うかがへるものをうかがふ

facebookOSHO Japanese投稿記事

愛しつづけるがいい、愛がもたらす喜びと惨めさを味わいつづけるがいい。

あなたの機を熱させ、あなたを成熟させるためには、それらすべてが必要だ。そして一方で瞑想を続けなさい。もし、この両方のプロセス、愛と瞑想が同時に続けられたら、しだいにあなたは、何であれ外で見いだすものを、はるかに良い方法で内側に見いだすことができることに

気づくようになる。そしてひとたびそれが起これば、あなたの無意識と意識が出会う。

あなたはアルダナリシュワールにーー、男と女の両方になる。こうなったら違いが、全面的な違いがある。あなたのはもう同じではない。それでもあなたは依然女性を愛することができる。が、それはもう依存ではない。それは今や分かち合いだ。 あなたは依然男性を愛することができる。が、それはただ純粋な喜びだ。それはただあふれだしているエネルギーだ。

あなたはあまりにも多く持っているので、誰かに与えずにはいられない。だが、あなたは独りでいることもできるーー。そして共にあるときと同じくらい幸せだ。 Osho


facebook一指 李承憲(イルチ イ・スンホン)さん投稿記事

体と心のトレーニングをするのは魂を清らかな状態にするためです。魂が曇ると、思考や感情に覆われ状況をありのままに見ることができなくなります。

この状態が続くと私たちの選択や判断はエゴに左右され魂の感覚は鈍くなってしまいます。

体と心のトレーニングをすることで魂の感覚を目覚めさせ周囲を明るく照らすことができるようになります。トレーニングは自分自身を目覚めさせる道でありさらには周りをも照らす道なのです。


facebookManish Kazuo Nukiiさん投稿記事 力(パワー)は瞑想がない限り危険だ。

どのような種類の力も、そこに瞑想が関与していなかったら、破壊的なものにならざるを得ない。アクトン卿の「権力(パワー)は腐敗する。絶対的な権力は腐敗の極みに至る」という有名な言明は基本的に真実だ。なぜなら権力(パワー)とはエネルギーを意味するからだ。

もしそれの正しい使い方を理解していなかったら、どこへ行くのか、何をするのか、何をしてはいけないのかをはっきりと見る視野を持っていなかったら、人はそのエネルギーで何をするのだろうか?そういったとき、権力は人にある種の酩酊をもたらす。

無意識な人間はさらにもっと無意識になり、狂った人間はさらにもっと狂った人間になる。

例えば、アドルフ・ヒトラーが権力を握っていなかったとしたら、それでも彼は狂った人間だっただろうが、世界はこれほどまでに苦しまなくても済んだだろう。

いったん彼が権力を握ってしまうと、あとに起こったことは避けがたかった。狂人が権力の座に就けば、惨事は起こらざるをえない。そして私たちはこの上もない力を持っている。

私たちがそれに気づかないのはよいことであり、それが単なる可能性でしかないのはよいことだ。

精神医学の最新の研究をしている者たちはある極めて意義深い結論に達している ―

正気でない人々の多くは、自分の手に余るほどの力を持っているがゆえに狂っている。

彼らはそれに対処できない。基本的には、彼らは悪い人ではないし、邪悪な人々でもないのだが、彼らの力は剣、子供の手に握られた抜き身の剣のようなものになる。

子供はその剣で何をするのだろう?他人を傷つけるか、自分を傷つけるかのどちらかだ。

だから力は他人に対して破壊的になるか、あるいは自殺的になる。

瞑想が<ない>場合には、可能性はこの二つしかない。だが瞑想が基盤になりさえすれば、力は創造的なものになり、それはあなたの生に限りない詩、限りない音楽、限りないダンスをもたらす。それに<あなた>だけの生ではない。それはあなたからあふれ出し、他人にまでも届き始める。自分の中に詩が生まれるとき、あなたはそれを分かち合わなければならない。

花が開けば、香りは解き放たれるしかない。人類はあまりにも多くの力を持ったがゆえに苦しんでいる。

テクノロジー、科学 ―それは人間にこの上もない力を与えたが、その人間が狂っている。

人間は自らの内に瞑想性、静けさ、安らぎを持っていない。彼らは<気づき>について、何ひとつ知らない。私たちが<瀬戸際>に立たされているのはそのためだ。

いついかなるときにでも世界は自殺的行為に踏み切ってしまうかもしれないし、地球的規模の自殺は<起こり得る>。

過去には、戦争はこれほど危険なものではなかった。それは局地的なものだった。今やそれは全面戦争になるだろう。それは人類を滅ぼしてしまうだけではない ―

すべての動物、木々、地球上のすべての生命が数時間から数分以内に蒸発してしまうかもしれない。今や人類は初めて、テクノロジーが与えてくれたものとのバランスをとるために、

瞑想をこの上もなく必要としている。人類がこれほど、サニヤシンたちを必要としたことはかつてなかった。彼らは兵士とのバランスをとらねばならない。

兵士とサニヤシンとのバランスをとり、技術家と瞑想者のバランスをとることができない限り、私たちに未来はないし、私たちに希望はない。OSHO


https://note.com/elabojp/n/n63329913f386 【【ブッダ心理学】瞑想を極めると何が見えるのか?— 無我の境地を体験した話#25】より

こんにちは、ブッダ心理学コーチの仲 恵里です。

今日は「瞑想を極めるとどうなるのか?」というテーマで、私自身のリアルな体験をお話しします。

あなたは瞑想をしていますか?「毎日やってるよ!」という人もいれば、「時々かな?」という人、「実はやったことない…」という人もいるでしょう。

でも大丈夫。このお話は、どのレベルの方にも役立つ内容です。安心して読んでくださいね。

瞑想の先に広がるのは「無我」の世界

「そもそも瞑想って、何のためにするの?」そんな疑問を持ったことはありませんか?

