Facebook山川 紘矢さん投稿記事
僕は病気をすることで、エゴをおとしてきました。病気で公務員をやめましたが、それで良かったようです。
大蔵省の40年組では、一番、めぐまれていたかもしれない。何しろ、神とであったから。苦しみは、過ぎると忘れるものです。ぼくは覚えていないのだけれど、すごく大変だったとき、
あちら側で父と母が、あまりにかわいそうだから、こちらに呼んであげたい、と話し合っていたとか、驚くなはこちらです。死後の世界は素晴らしいらしいです。父と母の愛を感じるはなしでした。
https://ameblo.jp/toneket/entry-12719030148.html 【『5年後も、僕は生きています。①癌宣告からサレンダー体験まで』】より
第1回「癌宣告からサレンダー体験まで」
2016年9月1日、僕の運命を変えたあの「肺ガンステージ4宣告」の日から5年と3か月たちました。あの日、3か月後、自分が生きていることが想像出来ませんでした。
でも、こうして5年以上たった今も元気に生きています。とりあえず、いま、僕の身体にはガンはありません。まあ、いつ再発するか分からない状況ですが、そんな未来のことを心配して不安になったり、ネガティブな感情に支配されたりすることはエネルギーの無駄だということを、たくさんの経験で学びました。
今回、新たに2022年を迎えて、この5年と3か月を僕なりに振り返ってみようと思いました。
いま、こんなふうに偉そうに書いていますが、この5年とちょっと、僕なりに本当にいろいろありました。僕の魂は「ガン体験」だけでなく、他にもいろいろな学びを用意していたよいうなのです。川の中で石が転がって角が削られて丸くなっていくように、魂もいろいろな経験を体験することで、学び、成長し、角が取れ、本来の姿や形に戻っていくのだと思います。
そういう意味でも、目の前に展開する「体験」は「自分の魂が決めて、自分の人生の出来事として起こしている」と言えるのかもしれません。
たとえそれが「自我(エゴ)」的には耐え難いような辛く、苦しい体験であったとしても。
その体験を振り返りながら、僕なりに捉え、僕にとってどんな意味や気づき、成長の糧となったのかを書いていきたいと思います。
よろしければ、お付き合いくださいね。
それでは、はじまり、はじまり~
2016年の9月1日に、告知を受けたところから、すべては始まりました。
詳しくは、前著「僕は、死なない。」に書いてあります。
そのとき発覚した「肺ガンステージ4宣告」のあと、僕は通常の標準治療を断りました。
最初の大学病院でドクターから、こう言われたことが大きかったのかもしれません、
「治りません」「抗がん剤治療で延命しかやりようがありません」「分子標的薬は使えません」僕はガンを治したかったので、そのドクターの言葉を受け入れることが出来ませんでした。あともう一つ、それを受け入れてしまうと、本当にそうなってしまう、治らない、延命しかない、あとは死を待つだけ、そんな未来に直面するのが恐かったのかもしれません。
とにかく「治らない」と言っている医者や病院の言うことは聞き入れずに、「じゃあ、自分で治してやる」という覚悟と決意で、ガンと戦う事にしたのです。そして、ガンとの戦いの日々が始まりました。 戦え! 戦え! 負けたら死ぬぞ! この戦い、勝つしかないんだ!
そうやって9が月間、調べ、本を読み、クリニックを巡り、食事や生活習慣、サプリや代替医療など、徹底的に「出来ること(Doing)を積み重ねて、ガンと戦って戦って、戦い続けました。何をやったのかは、詳しくは「僕は、死なない。」をお読み下さいね。
まあでも、僕の身体と血液がこの9ヶ月間でキレイになったことは間違いありません。
その後の劇的なガンの消失は、この9ヶ月間の代替医療による体質改善があったからだと、僕は確信しています。しかし、体質改善だけで僕のガンは消えませんでした。
僕にはまだ、他のピースが必要だったのです。翌年、2017年の5月には右目が見えなくなり、自分の名前やひらがなも分からなくなる、という状態に陥りました。
そのころの僕はいつもポジティブシンキングで必死に乗り越えてきたのですが、ポジティブシンキングでは乗り越えられない壁がついにやってきたのです。
そう、必死という字は「必ず死ぬ」と書くんですね。死んでしまっては、元も子もありません。そして、クリニックの紹介で東大病院に行った僕は、東大のドクターからこういわれました。「肺はかなり進んでいますが、今日明日にどうというレベルではありません。
しかし、脳が大きく腫れています。これだけ大きく腫れているということは、かなり大きな腫瘍があると思われます。
もしかすると、最悪、来週にでも呼吸が止まる可能性もあります」
「医者が100人いるとすると、100人全員がすぐに入院を勧めるレベルです」
血液検査の後、入院するかどうか、お返事ください」
(これは6月16日のMRI画像です。下が前/顔ですから、左脳のしわが完全になくなっていますね)
診察室を出て、血液検査のあと妻と二人で待合室の天井を眺めました。
やれることは、ぜんぶやった… 出来ること、ぜんぶ、ぜんぶ、やった… やって、やって、やり尽くして… でも、全部だめだっ 全部、無駄だった… ふう~っ
でも、そのとき僕にやってきたのは「絶望」ではなかったのです。それは「解放」でした。
そのときの僕は、9か月間「肺癌ステージ4」という状態や環境、思考によって常に断崖絶壁に立たされている心境でした。それはまるで、圧力釜で下からあぶられ続けられていた状態ような状態でした。その真っ暗で高圧な鍋の中から、一気に青空に、何もないまっさらで広々とした自由な空間に解き放たれたのでした。
そこに、今までの「頑張るオレ」「戦うオレ」「必死なオレ」は存在しませんでした。
そうです、その「オレ」自身が消えてしまったのです。
それはまさに、それまで「これがオレ、これが私」と思っていた「自我(エゴ)」」が破壊された瞬間でした。何も考えられない、思考がなくなる、それは「解放」だったのです。
「自我(エゴ)」が破壊されても、僕はそこに存在していました。
そのときは、ただただ気持ちよくて何も考えていない状態でしたが、いまから振り返ると、「ほんとうの自分はエゴ/自我ではない」という体験をしたのだと理解しています。
そう、ほんとうの僕たちは「自我/エゴ」を超えた存在なのです。
僕の魂の計画は、きっとそれを体験させるために「肺ガンステージ4」という出来事を目の前に出現させたのだと思います。
自分を手放す 自分を明け渡す サレンダー(降参)する…
その「自分」,降参する「自分」とは、自我・エゴのことです。
わたし、わたし おれ、おれ ぼく、ぼく…
そういう「わたし」を手放して、もっと大きな「わたし」にアクセスする。いや、もっと大きなわたし、それがほんとうのわたし。ああ、そうなんだ、そうだったんだ…
すると、「わたし」は消えていき、「わたし」はいなくなる…言葉にするのは難しいのですが、そんな、体験でしたすべてのことは「魂の計画」。
この大きな心理的体験・変換があってから、まるで「神さまの時間割」のように不思議な出来事が向こうから次々にやってきました。
これが僕にとって必要なもう一つのピースだったのです。
そしてこのピースがはまったとき、不思議な確信がやってきました。「僕は治る」
何が起こるか分からないけれど、「治ることは分かっている」そんな確信です。
僕はなんの根拠もなく「治る確信」を得たのです。
https://ameblo.jp/toneket/entry-12719033083.html 【「5年後も、僕は、生きています。②入院からガン消失まで」】より
第2回「入院からガン消失まで」
前回書いた体験のことを前著「僕は、死なない。」では『サレンダー』と現わしていますが、
『サレンダー』とは「降参」の意味で、僕的には「エゴが大いなる存在、全体に降参する」ことと、捉えています。
そこにはエゴによるDoingやコントロールがなく、人生という全体の流れを信頼して身を任せる生き方のことです。
それまでの僕は自分の人生をコントロールしようと必死で生きていました。
人生という大きな川の流れを「自分」という小さなエゴで必死でコントロールしようとしていたのです。
そんなの、苦しいうえに、無理なのにね(笑)。
その生き方、プログラムが、見事にガン体験によって破壊されたわけです。
そしていま、サレンダーの生き方の方がよっぽど自分らしく、ラクで心地よく、さらにうまくいくことを実感しています。
僕の第2の誕生日とも言える、あの記念すべき2017年6月8日にサレンダーした僕は、すべてを受け入れ、何も考えず、思考ゼロに近い状態のまま、気持ちよく、リゾートに旅行する気分で、5日後の6月13日に東大病院に入院しました。
東大病院の食堂から見える不忍池やスカイツリーも最高の眺めでした。
僕は最高の気分で入院し、脳の放射線治療を経て、約ひと月後の結婚記念日7月10日に退院しました。
そして、退院後の10日後のCT検査で、僕のガンはほとんど消失していました。
(このあたりのいきさつは、前著「僕は、死なない」をお読みくださいね)
