https://akibacho-yui.com/blog/post-120/ 【夕暮れ症候群】より
「夕暮れ症候群」は明確には定義されていないのですが、日が暮れて薄暗くなる頃に不安や混乱を感じて出現する症状です。認知機能の低下した高齢の方に見られることが多く、混乱した言動をとったり、幻覚や妄想がみられたりします。
夕暮れ症候群の原因として、日中の疲れから脳の機能が低下することや、日が暮れて薄暗くなることによる現在の時間の認識の乱れが行動や心理状態に影響を与えることにより起こります。
この「夕暮れ症候群」は認知症の方に比較的よくみられる症状です。夕方になると漠然と不安になり、落ち着きがなくなったり、いらだちや興奮が見られたりします。幻覚がみられることもあるのですが、幻覚の中でも虫や知らない人が見えたりする、幻視の症状がみられたりします。この幻視は、レビー小体型認知症に特徴的な症状です。 「夕暮れ症候群」がみられた時には、否定や注意をしてもご本人の不安を大きくするだけで解決にはなりません。誰でも、虫がたくさん見えたり、知らない人が見えたら不安になります。部屋の中を均一に明るくして影をなくす、テレビなどの音や音楽を流す、インテリアは明るい色のものとして、小さな虫などと見違えるような細かな模様のものは避けるなど、環境を整えることが大切です。
facebook玉井 昭彦さん投稿記事
(天声人語)かくれてしまえばいいのです
〈ときどきぼくは/不安でたまらなくなる(略)いまいる場所を/うろうろと回ってみずにはいられない〉。この夏に亡くなった #新川和江さん の詩です。きみに以前見せてもらった教科書にも作品が載っていたので、名前くらいは聞いたことがあるでしょうか。
新学期が始まります。学校に居場所はない、誰も自分をわかってくれない。そんな不安や苦しさで今、いっぱいかもしれません。
でも人一倍、気を使うタイプのきみは、周りを心配させないように頑張ってしまう。だから余計にしんどい。いや、間違っていたらごめんなさい。
先日、朝日小学生新聞が「かくれてしまえばいいのです」というサイトを紹介していました。生きているのがつらかったら「まずは1回、かくれてしまいましょう」。こっちへおいでよ、と優しく手招きされた気分です。
中には、しんどさをやりすごす「ゲーム自習室」や、体験談を読める「センパイ横町」などがあります。居心地のいい世界を案内するのは「むかんけいばあちゃん」。
あなたとは無関係、だから何を話しても大丈夫と心をほぐしてくれます。親にも友だちにも言えないことを相談していい。そんなネット空間です。
この前会った時は、何もあげられませんでした。だから、#まどみちおさん の詩を最後に贈ります。
〈ぼくが ここに いるとき/ほかの どんなものも/ぼくに かさなって/ここに いることは できない〉。あなたはあなた。ただそこにいるだけで、すばらしい。
朝日新聞8月29日
教えてください どこにいればいいのか 新川和江
教えてください どこにいればいいのか ときどきぼくは 不安でたまらなくなる
腰をうかして立ちあがり いまいる場所を うろうろと回ってみずにはいられない
どういうところなのだ ここは 世界のどこなのだ ここは 隣室には父母がいて
アルバムの中には 僕の幼い日の写真が貼ってあるけれど 小鳥がちょっととまっていった
小枝にすぎないのではないか 水夫が漂着した 島なのではないか ここは ここへお掛け とつよい声で言ってください 宇宙の中で 地球が 夜と昼を どもることなく歌いつづけているように 鐘が ひびきの中心に吊るされているように 古い森を叫ばせた斧が 日暮れは きこり小屋の板壁に掛けられるように きょう坐り そして明日も坐っていい ぼくの居場所をつきつけてください まだすっかりは育ちきっていない ぼくの手で さわれるように 見えるように 新川和江『詩が生まれるとき』(みすず書房、2009年)より
https://bihadasora.com/note/35243/ 【まどみちお「れんしゅう」】より
きのう、夕焼けの話をするときに本棚から取り出して朗読してみたら、ずんずん身体にしみ込んできた詩。まどみちお著「百歳日記」より
『れんしゅう』
今日も死を見送っている 生まれては立去っていく今日の死を 自転公転をつづけるこの地球上の すべての生き物が 生まれたばかりの 今日の死を毎日見送りつづけている
なぜなのだろう 「今日」の「死」という とりかえしのつかない大事がまるで
なんでもない「当たり前事」のように毎日 毎日くりかえされるのは つまりそれは
ボクらがボクらじしんの死をむかえる日に あわてふためかないようにとあの
やさしい天がそのれんしゅうをつづけて くださっているのだと気づかぬバカは
まあこのよにはいないだろうということか
https://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/b6e7deae8ce6e97f66e28f2e4dc7eae0 【大橋政人「まど・みちおの形而上詩を読んでみる」】より
