Facebookあいことばさん投稿記事「二つの花を間違うな」というお話です。
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伝えるという意味で参考になるのは、室町時代に世阿弥の著した「風姿花伝」です。
「風姿花伝」は650年前の単なる能の古典ではありません。
現代人につながる言葉、ヒントが詰まっています。
人間の本質とか、人間の考えというのはいつの時代も、何百、何千年の時空を超えて通じるものがあり、それを一冊の文献として世阿弥が残したものです。
世阿弥は何も世間一般に発信するためにメッセージを残したのではありません。
能という芸術が100年以上続くよう、彼がその人生をかけて得た蘊奥(=奥義)を後世に残したのです。
舞う人がどう舞えば、人に伝わるか、能にはどういう役割があるかなどが書かれています。
それが現代の我々に普遍的なメッセージとして強く響いてくるのです。
同書で私が最も共感した教えは、人間は自己を更新し続ける努力を惜しむべきではないという一点です。何が大事かと言えば、謙虚さや真面目さです。
「風姿花伝」には「時分の花(じぶんのはな)」と「まことの花」という言葉が出てきます。
時分の花とは、若い人が持つ若さゆえの鮮やかで魅力的な花のことですが、盛りが過ぎると散ってしまいます。これに対し、まことの花とは日々の鍛錬と精進によって初めて咲く花を指します。人間は修業によって本当の花になって感動を与えられるようになるのです。
世阿弥はこの二つの花を間違うなと言っている。
若い時分に脚光を浴びることを自分の本当の実力だと慢心するなかれというわけです。
90秒にかけた男 ジャパネットたかた創業者 髙田 明 著日経プレミアシリーズ
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世阿弥は「初心忘るべからず」という言葉をのこしました。
この言葉は、初めの頃の「やるぞ!」っていう意気込みや「志」、気持ちを忘れないように・・・ではないそうです。
世阿弥が言った本質は、最初の頃の「未熟な自分」、「初心者の頃のみっともない自分」を折にふれて思い出すことにより、「あのみじめな状態には戻りたくない」と思うことでさらに精進できるのだ、と世阿弥は説いています。芸の未熟な自分をも支えてくれた人達が大勢いるのです。自分で自分を見つめ直し、未熟な自分を支えてくれた人達に少しでも恩を返せるように精進し、いつまでも謙虚でいなさい!ということです。
そして、芸を極める上で「謙虚さ」の大切さをこのようにいいました。
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どんな滑稽な役者であっても、もしその演技によいところを見つけたら、上手な人でもそれを真似るべきです。これは道を極めるための、第一の方法でしょう。
世の中には、もしよいところを見つけても、自分より下手な人間であれば、その技術を取り入れてはいけないように考える常識があります。
ただ、そうした狭い心に縛られているのでは、どうあっても自分の欠点を知ることはできなくなります。これは能において、「極めることを不可能にする心理」です。
また下手な役者も、もし上手な役者の悪いところに気づけば、「上手な人にも欠点があるのだな。だとすると、初心者の自分であれば、さぞや欠点は多いのだろうな」と考え、そのことに恐怖を抱き、他人に自分の芸のことを尋ね、芸に工夫を凝らすようになっていくでしょう。
稽古にもいよいよ励むようになり、他の技術はすぐに上達していきます。
これをやらず、「上手い役者かもしれないが、オレはあんなふうにおかしな演技はしないぞ」と、自分のことを棚に上げて慢心するばかり。
自分のよいところすら本当にわかっていない役者とは、だいたいこのようなものなのです。
自分のよいところを知らないと、悪いところも「よい」と思ってしまいます。
この状態だと、どんなに年数を経ても、能の腕は上がりません。
下手な人の心のうちとは、こういうものでしょう。
「風姿花伝」(世阿弥 著 / 夏川 賀央 訳 / 致知出版社)
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自分はまだまだ未熟だなあと思える人は、成長が止まりません。周りと比べていないのです。
なりたい自分や目標に対して「まだまだ」と言っている。少しずつでも成長し続ける人には敵いませんね♪
https://blog.goo.ne.jp/usmle1789/e/2b6aac7bee8c516ec5b0d5e6a106ce98 【「時分の花」と「まことの花」】より
