Facebook内海 聡さん陶呼応記事
私はかなり前ですが西洋医学に失望し、漢方や鍼灸の勉強をしていたことがあります。
したがって東洋医学も全否定はしませんが、最近の診療手法はかなり狂っています。
たとえばそもそもの東洋医学は、食や気功、精神性や姿勢が重要な要素を占めていましたが、今は漢方薬をいかに売るかや、やいかに鍼灸に通ってもらうか、が主眼のようになってきています。
「漢方薬は体質を変えてくれるから、飲み続けなさい」などと言って売っている傾向があるようですが、漢方で体質なんて変わりません。
本来は漢方薬も鍼灸も病気になった時だけに施した対症療法です。
有名な韓国ドラマ「チャングムの誓い」をご覧になった方は、思い返してみてください。
皇帝でさえ、毎日漢方薬を煎じて飲むようなバカな真似はしません。
病気になった時にだけ、鍼灸と併せて一時的に利用していただけです。
やはり、皇帝の健康を管理していたのは、食官(食を司る官位)だったのです。
そしてこれはあらゆる古典医学では共通のことなのです。
現代西洋医学は戦場医学から始まったアロパシー医学=対症療法ですが、対症療法だから間違っているわけではありません。
心筋梗塞になったり重症感染したり吐血したり車にはねられたら、対症療法は効果を発揮します。
問題は慢性的な病気=現代的な病気です。
たとえば癌、膠原病、アレルギー、難病、精神病、遺伝病などは、対症療法では治らないばかりか、続けるとより悪化してしまいます。
所詮ホメだろうがフラワーレメウィだろうがサプリだろうが水素水だろうが、漢方や鍼灸と同じ対症療法に過ぎません。
最も重要なのは基礎的な日々の食事と精神であって、自然治癒力を上げる未病を防ぐことが最も重要です。
未病とは病毒を取り去れば百病発する時なし、これ未だ病ざるを治すという考え方で、いわば悪しき病根が発症する前に排除しておけば病まないということです。
対症療法という考えはあらゆる人々に広がっていますが、視点を変えると社会でも対症療法しかしておらず、世の中のために活動しているという人々もまた、対症療法の権化です。
わかったふりをしても「目先よければ、すべて良し」にとらわれ、「とりあえず痛みをやわらげて」「急いで咳を止めてくれ」「早く熱を下げてほしい」と、社会問題を取り扱う視点が同じです。
病気も政治も経済も皆そうですが、対症療法的手法から離脱しない限り、ずっとこのままなのです。
Facebook森井 啓二さん投稿記事
新刊「神の国 日本の食と霊性」が刷り上がってきました!
人は誰でも聖地に行くのが大好きです。時間をかけて、お金をかけて、さまざまな聖地巡りをする人は多いです。
聖地への巡礼と崇高な存在への拝礼は、やがて、自分自身へと向かうように変化していきます。
それは、本当の聖地は、自分自身のハートにあることに気づくからです。
その真の聖地へは、内的世界の探求によってアプローチ出来ます。
内的世界は、最初は洞窟のように感じられるかもしれません。自分が探求する洞窟の内部がゴミだらけだったら、たいへんだし、美しい洞窟であれば楽しいかもしれません。
食は、美しい内的世界の土台を創ります。
でも、霊性を磨く食については、誰も具体的かつ実践的な方法として示してきませんでした。
この本は、今まで出版されている食事の本や栄養の本とはかなり異なる角度から書かれています。
本書には必ず、霊性進化に役立つヒントがたくさん見つかるはずです。
食事は、肉体を持って生きている限り、これから何度も必要なものです。
是非、喜びと共に食べながら霊性を磨いていきましょう。
https://note.com/norikoakagawa/n/nc22489ecac44 【春の息吹と無常の教え】より
梅の花が咲き、鳥たちも賑やかになってきた。まもなく春がやってくるのだ。
春の訪れは、私にとって特別な意味を持つ。3月生まれの私は、春の息吹と共にこの世に生まれた。はっきりと覚えているわけではないけど、冬の寒さが和らぎ、柔らかな陽光が大地を包むこの風景が、きっと私の最初の記憶なんだろう。
冬の間、私はどこかいつも落ち込んでいた。
年が明けても気分は晴れず、頼り甲斐のあった父の背中は、いつしか小さくか弱い背中に変わり、自分もまた歳をとったことを実感した。
決して嫌じゃないけど、本当に今のままでいいのか。
具体性のない不安が、いつも頭の片隅に存在していて、そんな時だからこそ、春の訪れが待ち遠しかった。自然が目覚める春は、新しいスタートを切るための力を与えてくれると信じていたからだ。
幼い頃、父と母に手を引かれながら桜の咲く、近くの公園まで歩いた記憶がある。桜の花びらが、空一面に広がったピンク色の空は、私にとって小さな魔法のようだった。
「桜はいいね」なんて、誰もがこの季節につぶやいてしまう言葉を、父と母が微笑みながら呟いていたのをぼんやりと覚えている。その頃の私が、春の訪れがどれほど大きな意味を持つのかを知る由もなかったが、子供なりに気持ちが高鳴っていた。
