橘氏

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橘氏は隠れた名族?その歴史・子孫を詳しく解説!

日本史の勉強をする中で、源氏・平氏・藤原氏は歴史上の人物も多いため、馴染みがある方がほとんどだと思いますが、「橘(たちばな)」という氏をご存知でしょうか。歴史に詳しい方は、橘諸兄、橘逸勢、橘広相の名前くらいは聞いたことがあるかもしれませんが、多くは知らない方がほとんどだと思います。

橘氏は藤原氏に排斥され続けた影響もあり、歴史の影に隠れてしまいスポットライトがあたってこなかった氏ですが、実は長い歴史を持ち、興味深いエピソードも数多く残されている「隠れた名族」といえます。本記事では、そんな橘氏の歴史・子孫について解説します。

1 橘氏とは

橘氏(たちばなうじ)は、敏達天皇の後裔である美努王(みぬおう)の子・葛城王(かつらぎおう)・佐為王(さいおう)の兄弟が臣籍に降り、橘宿禰(たちばなのすくね)の姓を賜わって橘諸兄・佐為と名乗ったことにはじまる氏です。そのため、橘氏のルーツは敏達天皇(在位572-585年)ということになります。

1.1 源平藤橘の「橘(きつ)」

源平藤橘(げんぺいとうきつ)といわれる、代表的な氏(うじ)の頭文字を並べた呼称がありますが、このうちの「橘(きつ)」にあたるのが橘氏です。橘氏は源氏・平氏・藤原氏ほど子孫が繁栄しませんでしたが、これから解説するような賜姓に関する美しいエピソードがあり、“女帝から女官に”賜姓されたという点に特徴があります。

2 橘氏の歴史

橘氏系図

2.1 橘の由来は杯に浮かんだ橘

第43代天皇である元明天皇は、即位を祝う宴で、天武朝以後の宮廷に歴仕した忠誠を嘉して、杯(さかずき)に浮かぶ橘をみて、次のようにいいます。

橘は果実の王なり。その枝は霜雪を恐れずして繁茂し、葉は寒暑をしのぎてしもばず。しかも光は珠玉と争い色は金銀と交わりて益々美し。ゆえに橘を氏とせよ。

このようにして、元明天皇は三千代に橘宿禰(たちばなのすくね)の氏姓を与えたといわれています。宿禰(すくね)とは当時の氏姓制度「八色の姓」で朝臣(あそん)に次ぐ上から3番目の位にあたります。これが橘氏の由来です。

橘は日本書紀の神話に「非時香菓 (トキジクノカクノミ)」という名前で登場する、由緒ある柑橘系の木です。葉が一年中緑であることから、すぐに散る桜とは対照的に「永遠性・永続性」の象徴と考えられていました。

京都御苑 紫宸殿 右近の橘

非時香菓とは「時を定めずいつも黄金に輝く木の実」という意味で、神話上は第11代垂仁天皇が田道間守(たじまもり)に命じて海の向こうの遠い国である常世国(とこのよのくに)から採ってこさせる説話で登場します。それで田道間守(たじまもり)が採ってきた「田道間花(たじまばな)」が「タチバナ」につまって「橘(たちばな)」と呼ばれるようになったといわれています。上の写真のように、橘は天皇家ゆかりの木として京都御所の紫宸殿の階下に左近の桜と合わせて「右近の橘」として今でも植え付けられているので、ご存知の方も多いのではないでしょうか。

つまりのところ、女帝・元明天皇は美しく聡明だった三千代のことを「いつも黄金に輝く橘の実」に例えるほど、気に入り、評価していたということになります。このようにして「橘」の氏を賜った県犬養三千代は、橘三千代(たちばなのみちよ)とも呼ばれるようになったのです。

2.2 橘を賜った県犬養三千代(720年頃)

この橘三千代(?-733)とはどのような人物だったのでしょうか。橘氏の始祖は厳密には橘諸兄(たちばなのもろえ)になりますが、上のエピソードにもみえるように、はじめて「橘」を賜った三千代は実質的な始祖といえる人物で、橘氏の歴史はこの三千代からはじまることになります。

