https://note.com/yutaka_kano/n/naa9763d66783 【「凡の器」ー 谷口智行第四句集『海山』を読む】より
このたび里人であり、俳句結社「運河」主宰である畏友谷口智行氏の第四句集『海山』が上梓された。彼の著書や句集に触れるたび神話の国熊野新宮に生まれ育ち、右城暮石、茨木和生の系譜を継いでこの地で俳を追求し続ける作者の覚悟に触れ、世過ぎの垢でひねくれた背が伸びる思いがするが、果たして今回はどのような作となっているだろう。
🔴もの言はぬ海に御慶を申すなり
冒頭句の句境に円山応挙の「元旦図」が重なる。写生を旨とする円山派を牽引した京都画壇の巨塊はこの一種異様な「元旦図」に洋の東西を越えたモダナイズに到達した。裃を付けた応挙らしき人物は長く影を伸ばし、遥か山並みに昇る初日を迎える。それ以外は何も描かれていないが、ここに静謐なる淑気が満ちている事が良く分かる江戸絵画の傑作だ。写生を尽くした果てに到達した圧巻の余白を前に観る者は思わず手を合わせたくなる。
この「余白」や「間」という日本独自の美意識は仏教の「無」や「空」に源があるといわれる。西洋における「無」は「有」の対義語であり、意味を持たない虚無として認識されているが、仏教における「無」は多くのものを包含する豊穣なる空間を意味し、不完全である事の美を補完しながら「侘び」や「寂び」に到達する日本人の美意識の芯にあるものだ。そしてぼくら俳人が親しんでいる「切れ字」もまた「無」のもたらす豊穣なる空間の一つといえるだろう。
作者は淑気という豊穣な空間に包まれ、日頃帯びている社会的な地位や属性、役職を解かれ、海をおろがみ、一人の益荒男として手を合わせることで応挙の画境に近付いたのではないだろうか。句集『海山』は谷口智行という男が俳句を介し、徒手空拳全裸フルチンとなって熊野という雄大な自然と合一し、畏れ、歓びを存分にしていることがぼくには嬉しくてならない。
🔴えへらえへらとビールグラスをまた倒す
ねえ、智行さん、おれこの句、ホントに好きだよ。おっさんたるもの、このくらいが一番幸せなんだもの。でもね、このえへらえへらの下には深淵のような絶望や悲しみが隠されている事も見てとれるよ。あなたがどれだけ苦悩の人かよーくわかる。だから、良いのだ。ぼくはこんな智行さんが大好きです。また智行さんと飲みたいな。
一湾にたつたひとつの桜貝 白靴のなか海の砂山の砂
蔓荊の実を看護師に嗅がせやる その夜のどの森のどの木も聖樹なり
白玉を食うてねむたきときねむる 山のもの海へと返す夏の川
二日賭事三日鮎掛二日寝る 納屋の灯の紐さぐりゐる夜寒かな
猟犬と旅の女のすでに親
いのち引き抜く厳冬の大地より
この句集を通読して詩人ロバート・ブラウニングの「春の朝」を思い出した。
時は春、 日は朝、 朝は七時、 片岡に露みちて、 揚雲雀なのりいで、
蝸牛枝に這ひ、 神、そらに知ろしめす。 すべて世は事も無し。
ロバート・ブラウニング「春の朝」より
神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し。ああ、凡だ。凡だねえ。「凡」とは「平凡」の語義の通り、余りパッとしない意味に使われているが、果たして本当だろうか。「凡」とは風を孕む帆を表す象形文字といわれ、風は様々な方向から吹く事から「すべて」を意味する「凡」が出来たのだという。なにからなにまで感動しなければ気の済まない現代において人の心は疲れ、今にも擦り切れようとしているが、生物たる人間は凡である事が自然であり、そこで五感に触れる事象に対する歓びこそが芸術の源泉となっているのだ。俳句は凡の器である。俳人谷口智行はこの第四句集『海山』でようよう「凡」の境地に達したのではないだろうか。
智行さん、素晴らしい句集を堪能しました。ありがとうございました。また飲みましょう。
ぼくのヨタ話を呆れながらウンウンって聞いてください。よろしくおねがいします。
里俳句会・塵風・屍派 叶裕
https://fragie.exblog.jp/37986881/ 【谷口智行句集『海山』俳人協会賞をお祝いする会。】より
水木の花。神代植物園。遅咲きの花なのだろうか。けぶるように咲いていた。
新聞記事を紹介したい。
6月10日づけの京都新聞に彌榮浩樹句集『トリガー・ハニー』が「短信」欄にとりあげられている。抜粋して紹介したい。
言葉の取り合わせが唯一無二。