ちょっと補足しますと、東大病院に入院してすぐ、僕のガン細胞を検査したところ、1週間後に希少な遺伝子が見つかったのです。
それはALK(アルク)融合遺伝子と呼ばれている遺伝子で、肺腺癌の患者では4%の人しかいないと言われる希少な遺伝子でした。
ちなみに最初の大学病院では「調べます」言ったまま、2か月半以上たっても結果報告がなかったので、僕にはこの遺伝子はなかったのだとあきらめていたものでした。
あとでこの病院が書いた書類を詳しく調べてみたら、この遺伝子の検査をしていなかったことが分かりました。
標準治療の範囲で最初に調べなければならない遺伝子なのですが、その検査をしないで治験を勧められたのでした。
僕を治験に回したかったのだと思いますが、本当のことは分かりません。
やはり病院は選ばなければいけませんね(笑)。
この遺伝子、アルクを持っている人はがんの増殖も速く、ガンはあっという間に大きくなり、転移も早いので、このアルクは肺腺癌の横綱遺伝子と言われていました。
しかしこのアルク融合遺伝子の働きをを抑える薬が開発されていたのです。
それが分子標的薬という抗がん剤の一種で、僕はこのアルクを抑える分子標的薬「アレセンサ」を今でも服用しています。
この記事を読んでいるガンの宣告を受けたばかりの方がいらっしゃいましたら、ご自分のガンにおける「分子標的薬」を必ず調べて見て下さい。
病院やドクターによっては、教えてくれない可能性もありますから。
ドクターや病院の言うがままにならないで、ガン治療の最新情報はチェックしておくこと、これ大事です。
分子標的薬は他にもどんどん新しく開発され、僕のガンが見つかったころから随分と新薬も出てきています。
アレセンサの次の薬も出てきています。
他にも第4の治療と言われているノーベル賞を受賞した「免疫チェックポイント阻害薬」や「光免疫療法」など、
どんどん新しい治療法が開発されています。科学の進歩はすごいですね。
僕は身体をきれいにする「代替治療」と、これらの「標準治療」を自分なりに組み合わせるのがいいのかと個人的には感じています。
そして、この分子標的薬「アレセンサ」を飲み始め20日たってCTを撮ったところ、
肺の原発ガンは八分の一程度になって、他に転移していたガンもほとんど写らないレベルにまで消え去っていたのです。
腫瘍マーカー(癌細胞が体内で活動する時に排出するタンパク質を取らえる数値)も劇的に下がっていました。
僕は「ガンは消える」という確信を持っていたので、その結果は「あたりまえのこと」を確認したにすぎませんでしたが。
その時、血液検査の肝臓数値が一時的に上がってアレセンサを1週間ほど断薬して様子を見ることになりましたが、
僕に不安は一切ありませんでした。
一週間後の診察で、主治医の井上先生は血液検査の数値を見ながら、親切丁寧に説明してくれました。
「アレセンサ、再開しましょう。ただし、量を半分にして、しばらく数値の様子を見てみましょう」
「ありがとうございます。うれしいです。で、腫瘍マーカーとか他の数値はどうなってます?」
井上先生は血液検査が書かれた紙を僕の前に出すと、赤ボールペンでALP、CEA、KLー6と書かれていた部分の数値に赤丸をつけました。
「はい、腫瘍マーカーのCEAは月に1回しか採れません。前回20日に採っていますから、今回は採っていません。ですので、他のデータ数値で見てみますね」
「はい」
「骨と肝転移の指標として使っているALPは、6月は1293、前回7月20日は818、今回は536でした。
肺腺癌の指標として使っているKLー6も、6月は2541、前回1551、今回は1157と顕著に下がっています。
両方ともまだ基準値を超えていますが、このひと月半で順調に良くなっていると思います」
「えっと、基準値はどこ見るんでしたっけ?」
「あ、はい、数値の横の欄ですね」
井上先生はそう言うと、赤丸がついた数値の横をボールペンで指しました。
「ですからALPは基準値322のところ現在は536、KLー6は基準値500のところ1157です。この調子ですと、数ヶ月以内に基準値に入るでしょう」
「アレセンサ飲まなくても数値が下がっているのですね」
「まあ、お薬が相当良く、効き続いていると思われます。良かったですね、順調です」
井上先生の言葉を聞きながらも、僕はアレセンサだけの効果ではないんだけど…と思いました。
やはり心理的な転換、サレンダーの体験が僕の免疫力を飛躍的に上げたのを自分なりに感じていたのです。
しかし、それを東大の先生に納得して頂くのは無理というものでしょう。
井上先生はさらにこう言いました。
「えっと、それからデカドロンは終わりにしましょう」
「デカドロン?…、あ、ステロイドでしたよね」
「ええ。先日のCTで脳の腫れがほとんどなくなっていますので、もう飲まなくてもいいでしょう」
「そうなんですね、うれしいです」
「お薬というのはずっと飲み続けると、身体がそれを作る仕事をサボって機能しなくなってしまうのです。
ですから止められる時は早めに止めて、身体の機能を回復させた方がいいと思います」
「なるほど、そうなんですね」
僕の脳は放射線治療によって腫れていたので、その腫れを抑えるためのステロイド剤である「デカドロン」という薬を2017年の6月の入院当初から飲んでいました。
その薬を止めることが出来るということでした。
そうか、ステロイドを止めることができるんだ、よっしゃ、これでまた一歩前進だな。
僕は一歩一歩、少しずつ自分が元の健康な体に戻っていくことを感じて嬉しくなりました。
それから井上先生は体内酸素濃度を測ってから、聴診器で呼吸音を聞きました。
「はい、問題ありません。それではランマークの注射をして今日は終わりです」
「ランマーク…ああ、カルシウムの注射ですね」
ランマークの注射とは、主にガンが骨に転移して骨が溶けてしまった人の骨を再生するための薬剤で、ひと月に一回皮下注射していました。
僕の骨は、ガンによる骨転移でボロボロになっていました。
(黒くなっている部分が骨転移です)
「じゃ、次回は2週間後の8月10日に予約を入れておきまね。そのときまた肝臓の数値を計ってみて、正常値に入っていたら、アレセンサを通常の量にもどしましょう」
「わかりました。いつもありがとうございます」
いつもの精算時の大混雑を終えた後、僕は病院を後にしました。
東大病院では、精算に1時間近く待つことがざらでした。
精算を待ちながら、、僕は思いました。
アレセンサがなくても、このまま治ってしまうんじゃないだろうか。
東大を出ると、少し湿った暖かい夏の風が、僕の回復を祝福しているように、さわやかに感じました。
そして1週間後の血液検査で、肝臓の数値も正常値に戻り、アレセンサも再び服用することになました。
いま、僕は思います。
目の前にやって来る展開は、ほんとうに一歩一歩です。
それはジグザグしたり、上下したり、行ったり来たりしますが、
それに一喜一憂したりせずに、
その展開をひとつづ確認しながら、焦らず、慌てず、魂の計画を信頼することだと思います。
なにがどうあっても、結局は大丈夫なんですから。
https://ameblo.jp/toneket/entry-12719034320.html 【「5年後も、僕は、生きています。③体調不良による不安や恐れに支配されないこと」】より
第3回「体調不良による不安や恐れに支配されないこと」
同じ時期(2017年7月~2ヶ月おきくらいかな)に、今度は眼科の診察を受けました。
ガン専門病院から派遣されているドクターは、暗視カメラみたいなちょっとカッコいいスコープで、ひととおり僕の左右の目の中を覗いた後、こう言いました。
「視力が落ちてますね。放射線やりましょう。放射線」
僕のガンは働き者で、両眼の網膜にも転移していて、一番ひどかったときは空が緑色に見え、四角いビルが台形に見えました。
まるでSFの世界みたいで、面白かったですね。
それと、目の映像機関がちょっと歪むだけで、こんなにも見える世界が変わってしまうんだ、身体ってすごいな、ものすごく精密に,緻密に出来ているんだな、と実感しました。
それもあったのか、この有名ながん専門病院から来ているドクター(癌内腫瘍のトップ)は会うたびに、
「放射線やりましょう」
僕に放射線治療を勧めてきました。
「やったほうがいいですかね」
「ウチの病院だったらやりますね、このくらいだったら普通に」
「いや、でもいま分子標的薬を飲んでいるんですけど」
「でもね、それどのくらい効くか分からないでしょ。私もそういう人、今までいっぱい見てるから。
そういう人含めて普通はやるレベルですよ、放射線」
「白内障になるけど、失明するよりいいでしょ」
「でも先生、僕は50個の癌細胞からALKが50個全部見つかったんです。だから結構効くはずなんですけど」
「ほう、適合率100%だったんだ。すごいね。
じゃあもうしばらく様子を見てみましょうか。
少しでも腫瘍が大きくなるようだったらやりますからね、放射線」
「はい、そうですね…」
そんなやりとりが数ヶ月続いたことを覚えています。
8月に入ってからのことでした。
朝、布団から起きると身体が異様に重い。まるで鉛のようでした。
なんだ、このダルさは?