三千代は朝廷の倉庫を管理・警護する氏族であった県犬養家の家に生まれましたが、早くから学問・才能を発揮し、朝廷内で勢力を持つようになります。はじめ敏達天皇の玄孫にあたる美努王に嫁ぎ、葛城王(橘諸兄)・佐為王(橘佐為)・牟漏女王(藤原房前の妻)を生みました。

藤原不比等を支えた「賢女」

その後に離別し、藤原不比等に嫁ぎ、大宝元年(701)には安宿媛(のちの光明皇后)を生みました。「藤原朝臣(ふじわらのあそん)」の姓を賜った藤原不比等の昇進にも内助の功があったとされ、その功績も含めて自身の「橘宿禰(たちばなのすくね)」の賜姓にもつながったと見られています。

また娘の安宿媛の立后にも尽力し、息子である葛城王(橘諸兄)の出世にも尽力、また『万葉集』にも歌が収録される歌人でもあり「賢女」といわれました。古代日本で藤原氏と橘氏繁栄の基礎を作った人物といえます。

実は一代限りだった橘の姓

当時の律令制では男性の姓は引き継がれても、女性の姓は子供たちには引き継がれないという原則があったため、この橘三千代が賜った「橘氏」は実は一代限りの姓でした。そこで「橘氏」を引き継ぐことになるのが三千代の息子である葛城王(かつらぎおう)と佐為王(さいおう)の兄弟です。

2.3 橘氏の始祖・橘諸兄(740年頃)

橘氏の始祖・橘諸兄

橘三千代の子・葛城王(橘諸兄・たちばなのもろえ・684-757)は敏達天皇の玄孫である美努王を父に持つため天皇と5代も離れていました。母・橘三千代の後ろ盾はあったものの、当時は天皇との血縁の近さで出世が決まる時代だったため、5代も離れると朝廷に高い役職を得ることが難しくなる、という時代背景がありました。そのため弟である佐為王とともに、皇族から独立し臣籍となる(臣籍降下する)決意を固めます。

母が亡くなり3年が経った天平8年(736)に、天皇に母の三千代が賜わった「橘宿禰」を賜わることを願って許され、葛城王を改め橘諸兄となります。その後、当時の政権を掌握していた藤原四兄弟が疫病によって相次いで亡くなったことも追い風となり、出世を重ねて実質的な政権のトップである従一位・左大臣にまで任じられ、このときに橘氏の全盛期を迎えました。

和歌もたしなむ教養の持ち主

諸兄は歌人・大伴家持(おおとものやかもち)とも親交が深く、母親・三千代ゆずりの教養豊かな人物でした。日本に現存する最古の和歌集である『万葉集』の選者の一人ではないかといわれるほどで、実際に万葉集に諸兄の晩年の和歌が収録されています。

降る雪の 白髪(しろかみ)までに大君に 仕へまつれば貴くもあるか

これを現代訳にすると「雪のように自分の髪が白くなるまで、天皇陛下に奉公できたことを思うと、とてもありがたい気持ちになります。」という意味です。皇族として育ち臣籍に下りながらも、朝廷内で長い間政治を担当してきた橘諸兄が63歳の頃(746年)に歌った歌といわれており、当時の充実した様子が浮かんできます。

藤原仲麻呂の台頭・橘政権の衰退(750年頃)

この橘諸兄と朝廷内で争っていたのが藤原南家の仲麻呂(なかまろ)でした。藤原武智麻呂を父に持つ優れた政治家であり、野心家でもある仲麻呂の政治力は次第に諸兄を圧倒しつつありました。諸兄は天平勝宝元年(749)に正一位に昇叙され、翌年には宿禰より高位の朝臣(あそん)の姓を賜わりましたが、その頃の政治の実権は仲麻呂の手に移りつつありました。そうした中、全盛期を過ぎた橘諸兄は天平宝字元年(757)に74歳で亡くなりました。諸兄亡き後は藤原氏の強烈な巻き返しに遭うことになり、そこで起こったのが「橘奈良麻呂の乱」です。

橘奈良麻呂の乱(757年)

橘諸兄が亡くなってからほどなく、諸兄の長男である奈良麻呂(ならまろ・721-757)は不満を持つ者たちを集めて藤原仲麻呂に反抗し、クーデターを計画しました。しかし、密告によって企ては未遂に終わり、奈良麻呂はその後の拷問によって獄中で亡くなったといわれています。この事件を経て藤原氏との権力争いに負けた形になり、橘氏は一気に勢いを失ってしまいました。一時世を謳歌した橘氏は、苦難の時代を迎えることになります。

