http://fukuejima.la.coocan.jp/jyumoku-nado/tachibana.html 【日本の野生ミカン
タチバナ 橘 (ミカン科)】より
Citrus tachibana 準絶滅危惧(NT)…環境省レッドリスト2012 絶滅危惧IB類(EN)…長崎県レッドリスト2011 (2014.1.23:五島市雨通宿)
★分布:愛知県より西の本州、四国、九州 ★花の時期:5~6月
★花の直径:2センチ ★果実の時期:11~3月
万葉集にも多く登場するという、野生のミカンの仲間。葉は常緑で、成長すると高さ6mほどになります。愛知県以西の本州から九州にかけて見られますが、現在では自生のものは非常に少ないといわれています。五島列島では福江島に現存するほか、久賀(ひさか)島と奈留島でも見つかっています。椛島(かばしま)や上五島でも記録されているようです。
福江島では現在、雨通宿(うとじゅく)地区のNさん宅の畑脇にあるものが知られています。大小2本およびNさんが育てている幼木が数本。上の写真が一番大きなタチバナです。高さは4mほど。12月頃にはたくさんの果実をつけています。
私たちがよく食べる温州みかんによく似ていますが、直径3センチほどしかありません。非常に酸味が強く、生食には向かないとされます。
Nさんに「試しに食べてみればよかよ」と言われ、ひとつ割って口に入れてみましたが、確かに強烈な酸味でした。5~6月にかけて咲く花はやはりミカンの花に似ています。
5弁の花びらが広がり、直径2センチほどになります。芳香を放つ清楚な白花。その香りは自宅まで流れてくるよ、とNさん。
これまでの観察の結果、このタチバナは、5月下旬ぐらいが花のピークなのかなと思われます。6月に入ると、花はもう少なかったです。
つぼみもなかなかきれいです。わかりにくいですが、花びらの外側に黄色い斑点があって面白いなと思いました。
この木は植えられたものではないかと言われているようですが、かつての五島にはタチバナの自生が多く見られたようで、それがうかがえる橘という地区名もあります。
そして福江には過去、高さ10m、幹まわり2m(目通り)という日本最大と言われるタチバナの大木もあったのです。それは玉之浦町の白鳥神社の社叢林にあり、天然記念物にも指定されていたのですが、残念ながら枯れてしまったそうです(確か1950年代)。
五島でも今は数えるほどになってしまったらしいタチバナ。全国の自生地の大半(都道府県)ではレベルの高い絶滅危惧種となっています。国の最新レッドリスト(2012版)では準絶滅危惧(NT)、長﨑県(2011年)では絶滅危惧Ⅱ類(EN)という扱いです。
福江島でも、どこかにまだ自生のものがあるとよいですね…。
https://www.toba.or.jp/tachibana/tashibana.about.htm 【鳥羽商工会議所 非時香果 やまとたちばな】より
鳥羽市の木、やまとたちばなとは?
倭橘(やまとたちばな、学名:シトラスタチバナ citrus tachibana)は、通称橘と呼ばれるミカン科の植物です。ミカンの仲間のことを柑橘と呼びますが、この柑橘には橘の字が当てられています。
花はミカンと同じ5弁の白い花びらで、香りはネロリ(オレンジの花から採れる精油)に似ていますがより清楚な雰囲気の芳香です。果実は扁平でミカンよりもやや黄色い感じで3~4センチほどの大きさです。葉の香りも大変すばらしく、ちょっと揉んで嗅ぎますと幸せな気分になることでしょう。
さまざまな柑橘のなかで、『やまとたちばな』(citrus tachibana)と沖縄のシークァーシーだけが日本原産の柑橘種であることが、農水省果樹試験場カンキツ部遺伝資源研究室(静岡県清水市)の研究者らの研究結果から明らかになりました。
鳥羽市答志島の桃取地区には県の天然記念物に指定されたものがあります。
このように橘は野生では国内唯一の柑橘類ですが、全国的に姿を消しつつあり、環境省のレッドデータブックで絶滅危種に指定されています。
昭和44年11月1日、鳥羽市の木に制定されました。
答志島のやまとたちばな やまとたちばなの実 やまとたちばなの花
神話に登場する永遠に香る木
橘は、古来より大和の国日本において大切にされてきた聖木で、『日本書紀』や『古事記』、『万葉集』では、「非時香果( ときじくのかぐのこのみ)」つまり、永遠に香っている果実と表現されていました。
『日本書紀』によると垂仁天皇の勅命により、田道間守(たじまもり)が、常世の国(とこよのくに:エデンの園のような楽園)から永遠に香る果実=橘を持ち帰ったと記されています。
古代のフルーツはデザートつまりお菓子の感覚であったからか、田道間守はお菓子の神様として祀られるようになりました。
お雛様の木
お雛様の雛壇には、向かって左に橘、右に桜が置かれています。もともと雛人形は、天皇・皇后様のお姿に似せてつくられたものだと言われております。
京都御所の紫宸殿の前庭にある右近の橘、左近の桜がありますが、これを真似たものでありましょう。
女神の象徴としての橘
やはり『日本書紀』や『古事記』で、日本武尊(やまとたけるのみこと)の蝦夷地東征のおり、相模から上総に渡ろうとして暴風が起こり、その海神の怒りを鎮めるために弟橘媛が入水した話はよく知られております。ですから弟橘媛をお祀りした神社は、現在でも海の近くに多くあります。橘もそうしたことからか海辺に多く自生しております。