リラックスや集中力アップ、心を落ち着かせるためなど、目的は人それぞれです。でも、その先には「無我(むが)」という深い境地が待っています。

とはいえ、「無我って何?」と思いますよね。私も最初はそうでした。でも瞑想を深める練習をしたことで、実際に「無我」の体験をしました。

今日は、その時の体験を具体的にお伝えします。瞑想を深める時のご参考にしていただければ幸いです^_^

瞑想が深まる6つのステップ

瞑想は、いきなり深まるものではありません。6つの段階を経て、少しずつ「無我」に近づいていきます。

1. 調身(ちょうしん)— 体を整える

まずは姿勢を正して、リラックスします。

体と心はつながっています。体の力を抜くだけで、気持ちも自然と落ち着きます。肩の力を抜いて、深く息を吐いてみましょう。

「瞑想って難しそう…」と思うかもしれませんが、まずは姿勢を整えるだけでOKです。

2. 調息(ちょうそく)— 呼吸を整える

次は呼吸です。ストレスが溜まると呼吸が浅くなりますよね。そこで「ゆっくり深呼吸すること」を意識します。特別な呼吸法は必要ありません。自然な呼吸を深めるだけで十分です。

「吸って、吐いて」に集中してみましょう。

3. 調心(ちょうしん)— 心を整える

呼吸が整うと、だんだん心も静まってきます。でも、いろんな考えが浮かんでくることがありますよね。その時は「考えている自分」を第三者のように観察します。「ダメだ、考えちゃダメ!」などと思うと、捉われてしまうので逆効果です。考えが浮かんでも「そっか、今こんなことを考えてるんだな」と気づくだけでOK。雲が流れるように、思考や感情をそっと見送ります。

4. 無心(むしん)— 何も考えられない状態へ

さらに瞑想が深まると、何も考えられない「無心」の状態になります。

• 考えようとしても考えられない  • 感情も湧いてこない

この時はマインドが中道へと安定して、脳波が落ちつきます。そしてより深いリラックス状態に入ります。アルファ波を超えて、もっと深い状態に到達する感覚です。

5. 無身(むしん)— 五感が消える

さらに深まると「体の感覚=五感」すら消えていきます。「無身」という状態です。

• 目を開けていても、目の前は真っ白な光  • 車の音や鳥の声が聞こえなくなる

• 自分が座っている感覚も消える

私がこの状態に入ったとき、目の前が真っ白になり、光に包まれる感覚がありました。触覚もなくなり、自分と外部との境界線も無くなります。

「自分が光に溶け込んだ」ような感覚になります。これがスピリチュアルでよく言われている「世界と一体化する」ということです。

愛犬が私を救ってくれた話

ただ、実は、この第5段階の状態はとても危険です。

私が「無身」の状態に入った時、愛犬が慌てて私の顔をなめ、揺さぶり起こしました。「ママが死んじゃう!」と思ったのでしょう。犬が必死で私を呼び戻してくれたのです。

後で本で調べてみると、「無我」に入ったまま命を落とした修行者の話がいくつもありました。命がけで修行するレベルの話だったんですね…。

私がこうして話していられるのは、愛犬が気づいてくれ、こちらに引き戻してくれたおかげなのです。

私は瞑想で、第5レベルの「無身」の状態まで入りましたが、最終段階である「無我」に行くことはしませんでした。愛犬が「ママが死んじゃうかも」と必死に起こしているのを見て、これは危険な行為だと気づいたからです。

後で調べると、3人のうち1人しかこちらの世界に戻ってこれない、命を落とした修行者が多くいることなどがわかりました。

無我は危険?では瞑想の目的とは?

では、なぜそこまでして瞑想をするのか?それは「自我をコントロールするため」です。

• すぐにイライラする • 人と比べて落ち込む • 失敗が怖くて挑戦できない

これらは「自我」が暴れている状態です。言い換えると瞑想は「自我を鎮める訓練」なのです。心をニュートラルな状態に保つこと。今ここに集中して、自我の主張にとらわれないこと。そうやって自我をコントロールすることによって、穏やかで幸せなマインドへと進化できるのです。

まとめ:私たちに必要なのは「無我」ではなく「自我のコントロール」

瞑想を深めると「空(くう)」の世界に到達します。でも、実際に無我の状態で生きることは現実社会ではほぼ不可能です。

• 無我の状態では五感が消え、人として機能できなくなる

• 時間がかかりすぎる(私の場合、第5段階まで6時間)

• 命の危険がある

第五レベルの「無身」まで体験してみて、無我の境地を目指すことが必ずしも良いわけではないと痛感しました。では、私たちが目指すべきものは何でしょうか?

それは 「無我の追求」ではなく「自我のコントロール」 です。

〜瞑想は、メンタルをコントロールするためのトレーニング〜

私たちが現実社会で幸せに生きるためには、無我を求める必要はありません。むしろ、「自我とうまく付き合うこと」が大切なのです。

瞑想を通して、自我をコントロールし、心を中道に整える。これこそが、瞑想の本当の役割だと私は思います。

もっというと、瞑想は「無理をしないこと」が一番です。

自分のペースで、無理なく危険なく続けることが大切です(愛犬が心配しないように)

この私の体験談が、あなたの仏教や瞑想へのより深い理解へと繋がれば嬉しいです。

最後まで読んでくれてありがとうございました!日日是好日。今日も心穏やかに ^_^

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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