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□「感性というぬくもり」
※行徳哲男師の心に響く言葉より…
人類が直面している最大の危機は、自分が自分に帰属できない、すなわちアイデンティティ・クライシスであると思う。これ以上の危機はないと思います。
戦争とか民族紛争、あるいは凶悪犯罪といったものも全部、ここに原因がある。
では、自分を自分に帰属させる、自分に戻すにはどうすればいいのか。
これはもう感性によるしかないですよ。
小林秀雄がこう言っています。「人間は感動したときだけだぜ、自分が自分に戻れるのは。
これは天与の叡智だ」「ハッとしたとき、自分が自分に帰属している」
感動できない人間、つまり感性が鈍くなった人間は自分が自分に帰れないわけですから、
あとは彷徨(さまよ)うだけです。
いまは人類全体がこの感性の鈍さによって彷徨っている状況でしょう。
アジアで初めてノーベル賞をもらったインドの哲人タゴールは国家崩壊の要因を挙げています。
「哲学なき政治」「感性なき知性」「労働なき富」「人間性なき科学」「犠牲なき宗教」
中でも「感性なき知性」こそが国家崩壊の最大要因です。
だから感性の復権というのは、とりあえず自分が自分に復権する、つまり自分への回帰なんですね。自分が自分になれないで誰が自分になれるのか。
※『いまこそ感性は力』(行徳哲男・芳村思風)致知出版社
自分が自分でない状態とは、地に足がついていない、フワフワしてまるで夢でもみている状況をいう。
なんでも、傍観者のように、他人事(ひとごと)としてみてしまう。
傍観者の言葉には力がない。自らが感じた、感動や、驚きがないからだ。
いくら勉強して、狂ったように知性を磨いたとしても、そこに感性という感じる心がなければ、その知性は冷たいものとなる。感性には、温かなぬくもりや情がある。
発する言葉にどこか冷たさがある人は、感性が鈍い。
どんな小さなことにでも、ハッとして、気づき、驚き、感動する、感性あふれる人でありたい。
https://note.com/taiki_yumoto/n/n627946fe3cf2 【触れるという安心感──言葉を超えるぬくもり】より
映画やドラマを観ていると、悲しみに暮れる人の涙があふれ、そばにいる人がそっと抱きしめたり、頭をなでたりする場面に出会うことがある。言葉ではなく、ぬくもりによって寄り添うその描写に、心を動かされた経験がある人も多いのではないだろうか。
しかし、実際の人間関係においては、誰かの悲しみが目の前であふれたからといって、すぐに触れるという行為が生まれるわけではない。それは、ある程度の親密さがなければ成立しない距離感だからだ。まずは話を聞き、感情があふれる時間を受け止める。その先にようやく、そっと肩を抱く、手を握るといった行動が生まれるのだと思う。
とはいえ、こうした演出が頻繁に使われるのは、やはり「触れること」に特別な力があるからだろう。言葉では伝えきれないものを、温もりが伝えてくれる。逆に、触れることができないことで、伝えられない何かがあるのだとも感じる。
人間関係において、「何でも話せる」「どこへでも一緒に出かけられる」というのは、とても素敵な間柄だ。しかし、心が穏やかに落ち着くために、物理的に「触れる・触れられる」関係性もまた、あったらいいものの一つではないだろうか。
解決策や正論よりも、ただそこに「いる」ということが伝わる体温。誰かのそばで、ただ静かに寄り添い、温もりを感じることで得られる安心感。それは、心を鎮め、癒す力を持っているのかもしれない。
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