https://www.pixpot.net/view_spots/spot/3195/tachibana-dera/ 【「橘寺」聖徳太子誕生の地で太子建立の七ヶ寺の一つ】より
| 撮影:五島 健司
奈良県明日香村にある聖徳太子誕生の地として知られる寺院。
橘寺の基本情報
橘寺は正式名を「仏頭山上宮皇院菩提寺」といい、本尊は聖徳太子・如意輪観音です。新西国三十三箇所第10番札所に選定されています。
聖徳太子に関係する寺院は「聖徳太子建立七大寺」と呼ばれ、法隆寺、広隆寺、法起寺、四天王寺、中宮寺、橘寺、葛木寺となっています。
しかしながら創建年月は不明となっており、日本書紀に天武天皇9年(680年)に火災が発生したという記録があり、それが現在わかっている最古の橘寺の情報です。
火災で何度も消失、再建を繰り返し現在に至ります。平安時代後期に五重塔が消失、室町時代後期の全山焼き討ちなど数々の受難がありました。元治元年(1864年)に本堂が再建されました。
橘寺の伽藍(建物)は、本堂(太子堂)、観音堂、二面石、五重塔跡です。
https://www3.pref.nara.jp/miryoku/narakikimanyo/2870.html 【聖徳太子の生誕地 「橘寺」】より
明日香村
聖徳太子建立七大寺の一つとされ、太子が祖父の欽明天皇の別宮・橘の宮を寺に改めたのが始まりと伝わります。太子はこの辺りで誕生し、幼少期を過ごしました。創建当初は、広大な境内に四天王寺式伽藍配置の建物が多数並ぶ大寺院でしたが、ほとんどを焼失。1864年に再建された本堂(太子殿)には、木造聖徳太子35才坐像(重文)がご本尊として祀られています。これは、606年に推古天皇の命を受けて勝鬘経(しょうまんぎょう)の講義をされた際のお姿とされ、伝説では、その講義のすばらしさに天から美しい花びらが舞い降り、冠が日・月・星の光を放ったと伝わります。
また、橘寺の北方にある雷丘東方遺跡には、推古天皇の小墾田宮(おはりだのみや)が存在した可能性が高いとされています。小墾田宮は太子が小野妹子に託した「日出処の天子~」と記した国書を作成するなど、政務を行った宮としても知られます。
https://note.com/chise2021/n/n609e2bfb6216 【聖徳太子誕生の地「橘寺」・明日香村に遺されたもの⑤】より
古墳関係を立て続けに鑑賞し、次は寺院を回ろうとまずは「橘寺たちばなでら」へ立ち寄りました。
写真の順番上は「石舞台」より先に回ったようなのですが、どう考えてもこの寺の方が後だったと記憶しています。なんせこの日は7月26日。今から2カ月近くも前の事なので、記憶が曖昧になりつつあります。
県道・多武峯見瀬とうのみねみせ線(155号)から南へ一直線に約100m、何もない畑の中を走るとすぐ東にあります。
県道からこの寺を見つけた時、まるで輝く緑の海の中に浮かんでいるようで、寺域のみが別世界のように見えました。
それにしても明日香村は全域を通して緑が美しく眩しい。
「西門」
すぐ前に駐車スペースがあるので便利。
観光チケットの裏にある「境内図」
別格 佛頭山ぶっとうざん 上宮皇院じょうぐうこういん 橘寺
住所は奈良県高市郡明日香村橘たちばな532番地で、寺名も地名からのようですが、その由来は「日本書紀」によると、第11代垂仁すいにん天皇の命により田道間守たぢまもりが大陸から持ち帰ったミカンの原種である橘の実をこの地に植えたことで、この一帯の地名となったとあります。
寺紋ももちろん「橘」。あらゆるお堂の幔幕に橘紋がありました。
我が家の紋も「橘」ですが、この寺とは関係ないようです。
🍃佛頭山 伝承話
「佛頭山」という山号を持つ寺院はここ「橘寺」と、ここから南西約16キロの御所市にある「法眼院ほうげんいん 極楽寺」の2寺のようです。
これら2つの寺院の間には標高680mの「国見山」がありますが、山号である「仏頭山」という名の山は見当たりません。
どうやら「比叡山」や「成田山」などのように実在する山ではなく、この名にある特別な由来が元のようです。
金剛山の東麓で毎夜光を放つのを遥に望見せられ
<中略>
そこから仏頭(弥陀仏の頭)が発掘されました。仏頭は生身の仏様の様であったと申します。
<中略>
これこそ有縁の地と考え、仏頭山と呼び、発掘の仏頭を本尊として草庵を結び法眼院と名付けられました。
佛頭山極楽寺HP
またまた~本当ですか?