世阿弥の『風姿花伝』に、「時分の花」と「まことの花」という言葉が出てくる。
人間の成長を花の成長に、自然の中のプロセスと重ねている。
「時分の花」とは、若い生命が持つ鮮やかで魅力的な花。これは誰もが通過する。
「まことの花」とは、自分という木の全体が枯れいくとしても、そこでひそやかに咲き続けている花。自分という一人の人間だけが持つ本質的な花。
世阿弥の『風姿花伝』では、年齢に応じた説明がされている。
12歳頃。
何をしても素晴らしい。太陽が輝くように美しい。
ただ、それはその時だけの「時分の花」。本当の花ではない。
惑わされてはいけないが、それをとことん享受し味わい尽くせばいい。
18歳頃。
声変りの時期。身体が変容(メタモルフォーゼ)してゆく。。
「まず声変わりぬれば、第一の花失せたり」として、「時分の花」は一度なくなるという。
24歳頃。
声も身体もある完成形を見る。
それなりにチヤホヤされることがあるが、勘違いするな。と。
「あさましきことなり」と世阿弥は言う。
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世阿弥『風姿花伝』
「されば、時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になお遠ざかる心なり。
ただ、人ごとに、この時分の花に迷いて、やがて花の失するをも知らず。
初心と申すはこのころの事なり」
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「時分の花」と「まことの花」は違う。
あなたの「真実の花」はなんだろうか。
人は、たいてい「時分の花」に迷わされる。花はいづれ枯れる。
「初心」は、この時のことを強く記憶することだ。
「時分の花」は珍しく華やかで目をひく。ただ、それは本質的な人気ではなく一過性のものだ。それは「真実の花」ではない。いづれ消えゆくものだ。
35歳頃。
世阿が風姿花伝を書いていた時期でもある。
「上がるは三十四-五までのころ、下がるは四十以来なり」
35歳頃までは、「生」>「死」の勢いが強く、「死」は恐ろしく忌み嫌われるものとして見ないふりをするが、その時期を過ぎると、「生」<「死」の方に勢いが逆転していこうとするようだ。
ここからは老いのプロセスが始まり、死へのプロセスが表面に表れてくる。
それは、生という「はじまり」の「おわり」とも言えるし、死という「おわり」の「はじまり」とも言える。
ジェットコースターの頂点のようなポイントにある。
そして、自分の人生を完成させていく仕事に取り掛かる。
村上春樹さんの『プールサイド』という小説にあったのも同じようなテーマだと思う。
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村上春樹『プールサイド』
「35歳になった春、彼は自分が人生の折りかえし点を曲ってしまったことを確認した。
いや、これは正確な表現ではない。
正確に言うなら、35歳の春にして彼は人生の折りかえし点を曲がろうと決心した、ということになるだろう。
もちろん自分の人生が何年続くかなんて、誰でもわかるわけがない。
もし78歳まで生きるとすれば、彼の人生の折りかえし点は39ということになるし、39になるまでにはまだ4年の余裕がある。
それに日本人男性の平均寿命と彼自身の健康状態をかさねあわせて考えれば、78年の寿命はとくに楽天的な仮説というわけでもなかった。
・・・だから35回めの誕生日が目前に近づいてきた時、それを自分の人生の折りかえし点とすることに彼はまったくためらいを感じなかった。
怯えることなんか何ひとつとしてありはしない。
70年の半分、それくらいでいいじゃないかと彼は思った。
もしかりに70年を越えて生きることができたとしらた、それはそれでありがたく生きればいい。
しかし公式には彼の人生は70年なのだ。
70年をフルスピードで泳ぐ-そう決めてしまうのだ。
そうすれば俺はこの人生をなんとかうまく乗り切っていけるに違いない。
そしてこれで半分が終わったのだ
と彼は思う。」
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人間は、誰もがいつ死ぬのかを知らされていない。
それはカミサマの領域でもある。
だからこそ、ある時自分で決めないといけないのだと思う。
病は、そういうことを意識的に決めさせるために、圧倒的な形で迫ってくるものだろう。ほんとうは、病が訪れなくても、どのあたりを自分の折り返し地点にするのかを決めないといけない。