その頃から何年が経っただろう。桜の花は、私にとって特別な花となった。いや、私だけではなく、きっと多くの方にとって桜は特別な花なのだと思う。
厳しい冬にも必ず終わりがあり、春が訪れ、新しい始まりが訪れることを、桜は私たちに教えてくれるのだから。
そして無常なこの世界は、美しかった桜の花が咲き誇り、その桜もいずれは散りゆく。どんなに美しい瞬間も永遠ではないということも教えてくれるのだ。
だからこそ、一瞬一瞬が貴重であり、私たちはどんな瞬間にも今を生きる意義を見出すことができるのだろう。
桜の儚さは、すべてのものが移り変わり、留まることのないこの世界で、美しさを保ちながら、私たちに人生の真理をささやく。全ての終わりは新たな始まり。
春の教えは、私たちがどのように生き、どのように愛し、どのようにまた立ち上がるかそう問いかけてくれるのだ。
https://shofukuji.net/2houwa5.html 【「東西霊性交流」体験記―「永遠」と「無常」との交わり―】より
イタリア修道院滞在
2003年の夏に、再び東西霊性交流に参加し、キリスト教修道士の方々と一ヶ月間、共に過ごしました。今回はイタリアの修道院に滞在することとなりました。
イタリアは、ローマ・カトリック教総本山のバチカン市国を抱えており、たくさんの修道院があります。臨済宗・曹洞宗を含めて七人の禅僧が参加しました。私は、北イタリアにありますプラリア修道院で共同生活をしてまいりました。そこは、常に30人を越える修道士が暮らす大きな共同体でした。
修道生活は、「祈り、働き、学ぶ」という3つの柱でなりたっており、1日6回、教会で神にお祈りを捧げます。その間に、労働・食事・聖書の勉強をいたします。
プラリア修道院では、生計を立てるために養蜂を営んでいました。蜂蜜石鹸、蜂蜜クリーム、蜂蜜シャンプーなどを作る作業が労働の中心でした。
前回のオランダ・ベルギー修道院滞在の報告では、宗派を越えて共通する真理について書かせて頂きましたので、今回は、キリスト教と日本仏教の違いについて気付いたことをご報告申し上げます。
「永遠」を理想とするキリスト教
キリスト教と仏教の教義の違いは、発生した土地の気候風土の違いによるものであるという見方があります。
キリスト教は、砂漠で生まれました。人間にとって、千里の砂漠にあっては、地上に頼るべきもの、理想とするものは何もありません。結局、天上の彼方に唯一の絶対的に価値があるものを求めて生きる以外になかったとも言えます。その絶対的な神を信じていれば、いつの日か必ず、この荒れ果てた砂漠世界ではない、どこかにある理想の世界に連れて行って下さる、そういう願いから一神教「キリスト教」が発生したと言われております。
修道院には、必ず回廊があり、その中心は庭になっています。その庭は、神がお創りになられたこの世界、「天地創造」をイメージしたものだそうです。
そこには、よく刈り揃えられた常緑樹が植えられていました。移り変わりのある花類は好ましくないそうです。ここに、常に変化しない、永遠の世界が理想とされていることが見てとれます。
キリスト教においては、この世はもちろん大事ですが、もっと大事なのは、来世での永遠のやすらぎにあります。そのために、人々は神に祈り、善根を積んでいるのです。
このように、「異次元の永遠の世界を理想とする」宗教がキリスト教であるならば、日本仏教は、「無常の現世に真実をみいだす」宗教である、ということができます。
「無常」に真実をみいだす仏教
私たちの帰依する日本仏教では、「永遠の命」、「永遠の世界」を理想としておりません。
豊かな自然に囲まれて、日本仏教は発生しました。深い山があり、澄んだ川が流れ、四季折々にその風情を変えながら、自然の恵みを与えてくれます。豊かな水、山の幸、海の幸、そこにご先祖様を感じたり、あるいは仏の声を聞くことができる恵まれた世なのです。ですから、砂漠で生まれた宗教と違い、天上の彼方に唯一の価値を求める必要はなかったのです。この世がそのまま理想であったとも言えます。
日本の自然は転変極まりなく、春夏秋冬があります。寒い冬を乗り切れば、かならず春はやってきます。その春に咲いた桜もやがて散り、暑い夏がやってくる。ひとつとして永遠なるものは存在しない。人も生まれ、そして死ぬ。今、この世において、常なるものは無し、それが真実であります。「無常」を悟っていく。来世を願うのではなく、この世において、自然の中に永遠の命、死者の魂をみいだす、それが日本仏教の特質であるといえます。山を見て亡くなった祖父を思いだし、川を見て母を思う。森羅万象すべてに「おおいなるいのち」をみてとっていく。日本の自然と先祖崇拝とは、縁が切れません。
ともあれ、今回の交流を通じて他宗教を学ぶことにより、かえって自身の宗教を見つめ直すこととなりました。
https://www.youtube.com/watch?v=4lthQdbKfr0&t=5s
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