2.4 嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(810年頃)

嵯峨天皇皇后・橘嘉智子

橘奈良麻呂の乱によって勢いを失った橘氏でしたが、奈良麻呂の孫娘・橘嘉智子(かちこ・786-850)は才媛と評され、嵯峨天皇の皇后となり仁明天皇、正子内親王を生み、橘氏がもう一度盛り返すきっかけを作りました。

橘嘉智子の功績

京都嵯峨に檀林寺を創建

橘氏の私学として大学寮別曹「学館院」を設立

橘氏の氏神である梅宮大社を遷祀

嘉智子は嵯峨天皇の皇后として檀林寺(だんりんじ)を創建したことにより、「檀林皇后」とも呼ばれました。上の功績のうち、現在も残っているのは梅宮大社(上の写真)だけですが、当時は弟である橘氏公(うじきみ)の出世にも尽力したとされています。この時期には他にも三筆の一人にも数えられる書家・政治家でもある橘逸勢(はやなり)なども出て、当時の橘氏の中興に大きく貢献しました。

しかし嵯峨天皇(上皇)が亡くなってすぐ、藤原氏による他氏排斥事件といわれている「承和の変(842年)」が起こります。橘逸勢が首謀者とみなされてしまい伊豆国へ流される途中で死没。これを機に藤原氏が台頭し、橘氏が急速に衰えるきっかけとなります。その後に、文章博士・橘広相(ひろみ)が登場します。

2.5 橘広相と阿衡事件(887年)

文章博士・橘広相

橘広相(ひろみ・837-890)は早熟の秀才といわれ、当時有名な学者だった菅原是善(道真の父)に師事して文章生となり、蔵人をへて文章博士(もんじょうはかせ)に任命されました。文章博士とは、今でいうところの漢文と歴史の国立大学教授(学者)のような役職で、皇太子の家庭教師や、天皇に命じられて文章の作成に関わることもある立場です。

非常に有能であったことで知られ、今でも学問の神様・天神様として有名な菅原道真(すがわらのみちざね)とともに文章博士を務めていた時期もある立派な学者でしたが、仁和3年(887)に第59代宇多天皇が即位したとき「阿衡(あこう)事件」が起きました。

阿衡事件とは

阿衡事件は宇多天皇が藤原基経を関白に任じようとしたとき、勅答を起草した広相が「藤原基経を阿衡(あこう)に任ずる」と記したことが事の発端となって起こった事件です。阿衡とは位のみで職掌がない官位のことだったため、これを知って基経は激怒して大問題となりました。剛直な気性だった広相は基経を阿衡に任じることによって藤原氏の専横に歯止めをかけようとしたのではないかといわれています。

宇多天皇と菅原道真は必死に広相をかばった結果、罪には問われませんでしたが、当時藤原基経の大きな力に逆らえる者はなく、結局職を辞して朝廷を去らざるを得なくなりました。そして事件の1年後、54歳で亡くなりました。

2.6 そして政治の表舞台から消えた…

こうしてみると、橘氏は朝廷での藤原氏との権力争いには決して強いとはいえませんでしたが、優秀な学者や著名な歌人を輩出しながら栄枯盛衰を繰り返してきたことがわかります。

その後も橘氏は、橘広相の孫にあたる橘好古(よしふる・893-972)が大納言に任命されたり、能因(のういん)と呼ばれた歌人・橘永愷(ながやす)のような人物、さらには小式部内侍(こしきぶのないし)等の女流歌人を輩出しました。しかし肝心の中央政界(朝廷)では地下家といわれるような下級官人にとどまることが増え、次第に政治の表舞台から消えていきました。一族の多くは地方官職となって地方へ下っていくことになり、そしてその地方に下った橘氏から武士になるものが表れるようになります。

3 武士になった橘氏(900年以降)

平安時代後期になると、院政により公家の力が衰えるとともに、地方に下った国司達が武士になり台頭してくるようになります。この時代の武士というと源氏・平氏が有名ですが、その中には橘氏をルーツと自称する武士も多くいました。

3.1 武家橘氏の元祖・橘遠保(940年頃)