もし偶然、自分が決めた寿命とかみさまが与えた寿命とで違いがあった場合(ほとんどの人がそうなるはずだ)、残された人生はボーナスステージのようなもの。運がいい。もうけものとして人生を送る。
人間は、自分の人生という一つの芸術作品を完成させるため、ある時から老いや死という無意識のプロセスを意識の中に取り入れなければいけない時期がやってくる。それは、別に悪いことでも、恐れの対象でもないものだ。
物事にはプラスもマイナスもある。
プラスの理由を挙げれば数万個あげることができるし、マイナスの理由を挙げようと思えば数億個も列挙することができるだろう。
ただ、それは列挙可能であるという事実を表しているだけで、そのことの本質を表現しているわけではない。
自分が生きていくプロセスで獲得した思考パターンや信念形態をコトバと対応させているだけだ。
人による個人差はあるけれど、世阿弥や村上春樹さんが言うような35歳辺りの時期には、自分の中に死を受け入れる器が成熟してくるのだろう。
そのとき初めて「死だけが欠けた生」という一面的な生ではなく、「死と生が一体となった生」という全体的な生を更新して生き始めることができる。
つまり、毎日毎日を、人生最後の日だと思いながら、神聖な気持ちで生きていくことができるということだ。
世阿弥に戻る。
45歳の頃。
「よそ目の花も失するなり」
老いや衰えのプロセスで、外から見ると表目上はその人の「花」が見えなくなる。
世阿弥は、この時期には後継者の育成に励めと伝える。
表面にとらわれるのではなく、水面下で起きていることに目を向けることが大事なのだろう。
その時にも、着実にその人の「まことの花」も咲いているのだから。つぼみかもしれないし、小さいかもしれないけれど。
50歳以上。
能役者人生の最後の段階として述べている。
父の観阿弥を想像して書いていると思う。
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世阿弥『風姿花伝』
「このころよりは、おおかた、せぬならでは手立てあるまじ。
麒麟も老いては駑馬に劣ると申すことあり。
さりながら、まことに得たらん能者ならば、物数は皆みな失せて、善悪見どころは少なしとも、花はのこるべし」
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50歳過ぎると花も失せる。
何もしない、ということを、する。
ただ、そこには花が残っているはずだ。
その花はその人の本質であり、個性そのものなのだ。
人間は何かをすること(Doing)に意識が向きやすいが、その裏打ちをしている人間の本質は、そこにあること(Being)。
それは存在の次元。
おそらく、存在の次元で最後に残っている花をこそ、世阿弥は「まことの花」と表現した。
少年少女の光り輝くような愛らしさ美しさ(時分の花)を誰もが通過する。
その後、青年期には燃えるようなエゴと共に自分をある一面的に積み上げて高めていく。
ただ、それはあくまでも「時分の花」。
その人独自の個性ではない。
人間という生命体が誰もが通過する影なき光の世界。
その後、老いや死のプロセスが盛んとなり、若さや体力や・・・、色々なものが消えながら、色々なものを失っていく。
この時、失うものばかりに目に行くことが多いが、同時に別の次元の何かを同時に得ているはずだ。
「初心忘るべからず」として、そのことを見据えながら、木が枯れつつあってもそこで密やかに咲いている「まことの花」を育てなさい、と世阿弥は説いているのだと思う。
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「時分の花」と「まことの花」。
浅田真央さんのフィギュアスケートに心を動かされたのは、「時分の花」から「まことの花」が咲いたのを全員が目撃したからだろうか。
一流アスリートは、上で書いたような年齢のプロセスを高速で通過しているはずだ。
スピードの違いがあっても、それは誰もが経ていく変容と成長のプロセスなのだと、思う。
老いと死の象徴的なプロセスを、普通の人より早いスピードで駆け抜けて行くのが、プロアスリートの宿命なのかもしれない。
ただ、その人なりの小さい老いや小さい死を、自分の中にそのまま受け入れる事ができたとき、「時分の花」は「まことの花」へと次元転換していく。
彼女のような象徴的な個人の人生を見ながら、それを鏡として一人一人が自分の中に「まことの花」を大切に育てていけばいいのだろう。
花は水をやり過ぎても枯れるし、ほったらかしても枯れる。花が根付く土壌を丁寧に耕しながら、太陽という愛を無条件に照らし続けることが大事なことなのだろう。
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