まるで入院前、ガンが全身に転移していたときに感じたようなダルさでした。
嫌な予感がしました。
早くも再発したのか?
いや、そんなはずはない。
10日ほど前にCTを撮ったばっかりじゃないか。あのCTでは癌は消えていたんだ。そんなはことはあり得ない。
僕は、頭の中を駆け巡る不安な気持ちを必死で打ち消しました。
体力を使って疲れたのか?
いや、どこにも行ってないし…
ネガティブな思考が右往左往しました。そして、数日たったあと、はた、と気づきました。
そうか、ステロイドを止めたからだ!
間違いない、今まで元気だったのはステロイドのおかげだったんだ。
うむむ…
この鉛のような身体の重さが本来の僕の体調だったということなのか。まだまだ全然回復してないんだ。
そうか、僕の身体は爆撃直後の市街地みたいなもので、
ガンという火は消えたけれど、街は廃墟になってボロボロなんだ。
まだまだ過信しちゃいけない。ボロボロの身体を受け入れなくてはいけないんだ。
妻の「絶対に無理しないのよ。まだまだ病人なんだから」という言葉を思い出しました。
そうだ、その通りだ。
そうです。いまなら分かります。
妻の言うことはいつも正しい(笑)。
ダルさを引きずるように起き上がり、洗面所で顔を洗うと、鏡に写った自分の顔が見えました。
そこにはだるそうな目をした、モヒカン頭の僕が写っていました。
僕の頭は放射線を受けた部分だけ髪の毛が生えてこないので、まるで北斗の拳やマッドマックスに出てくる、やられ役のザコキャラのようになっていたのです。
(変な髪型/笑)
自分の顔を見ました。
すごい髪型だな…
これじゃ、怪しすぎる…
そういえば、宅配便のお兄さんが僕が玄関から出るたびに、不審そうな、警戒するような変な顔をしていました。僕は頭を戸棚からバリカンを取り出し、短く刈り上げると、さらにひげそりでつるつるに仕上げました。
誰か来たときにかぶるため、玄関に帽子を置きました。
これからはこの体調と付き合いながらも、少しづつ回復を目指していこう。
一歩づつ、少しづつ、焦らずに。
僕はつるつる頭になったペチペチと叩きながら、自分の顔を見て、深呼吸をしました。
そうなんです。
身体の回復は、時間がかかります。
身体は物質ですから、変化するまで時間がかかるのです。
CT上でガンが消えてからも、肺の痛みや息苦しさ、関節や骨の痛みは年単位で続きました。
もしかすると、身体の細胞が痛みを記憶としてしばらく保持しているのかもしれません。
あるいは脳なのでしょうか、エネルギー的な記憶なのでしょうか、分かりません。
大切なことは、その痛みを感じるたびに
「ガンが再発したのではないだろうか」
と不安と恐れに支配されないことです。
はっきりというと、それは幻想です。
ほとんどの場合、ただの痛みにすぎません。
その痛みに頭の中、思考を支配され、意識を集中しすぎると、ほんとうにその状態を創り出してしまう可能性があります。
僕たちはエネルギーの存在なのですからね。
意識したことを現実化するパワーを、誰でも持っているのです。
現実化するのであれば、自分にとって心地よい状況を現実化したいものです。
ですから、痛みを感じた時は、気にしないこと、
ヨシヨシとさすってあげて、
「ありがとうね」と声をかけて
バイバイすること、これが一番です。
https://ameblo.jp/toneket/entry-12719179623.html 【「5年後も、僕は、生きています。④僕のガンを作り出した“生き方”」】より
第4回「僕のガンを作り出した“生き方”」
2017年8月5日、入院や治療の生命保険支払い関することで、僕が加入していた生命保険会社の担当の浅川さんと、近所の喫茶店で会いました。
「大変でしたね」
浅川さんは人なつっこい顔の眉毛を八の字にして深刻そうに言いました。
「ええ、まあ。でも、浅川さんも大変みたいだったですね」
「まあ、刀根さんほどではないですけど、私も今回はちょっときつかったですね」
浅川さんも僕と同時期に風邪から気管支をこじらせて肺炎になり、長期の入院をしていたのでした。
「いや~刀根さん、本当によかったですね。私もうれしいです」
浅川さんが卓上の書類に示した金額を見ると僕の予想よりかなり上回る数字が記載してありました。
「予想よりもかなり多いんですが…」
「ええ、そういうふうに査定されたようです。まあ、保険屋としてはこういうときこそお役に立たなきゃ意味がないですからね」
「退院後に南伊勢に静養に行ったんですが、その旅費がこれで出ました。助かります」
想定外に出て行った支出が、想定外のところからちゃんと入ってきていました。
流れに乗っているときは、こういうことが起こるんだろう、と僕は漠然と思いました。
「静養ですか、いいですね~、私も行きたいです。私も3週間ほど入院していたんで、体力ががた落ちですよ」
確かに、浅川さんは以前会ったときよりも、ずいぶんと痩せていました。
僕も答えました。
「入院するとやることがないので、筋肉が落ちますよね。僕なんか体重が50キロまで落ちましたもん」
「50キロですか、それはそれは…」浅川さんはそこで一度口を閉じると、真剣な目で言った。
「本当に大変だったんですね…で、刀根さん、その後の体調はいかがですか?」
「ええ、まあ声はこの通り、まだぜんぜん出ていません」
「それと、まだまだ体力が戻ってないので、すぐに疲れますね。ステロイドを止めてから身体がすごくダルいです。でも入院する前は30m歩くと息が切れしましたが、今は歩いて息切れすることはなくなりましたよ。まだ走れないですけどね」
僕は聞いた。
「浅川さんの体調はいかがです?」
「私は過労からくる肺炎って言われました」
「過労ですか…。僕も今回の件で思ったんですけど、病気っていろいろ考えさせられますよね」
「ええ、確かに」浅川さんがうなづく。
「生き方とか、働き方、みたいのものとか」
「生き方、ですか?」
「ええ。僕の場合、心理的なところも大きかったんじゃないかと思います」
「心理的なところというと?」
「僕はね、完全主義者だったんですよ」
「完全主義者、ですか?」
「ええ、そうです。なんでも完全・完璧にやらないと気がすまないって、やっかいなやつですよ」
「でも、それって仕事とかではいいことなんじゃないですか?」
浅川さんが不思議そうに聞き返す。
「確かにそうですね。確かに仕事ではいい評価を受けることもありましたよ、まあ全部じゃないですけど。でもね浅川さん、完全主義者は自分のことが許せないんですよ」
「許せないっていうと?」
「常に完全・完璧を求めるがゆえに、そうじゃないと、完璧じゃないと、自分にダメ出しをしちゃうんです。
それからね、なんにでも完璧を求めちゃうんです。
さらにやっかいなのが完全であることって、滅多にない、というか、ほとんどないんです。
ですから自分にダメ出しばっかでした。気づきませんでした、
ガンになるまで、こんなに自分にダメ出しをしている自分がいたなんてことに」
「…」
「ガンになる前、僕は自分に自信がありました。
自信があったつもりです。
自己肯定感も結構高かったと思います。
でもね、僕が自信を持っていた自分、自己肯定感が高かった自分っていうのは、そうやって一生懸命完璧を求めて、そして、その結果を出している自分だけだったんです」
「…と、言いますと?」
「つまり、頑張ってない自分、完璧じゃない自分はダメなんです。
そういう自分を感じたくないがゆえに、必死になって頑張って、なんとかクリアして、他人よりも実績を上げたり評価を受けたりして、
やっと自分にオッケーを出していたんですね。まるでシンクロみたいですよ」
「シンクロって言いますと?」
「水面では笑顔だけれど、水面下では必死に泳いでいる、みたいな」
「なるほど…」
「沈まないように、必死で足を動かしているんです。
沈んだら、ダメな自分になってしまうから。
でも、そういうことをしていることにすら、気づいていないんです。
そういう生き方が無意識に身についてしまったから。
ガンはね、それを教えてくれたんですよ」
「そうなんですか…」
「ねばならない、ねばならない、すべきである、すべきである…
こういう生き方が僕のガンを作ったんだと思うんです」
「ねばならない、べきである…確かにそうやって自分を縛ったり、自分にむち打ったりすること、よくあります」
浅川さんは神妙にうなづいた。
「僕は常に完全を求めて自分に鞭を打ち続け、身体にも無理をさせ続け、
そしてそれをクリア出来ない自分にダメ出しをし続けて、
