うかがへるものをうかがふ紫蘭かな 五島高資

facebook相田 公弘さん投稿記事「或日のつぶやき ~切り捨てる~」相田みつを

わたしは長い年月上にのびることばかり考えて来て土の中深く根を張ることを忘れていたようです ヒョロヒョロと幹ばかり高くのびて 雑然と枝葉がひろがるようになった時

幹や枝葉の重みに絶えられない 根の弱さに わたしはは初めて気がついたのです

気がついた時には手おくれでした

手おくれとわかった時 わたしは思い切って枝葉をおとすことにしました

土の中のわたしの弱い根と細い幹に支えられるだけのわずかな枝をのこしてあとは、ぱっさりと切り捨てました

それは根の弱い 幹の細い 力のない者がなんとか自分を守りながら生きて行くための

消極的な、しかもそれなりに勇気のいる生活の智慧でした とはいうものの

枝葉をおとす時 わたしはやっぱりさびしい気がしました もったいなあとおもいました

しかし おかげさまで いまでは 眼に見えない土の中で 弱かった根があらたな活動を始めたようです 枝葉を切り捨てたぶんだけ いや、それ以上かも..........

誰にも分からない根だけが知る 静かな充実かんを持ちながら.......


facebook加藤隆行さん投稿記事【何にフォーカスしてるか】

ボクたちって、普段ものすごい情報量の中で生きてます。天気予報、SNSの通知、

街中の広告、仕事の資料、隣の人の顔色、ついさっき言われた一言の余韻……

でも、全部を同時に見たり感じたりなんてできないですよね。

じゃあ、どれが「見えてる」のか?それは、ボクたちが「意識の焦点」をどこに合わせてるか、なんです。たとえばこんな経験ありませんか?

仕事でミスをしたあと。「また怒られるかも」って不安があると、上司のちょっとした咳払いが、めっちゃ怖く感じたりする。あるいは、恋人とケンカしたあとのLINE。ハートマークがないだけで「えっ、嫌われた?」って思っちゃったり。そう。「恐れ」が内側にあると、ボクたちは無意識に、“怖いもの” を探してしまう。

なんなら、ほんの小さな違和感も、全部「危険かも?」って脳がピックアップしてくる。

さらに怖いからその対象を、ギューーっと見つめる。ピントをギュッと絞って、見落とさないように、凝視する。その情報を最大限に集めようとする。

すると──それ以外のものが、どんどん見えなくなっていくんです。

文字通り「視野が狭く」なる。まるで、望遠レンズで世界を見ているような状態。

そして「あれが怖い」「これがダメ」「また失敗するかも」そんな思考がグルグルして、どんどん不安になっていく。でもね、これは、あなたがダメなんじゃない。生き残るための、脳の“防衛モード”なんです。怖いから、危険を先回りして察知しようとしてるだけ。

……とはいえ。この状態が長く続くと、本当に「怖いもの」ばかりの世界に感じられてしまうんよね。じゃあ逆に、心の中に「安心感」があると、どうなるか?

ボクがよくやるのが、近所の公園を歩くこと。春のあたたかい日に、ちょっと深呼吸して、空を見上げしばらくボーッとしてみる。すると、だんだん、心が緩んでくる。

その状態で、ふと道端を見ると──「うわ、こんなところにタンポポ咲いてる!」

「この木、 こんなに立派だったっけ?」「わー、キレイな鳥いる」って、いろんな“いいもの”が見えてくる。

誰かの笑い声、やさしい風の音、空のグラデーション。ああ、世界って、こんなに豊かだったんだなぁって思える。

そしたらさっきビクついていたはずの上司へのいろんな感謝とかも湧いてくる。(かも)

これは、「安心」してるからこそ、全体をゆったり見渡せるようになるから起こることなんです。視野がひらけると、今まで見えてなかったものが、自然と目や意識に入ってくる。

つまり──世界にはいつも「ある」。でも「見える」かどうかは、ボクたちの内側次第。

恐れの中にいると、ピントは「危険」に合う。安心の中にいると、ピントは「豊かさ」や「可能性」に合う。そして、意識の焦点って、実は“自分で選べる”んです。

そのスイッチは私に「安心」の感覚を取り戻すこと。ゆったり、じんわり、温かい。

この感覚は ”身体" で感じるもの。そして今、自分が何を感じているか。どこにピントを合わせてるか。それにちょっと気づくだけでも、世界の見え方が変わってくる。

心のピントを、ぎゅーっと絞ってない?そんなときはゆっくり深呼吸してお腹の暖かさを感じて、かみしめた奥歯をゆるめて目の奥の筋肉を少しだけ、ゆるめてみよう。

そしたら意識のフォーカスが変わって世界も、変わる。

さて、あなたの今日の「意識の焦点」、どこを向いてますか?(^ω^)


facebook相田 公弘さん投稿記事「感動することをやめた人」

茂木健一郎氏の心に響く言葉より…

「感動することをやめた人は、生きていないのと同じことである」

これは、相対性理論を発見した、20世紀最大の天才科学者と言われている

アインシュタインが残した言葉です。

人は生きていく中で、実に多くのものに出会っています。

たくさんの人たちに出会い、初めての街や風景に出会い、味わったことのない美味に出会う。

その一つ一つに感動を覚えることで、人生はキラキラと輝いてくる。

もしも目の前にある新しい出会いに気づかなかったら、

せっかくの新しい発見に感動することがなかったら、私たち人間はたちまち輝きを失ってしまう。

ただ肉体が活動しているだけで、精神は死んでしまっている。

それはもう、人間として生きていることにはならない。

アインシュタインはそう言いたかったのでしょう。

今私たちが生きているこの世界。

もっと広い言葉を使うなら、この宇宙。

その中でいろんな物事に目を向けて、新しい見方を得ていく。

それこそが「感動」であると私は思います。

そしてそのために必要なのが創造性です。

人間は創造的に生きることで、「感動」という人間にしか味わえないものを手に入れることができるのです。

私たちが「生きている」ということは、すなわち何かを創造し続けていることなのです。

何もそれは芸術的なことでなくてもかまわない。

大そうなものを創造することではない。

日々の暮らしの中で私たちは何かを生み出し、そして変化し続けている。

だからこそ、人生は刺激に満ち満ちている。

アインシュタインが言うように、創造的であること、いろんなものに感動しながら

常に新鮮な気持で生きていくということは、実は「生きること」そのものであるのです。

◇『感動する脳』PHP文庫

人は、ワクワクドキドキする心や好奇心を失ったとき、子ども心を失い、感動しなくなる。

子どもは、感動する名人だ。

大人は、理性や知性ばかりを磨き続けることにより、感動という、感性が鈍くなる。

感動とは、理屈や知識ではなく、感じて動くものだからだ。

「人間の衰退は感性の磨耗(まもう)から始まる。感動なき民族は滅びる」

とは、行徳哲男師の言葉だ。

毎日の日常の中で、どんな些細なことでもいい、小さな発見や、創造や、工夫がある人は、

老いることがない。

たとえ毎日見慣れた物であっても、新たな見方をすることで、まったく新しい何かが見えることがある。

それも一つの創造だ。

いくつになっても、新鮮な気持で、何かに感動できる人でありたい。

※【人の心に灯をともす】メルマガより

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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