未来を切り開くための矛と盾

Facebook藤井 清史さん投稿記事

【和歌、俳句から考える健康学19】

『医(くす)しをハ 兼ねて手がらを わきまへて それを親しミ 脈も見すべし』

という歌があります。

これは、「日頃から医師の力を知っておくべきだ。そうしておけば、病気にかかったとき、安心して診察を受けられる。」という意です。

“かねて”は、予て(日常)と兼ねて(二つの事柄を兼ねる)を掛けた言葉で、腕前と実績を意味しています。

親しミ“は、自分のものとして掌握しておけ、という戒めでもあります。と、同時に傲慢に振る舞う医者にも警鐘を鳴らしている一句でもあります。

さて、昨今の国内事情も、まさにこの通り、の状況といっても過言ではありません。

“令和のコメ騒動”と題され色々と奔走しているかのように、見えていますが、他国へ日本の優れた農業を売り渡すかのようにさえ、感じられます。

救世主のように現れた、某大臣も、やっていることは何てことない、前大臣でも充分に対応できるような内容で、花を持たせてもらってる感が否めません

「自民党をぶっ壊す」と豪語して、結局、撹乱させるだけさせて、その責任も取らず、とっととどっかへ行ってしまったお父様のお子様ですから、致し方ないことなのかもしれませんが…。

歌のように「医師の力」のように「政治家の力」をしっかり知っておかなくては国が滅亡に向かっている時に、何の対処も出来なくなってしまうでしょう。

もう、既に時遅し、なのかもしれませんが…。

本当に、昨今の政界の力量の無さには、ほとほと呆れてしまうのは私だけでしょうか?!

皆様はいかがお考えでしょう?

健康においても如り、であります。

自分が病んだ時に、本当に信頼できる医師や治療家を知っておく、見極めておく、ということは大切なことです。

SNSなどでの派手なパフォーマンスや、マスコミ露出、YouTuberまがいの方々などなど、目につく方々は多数おられます。

その中にも本当に信頼できる実力をお持ちの方も当然おられるとは思いますが、肩書きや、自称〇〇などという、煌びやかな形容詞にだけは翻弄されない皆様でいて頂きたいと、切に願うばかりです。

本物の簡単な見極め方は、その枝葉を見ることも大切です。

スタッフさんや、部下の方々、お弟子さんたち、そして、患者の皆さんを見てみることです。

そこに案外、答えがハッキリ出ていることが多いと思います。

とかく、人は目につくものに惹かれるものですが、下支えの方々、そしてそこを卒業した方々の中に真実が潜んでいるものです。先の政治家の例えのようなモノです。

これも一つの見方として、ご参考にしていただければ幸いです。

「本物を見極める目」を持つには、基本的には、やはり智慧を磨くことが大切になります。

「文殊の智慧」と、昔からよく言われますが、未来を切り開くための矛となり盾となることは確実であるのですね。

矛と盾が、矛盾という結果にならないよう、雑多な情報に翻弄される事の無いように、しっかりと学んでいきたいものだと、私は考えています。

皆様はいかがお考えでしょうか?


https://note.com/hd4ance/n/ne5e66ef1b182 【じぶんは最強の「矛」と「盾」がほしいだろうか?】より                           鈴木秀之

「矛盾」ということばって、いろいろ、興味ぶかいと思うのよね。

「どんな盾(たて)でも貫き通す矛(ほこ)」と「どんな矛でも貫き通すことのできない盾」が、お店で売られていて、そして、とあるお客から「その矛で、その盾を突いたら、どうなる?」と問われて…。っていうお話しより「辻褄の合わない」の意味として、「矛盾」ということばが生まれた。とのこととぞんじますが。

なんだか、このお話しがさ、こういう状況って、ありえそうかも。って思えるし。

ほんとうに突いたらどうなるんだろう???とゆうのも、ちょっと気になるし。また、そもそも、「これは矛盾しているわ。」みたいなときって、まま、あるから。そういうときのことを、「矛」と「盾」の漢字を組み合わせて「矛盾」と名づけた。ってえのが、このことばを作ったひと、すごい! と思う。と、そう思っていたときにねぇ、

今から約2か月まえの9月6日、糸井重里さんがほぼ日の「今日のダーリン」で、

「矛盾」についてのことを書いておられたのよね。その日の「今日のダーリン」より引用を申しますと、、なるほどねぇ、と教科書で習ったときに思って、そのまま、いわば丸覚えをしていたのだけれど、その最強の「矛」だとか、最強の「盾」だとか、じぶんはほしいだろうかと、いまさら考えた。‥‥要らねぇ。使いみちもないし、飾っておいてもじゃまになる。

まぁ、だれが考えても、株式会社「ほぼ日」の仕事に、矛だの盾だのが必要になることもないから、要らねぇことはわかっていたはずだよ。ぼくは、この日の「今日のダーリン」を読みながら、なんだか、すこし、目が覚めるような気持ちがした。

たしかに、糸井さんおっしゃるように、「最強の矛」も「最強の盾」も、ぼくは、どちらも要らねぇ。この「いちばん強い」というのもさ、「いちばん」なんてぇ、言っても、ないような気もするし。

「大袈裟なことば」と「大袈裟なことば」が出合うことで、「矛盾」が発生する、ようにも感じられるし。そんな「矛盾」という状態って、言ってみれば、ことばのまやかし、みたいなことなのかもしれない。

最強とか、最高とか、世界一とか、よりも、ほしいものがほしいわ。

はて、ぼくが今「ほしいもの」って、なんだろか??