発掘されたものが”弥陀仏の頭”だったなんて、にわかに信じがたいのですが、もちろん実際の骨ではなく、人の頭のような形をした石か何かだったのでしょう。
それを不思議なご縁と取るか、ただの石ころだと見過ごすかは大きな違いであり、運命の別れ道ですね。
橘寺の宗派は天台宗ですが極楽寺は浄土宗であり、山号は同じでも全く違う寺院として今に残ります。
🍃聖徳太子7カ寺の一つ
また、上宮皇院と言うからには天皇家と関りが深いのがわかるのですが、それもそのはず、皇族の一人であった聖徳太子が建立した7カ寺の一つに挙げられています。
創建年は不詳ですが、かつてこの地には29代・欽明天皇の別邸「橘の宮」があり、その第4皇子である後の31代用明天皇を父として572年、ここで生まれたのが聖徳太子でした。
8世紀頃には四天王寺式の伽藍配置で66ものお堂が並ぶ大寺院となり、平安時代頃までは栄えていたそうですが、室町時代の戦乱に巻き込まれて以後は衰退したそうです。
今は江戸期再建の本堂(太子殿)を中心に7堂のみの寺院となっています。
本堂(太子堂)
本堂内は完全に撮影禁止!
🍃太子の愛馬・黒駒
本堂に安置されているご本尊は、室町時代に造られた太子が35歳の時のお姿である「聖徳太子座像」であり、国重要文化財です。
ふと見ると本堂前には太子の愛馬「黒駒」の像がありました。
この黒駒は体全体は黒いのですが4本の足のみが白かったそうで、他の馬より身体は大きく、より速く走る身体能力の高い馬で、普段は馬と呼ばれていましたが、空を飛ぶ時だけは「駒」と言われていました。
ここ出生地の「飛鳥」と法隆寺のある「斑鳩いかるが」をこの黒駒に乗って行き来したそうです。
☝アハ体験6
そういえば昨年秋に四天王寺の絵堂特別拝観での解説で太子が空飛ぶ馬で富士山まで行ったというシーンがありました。
黒駒という名と空を飛ぶという伝承は共通しているものの、こちらでは飛鳥から斑鳩という奈良県内の移動ですが、四天王寺では尾ひれ●●●が付いたのか関東の「富士山」となっていました💦
どちらが本当かはわかりませんが、そもそも”空飛ぶ馬”というのがメルヘンでおとぎ話なので、せめてこの地元の往復程度が妥当でしょう。いくらなんでも富士山は盛りすぎだと思う。
🍃二面石
本堂の北側に善悪2つの顔を持つ「二面石」があります。
高:1m、長:85cm、幅:52cmの花崗岩に、表裏というか左右というか対象の位置にそれぞれ善と悪の顔が彫刻がされています。
左右で人間の善悪を顔に現した石造物といわれていますが、身に起こった出来事は自身の考え方・意識ひとつで、良くも悪くも「心のもち方」であることが書かれています。
ASUKA TAIKEN
飛鳥時代の石造物ではありますが、すでに人々の人生教訓の深さを垣間見れ、当時から1400年以上も経った現在に至るまで、人々が悟る概念は不動なのだと妙に感じ入りました。
写経道場「往生院おうじょういん」
圧巻の格天井ごうてんじょう
本堂受付の方に「ぜひ見て行ってね~」と推されるまでまったく知らなかったのですが、境内の北にある「往生院」の格天井の一面に素晴らしい花の絵が描かれているらしい。
「大の字になって寝転んでみたらええから。」
と念まで押されて、俄然、興味津々になりました。
もし言われなかったら、こんな端っこのお堂まで行かなかったかもしれない。
橘寺自体は前述の通り、創建年がわからないぐらい古いのですが、寺内のほとんどの建造物は江戸時代の再建とのことです。
それでもこの「往生院」はどう見ても新しいので、確認してみると平成9年(1997)に、太子の信仰を偲び「念仏写経道場」として建立されたのだそうです。
天井一面に並ぶ花の絵の迫力に目を瞠りました。
その数なんと260点!