その結果、ガンになったんだと思います。
浅川さん、ガンの遺伝的な確率ってどのくらいかご存じですか?」
「家族がガンだと、遺伝するってやつですか?」
「ええ、そうです」
「そうですね、そういう話は良く聞きますから…50%くらいですか?」
「いえ、ひとけた違います。実は、たった5%なんですよ」
「えっ、5%なんですか?」
「そうです。ガンはほとんどの場合、生活習慣病なんですよ。食生活、生活習慣、思考習慣…つまり、生き方の歪みってやつがガンを創り出すんです」
「へぇ~知りませんでした」
「僕なんかいい例ですよ。
身体が『もう無理、休みたい』って言っているのに、身体の声をまったく聞いてない。
まだ大丈夫、もっとできる、もっとがんばれ、まだやれるとか自分に言い聞かせて無理をしてしまう。
それが積み重なってどこかで身体の限界値を超えたとき、ガンという病気が現れたんじゃないかと思うんです」
「う~ん、そうかもしれませんね。私も入院するまでは、かなり忙しくしていましたから。私も自分の働き方をちょっと考えなきゃですね」
「病気って、身体からのメッセージのような気がするんです。もっと自分を大切にしてよ、自分の人生を生きようよ、とか、そういう」
「メッセージ…ですか」
「ええ。だから、仮にガンが消えても、それを創り出した生き方が変わってなかったら、再発したり別のところがまた何かの病気になったりするんじゃないでしょうか」
「そうなんですかね~…深いですね」
そう、人生が示唆してくるものって、本当に深いんです。
遺伝性のガンは5%くらいしかないと言われています。
では、何がガンを作り出すのか?
それは生活習慣です。
では、その生活習慣を作り出しているものは、なんなのか?
それは「思考習慣」」です。
「思考」が「行動」生み出し。「行動」がパターン化して「習慣」となる。
つまり、そのひとの「生き方」「生き様」みたいなものが、ガンを作り出してい可能性があるのです。
昨年ご一緒に講演させていただいた船戸クリニックの船戸崇史先生はこういわれていました。
(船戸先生とベストセラーのご著書)
ガンになりやすい人は、3G
・がんばる
・がまん
・がんこ
みんな「G」
あるいは、どの言葉にも「が」と「ん」が入っています。
生き方が病気を作る。
ではでは、病気から脱出する生き方は?
その逆を生きる!
・がんばらない=無理しない
・がまんしない=すぐに手放す
・がんこをやまる=すなおになる
おお、これはまさに「サレンダー」の生き方ですね!
https://ameblo.jp/toneket/entry-12719187024.html 【「5年後も、僕は、生きています。⑤生きてるだけで、いいんです」】より
「5年後も、僕は、生きています。⑤」
第5回「生きてるだけで、いいんです」
あっという間に次の診察日8月10日になりました。
ステロイドを止めた事による身体のダルさは相変わらず続いていて、胸の中のチクチクや、肋骨がつ~んと痛くなったりすることが気になっていました。
夜、布団の中で横を向くと、肺がつぶれるせいか、息苦しくてまだ横を向いて寝ることが出来ませんでした。肺活量が絶望的に下がっていたので、大きく息を吸い込めず、あくびも出来ない状態が続いていました。
治ってきているとは思っていたけれど、不安もありました。
身体は、ホントに大丈夫なんだろうか?
血液検査の結果がまた悪くなってるんじゃないだろうか?
診察室に入る前、少しドキドキと心臓が高鳴りました。
この当時の僕は、まだ不安を客観視することがうまく出来ていませんでした。
サレンダーを経験して、不安や恐れに巻き込まれてしまったり、それをむりやり打ち消そうとするようなことは少なくなありましたが、診察の直前は心臓の高まりを抑えることが出来ませんでした。
これが、再発の不安ってやつなのかな…
やはり体調が悪いと、気持ちも引きずられて下がってしまう僕がいました。
名前を呼ばれて診察室に入ると、井上先生が嬉しそうに言いました。
「血液検査の数値、また下がっていますね」
ほっ…よかった…
僕の心配をよそに、血液検査の数値は更に改善していました。腫瘍マーカーCEAは7月20日に計った34.2から、約1ヶ月で半分近くの16.6まで下がっていました。
これで基準値の5.0以下が現実的な数値として見えてきました。
骨転移の指標としているALP(基準値322)は536から393へ、肝臓転移の指標としているKLー6(基準値500)は1157から829へ、それぞれ調子よく下がっていました。
井上先生は血液検査のデータを見ながら言いました。
「念のため、もう2週間、アレセンサを半分の量で服用しましょう。次回の数値を見てこのまま問題なければアレセンサの量を通常量に戻すことにしたいのですが、よろしいですか?」
「あ、はい、わかりました」
最近の身体のだるさや体調不良も重なって、一日でも早くアレセンサを通常量に戻したいという気持ちもありましたが、僕は井上先生の指示に従いました。
ま、そんなに早く元に戻る訳ないな。だってまだ退院してから1ヶ月なんだから。
焦らない、焦らない。
翌々日の8月12日、僕は家族と一緒に実家に帰省しました。
実家には両親と姉夫婦、姉の長男と僕の4人の家族、全員で9人が揃いました。
僕のつるつる頭を見慣れていないはずなのに、みんな何も言わずに笑顔で迎えてくれました。
「ね、結構似合うでしょ。お坊さんみたいでしょ。このまま出家しようかな」
僕が両手を合わせて般若心経を唱えるふりをすると、みんな笑いました。
「おととい診察があってね、また数値が落ちてたんだよ。CEAが16.6まで下がってたんだ」
「それってすごいの?」母が聞きました。
「うん、入院してたときは50だったからね。基準値は5.0なんだ。だからこの調子でいけば、もうすぐ基準値にはいるよ」
「すごいね~…ホントに良かったわ~」母の目がうるみました。父も言いました。
「最新医療は本当に素晴らしい。奇跡みたいなことが起こるんだ。いや、最先端の医療技術はどんどん進んでいるんだ。人類の進歩はすごい。さすがは東大病院」
父は少し言葉を詰まらせると、続けて言いました。
「本当に良かった。本当に感謝しかない。実は入院する前にお母さんと三人で会ったとき、健が帰った後お母さんが泣き出しちゃってね。あのままだと、あまり長く持たないかもって…」
父はしんみりと母を見ました。父に代わって母が口を開きました。
「あのときは正直、もうダメかもって思ったの。会うたびにどんどん痩せていっちゃうし。
でも目だけギラギラしていて、大丈夫・大丈夫って言って、私たちが何を言っても聞きそうになかったし…
お父さんと、もう健に任せるしかないって言ってたの」
「そうなんだ…」
「私もお父さんも、ほんとうに、どれだけあなたの身代わりになりたいって思ったことか…
毎日神様にお祈りしていたの」
僕は闘病中の母の気持ちを初めて聞いて、何も言えませんでした。
「でも、本当によかった。神さまに感謝だわ。ああ、なんてありがたいのかしら」
母はそう言って、手を合わせました。
「そうだね、ほんとうにありがたいこどだね」父もうなずきました。
「私はね…」
母はそう言うと、言葉を詰まらせました。
「…あなたがね、生きていてくれるだけでいいの。
健が生きているだけで、私は幸せなの。
それだけでいいの…」
母はそう言って、目をうるませ、涙をふきました。
そのとき、僕は気づいたのです。
そうなんだ…
生きているだけ…
生きているだけで、生きているだけで良かったんだ。
そうか…そうだったんだ…
僕たちは、自分にいろいろと制約をかけています。
~しなくちゃダメ
~できなくちゃダメ
~してはダメ
~までクリアできなくてはダメ
迷惑かけちゃダメ
完璧じゃなくちゃダメ
他人を喜ばせなくちゃダメ
一生懸命頑張らなくちゃだめ
弱いとダメ
役立たないとダメ
早くこなさなきゃダメ
あ~でなきゃダメ
こ~でなきゃダメ
あ~しなきゃダメ
こ~しなきゃダメ
ダメ、ダメ、ダメ…
いっぱい、いっぱい、自分に制約をかけて、ダメ出しを続けて、
その制約をクリアしたときだけ、ちょっとだけ自分にオッケーを出す。
僕は、自分が完璧でなくてはダメだと思っていました。
完璧でない自分は存在してはいけない、くらいに。
僕はそうやって、自分に負荷をかけ続けたのでした。
だから、ガンになった。
ほんとうは違う。
人は、生きているだけでオッケーなんだ。
それだけで、それだけで良かったんだ。
父も母も、最初からそうだったんだ。
僕の勘違いだったんだ!