大橋政人「まど・みちおの形而上詩を読んでみる」(「未来」2010年10月号)
きのう読んだ小林稔の詩は難解だった。ことばを追いきれない。「その」が何を指しているか、特定できない。そこでつまずいていると、他のことばが、それぞれのことばを突き破るようにして動いていく。動いていることはわかるが、その軌跡がはっきりしない。複雑に入り乱れ、先へ進にしたがって、それまでの「文脈」の修正を要求してくる。「その」ということばで指し示しているはずのものが、どんどん「過去」へ遡っていく--そういう感じがする。
こういう難解な詩を読むと、何か、思想とか、哲学とか、そういう高尚なものに触れたような気持ちになる。
けれど、哲学(形而上の問題?)はややこしいことばの運動の中にだけあるのではない。一見、簡単そうに見えることばのなかにもある。それは簡単そうに見えるだけで、実は簡単ではない--ということを、大橋政人「まど・みちおの形而上詩を読んでみる」は書いている。
「リンゴ」という詩を取り上げている。
リンゴを ひとつ ここに おくと リンゴの この大きさは このリンゴだけで
いっぱいだ リンゴが ひとつ ここにある ほかには なんにも ない
ああ ここで あることと ないことが まぶしいように ぴったりだ
この作品について、大橋は次のように書いている。
一つのリンゴ、その存在を「まぶしい」と感じられるまで見尽くすのである「リンゴの/この大きさは/このリンゴだけで/いっぱいだ」という杵築は、まどさんにとって、なんという深い驚きであったことだろう。
「形而上」のことがらを大橋は「深い驚き」と書いている。哲学とは深い驚きである、ということになる。
哲学は難解なことばによって語られるだけではなく、だれもが知っている「リンゴ」を題材にして、だれもが知っていることばだけでも語られる。いや、そういうことばの動きこそ、哲学というのにふさわしい、ということかもしれない。
なんといっても、ことばは共有されてことばになるのだから、毎回テキストをそばにおいてでないと語れないようなことは、まだ「哲学」にはなりきれていなことばである、ということになるかもしれない。
あることばが「深さ」をもてば、それが「思想」である、と大橋は言うかもしれない。私は、この大橋の考えに賛成である。どんなことばでも、それが「いま」「ここ」にある「深さ」と別の「深さ」をもてば、そこには「思想」が存在する、と思う。
ちょっと、話を変える。
最近、読者(山内聖一郎さん)から「思想」に関連してコメントが寄せられた。私は書かれている「内容」よりも、書き方(文体)にこそ「思想」を感じるが、山内聖一郎さんは私とは違ったふうに考えている。ひとの考えは違っているからこそおもしろいのだが、まど・みちおの詩を、「文体」から見ていくとどうなるか。そのことを書いてみたい。
まど・みちおの詩には、山内さんの考える「思想」(答え)はないかもしれない。けれど、私の考えている思想(文体)がある。
大橋が感心している「リンゴ」の2連目。私も、この連が非常に好きだ。「いっぱい」の発見も好きだが、その「いっぱい」に至る過程--文体に、「思想」を感じる。
リンゴの この大きさは このリンゴだけで いっぱいだ
「この」が繰り返されている。「この」だけではなく、この詩では、すべてが繰り返されているのだか、その繰り返しの「思想的」特徴が「この」にとてもよくあらわれている。
「この」がなくても、「意味」としては、かわらない。ひとつのリンゴの大きさはリンゴの大きさだけでいっぱいである。ほかのものを含んでいない。リンゴ以外のものを含まないまま、リンゴは「いっぱい」である。
人間は、そういう具合にはなかなかいかない。人間は、じゃなくて、「私」はと言い換えないと語弊があるかもしれない。「その人」だけで「いっぱい」の「人」もいるかもしれないけれど、そして、そういうのが「私」の「理想」でもあるけれど、私の場合は、そんな具合に「私」ができあがっていない。いろんなもの、あからさまにいえば他人の考えや他人のことばがまじっていて、とても「私でいっぱい」という具合にいかない。
でも、まあ、そういう「理想」のことを語るよりも……。
「この」がなくても、意味はかわらない。けれども、まど・みちおは「この」をつかって書いている。それは、なぜなのか。--そういうことを、私は考えるのである。
この連にあらわれる「思想」としての「この」、その「文体」について考えたことを書こう。(大橋さん、大橋さんの文章に対する感想から逸脱していくけど、許してくださいね。)
「この」とある存在を特定する。そして、その「この」を繰り返す。そのとき、「この」ということばとともに反復されるのは「もの」ではなく「思考」であると私は考える。「この」とことばにすることで、「もの」から(つまりリンゴそのものから)ことばは離れ、思考そのものを動かす。リンゴはそこにある。思考はリンゴのまわりを動きはじめる。