武家橘氏の元祖・橘遠保

橘遠保(とおやす)は、元々伊予の豪族越智氏の先祖である越智実遠が橘の姓を賜ったと自称する「伊予橘氏(いよたちばなし)」の一人です。遠保は平将門の乱の防戦で活躍し、さらに藤原純友の乱(939年)の際に橘遠保は警固使として伊予国に派遣され、そのリーダー格の藤原純友を捕らえて一躍有名になりました。

この功績から遠江国(静岡県西部)の国司に任命され、伊予国(愛媛県)宇和郡の所領を与えられました。その越智氏の支流ともいえる高市氏・矢野氏・三木氏も橘氏を称していました。

橘遠保は源氏や平氏の影に隠れてしまい歴史上有名とはいえませんが、この遠保の子孫を称する武将がとても多かったことも事実です。承平天慶の乱での武功が知られていることや、以下に紹介するような楠木正成を後裔とする文献も存在していることから、武家橘氏の歴史を語る上では重要人物だといえます。

国立国会図書館のページ日本百将伝一夕話[橘遠保]

3.2 源平合戦で活躍した橘公業(1200年頃)

橘公業(きみなり)は平安時代末期の源平合戦や鎌倉時代初期に活躍した武将で、弓の名手として有名でした。その出自は先に紹介した伊予橘氏とも橘好古の流れともいわれます。源平合戦では父(橘公長)とともに源氏方につき、鎌倉幕府樹立後は奥州藤原氏の征伐で活躍し、秋田小鹿島(秋田県男鹿半島)の地頭に任じられて小鹿島氏の始祖となります。

その後、新しく与えられた領地である肥前国(佐賀県)に移りました。子孫は繁栄し、渋江・牛島・中村・中橋氏らを輩出しています。

3.3 軍神と崇められた楠木正成(1330年頃)

七生滅賊の軍神・楠木正成

南北朝時代の武将である楠木正成は、中世の系図集『尊卑分脈』によると橘好古の子孫とされていますが、出自についてはこれまで様々な説が唱えられていて、その真偽は定かではありません。とはいえ、楠木正成が橘氏を称していたということは歴史的な事実であり、以下の『橘氏系図』でも後裔と記されています。

国立国会図書館のページ群書類従 第85-86[橘氏系図]

楠木正成は後醍醐天皇に仕え、日本史上最高の軍事的天才と評価され、(戦に勝ち目がないとわかった後も)最後まで天皇に忠義を尽くしたことでも知られています。幕末になると、正成の「七度生まれ変わってでも、朝敵を滅ぼす」という意味である「七生滅賊(しちちょうめつぞく)」という言葉とともに、その生き様が伝説として語り継がれました。

明治初期には「大楠公(だいなんこう)」として神格化され、湊川神社(兵庫県神戸市中央区)が創建されるなど、維新の志士達から崇められる存在となりました。さらに、昭和の戦時中になると「七生滅賊」が“七度生まれ変わってでも、国に報いる”ことを意味する「七生報国(しちしょうほうこく)」という言葉に置き換わり、当時の尊皇思想にも大きな影響を与えました。このように、楠木正成は後世に担ぎ上げられて伝説化された部分が大きいですが、(自称も含めた)橘氏では一番の有名人といってもよい存在です。

楠木氏は足利尊氏に討たれ、室町幕府成立後は朝敵とされながらも名誉を回復し、その後から分かれた楠瀬・大饗・木俣氏などの支流を出し、楠木氏については後裔を称する家が数家存在しています。さらに楠木氏をルーツとする(称する)人達が集まる「楠木同族会」という同族団体は現在も存続しています。

4 橘氏の系図・名字・家紋

橘氏系図

4.1 橘氏の名字一覧

橘・立花・三木・斉田・吉川・若林・和田・楠木・甲斐庄・会田・長谷川・紅林・山田・野尻・松井・浅井・黒田・今大路・曲直瀬・岡本・福富・大平・牧・井関・山中・山脇・岩室・楠・松村・小南・花田・田中・中井・巨勢・小野・石黒・數原・平井・薬師寺・松倉・袖岡・栗崎・稲野・山中・山崎・佐合・上田・尾崎・土田・竹内・守山・長尾・杉浦・岩下・辻・米野・江坂・水野・猪狩・高橋・本山・早瀬・藤崎・渋江・小野

