かないと、対象はそのものとして認識されない。あるものとほかのものとの区別がつかない結果、対象は混沌として輪郭を持たないものとなってしまう。こうした状態を、精神医学の言葉で統合失調症という。あるものを自己同一のものとして、認識できないとう状態を、この言葉で表現しているわけだ。さまざまに異なった現れを通じて、それが同一物の諸様相だと認識するのは、現象を統合する働きがあるからで、その統合がうまく働かない状態を統合失調症というわけだ。昔は分裂症と呼ばれていた。同一のものが同一のものと認識されないことで、同一物のさまざまなあらわれが、違ったものの別々の現われと映り、あたかも同一物が分裂しているような観を呈することから、そう名づけられたワケである。

したがって、分節とか分別というものは、我々が生きていくうえで不可欠のものであり、それが健全に働かないと、我々は統合失調症に似た状態に陥る可能性があるわけである。にもかかわらず、分節以前の状態、つまり未分節なものには、それなりの意義がある。その意義は多義にわたるが、芸術におけるものはその重要なものの一つだ、と井筒は考えていたようである。芸術は、人間における理智的な部分とは違った能力にかかわる。理智的な能力が人間の表層意識を舞台にして展開するのに対して、多くの芸術的な営みは深層意識を舞台に展開する。とりわけ俳句のような、余韻を生命にした芸術の場合、深層意識の働きは、決定的な意義を持つ。俳句は、理屈だっていてはならない、とはよく言われることだが、理屈というのは、まさに表層意識がひねり出すものだ。俳句は、表層意識にとどまっていては、なかなかいいものは出来ない。深層意識まで下りて行って、そこに映った世界を詠むようでないと、いいものは出来ないのである。

そこで、芭蕉の句をいくつかとりあげ、それが果たして深層意識と深いかかわりをもっているのかどうか、たしかめてみたい。

まず、「奥の細道」から次の句  しずけさや岩にしみいる蝉の声

これは、立石寺で詠んだ句だ。夏のさかりに、あたり一面に蝉が鳴く声が聞こえる。それが山寺全体の静寂とどういうわけか溶け合っている。蝉の声というのは、虚心に聞けばけっこううるさいもので、しかもそれが一斉に鳴いては、耳を弄するばかりの大音量に聞こえるものだが、この句ではなぜか、周囲の静寂に溶け込んでいる。この感覚はどこからくるのか。理智的に説明したのでは、説明にはならない。第一俳句というものは説明には馴染まないものなのだ。結局これは、蝉の声がそのものとして、周りのものから分節されて、蝉の声として理智的に認識される前の状態を詠ったのだととらえられるのではないか。つまり、芭蕉は表層意識で蝉の声を捉えているのではなく、深層意識で捕らえていたのではないか。深層意識でのことだから、山寺の静寂と蝉の声の大音量とは分節されていない。静寂と蝉の声とは、未分節の状態で渾然一体となっている。芭蕉はその渾然一体のものに反応したわけで、それをコトバであらわしたら上のような句になったということではないか。

同じく「奥の細道」から次の一句。  さみだれを集めてはやし最上川

これは雨の中を船に乗って最上川を下ったときの感慨を詠んだものだ。蝉の句に比べるといくらかわかりやすい。情景としても思い浮かびやすいし、また実際芭蕉は雨の中を船で河を下るサスペンスを感じたのであろう。この句から思い浮かぶのは、降るさみだれ、その雨を集めながら流れる川の速さ、そしてその川がほかならぬ最上川だということだ。最上川に焦点を当てれば、これは五月雨の時期の水量豊富に流れる最上川の状態をスケッチ風に詠んだものということになるし、さみだれに焦点をあてれば、川を増水させ、船を早く運び去る水の勢いを詠んだものということになる。さみだれというのは、土砂降りに降る雨のことだから、勢いがある。その勢いが川を暴れさせる、というふうに受け取れる。だがそれは、やや理屈が勝った解釈だ。実際にこの句を詠んでの印象は、さみだれと最上川とが渾然一体となった風景ではないか。五月雨が最上川に降りかかっているのではない、あるいは最上川が五月雨を集めて早く流れているのではない。五月雨と最上川の水とが渾然一体となっている、そういう光景ではないか。そういう意味合いでこの句も、芭蕉の深層意識に映じた、渾然とした心象を詠んでいると受け取ることができる。

次は、芭蕉の句のなかでも最も有名な一句。 古池やかわずとびこむ水の音

これは、古池に蛙が飛び込んだ、その水の音が聞えたという具合に、写実的なものとして読んだのでは、何ということのない凡庸な句に聞こえる。これが写実を超えたものとして聞こえるのは、古池と水の音との間に断絶があるためだ。この断絶があるために、古池と水の音との間の因果関係が断ち切られ、古池と水の音とは無関係なものとして、並列的に見えて来る。本来無関係なものが並列され、しかもそこに余韻のようなものが生まれる。その余韻がこの句を味わい深いものにしている。俳句には、かならず断絶を入れろという鉄則があるが、これがないと句が説明調になって、すらすらと理智的に読めてしまう。余韻などは生じる余地がない。余韻を生じさせるにはかならず断絶を入れることが肝要だ。そう言われるわけだが、断絶を入れることによって、俳句に詠んだイメージをいったんごちゃまぜにするという効果が生まれることを、この鉄則は知らせてくれるわけだ。そのごちゃまぜは、深層意識に映った未分節なものに通じるのである。

次は、芭蕉の辞世の句とされる一句。  旅に病んで夢は枯野をかけめぐる

この味わい深い句は、旅に病んで床に臥せったときの芭蕉の気持を正直に詠んだものだろう。病んで意識が朦朧とした状態で、夢を見ることがあるのか、あるいは思い浮かぶことがことごとく夢のように見えるのか。この句を詠んだ時の芭蕉には、そうした分別はなかったに違いない。自分の意識に映じたものを、理智をまじえずにそのまま詠んだということではないか。その時自分の意識に映じたものは、分節以前の混沌とした世界だった、というふうに芭蕉は感じたのではないか。この句には、死にゆく芭蕉の深層意識に映じた混沌とした世界が、走馬灯のように駆け巡っていたさまが垣間見られるのである。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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