「この」を繰り返すとき、その「この」は同じものであって、同じではない。同じであるけれど、微妙に違う。どこが違うのか説明は難しい。あえていえば、「意識する」という精神のありようが違う。「意識する」という精神の動きによって、「もの」は「意識」になる。--あ、こんな書き方ではな、なんの説明にもならないねえ……。
「この」がないと、「この」の繰り返しがないと、
ああ ここで あることと ないことが まぶしいように ぴったりだ
へとことばが動いていかない。
「この」という意識は「あること」と「ないこと」を結びつける存在なのだ。それは「接着剤」を通り越して、完全に「融合」している。
繰り返すことは、分離することである。繰り返すためには、対象を離れなければならない。対象にくっついたままでは、動けない。
「この」(対象)と「この」(意識)は離れている。そして、離れることが「融合」につながる。繰り返しが「融合」への一歩なのである。それは「ある」と「ない」と同様、ことばにすると「矛盾」するが、その「矛盾」はさらに「融合」によって「矛盾」することで、「いま」「ここ」になかったものを見えるようにする。
何かを意識し、それを繰り返すとき、最初の何かが変質する。その変質を次の「この」が追いかけるとき、そこに、そのひとのもっている「精神」そのものが動きはじめ、「思想」を形作りはじめる。
そんなことを、私は考えた。
大橋は「未来」2010年09月号では、三好達治の「雪」を取り上げていた。
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
二郎を眠らせ、二郎の屋根に雪ふりつむ。
何か私には納得できないことを書いていたので、何が書いてあったか忘れてしまった。(申し訳ない。)その詩で私が考えたことは(感じたことは)、実は、まど・みちおの「リンゴ」の詩に感じることと同じである。
繰り返しが「思想」の文体である、「思想」は繰り返しの中から生まれる。
「雪」では「太郎」「二郎」になっているが、私はそこに書かれている「太郎」も「二郎」も知らないから、「太郎」はほんとうは「二郎」であり、「二郎」はほんとうは「太郎」かもしれないとも思う。区別はできないけれど、そこにあえて区別を持ち込むなら、最初の1行と、その1行を少しずらす形で反復(繰り返し)した2行目があるということになる。繰り返すことではじめて、そこに「太郎」と「二郎」が生まれてくるのだと考える。
最初の1行を「現実」とすると2行目は「意識」である。繰り返すことで「現実」と「意識」が分離し、そこに「現実」と「意識」が生まれてくる。
ことばは繰り返すことによって、世界は「現実」から離れ「意識」へ踏み込むのだ。そして、この「遊離体験」が、読者を誘い込む。私たちは「現実」の「太郎」「二郎」を知らない。けれど、三好が「太郎」「二郎」とだれかを呼んでいるという世界を知る。そして、そこには雪が降っているということを「現実」としてではなく、三好の意識した「意識世界」として追体験する。私たちの「意識」が三好の「意識」に重なる。「二郎」になってしまう。
実際に2軒の家があり、そこに「太郎」と「二郎」が眠っていたとしても、「太郎」のあとに「二郎」を繰り返すとき、読者は(私は)、「二郎」になってしまう。「二郎」になって、私の屋根に雪が降り積もる、そして私は眠るという世界が広がってくる。
ある存在をことばにする。そして、そのことばを繰り返すとき、私たちは「もの」ではなく、何かを語るということの不思議さ、語るときに意識が集中し動くということを知る。その動きの中にこそ「思想」がある。何を使って、どう動くか--「文体」そのものが「思想」になるのは、そういうときである。
「リンゴ」にもどる。
リンゴの この大きさは このリンゴだけで いっぱいだ
最初の「この」はまど・みちおが持ち込んだ「リンゴ」そのものを指す。ところが次の「この」は、さらにその「リンゴ」そのものを意識する意識によって成り立っている。「意識」しないことには、「この」ということばは動かない。
ひとつのものを繰り返す。繰り返すことで「集中」する。その「集中」のなかに、「思想」が動いてくるのだ。
この「集中」を、大橋は「アリ」というまど・みちおの詩に触れながら、次のように語っている。
文字通り「穴のあくほど」対象を見つめるまどさんの尋常一様でない目がある。見つめ過ぎて「いのち」と「からだ」の区別もなくなった激しい光景が出現している。
見つめること、それをことばにすることによって、「いのち」でも「体」でもないものになってしまう。その運動を大橋は「思想」(形而上)と呼んでいるのだと思う。
どんなことばにも、見えるもの(対象の描写)と、見えないもの(対象を描写する意識)がある。そして、その意識の運動は、それがどんな形で書かれようと「思想」である。好き嫌いはあっても。
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