橘氏ゆかりの名字を江戸幕府が編纂した系図集『寛政重修諸家譜』をベースにすると上のとおりです。橘氏は源氏・平氏・藤原氏に比べて子孫が繁栄しなかったため、そもそも家号(名字)の必要性にも乏しかったという事情もあります。上に掲げた名字も主に地方豪族の家伝が由来となっているため、信憑性には疑義が残ります。先祖調査を行う上で、名字に関する情報は一つの点でしかありませんし、同じ名字でも様々な流れが存在します。そのため、名字だけでルーツを判断するようなことはせず、あくまで一つのヒントとして考えるようにして下さい。

4.2 代表家紋は有名な橘紋

源平藤橘の中では目立たなかった存在である橘氏ですが、その代表家紋である橘紋は10大家紋の1つとされ、全国的に広がりました。橘氏の子孫は後世さまざまな名字を名乗った一方で、橘を家紋として使うことで出自を示しているケースが多いといわれています。

そのため、自分の家紋が橘が含まれる紋である場合は、橘氏と何かしらのゆかりがないか深く調べてみる必要があるといえます。ただ、橘紋は橘氏以外でも使用されることもあるため、家紋以外の情報も集めて総合的に分析を行う必要があります。

5 橘氏の子孫は現代にもいる!?

このように、橘氏ははっきりとした記録や伝承が少なく、系図も疑義が残る点が多いため、ある種ミステリアスな存在となっています。藤原氏のような嫡流は残っておらず、代々橘氏の氏長者だった薄家も絶家したため、残念ながら資料が少ないのです。源平藤橘の中で橘氏の子孫が最も少ないことは確実ですが、この国のどこかで今でも系譜を伝えているはずなのです。さらに、見逃せない魅力も多く持ちあわせています。

橘氏のすごいところ5つ

藤原氏に次ぐ長い歴史

女帝から女官に姓を賜った特徴

杯に浮かぶ橘の美しいエピソード

橘氏を称し、神格化された楠木正成

橘紋の美しさとその広がり

などを考えると、橘氏のブランド力は失われておらず、源氏・平氏・藤原氏にも劣らないようにも思えてくるものです。

私達が先祖調査を行う上でも、橘氏にハッキリとしたゆかりが見つかる方は少ないです。ただし、橘紋を使っていたり、名字が「橘」またはその支流の名字だったりすると、まず橘氏にあたりをつけて調べていくようなイメージです。

武士となったと伝わる橘氏の名字・家伝がある方は、幅広く情報を集めて、自分の家との共通点を見つける作業を行うことをおすすめします。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E6%B0%8F 【橘氏】より

橘氏(たちばなうじ)は、日本の氏族のひとつ。姓(カバネ)は宿禰、のち朝臣。

飛鳥時代末期に県犬養三千代(橘三千代)および葛城王(橘諸兄)・佐為王(橘佐為)を祖として興った皇別氏族[1]。姓の代表的なものの一つとして源氏・平氏・藤原氏とともに「源平藤橘」(四姓)と総称されている[2]。

平安時代中期まで複数の議政官を輩出したが以降は振るわず、堂上家は安土桃山時代に断絶した。一部は武家となり、鎌倉幕府創設期に源頼朝の側近となった橘公長・公業親子などが著名であるほか、南北朝時代に活躍した楠木氏も本姓を橘氏と称する。

歴史

賜姓

県犬養三千代は天武朝から命婦として仕え、文武天皇の乳母を務めたともされ、後宮の実力者として皇室と深い関係にあった。三千代は初め敏達天皇の後裔であった美努王[注釈 2]の妻となり、葛城王・佐為王・牟漏女王を生んだ[4]。持統天皇8年(694年)に美努王が大宰帥として九州へ赴任すると、代わって藤原不比等の夫人となり、藤原光明子(光明皇后)らを生んだ。和銅元年(708年)11月25日、元明天皇の大嘗祭に際して、天武天皇治世期から永く仕えてきた三千代の功績が称えられ、橘の浮かんだ杯とともに「橘宿禰」の氏姓が賜与された[5][6]。三千代は天平5年(733年)に没したが、『続日本紀』には「内命婦正三位県犬養橘宿禰」と記されている[7]。