FacebookHiroshi Kaneiさん投稿記事

このメッセージは、親子の関係に限らず、私たちすべての人間関係、そして世界が抱える対話の断絶にも深く通じるものがあります。

■なぜ「聴くこと」が 今の世界に必要なのか?

現代は情報が溢れ、誰もが「話す」「主張する」ことに忙しくなっています。しかし、「聴く」ことを真剣に実践している人は極めて少ない。

それが、家庭でも学校でも職場でも、そして国家間の外交や社会対話でも、すれ違いや分断を生み出しています。

脳科学者ダニエル・エイメン氏の言葉 ——

「まず黙って聴くこと。それが信頼を築く鍵」

この教えは、まさに人と人との信頼、文化と文化の理解、国家と国家の対話にも適用できる普遍的な原理です。

■子どもに耳を傾けることは、平和を育む行為

「子どもの声を最後まで聴くこと」は、単なる育児テクニックではなく、「違う視点を持つ相手の声に耳を傾ける」という平和の土台です。

大人が子どもの声を遮るのと同じように、強い立場の人々が弱い立場の人々の声を無視する社会になっていないでしょうか?

「子どもが『わかってもらえた』と感じるとき、はじめて私たちの言葉も届きはじめるのかもしれません」

これは、今の世界が必要としている対話の原点です。

「理解されたいなら、まず相手を理解すること」

スティーブン・R・コヴィーの『7つの習慣』にも通じる普遍的な知恵です。

***

子どもに「耳を傾ける」ことは、平和な社会への第一歩。

世界中がいま、互いにもっと「聴く」ことを必要としているのかもしれません。

Listening to children is the first step toward a peaceful society.

Perhaps what the world needs now is simply to listen more — to each other, to every voice.

「平和は、小さな“聴く”から始まる」

Peace begins with listening.😇


Facebook長岡 美妃さん投稿記事

自分が体験経験し、また知識として取り込んだ情報に絶対性を持つ。

「その根拠は一体何なのか?」を問うていくと、やはりどこかの情報から出発している。信頼性に足る人が発した情報であるとか、たくさんの情報を繋ぎ合わせての情報であるとか、、、しかしそのどこにも無色透明な情報などない。

そもそも情報とは、誰かの観点の結果物である。つまり偏りがあるのが情報の本質であり、決して100%の真実ではない。それなのに情報の境界線を明瞭にしてしまうと、境界線の内が正解で外が不正解という構図を作り出す。正解不正解まではいいが、行き着く先は敵味方にまで発展させるのが脳機能のなせる業。

ジャック・デリダの脱構築理論やドナ・ハラウェイのサイボーグ概念などは、境界線が生み出す二項対立に反駁する思想を世に問うているが、まだまだ脳が見せる日常感覚を覆すまでには至らない。つまり、日常感覚を超える感覚を得なければ二項対立はなくならず、二項対立がなくならなければ戦争はなくならないのである。

日本における「道」は禅の思想を取り入れ、日常感覚を超える感覚を体得する鍛錬を積む。自他の境界線を曖昧にし、究極には溶かしてしまう。自ずと二項対立は消えさり、一元の動きだけの世界に至る。日本が和の民族である所以であろう。鍵は日常感覚を超える感覚を得ることである。

では日常感覚を超える感覚とは何か?・・・日常感覚はマクロの世界を認識する感覚であるのに対し、それを超える感覚とはミクロの世界を認識する感覚である。

量子力学とニュートン力学はまるで違う法則が敷かれているようにみえるが、人間の五感覚の精度がマクロしか捉えられない程度であるだけのこと。ミクロの世界とマクロの世界を分ける境界線などないのである。

今、毎朝毎朝『宇宙の途上で出会う〜量子物理学からみる物質と意味のもつれ byカレン・バラッド著』を読んでいる。物理学者、哲学者、言語学者が絡み合いもつれ合い、、、彼らの思考を追いながら読み解いていくにつれ、目では見えないものが鮮明に観える感覚になる。そして「本当に目で見るこの世界は錯覚なのだ」と、つくづく世界を見回してみる。見回した世界は錯覚ではあるが、豊かな経験をさせてくれる世界はやはり真実よりも美しい虚構の世界なのだと思うのだ。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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