僕は、最初っから、生きているだけでオッケーだったんだ。
それなのに、僕は勝手に壁や思い込みを作って、自ら作ったその壁や思い込みで病気になってしまったんだ。
それが、僕の気づきでした。
ガンという体験は、そういう自分で作った思い込みや壁がほんとうは幻想だった、と言うことを気づかせてくれたのです。
そう、完全でなければ生きていてはいけない、という思い込み、あれは僕が自分で勝手に作り上げたフィクションだったのです。
「ありがとう。ご心配をおかけしました。とりあえず、もう大丈夫です。ガンはほとんど消えたし、数値も順調に落ちてるから」
「会社の方はどうなの?」
「うん、11月末の休職期間いっぱいまで、休んでいいって言ってくれてる」
「そうか、それは本当に助かるな」
「いい会社ね~」
「ホントにいい会社だよ」
僕は、心からそう思いました。
そのとき、僕はその後の会社や仕事の予想外の展開など、まったく知る由もありませんでしたが。
https://ameblo.jp/toneket/entry-12719376491.html 【「5年後も、僕は、生きています。 ⑥目標を設定すると、それが向こうからやってくる」】より
⑥目標を設定すると、向こうからそれがやってくる
第1話から読みたい方はこちらから。
第1回「癌宣告からサレンダー体験まで」
帰省した翌日の8月13日、さおりちゃんと会いました。
さおりちゃんは寺山心一翁さんのワークショップで知り合ったガン仲間です。
さおりちゃんはカウンセリングをを勉強していて、入院前の6月3日にそのカウンセリングを受けたことで、僕は僕の心の奥底にあった父に対して抱いていた「悲しみ」に気づくことが出来ました。
東洋医学、陰陽五行の見方で言うと、「肺の病気」は「悲しみ」という感情が原因と言われています。
大腸も同じ系列です。
僕は「肺ガン」。
なぜ僕が「悲しみ」なのか、はじめはさっぱり分かりませんでした。
でも、さおりちゃんのカウンセリングを受け、僕の中、奥底に格納されていた「悲しみ」に気づくことが出来たのです。
大好きなお父さんから
「愛されていない」
「僕は悲しいんだ!」と、
傷ついたインナーチャイルドが光の当たらない暗闇の中で声をあげて泣いていたのです。
でもいまは、それがその子の『勘違い』だったということを知っていますが、まあそれは置いておきましょう。
そして入院直前の6月10日に、僕のガンのもとである『悲しみ』を父にすべて告白し、僕の存在していた『悲しみ』というエネルギーを外に出すことが出来ました。
そのおかげで「僕は、治る」、前著の題名にもなった「僕は、死なない。」という確信を得たのでした。
そのあたりは前著「僕は、死なない。」に詳しく書いてありますのでご興味のある方はそちらを。
僕は、死なない。 全身末期がんから生還してわかった人生に奇跡を起こすサレンダーの法則
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825円
さおりちゃんと東京駅近郊のスターバックスで待ち合わせました。
さおりちゃんは言いました。
「お父さんに言えたんだね。すごいね」
「うん、まあね」
「どんな感じだったの?」
「近所の喫茶店に来てもらったんだけど、入院する3日前だったかな。たまたま母親と会う用事があってさ、父にも来てもらったんだ。で、そこで1時間半くらい話した。もう途中から涙がとまらなくなってね、ボロボロだったよ」
「そうなんだ、すごいね。勇気ある~」
「いや、宿題だったし」
父にすべてを話すことは、さおりちゃんから僕への宿題だったのです。
「ああ、あの言葉も言えたの?」
「うん、最後にちゃんと言ったよ。『わたしはあなたを許します、前に進むために』って」
「すごーい! あれって、なかなか言えない人が多いんだよ」
「いや~」
「で、どうだった? そのときの気持ちとか、その後の身体の感じとか、なんか変わったことある?」
「そうだね、まずすごく身体がすっきりしたね。軽くなった。ああ、悲しみが出てったって感じかな。なんかね、すぐに『元気ハツラツ』にはなったわけじゃないけど、ああ~これで治るって感じたんだ」
僕はそのときの身体が軽くなった感じを思い出していました。
あのとき、ほんとうに身体が軽くなったのです。
「そうなんだ~。私も親に話したけど、途中から言い合いになっちゃって、うまく最後まで言えなかったんだ。どうやったの?」
「うん、自分の感情を全部吐き出すことが必要だって言われたから、言いたいこといっぱいあるだろうけど、とりあえず最後まで反論しないで聞いてくれって、最初にお願いしたんだ」
「そういう手があったのか~」
「さおりちゃんのおかげだよ。本当にありがとう」
「私もうれしい~!」
さおりちゃんは、はじける様に笑った。
「おかげで身体のガンもほとんど消えたんだ」
「うん、知ってる。すごいね、奇跡だね」
さおりちゃんをはじめ、寺山先生の所で知り合ったメンバーとは、ラインで頻繁に情報交換や現状報告をしあっていました。
「今の体調はどうなの?」
「う~ん、癌はほとんど消えたんだけど、まだ調子が上がらないんだ」
ステロイドを止めたこともあって、身体のだるさは相変わらず続いていました。
「そうなんだ、おかしいね」
「いやだって2ヶ月前まで身体中にガンがあったんだから、しょうがないと思うな」
「でもさ、ガンはほとんど消えたんだよね。身体はすぐに回復しなかったとしても、元気が出ないのはなぜなんだろう?」
「身体の回復に力を使っているからじゃないのかな」
「ううん、もしかすると自分の中にまだ気づいていない感情があって、それがジャマしているかもしれないよ」
こういう投げかけが出来るさおりちゃんは、さすがです。
「そうなのかな」
「元気になると困ることってない?」
元気になると、困ること?