花柄の浮き輪の中のむすこかな 蟻湧くを見てゐて父娘らしくなる
全員が剣道部員かきつばた 黒板を黒板消しの舞ふ鯨
鳥が歯にはさまつてゐる冬休み
難関に感じても、確かな映像が立ち上がってきて、共感、笑み、驚き、懐かしさと、感情をかき立てられる。
昨日のお祝いの会を紹介しておきたい。
大阪マリオット都ホテルにて、13時より谷口智行氏の句集『海山』の「俳人協会賞受賞を祝う会」が行われた。
会には、関西を中心とした俳人の方、そして俳句のメディアの方々、俳誌「運河」の方々が集まってのお祝いの会となった。
日頃なかなかお目にかかる機会のない関西の俳人の皆さまともお目にかかれ、また、「運河」の皆さまとひさしぶりにお会いできて楽しいひとときであった。
谷口智行氏のご挨拶を抜粋して紹介したい。
本日は皆さま、お忙しい中またこのような天気のなかお集まりいただき、ありがとうございました。ますます頑張らなあかんなという風には思いました。今年の1月25日、受賞のお知らせを能村研三先生よりいただいたとき、即刻、茨木和生先生にお電話をもうしあげました。茨木先生は、「そうか、そうか、良かったな、良かったな」と喜んでくださり、もうそれだけで僕は嬉しかったです。それだけで充分だなと思いました。ただ、このままではダメだということも分かってます。賞を貰っただけではダメで、ますます頑張らにゃいかんなって思いました。
本日はこの祝宴のために「運河」の多くの方にお世話になりました。皆さんにご協力をいただいていることに恐縮しつつかつとても嬉しいです。
今回、僕はこのような身に余る賞ををいただきましたが、これは僕だけのものではありません。ですから、これだけではないです。 僕は「運河」で育てられました。和生先生や先輩方や皆様と一緒に励んできたから頂けた賞だと、本当に思っております。これからも、頑張っていきますので、ただあんまり気負わんとやらなあ、からまわりしそうやから、そうやから、まっなるべく自然体で、まあ、和生先生が言うように、仕事しっかりせよって言ってくれてましたので、仕事も頑張りながらやっていきたいと思います。
今日はありがとうございました。
茨木和生氏のご子息の曜氏がご挨拶をされ、ビデオレターが公開された。
この度の谷口氏のご受賞をこころから喜んでおられる茨木和生先生のお顔が映しだされた。
(会場がどよめく)
「おめでとう。本当に良かった!」と何度もくり返して喜ばれる茨木和生先生。
お土産にいただいた書籍。『俳句の深層』(邑書林)定価2200円
光を発することのない海と山は夜空よりも黒い。それらが身ほとりに横たわっていれば、片闇を成していれば、その気配が体に馴染み、心が救われるのである。(本文より)
谷口智行主宰、そして「運河」のみなさま
句集『海山』の俳人協会賞受賞、おめでとうございます
茨木和生先生をはじめ、「運河」の皆さまが谷口主宰のご受賞をこころから喜んでおられることが伝わってくるよきお祝いの会でした。
お招きいただき、ともにお祝いの会につらなることができましたこと、あらためて御礼をもうしあげます。
谷口主宰、茨木和生先生、「運河」の皆さまのご健勝とご健吟をこころよりお祈りもうしあげます。
山のもの海へと返す夏の川 谷口智行
大阪マリオット都ホテルの17階より大阪市を見下ろす。
ひとつ余談。
ちょっと派手な眼鏡(気に入っている)をかけているのだが、これがけっこう褒められるのだ。断っておくが、褒められるのはわたしの眼鏡であって、わたしではない。
どこで買ったの?と聞かれることも多い。昨日の会で、三村純也氏にお会いしたところ、「眼鏡」を褒めてくださった。「ふらんす堂のご近所のスイス堂で買いました」と申し上げたところ、そりゃできすぎと、ひどく面白がってくださった。
(関西弁でおっしゃられたのであるが、うまく再現できない)
会がおわったときに、三村氏が、「これからはふらんす堂じゃなくて、スイス堂って号にしなはれ!」って笑いながらおっしゃる。
「あははは、それっていいかも。ブログにそうおっしゃられたって書いておきますね」とわたしも笑いながら申し上げたのだった。
この仙川のスイス堂、いつも若いお客さんがいて人気なのである。
遠くから買いにくる人もいるようだ。
さらなる余談であるが、「その眼鏡、よく似合ってますよ」とたまに言ってくださる方がある。そうなると、ちょっと嬉しい。眼鏡とわたしが褒められたって思えるでしょ。
ともに嬉しい。しかし、ごーくたまに、である。
0コメント