ラッキーなことに私たち以外に誰も訪問者はいなかったので、しばらく無意識に上を向いたまま心ゆくまで堪能したため、気付くと首が痛くなっていました。
これらは落慶当時の住職、故・髙内良正りょうしょう氏の発願により、地元の日本画家、烏頭尾精うとおせい氏に依頼し、全国の現代画家の巨匠たちによる寄進が実現したのです。
その画家たちの詳細はわからないのですが、調べてみたところ、京都出身で東京芸大卒、数々の賞を受賞した上田勝也氏をはじめ、神奈川県出身で多摩芸大卒の山下まゆみ氏らによる、まさしく全国レベルの献画が集まりました。
なぜ花の絵かは、太子の制定した「十七条憲法」第一条、
~和をもって貴しとなす~
とあるように、”平和を象徴し華やかな極楽浄土の世界観”を表すために選んだテーマが「花」だったのです。
その狙い通り、華やかすぎるぐらい華やか~✨
直径40センチの正円の麻紙に描き、格天井一枚一枚の鏡板に貼られた艶やかな花たちは、圧巻の世界を見事に作り出しています。
受付の方、よくぞ言ってくれました。
こんなにも素晴らしい美術画を鑑賞できるとは思ってもいなかっただけに、敷地の端っこのお堂まで見に来た甲斐がありました。
「聖徳殿」
【引用】
・なら旅ネット・新西国霊場・御所市極楽寺・ASUKA TAIKEN
=明日香村に遺されたものシリーズ=
①日本史の始まりの地 ②高松塚壁画館 ③キトラ古墳~「四神の館」
④石舞台古墳 ⑥日本初の本格寺院「飛鳥寺」
⑦ご本尊は最古最大の塑像「岡寺」
http://inori.nara-kankou.or.jp/inori/special-interview/kowa39/ 【「聖徳太子の「和」の心を明日香村から伝え続ける」】より 橘寺 住職/髙内 良輯 師
―橘寺と聖徳太子の関わりについてお教えください。
聖徳太子は、祖父である欽明天皇の別宮「橘の宮」で、その皇子であり後の用明天皇を父、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を母として、572年にこの地でお生まれになりました。そして太子が35歳の時、推古天皇の仰せにより「勝鬘経(しょうまんぎょう)」(※1)を講じたところ、「大きな蓮の花びらが1メートルも降り積もり、南の山に千の仏頭が現れ、光明を放ち、太子の冠から日月星の光が輝く」といった不思議なことが起きました。奇瑞(きずい)に驚かれた天皇の命で、太子は橘の宮の宮殿を改築して、寺へと建て替えます。この寺が太子建立七ヶ寺の一つとされ、太子誕生所としての橘寺の始まりと伝えられています。橘寺のご本尊様は「勝鬘経」を講讃された聖徳太子35歳のお姿です。このご本尊を祀る太子堂の横には、聖徳太子の愛馬「黒駒」の像がございます。
―2022年は生誕1450年に当たられますね。
新型コロナウイルス感染症の流行という思いがけない世の中で、昨年1400年ご遠忌を、今年ご生誕1450年を迎えました。何故このタイミングなのかと自問した時、何か意味があるのではないかと思います。私たちはコロナ禍で様々な我慢や辛抱をしてきました。けれどこれまで見えていなかったことに気づけたり、当たり前に思っていたことが実は当たり前ではなく幸せだったのだと感じることはなかったでしょうか。これから良い未来へ向かっていく為に、今、各々が今後の生き方を真剣に考えるときであるのだと思います。
―ご生誕の記念事業を進めておいでと伺いました。
はい、お太子様は如意輪観音様の化身ともいわれておりまして、如意輪観音様を祀る観音堂の修復に着手し、今春の完成を目指しています。また来る令和4年10月16日には、観音堂修復法要、秋季報恩聖徳太子会式、そして聖徳太子ご生誕1450年誕生祭の開催を予定しています。こうした機会を通して、十七条憲法の第一条である「和を以て貴しとなす」という太子の精神をお伝えし続けたいと思います。日本人の心のふるさと、日本仏教最初の地、そして、聖徳太子ご生誕の地であるここ明日香で、宗派を超え、皆様とともに祈りを捧げることができましたら望外の喜びです。
(※1)「勝鬘経」は勝鬘夫人が説き、釈迦に認められたという経典の一つ。聖徳太子はその注釈書『勝鬘経義疏』を記したとされる
https://www.bus-sagasu.com/blog/15852/ 【飛鳥を「あすか」と呼ぶ謎!その秘密を探るべく聖徳太子ゆかりの奈良・橘寺に潜入】より
奈良と大阪の飛鳥