そんなこと、考えたこともありませんでした。
早く元気になりたい、早く元の生活に戻りたい、そうは思っていましたが。
「別にないけど…」
僕のもやついた顔を見て、さおりちゃんが聞きました。
「なんかあった?」
そう、ありました。
僕の中に元気になりたくないって言っているもう一人の僕がいたのです。
「なんかね、こういうこと言うと情けないかもしれないけれど、まだ働きたくないって心の中で言ってる自分がいるんだ。早く元気になると働かなきゃいけない」
「そうなんだ、元気になったら働かなきゃならないもんね。まだ働きたくないんだ」
「そうだね、1年近く休んでいると今の生活に慣れちゃってね。毎日寝坊出来るし。それと前の仕事に戻るイメージがあまりわかないんだよな」
「そっかぁ。そうなんだ。じゃあホントはどうしたいんだろう?」
ホントは、どうしたい?
ホントは、どうしたい?
僕は、そんなことも考えたことがありませんでした。
「そう、ほんとうの自分、ほんとうの気持ち」
「ほんとうの自分か…」
ほんとうの僕は、どうしたいんだろう?
ふと、南伊勢の清浄な大自然の風景が浮かんできました。
「そうだなあ、退院した後に南伊勢に行ったんだけど、自然がすごくあってね、ああいう大自然の中でかみさんとふたりで暮らしたいって思ったな」
「じゃあ、目標の十段階ってのがあるんだけど、やってみない?」
「目標の10段階? なにそれ?」
「少しずつ目標を設定して、最終的にそこに到達するイメージを描くの」
さおりちゃんは目標設定の仕方を説明してくれました。さおりちゃんに言われるまま、僕は自分なり目標の10段階を作ってみました。
10個の中には夢のようなことも出てきました。
まあ言うだけだし…と、軽い気持ちで10個をリストアップしました。
「まず、最初はなにかな?」
「そうだね…、最初は右目が良くなって治療の必要がなくなること」
「右目の治療が必要なの?」
「うん、眼科のドクターから、放射線治療をしようって、さかんに言われてるんだ。2番目は声が出るようになって、話がスムースに出来るようになること」
「そうだね、まだ声出てないもんね」
「三番目は、腫瘍マーカーの数値が基準値に入ることかな」
「まだ入ってないの?」
「うん、ずいぶんと下がったけどね。それと次の四番目は、CTの画像から癌の影が完全になくなること」
「まだ影があるんだね」
「ずいぶん小さくなったけどね。原発のところ以外は消えたんだけど、原発がもうちょっとかな。5番目は、ドクターから寛解の承認が出ること」
「いいね、寛解」
「やっぱり、これが癌患者の目標だよね。で、その次の6番目は本を出版することかな」
少し気恥ずかしかったけれど、口に出して言ってみました。
僕が本を書きたいということはいままで誰にも言ったことはありませんでした。
夢みたいで実現しそうになかったからです。
「え~、出版するんだ、本」
「うん、自分の体験をまとめて本を書きたいんだ。僕の場合は普通のルートをたどってない分だけ、いろんな人の参考になるかもって思ってね」
「そうだよね、タケちゃんは最初、病院の標準治療を断ったんだもんね。いろんなことやった結果、いまがあるんだもんね。きっと勇気をもらえる人がいっぱいいるよ。私も勇気もらったもん」
「ありがとう。まあ、自分のやり方にしがみついて痛烈なノックアウト負けを食らったけどね」
「7番目は?」
本を書くといった以上、その先も言うしかありませんでした。
「7番目はその本が評判になって、講演依頼とかがじゃんじゃんくること」
もう、夢のような話です。
「いいね~」
「8番目は仕事や人脈にも恵まれて、お金がじゃんじゃん入ってくる!」
完全に、夢の世界です。
「おお、すご~い」
「9番目が、大自然の中にかみさんと住むんだ。南伊勢みたいなところがいいな。鳥の声が聞こえる森の中に住みたいんだ」
ほんとうにそうなったら、最高です。
「自然の中はいいよね」
「最後は魂とか宇宙とかに導かれるような仕事をして、自分にも世界にも貢献する人生、かな」
そっか…ここが僕のゴールなんだ…
僕は改めて10個のリストを眺めました。
自分のゴールが初めて見えました。それは、いままで考えたことも想像したこともないものでした。
「すごいね。きっと出来るよ。私は出来ると思う」
無意識の中にあったものが文字化されて目の前に表されると、なんだか出来そうな気持ちになるから不思議です。
「うん、なんだか出来そうな気がしてきた」
「そうでしょ。目標って、こうやって書くとイメージしやすいんだ。イメージがちゃんとできれば…」
「そう、現実化しやすいんだよね」
そう、「思考は現実化する」という言葉は、半分以上現実なのですから。
僕は、大自然の中で妻と二人で静かに暮らしている姿を想像してワクワクしました。
でも僕はそのとき、10個の目標の中に、会社の仕事がひとつも入っていないことに。全く気づいていなかったのです。
その時に書いた目標がその後どうなったかと言いますと…2022年1月現在
①右目の治療の必要がなくなる…2017年10月ころ現実化
②声が出るようになって、ちゃんと話せるようになる…2018年1月ころ現実化
③腫瘍マーカーの数値が基準値に入る…2017年10月に現実化
④CT画像からガンの影が完全に消える…2018年1月に現実化
⑤ドクターからの「寛解」…2018年4月に現実化
⑥本の出版…2019年12月「僕は、死なない。」出版して現実化、その後2021年には2作目の「さとりをひらいた犬/ほんとうの自分に出会う物語」出版。
⑦講演依頼じゃんじゃん…ジャンジャンは来ていないけれど、まあまあ少しは現実化
⑧お金がジャンジャン…これもジャンジャンではないけれど、まあなんとか生活が出来る程度には
⑨大自然の中に住む…まだ現実化せず
⑩宇宙と魂に導かれる仕事をする…これは現実化している気がします
あと、ひとつですね!
すばらしい。
目標を書き出すときは、なるべく頭の中を空っぽにして「思考」ではなく「感覚」重視でイメージするといいでしょう。
「思考」はエゴが創り出すことが多いので、自分の外部のモノを求めがちです。
僕のケースですと⑧なんて、エゴそのものですからね(笑)。
エゴはその裏側に不足と恐れがあります。
それがなかったら、生きていいけない、やっていけない、というネガティブな思い込みです。
お金が入ってくることは分かっている、それがどんなタイミングで、どんなプロセスなのかは分からない。
でもそれを確信して待っている。
そんなBeingでいれば、それは間違いなくやって来ると思います。
ワクワクする魂の声に導かれていれば、必要なものは全部宇宙が用意してくれますから、心配ご無用です(笑)。
https://ameblo.jp/toneket/entry-12719950458.html 【「5年後も、僕は、生きています。 ⑦捨我得全(しゃがとくぜん)」】より
⑦捨我得全(しゃがとくぜん)
さおりちゃんと会ってから、しばらくして以前お世話になったことがある会社の社長、吉井さんが約20年ぶりに尋ねて来てくれました。
僕が最初の務めた商社を辞め、生活するためにいろいろな仕事をしていたとき、とてもお世話になった人です。
「刀根ちゃん、大丈夫? 人から聞いて、びっくりしちゃったよ」
吉井さんは20年前とほとんど変わらぬ立派な髭を蓄えてました。
柔和で人の良さそうな笑顔はちっとも変わっていませんでした。
「お忙しいのにわざわざ字て頂いて、ありがとうございます。ええ、ずいぶん良くなりました。血液検査の数値はまたさらに良くなってました」
「いや、ほんとに良かった~。でもほんとに驚いたよ」
「僕もですよ。まさか自分がガンになるなんて思わなかったです。しかもステージ4ですから」
「そうだよね、いきなりだもんね。ステージ4っていうと、一番大変なステージなんでしょ?」
「ええ、そうです。一番最後、どん詰まりのステージです」
「よくそこから帰ってきたね~、本当にすごいね、いや、本当にすごい」
吉井さんは感心したように僕をみつめ、うなずきました。
「でも、ホントにいい体験をしましたよ」
「ガンの体験が、いい体験だったの?」
「ええ、そうです。僕は自分のやり方・考え方にしがみついて、徹底的にガンと闘ったんです。まさに命がけで。だって、敗北は“死”ですからね」
「そうだよね、それ、普通だよね」
「でも、命がけで、出来ること全部やって、考えられること全部考えて、やってやってやり尽くして、その結果、全身に転移が広がって、ドクターに言われちゃったんです」
「なんて?」
「このままだと、来週にでも呼吸が止まるかもしれませんって」
「…」
「そこで、僕に訪れたのは“絶望”じゃなかったんです」
「え? というと?」
「ええ、“絶望”じゃなくて“解放”だったんです」
「絶望じゃなくて、解放…?」