天平8年(736年)11月11日に三千代の子であった参議左大弁葛城王と従四位上佐為王が、三千代の跡目を継ぐとして橘宿禰の氏姓継承と臣籍降下を朝廷へ申請し、同月17日に許された。この際元正太上天皇と光明皇后は次の歌を贈り、「千秋万歳に相継ぎて窮ることなかれ」と告げるとともに、御酒を下した[6]。

橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝に霜ふれど いや常葉の樹

—『万葉集』巻6 1009番、[6]

葛城王は橘諸兄と改名し、佐為王は橘佐為を称した。佐為はまもなく天然痘で病死したが、諸兄は天平9年(737年)には大納言へのぼると、翌10年(738年)には右大臣へ、同15年(743年)には左大臣へ昇進し、聖武・孝謙両天皇の治世期に太政官首班として政治に当たった。聖武の時代には藤原不比等と並んで橘三千代もたびたび顕彰され、諸兄やその子の奈良麻呂、佐為の娘で聖武天皇の夫人となった古那可智などが叙位を受けた[8]。天平勝宝2年(750年)正月16日には朝臣の姓を賜り、これ以降、諸兄は「橘朝臣」を称した[1]。また佐為の子らも橘朝臣姓を称した[9]橘氏の歴史の中で最も権勢を誇ったのがこの諸兄の時期である[1]。

しかし光明皇后に親しい藤原仲麻呂が台頭すると、諸兄の権勢は陰りを見せるようになった。諸兄は聖武太上天皇に不敬の言を吐いたとして告発され、許されたものの天平勝宝8歳(756年)2月に致仕し、天平勝宝9歳(757年)正月に病没した。

橘奈良麻呂の乱

諸兄の子奈良麻呂は天平15年(743年)頃から仲麻呂および孝謙天皇の排除を目指しており、大伴古麻呂・佐伯全成・黄文王などを勧誘していた。諸兄が没した5ヶ月後の天平勝宝9歳7月、奈良麻呂の計画が密告によって発覚し、捕らえられて獄死した(橘奈良麻呂の乱)。この影響で、二ヶ月後の天平宝字元年(757年)閏8月18日に佐為の子であった古那可智・真都我・綿裳らと一族は橘朝臣姓にかえて「広岡朝臣」姓を賜姓されている[9]。

天平宝字5年(761年)正月、真都我が叙位を受けた際には「橘宿禰」と記されており、天平宝字3年7月からこの時期までに[注釈 3]に、佐為の子らは橘姓に復姓している[10]。またその後時期は不明であるが朝臣姓にも復している。真都我は後宮の女官として尚侍・従三位まで昇進し、橘氏の中央政界復帰への足掛かりを作ったとする見方もある[11]。

平安時代

奈良麻呂の子らはいずれも高位に登ることはなかったが、そのうちの橘清友の娘橘嘉智子(檀林皇后)は嵯峨天皇の妃となり、815年(弘仁6年)に皇后となると、橘氏の状況は一変した[1]。当時、皇后を輩出した臣下氏族は藤原氏のみであり、橘氏からの立后は貴族社会における橘氏の地位を上昇させた。弘仁13年(822年)に橘常主(奈良麻呂孫)が約70年ぶりの橘氏公卿となり、さらに嘉智子出生の皇子が仁明天皇として即位すると、嘉智子の兄橘氏公が外戚として目覚ましい昇進を遂げ、承和11年(844年)には右大臣に至った。一方で、嘉智子の従兄弟にあたる橘逸勢が承和の変により排斥される事件も発生したが、嘉智子が健在の時期に橘氏は総じて勢力を大きく伸長している。橘氏の子弟教育を行う大学別曹学館院は、嘉智子により設立されたものである。

9世紀半ばから10世紀後半の時期の橘氏公卿は、橘岑継(氏公長男)、橘広相(奈良麻呂の子橘島田麻呂の曾孫)、橘澄清(常主曾孫)、橘良殖(常主孫)、橘公頼(広相6男)、橘好古(広相孫)、橘恒平(良殖孫)ら7名にのぼった。その多くは参議または中納言止まりであったが、好古は大納言まで昇進した。永観元年(983年)に参議在任3日で薨去した恒平を最後として、橘氏公卿は絶えた[1]。