飛鳥という地名が奈良県にあることは誰でもご存知でしょう。しかし、大阪府南東部の太子町付近にも飛鳥があることは以前にも書きました。飛鳥時代、この二つの飛鳥を結んでいたのが竹内街道です。大阪の飛鳥を「近つ飛鳥(河内飛鳥)」、奈良は「遠つ飛鳥(大和飛鳥)」と呼びました。
前回は大阪の飛鳥を中心に書きましたが、今回は奈良の飛鳥について紹介したいと思います。
飛鳥と明日香
遠つ飛鳥があるのは奈良県中部の明日香村です。飛鳥も明日香も読みは「あすか」です。なぜ同じ場所で同じ読みなのに、二種類の漢字があるのでしょう。だいたい「明日香」はともかく「飛鳥」を「あすか」とは到底読めません。
そもそも「あすか」というのは、日本に漢字が伝わる前にあった地名で、「スカ地」を意味していたというのが有力な説になっています。スカ地とは、川の流れによって出来た砂州のことで、それに接頭語の「あ」が付いて「あすか」となりました。
さらに「あすか」には「明日香」という綺麗な漢字が充てられました。今だったら、女性アイドルの芸名みたいですね。
でも、スカ地なんて日本全国にあるので「あすか」という地名は珍しくありません。そこで他の土地の「あすか」と区別するために、当時は日本の中心地だったこの地の「あすか」には「飛ぶ鳥の明日香」という枕詞が付けられました。これが「あすか」に二つの漢字が充てられた理由です。
同じような例が他にもあって、奈良県にある長谷寺をなぜ「はせでら」と読むのかといえば、近くに初瀬川(はせがわ=昔の表記は泊瀬川)が流れており、長い谷になっていたので「長谷の泊瀬」と呼ばれ、「長谷」を「はせ」と読むようになったのです。
しかし、長谷は地形だからわかるのですが、なぜ「あすか」は「飛ぶ鳥」だったのでしょう。古代史にとって長年の謎でしたが、魅力的な説が現れました。
聖徳太子の故郷から見える「飛鳥」の正体
それは、聖徳太子が生まれたとされる、明日香村の橘寺から見える景色が「飛ぶ鳥」に見える、という説です。
橘寺の近くにある、聖徳太子の誕生地を示す石碑
橘寺は丘の上にあって、見通しが良くなっています。そこから北の方を見ると、左から龍王山、三輪山、巻向山という三つの山が見えます。この三つの山が、大きな飛ぶ鳥に見えるのです。
真ん中の三輪山が頭部で、龍王山と巻向山が両翼となります。その姿は圧巻で、大きな鳥が飛んで来るような錯覚に陥ります。
今では建物が多くなったので、平地からは見えにくくなっていますが、飛鳥時代にはよく見通せたと思われます。確定的な説ではないとはいえ、これなら「あすか」に「飛鳥」という漢字が充てられた理由も納得です。
なぜ大阪の方も「飛鳥」になったのかはわかりませんが、そちらも当時は日本の中心地だったので、同じ字が充てられたのかも知れません。古代史の謎は、まだまだ続きますね。
橘寺から見た「飛鳥」。遠くに見えるのが龍王山(左)、三輪山(中)、巻向山(右)
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みなさんもぜひ、橘寺から「飛鳥」を見てみましょう。拝観料は大人350円、中高生300円、小学生150円です。アクセスは近鉄南大阪線の大阪阿部野橋駅から急行もしくは特急(特急料金必要)に乗って飛鳥駅で下車、明日香周遊バスに乗り岡橋本バス停で下車するとすぐ近くにあります。また、車の場合は無料駐車場を利用すればいいでしょう。
橘寺の正門
太子殿と呼ばれる本堂
観音堂
レンタサイクルで周ってみたい飛鳥の里
明日香村は歴史の宝庫です。橘寺以外にも史跡がたくさんあります。少し挙げるだけでも、高松塚古墳、キトラ古墳、石舞台古墳、飛鳥寺、岡寺、飛鳥京跡など、枚挙にいとまがありません。せっかく明日香村に来たのなら、これらも周ってみましょう。
とても歩いて周れる距離ではないので車か路線バスを利用すればいいのですが、駐車料金や運賃を考えると結構高く付きます。橘寺の駐車場は無料ですが、史跡によっては有料駐車場も多いのです。
そこでお勧めなのがレンタサイクルを利用することです。手頃な値段で、色々な史跡を自由に周ることができます。ただ、起伏がある場所なので、楽をしたい方はちょっと値段は高くなりますが、電動自転車をレンタルすればいいでしょう。前述した飛鳥駅や同線の橿原神宮前駅などから借りることができます。
さあ、ゆっくり流れる自然豊かな飛鳥の里の景色と、爽やかな風を感じながら自転車に乗ってみませんか?
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