「それまでの圧力釜の中に閉じ込められていたみたいな感じから、一気に広々とした青空に解放されたみたいな…そんな感じです」
「おお~」
「そうしたら、その翌日からまるで時間割が決まっていたみたいに、次々と予定が埋まっていって、レアな遺伝子が見つかって、それで薬が見つかって、ガンが消えてしまったんです」
「すごいね、ほんとうにすごい。それはすごい話だよ」
吉井さんは真剣なまなざしでうなずき、話しはじめました。
「実は私もね、刀根ちゃんと会わなくなったあと、あれから20年、本当にいろいろあったんだよ。だから刀根ちゃんほどじゃないけれど、今の話、とってもよくわかるんだ。私の話をしてもいいかな?」
「もちろんです、聞かせてください」
「あのあと、取引先が不渡りを出してね…、その影響で私の会社も不渡りを出すことになってしまったんだ」
吉井さんは思い出すように、遠くを見つめました。
「銀行はどこもお金を貸してくれなかった。景気がいいときは“どんどん貸します”なんて言っていたのに、いざ本当に困ったときは1円も貸してくれないんだ。そのとき、不渡りを出した会社の社長仲間は…自殺したよ」
「そうだったんですか、そんなことがあったんですか」
「うん。私は悩んだ。悩んで悩んで、ほんとうに苦しかった。10円ハゲが出来たよ。社員も10人以上いたしね。彼らの生活や人生だってあるから。でも、このままだと会社はいきなりの倒産、退職金も払えずにみんなが路頭に迷ってしまう」
そう、吉井さんは自分のことより他人のことを慮る人なのです。
「私は自殺した仲間の葬式で思ったんだ。死ぬくらいだったら、全部ゼロになってやり直そう、身体ひとつあればやり直せる、全部捨てようって思えたんだ」
「全部、捨てるんですか?」
「そう、変なプライドとか意地とか、そういう自分がしがみついていたいろんなもの、すべてを、全部ね、全部捨てたんだ」
「…」
「そうしたらね、目の前がす~っと開けた感じがしたんだよ、本当にす~っとね」
「あ、分かる感じがします」
「そして、これから迷惑をかけるお客さんのところに全部頭を下げてまわったんだ。これから不渡り出します、ご迷惑をおかけしますってね。ただし、ご迷惑をおかけしたお金は必ず、必ず、私が返しますって、一人ひとり、全員に土下座してまわった。。もう全部、開き直ってね」
「土下座ですか…それは大変でしたね」
「でもね、そうしたら奇跡が起こったんだよ。土下座してまわっていたら、お客さまのひとりがね、いくら足りないの? って聞いてくれたんだ。2千万円ですと答えたら、分かりました、出しましょうと言って、なんと、足りなかった分をそのお客様が出してくれたんだよ」
「お客様が?」
「そう、なんと、お客様がね。本来私がお金を払えなくて、ご迷惑をかけるはずのお客様がだよ。吉井さんは今まで本当に良くやってくていたから、今回は私が援助させてくださいってね。私はその社長が神に見えたよ」
そう言って、吉井さんはレストランの紙ナプキンに文字4文字の漢字を書きました。
『捨我得全』
「なんて、読むんですか?」
「しゃがとくぜん…」
「自分の我を捨てることで、全てを得るという意味なんだ」
それは僕が体験した“明け渡し”“サレンダー”と同じように感じました。
「自分の“我”を捨てるんだ。プライドも地位も名誉も財産も、そういうものにしがみつく“自分”も全部捨てて裸一貫になるんだよ。そうすると、不思議なことが起こって、全てを得ることが出来るんだ」
「なるほど、捨我得全…。で、そのときの借金は払えたんですか?」
「うん、そのときの借金は全部で2億円くらいだったけど、もうほとんど終わった。あとちょっとだね」
「それは…すごいですね」
「いや、刀根ちゃんのほうがすごいよ。私は仕事だけど、刀根ちゃんは死の淵からの生還だからね」
「いやあ、多分おんなじ事です」
「そうかもしれないね」吉井さんはうれしそうに笑いました。
『捨我得全』
自分の我を捨てることで、全てを得る。
自我(エゴ)が全体(宇宙)に降参すること。
自我(エゴ)はこの3次元世界を生き抜くためのサバイバル・プロググラムです。
目の前の問題解決は得意ですが、大きな視野、特に自分の在り方や「ほんとうに自分の声」などに一切聞く耳を持ちません。
すると、人生の方から「軌道修正しなさい」というメッセージが入るのではないでしょうか。
「我」を捨てなさい、「我」で人生にしがみつくのは、もうやめなさい、って感じに。
それが僕の場合は「肺ガンステージ4」で、吉井さんの場合は「不渡りの発生」だったのではないでしょうか。
『明け渡し』
『サレンダー』
『捨我得全』
共通しているのは、『それ』を体験したのち、人生に向き合う姿勢/Being(在り方)が大きく変わり、そして人生の展開が大きく変わったことです。
量子力学的に見ると、僕たちはエネルギーの存在です。
エネルギーの雲の塊です。
そのエネルギーという雲の周波数が変化すれば、それにともなう周囲の状況も変化してきます。
最先端の物理学的には「時間などない」と言われていますが、僕たちが体感する現実は「時間差」でやってきます。
まあ、そこの詳しいところは良く説明できないんですけれどね。
とにかく、自分の「在り方」が代われば、目の前の現実が変わってくる。
そういう体験をされた方も、たくさんいらっしゃるのではなでしょうか。
それがいわゆる「現実化」です。
僕たちはみんな、現実をÞ繰り出す『力(パワー)』を持っています。
しかしその使い方を誤ってしまっているために、自分にとって心地よくない現実を創り出してしまっている可能性があります。
その根っこになっているのが、「自我(エゴ)」です。
エゴは不安や恐れがベースです。つねにそこへ注目して意識を集中するくせがあります。
ですから「エゴ」ベースで生きていると、そこ(不安や恐れ)を目の前に現実化してしまう可能性が高くなってしまうのです。
そうならないようにするには…
まずは、自分のエゴの特徴を良く知ることです。
エゴも大切な機能です。ですからそれを「機能」として使っていくことです。
自分のエゴの「いいところ」「良くないところ」、つまりポジティブエゴとネガティブエゴの特徴をよく理解して、ポジティブエゴを中心とした「生き方」を選択することだと、僕は思います。
そういったことを学ぶために、心理学は助けになるでしょう。
僕の学んでいる心理学「交流分析/TA)」はエゴを学ぶ学問としてとても参考になり、役に立ちました。
自分を知ることの、さらにその先にあるのが「サレンダー」「明け渡し」「捨我得全」。
そこには「わたし」がいません。
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だって、「自分」を「明け渡して」しまっているんですからね。
「わたし」を「全体」に明け渡すと、人生の流れが変わる。
そこに「わたし」はいない。
なんだか、説明するのがとても難しいです。
そのあたりは、新刊「さとりをひらいた犬/ほんとうの自分に出会う物語」に物語として書きました。
https://ameblo.jp/toneket/entry-12720476449.html 【「5年後も、僕は、生きています。⑧「愛してる」言えますか」】より
⑧「愛してる」言えますか
第1話から読みたい方はこちらから。
第1回「癌宣告からサレンダー体験まで」
2017年8月末、2週間ぶりに東大病院へ行きました。
体調がスッキリしないこともあり、診察室に入る前の不安は相変わらずありました。
診察室に入ると、井上先生がにこやかに言いました。
「体調はいかがですか?」
「いやあ、ステロイドを止めたせいだと思うのですが、本当にダルいです。まるで癌が全身にあった時みたいですよ。身体が重くて仕方がありません」
「そうですね、ステロイドのリバウンドですね。それはしばらくしょうがないと思います。そのうちに、身体が対応してくれて、その症状はなくなりますからご安心ください」
「そうなんですね」
そうなのか、これはやっぱりステロイドを止めた事による副作用なのか。
ドクターからそう言われると、ほっとする自分がいました。
「ええ、お体の具合は血液検査で大体分かります。刀根さんのガンは血液検査の数値に出るタイプなので、わかりやすいのです」
「血液検査で分かりにくいタイプもあるんですか?」
「はい、腫瘍マーカーに出にくいタイプのガンもありまして…でも刀根さんの場合は以前数値が高く出ていますので、数値で計れるタイプのものです。で…」
井上先生は血液検査の数値に目を落として言いました。
「また数値が良くなってます。ALPは393から274に下がりました。基準値に入りました。KLー6も829から433、こちらも基準値をクリアしましたね。この分だと腫瘍マーカーCEAも順調に落ちていると思われます。良かったですね」
やった、やったぞ!