下流貴族へ

橘氏は受領クラスの中下流貴族であったが、藤原氏・源氏・王氏とともに、毎年正月に一族の正六位上の人物中から一人が氏長者の推薦により、従五位下に叙される「氏爵」の対象となる氏族として扱われた。しかし公卿にのぼるものが稀になった頃から、他氏の公卿が氏爵推挙を代行する是定の制度が生まれた[12]。是定の地位は橘澄清の娘の縁から九条家が行うことが通例となった[13]。学館院の管理や氏神である梅宮大社別当の任免権も是定が保持しており、橘氏長者は是定より学館院別当に補される形で就くものとなった[14]。

好古の孫にあたる則隆の子孫が氏長者を継ぐ嫡流として続き、摂関家特に九条家に随従することとなった[15][16]。

平安時代後期の橘広房の子の代で、橘氏嫡流は橘以長・橘広仲・橘以実の三系統に分かれ、以長流が橘氏長者を継承した[17]。延慶4年(1311年)に以実流の橘知尚が従三位非参議となり、橘恒平以来の公卿となったが[18]、この系統はその後公卿を出すことはなかった。

堂上家の興亡

室町時代前期の延文3年(1358年)に知尚の甥橘知任が従三位となり[19]、子の橘知繁・孫の橘知之、知之の甥橘知興の代まで代々昇殿を許される堂上家に列し、橘氏長者を称した[17]。しかし応永31年(1424年)に仙洞御所で複数の女官と公卿の密通事件が発覚し、大納言局と密通していた知興は髻を切って逐電してしまった[20]。

応永19年(1412年)8月25日に以長流嫡流の橘以基は従三位にのぼり、この系統では橘好古以来12代ぶりの公卿となった[21][22]。その後の当主も従三位非参議となり[22]、薄家の家名を称し堂上家として扱われるようになった。ただし曾孫にあたる薄以緒は唐橋在数の子であり、血統としては諸兄の直系ではなくなっている[22]。薄家は安土桃山時代においても紅粉屋公事・牛公事・長坂口黒木公事・青花公事など多数の権益を保持する家であった[23]。しかし天正13年(1585年)、羽柴秀吉は薄家の公事銭徴収を停止し、これに従わなかったとして当時の当主諸光(以継)[注釈 4]に切腹を命じた[23]。これにより薄家は絶家した。

江戸時代以降

江戸時代に入ると、元和6年(1620年)に九条家の諸大夫であった信濃小路宗増が関白・九条幸家の命令により醍醐源氏から橘氏に改姓し、信濃小路家が橘氏の嫡流とされた[24]。また、そのほかに地下家として、外記方の青山家(中務省史生)・深井家(賛者)、官方の和田家(弁侍)などが橘姓を称した。深井家は祖の定基が以継の子であるとしているが、後に源氏(家名・西尾家)・藤原氏(家名・八木家)に改姓している[25]。また国学者で歌人の橘曙覧も橘氏の後裔を称している[26]。

武家

橘氏の中には地方に土着し、武士となる者も現れた。橘遠保は承平天慶の乱で活躍し、その子孫を称する武家が多く生まれた。藤原純友の鎮圧のために大宰権帥として九州へ下向した橘公頼の子孫は、そのまま筑後に土着し、筑後橘氏を称したとされている。また、奥羽にも定着した橘氏もおり、10世紀末に活躍した橘好則や清原武則の甥で前九年の役で活躍した橘貞頼・頼貞兄弟がその代表と言える[27]。治承・寿永の乱期には橘公長・橘公業父子が活躍し、宇和郡、秋田郡を所領。のち公業は肥前の杵島郡から子孫に渋江氏、牛島氏、中村氏、中橋氏を輩出した。南北朝時代に南朝方として活躍した楠木氏は橘姓を称しており、楠木正儀は参議に登るなど、南朝の中核として活動した。織田信長・豊臣秀吉などの祐筆をつとめた楠木正虎は楠木氏の後裔を称しており、楠木氏の朝敵解除のために運動している。

江戸時代、広島藩に儒家として仕えた頼家は、小早川隆景の家臣橘正茂の後裔であり[28]、頼春水・頼山陽などの多くの学者を輩出した。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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