Facebook田中 宏明さん投稿記事
雨の日の瞑想がとても好きです 無数の雨音を聴いていると いつもよりも深い静寂を感じます 思えばそれは 人生に少し似ています
生まれてから 死ぬまで人は 沢山の人に出会い たくさんの 非喜劇を経験して 泣いたり笑ったり 喚きちらしたりと 大忙しです そんな長いようで 短いお祭り騒ぎのような
一生の中で一体どれくらいの時間 本当に心穏やかに生きれたのでしょう?^ ^
雨音を聴きながら 瞑想をしていると そんな慌しい人生を まるで遠くから俯瞰している
ような気持ちになります
例えばこう 想像してみてください^ ^ あなたは今死の床についています明日か明後日には
峠を迎えそうです たくさんのお見舞いの家族や友人があなたを訪れて来ます
ある人はあなたを勇気づけようとし ある人は涙を流しながら 悲しみを隠せずにいます
ただあなたにはもはや、彼らはあまりにも遠い存在です
少なくとも彼らや彼女たちは後何年か何十年かは生き続けることでしょう^ ^
でもあなたにはもう「未来」はありません 少しだけその孤独を想像してみてください
どんなにあなたのことを 愛していても あなたをその 孤独から助けられる人
あなたに心から寄り添える 人は誰もいないのです
死の前では 全てが無力になります その時あなたは気づくことでしょう
人はずっと 1人であったことに^ ^ そしてどれだけ「自分自身」をないがしろにして生きてきたのかを あなたは最後の最後で自分を守る術を知らなかったことに気づきます
その孤独に 立ち向かうだけの愛を 自分自身に養って いなかったことに気づくでしょう^ ^ あなたの人生は ほとんどが外交的な ものに対して使われて来ました
他人にどう見られるか?人にどう自分をそれなりに見せるか?そんなふうにいつも「自分」の
基準を他者に委ねて生きてきたわけです^ ^
だから本当のあなたの声を聞くことはほとんど無かったことでしょう
あなたの本当の声はきっとこう言っていたはずです 「あなた自身の側にいて」と
他の誰かややるべきことではなくどんな時も自分自身の中心にいてほしかったと
僕たちは 子どもの頃はずっと自分自身と寄り添って生きていました
それは自分の やりたいことをやるということももちろんですが
何よりも 自分の中に揺るぎない中心を感じて生きていたのです その中心を 今も僕は覚えています それは「自分を愛している」という 揺るぎない感覚です
かつて愛はとても 身近なものだったのです そしてその愛は 神そのものでもありました
自分への愛で 満ちている時 全てのものが 神さまに感じます
その揺るぎない安心感を 誰もがきっと覚えているはずです^ ^
「生きているだけで楽しい」 言葉にするとそれだけのことですが それが神さまと共に生きていた時代の感覚です
さて^ ^話しを戻しましょうそう言えばあなたは死の床にいましたね?^ ^
迫り来る終わりと孤独の中できっとあなたは遠い記憶を思い出すことでしょう
それはあなたがあなたを無条件に愛していた頃の記憶です
その瞬間あなたの中に懐かしい静けさが蘇ってきます それは一つなる静寂であり ワンネスの安心です^ ^だから人の死顔はみな安らぎに満ちているんです
僕は日々の瞑想の中でいつも小さく死にます^ ^そして そのたびに 自分の中心にある静けさという 愛に触れるのです
その安らぎと喜びは 他の何ものにも 変えられないものです
どうか皆様も 是非「死ぬ」練習をしてみてください^ ^ 思ったよりも死ぬことは怖くないとわかるはずです
それは帰還であり また新しい始まりに過ぎないのですから
僕もまだ死んではいませんが瞑想を通してそんな信頼を日々少しづつ養っています
そして何よりも自分自身の側にいてあげられます
それが瞑想を継続している一番の理由です^ ^とまぁ、そんなわけで
僕は僕自身を誰よりも愛しています一人で満ちていられるなら自分自身と共にいられるなら
この人生という一人旅も悪くない^ ^
では皆様も素敵な旅を✨ワハハ🌈らぶ💓
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