facebook斉藤 一治さん投稿記事
今、橘と謂うは是なり(垂仁記)
九十年の春二月の庚子の朔に、天皇、田道間守に命せて、常世国に遣して、非時の香菓を求めしむ。
香菓 此には箇倶能未と云ふ。今、橘と謂ふは是なり。(垂仁紀九十年二月)
晩年の即位90年、天皇は田道間守を常世国へ遣わして非時香菓を探させた。
常世国にたどり着いた田道間守は、非時香菓が沢山成っているのを見つけた。そこで実を持ち帰ったのだが既に天皇は亡くなっていた。帰れるとは思えないほどの困難な旅を成し遂げたはずの田道間守は、しかし天皇の元に実を持ち帰ると言う目的を果たせなかった。悲観した田道間守は陵のそばで自殺した。この実は今の橘であると『日本書紀』に書かれている。
☆
源氏・平氏・藤原氏・橘氏――権勢を誇ったこの四名族をさして「源平藤橘」という。
そのうちの橘氏は、たった一人の女性の県犬養橘三千代から始まった。門地によらず自分の実力で這い上がり、ついには「大夫人(天子の生母)」と崇められる頂点にまで達した女傑である。
県犬養氏は屯倉を守護する伴造氏族のひとつで、壬申の乱では県犬養大侶が大海人皇子(天武天皇)に近侍し、天武天皇13年(684年)に宿禰姓を賜った中堅氏族。
三千代の出仕時期は不明であるが、天武8年(679年)には氏女の制により豪族女性の出仕年齢が15歳前後に定められ、三千代も同年に命婦として宮中に仕えたと考えられている。
和銅元年(708年)11月には即位直後の元明天皇から橘宿禰姓を賜っており、また養老5年(721年)5月には元明太上天皇の病平癒を祈念して仏門に入っていることから、天智天皇の娘で草壁皇子の妻となった阿閉皇女(元明天皇)に出仕した可能性が考えられている。
はじめ敏達天皇系皇親である美努王に嫁し、葛城王(後の橘諸兄)をはじめ、佐為王(後の橘佐為)・牟漏女王を生む。
天武天皇13年(684年)に第一子葛城王を出生しているが、軽皇子(後の文武天皇)は天武天皇12年に出生しており、元明天皇と三千代の主従関係から、三千代は軽皇子の乳母を務めていたと考えられている。
美努王とは離別し、藤原不比等の後妻となり、光明子・多比能を生んだ。
不比等は持統天皇3年(689年)段階で直広肆・判事の職にあった少壮官僚で、持統天皇10年(696年)には高市皇子の死去に伴い不比等は政権中枢に参画した。
文武天皇元年(697年)8月には、不比等の娘宮子が即位直後の文武天皇夫人となり、藤原朝臣姓が不比等とその子孫に限定され藤原氏=不比等家が成立する。
こうした文武天皇即位に伴う不比等の栄達の背景には、阿閉皇女の信頼を受けた三千代の存在があったと考えられている。
阿閉皇女は即位し元明天皇となり、翌和銅元年11月には大嘗祭が行われた。
元明即位に伴い不比等は右大臣に任じられている。
葛城王の上奏文によれば、癸未(25日)の御宴において三千代は、元明から天武天皇の代から仕えていることを称されて杯に浮かぶ橘とともに橘宿禰の姓を賜り、橘氏の実質上の祖となった。
橘三千代は、元明の即位後は宮人筆頭として不比等とともに朝廷において影響力を強めたと考えられている。
橘三千代は養老元年(717年)に従三位に引き上げられており、これが正史における三千代の初見となっている。
霊亀元年(715年)時点で従四位・尚侍の任にあったと考えられている。
翌霊亀2年(716年)には娘の安宿が皇太子首(聖武天皇)のキサキとなり(光明皇后、同時期には県犬養唐の娘広刀自も首のキサキとなっており、橘三千代の推挙と考えられている。
養老4年(720年)には夫の不比等が死去した。
橘三千代は、翌養老5年には正三位に叙せられ、宮人としての最高位に叙せられている。
同じ年元明天皇の危篤に際し出家。733年(天平5年)1月11日に薨去。
死後の同年12月28日に従一位、760年(天平宝字4年)8月7日に正一位と大夫人の称号を贈られた。
日本最初のキャリアウーマンと言える。
☆
写真書籍の筆者の記述を要約する。
田道間守が持ち帰った「非時の香菓」は、天皇家に伝わる「奥義書」であることを暗喩している。
最終的に持統天皇の手元にあつた「奥義書」を橘三千代が熟読して、実千代の政治的霊感がスパークした。
橘三千代は、柿本人麻呂に、奥義書を元に「古事記」を書かせたが、人麻呂は書いているうちに、宮廷詩人としての魂が、三千代の意図から離れていった。
元明天皇は、自分が持っている「奥義書」を、藤原不比等や橘三千代が必ず改竄すると考えた。
あの「奥義書」は、裏から読めば、そのまま権謀術数の指南書になるから…
だがもう、田道間守が持ち帰った「非時の香菓」は、もともと日本にある「ただの橘に過ぎないのだ」。
「今、橘と謂うは是なり」を書き加えたのは橘三千代と言える。
橘三千代は、母なる大地のごとく無邪氣な包容性と、当時の女性随一の学問教養とが、凡人が想像できないような、ラジカルな思い付きを次々に可能とした。
橘三千代は、周囲の敬愛を一身にあつめ博愛を与え尽くして貫いた生涯だった。
橘三千代が遺した遺品の多くは、聖徳太子に最もゆかりが深い法隆寺に贈られている。
その幻の「奥義書」が封じ込められている「契約の箱」は、箱根の真ん中の、ネボ山ならぬ神山の麓に隠されているらしい。
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