ダルさと癌からの回復とは、別物だったんだ。
自分の状況改善が数値で分かることの安心感は絶大でした。まあ、逆の場合は悩ましいんですが。
「とにかく良い傾向です。肝臓の数値も変わらず、いい数値で来てますし、アレセンサを通常量に戻しましょう。」
「ありがとうございます」
「目のほうは、どんな感じですか?」
「ええ、放射線やったほうがいいと言われましたけど、僕はこのままアレセンサで行きたいと思ってます」
「そうですね、今のところはそれでいいと思います。アレセンサがホントにいい働きをしてくれていますので。もし効かなくなってきたり、悪くなるようだったら、数値ですぐに分かりますから」
そのあと、今度は眼科へ向かいました。
視力検査の後で、名前を呼ばれて診察室入りました。
ドクターは、僕の目を例のスコープで覗き込んだあと、こう言いました。
「うん、とりあえず状態は落ち着いているようですね。やっぱり適合率100っていうのが効いているのかもしれないね。
私のこれまでの経験だと放射線治療の範疇なんだけれど、このまま様子を見ていくことにしましょう」
「はい、ありがとうございます」
「お薬はなんでしたっけ?」
「アレセンサです。ALK融合遺伝子に効く分子標的薬です」
「アレセンサ…か。そうなんですね、良く効きますね。私にとっても初めてのケースですよ」
「そうなんですか?」
「ええ、珍しいと思います。僕も、見方を変えなきゃならんかもしれませんね…」
ドクターはメモを取ると、念押しするように言いました。
「状況が悪化するようだったら、やりますからね、放射線」
やった、やったぞ
これで目の放射線治療はクリアしたぞ。
さおりちゃんと作った目標の第1番目はクリアだ。
視界は相変わらず強烈に歪んでいたけれど、なんとか目の治療による入院リスクはクリアしました。
なん番目か忘れちゃったけれど、とりあえず目標ひとつ、クリアだ。
よし、次は声が出ることだな。
そして迎えた、2017年9月1日…
その日はあの肺癌ステージ4宣告の日から、ちょうど1年でした。
あの日から、1年…。
いま(2022年もそうですが)、あのときも、1年後に生きているなんて想像できませんでした。
いまでも、あの風景を克明に思い出すことが出来ます。
最初の大学病院の、狭く薄暗い待合室…
コホコホと響く咳…
使い古された濃い小豆色の長椅子…
あそこに座っていた人たち、みんな死んじゃったのかな?
そして…掛川先生の苦虫をかみつぶしたような表情…
「肺ガンです…治りません…」
「肺ガンは、癌の中でも難しいガンなんです」
「刀根さんは、抗ガン剤しか、やりようがありません。抗ガン剤が効く残念ながら確率は40%です」
「もし効いたとしても、抗ガン剤は、いずれ効かなくなります」
「そうなったら、次の抗ガン剤をためします」
「そうやって延命していくしか、ないんです」
僕は、それを受け入れられませんでした。
確かに、あのとき掛川先生の話を全て受け入れてしまって、あの病院の言うがままの治療をしていたら、僕はたぶん死んでいたと思います。
きっと、この世界には、もう存在していなかったと思います。
運がいいのか、そういう運命だったのかは分かりませんが。
あの病院に勧められるまま、治験を受けなくて本当に良かったです。言葉は悪いですが、あやうく人体実験の素材にされるところでした。
人生はなにがどうなっていくのか、先は全く分かりません。
未来は見えなんですからね。
僕は思います。大切なこと、それは「直感に従う」という事ではないでしょうか。
「あたま」の言うこと、知識や誰かの話や、本やネットの情報ではなく、自分の中に響いてくる「直感」に耳を傾ける、ということ。
もうひとつ、大事な事というか、基本的なこと。
医者がネガティブなことを言うとき、それを受け入れてはいけません。
1年生存率が30%だって?
5年生存率が10%以下だって?
それは、過去の誰かのことであって、今、生きている僕たちではありません。
その数字には僕たちは入っていません。
はっきり言います、そんな数値は、全く関係ありません。
医者は一般的、一番短い予想を言います。
なぜなら、それ(自分が言った余命)よりも短命だった場合に、「先生、言ったことと違うじゃないですか、訴えてやる」みたいなことが起きないために、そういう訓練?教育?を受けていることが多いからです。
もちろん、そんなことを言わない心優しいいドクターもたくさんいらっしゃることも事実ですが、万一そんなことを言われたら、「そんなの関係ない」とシャットアウトしてしまうことが肝心です。
なぜなら、それを受け入れてしまったら、そうなってしまう可能性が大きくなりますすし(思考は現実化する)、病気や治療に対して受け身になってしまうからです。
自分の命は自分で決める。
井上先生を含めて、どんなにいい医者でも、彼らにとって僕たち患者はたくさんいる患者のひとりに過ぎません。
しかし、僕たちのいのちはひとつきりです。
一人にひとつしかありません。
だから、自分のいのちを決して他人任せにしてはいけません。
自分のいのちの責任は自分で持たなくちゃいけません。
それが、ほんとうに自分を大切にするということだと思います。
あれ(2016年9月1日)から、本当にいろいろなことがありました。
たくさんの人に出会いました。
たくさんの人に助けられました。
たくさんの気づきがありました。
僕は、あのときの自分では想像が出来ないような細い、細い、まるで刃の上のように細い道を道を通って、いま、ここにいる気がします。
最大の感謝は、妻です。
彼女が僕の妻じゃなかったら、僕はいま、こうして生きていなかったと思います。
彼女が僕と結婚してくれたから、彼女が僕を支えてくれたから、僕はこうしていま、ここに生きていることが出来る、と実感しています。
ガンになる前、僕は妻に「愛している」って言えませんでした。
「愛」という言葉を口にすると、なんだか嘘くさく感じてしまったからです。
言葉だけの上っ面みたいに感じて、「好きだよ」は言えても「愛してる」とは口にすることが出来なかったのです。
僕の中に「愛」というエネルギーの感覚を実感することが出来ませんでした。
「愛」ってどんな感じか、
どんな波動か全く分かっていなかったのです。
それは僕が「あたま」「思考」の中で生きていて、僕の人生は『考える』『対処する』ばかりで、『感じる』ということを一切してこなかったことを示します。
そう、仕事はそこそこ出来ていたと思います。
そう、評価もそこそこもらっていたと思います。
「俺って、結構いいかも」という自己肯定感もそこそこあったと思います。
でも、それって、全部自分が頭で考えて、その逆(ダメな自分)にならないよう、必死で対処して作りあげた「後付け」の自分だったのです。
なんて寂しくて忙しい人生だったのでしょう。
ガンはそれを全部ぶっ壊し、新しい自分、いえ、ほんとうの自分にアクセスする道を作ってくれました。
人生にとって、最大のピンチは、最高の転換点になる可能性があります。
ガンになると、自分の「生」と「死」と向きあわざるを得なくなります。そういう意味で、ガンはスピリチュアルな病気ではないかと思います。
だからこそ、医者や病院まかせにしないで、しっかり「自分自身」と向き合うこと。
そして、深く深く、自分と向き合って変化が起こったとき、自分自身の存在(Being)の周波数が変わります。
すると、やってくる未来が変わる。
Beingの変化→未来の変化
僕は、ガンになったことで「愛」という感覚を、自分なりに取り戻すことが出来ました。
これは大きい、僕にとっては、ほんとうに大きなことでした。
いま、僕はなんの照れや違和感もなく、心から妻に言うことが出来ます。
「愛してるよ」
って。
まあ、これを書くことに、結構照れがあるんですけれど(笑)。
ときどき、妻もこのブログを読んでたりするので…
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