http://fukushima-net.com/sites/meigen/493 【No. 415 【医食同源】 いしょくどうげん】より
医療と食事は本質的に根源は同じであるという意味の四字熟語です。
バランスの良い食事をすることは健康保持に必要ですし病気予防にもなるという意味でもあります。
【医食同源】の四字熟語は、お医者さんの新居裕久先生(2008年6月1日逝去)が中国の【薬食同源】という考え方を紹介するとき、「薬」では化学薬品と誤解されそうなので、「薬」を「医」に換えて【医食同源】という四字熟語を作ったそうです。
1970年代に日本で作られた、新しい四字熟語と言えます。
『広辞苑』でも1991年の第四版から収載されていました。第六版での【医食同源】の説明です。
【病気をなおすのも食事するのも、生命を養い健康を保つためで、その本質は同じだということ】
【医食同源】のもとになったと言われている、【薬食同源】という言葉が、古来からの中国の思想であると解説する人もいらっしゃるようですが、中国古典、たとえば最古の医学書と呼ばれている『黄帝内経:コウテイダイケイ』などにも見られず、【薬食同源】も比較的最近になっての造語のようです。
今日1月7日は『七草』です。
昔から日本では、「若菜摘み」という風習がありまして、これが『七草』の原点とされています。
古代中国では、1月7日を人日(ジンジツ)と言いまして、この日に七種類の野菜を入れた羹(あつもの、とろみのある汁物)すなはち【七種菜羹:シチシュサイコウ】を食べて無病を祈る習慣がありました。
【七種菜羹】は『今日の四字熟語 No.49』を一読願います。
このことから、日本の「若菜摘み」と、中国の【七種菜羹】がうまいことマッチングして「七種粥:ななくさがゆ」という習慣が生まれたようです。
春の7種の野菜が入った「七種粥:ななくさがゆ」を食べると、健康にもいいし病気予防にもなるらしいということです。すなわち、【医食同源】です。
「春の七草」は、芹(せり)・薺(なずな:ペンペン草)・御形(ごぎょう:母子草)・繁縷(はこべら:はこべ)・仏の座(ほとけのざ:田平子)・菘(すずな:かぶ)・蘿蔔(すずしろ:大根)です。
ただ1月7日は旧暦でのことです。
今年の旧暦1月7日は、2月16日(土)となります。参考までに。
Facebook玉井 昭彦さん投稿記事
「医食同源」身体が弱ってきたいま、よりひしひしと食のチカラを感じます。
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食は、いのち――自然を人を、愛すること
料理研究家・辰巳芳子さん
「明日へのLesson」は、次代を担う若者と第一線で活躍する大人が対話するシリーズ。今回のゲストは料理研究家の辰巳芳子さん (95)です。大正生まれで戦中・戦後の食糧不足を経験し、病に苦しむ人々への介護食「いのちのスープ」をはじめ、いのちと直結した食の大切さを訴えてきました。辰巳さんとの対話に臨んだのは平成世代の2人。自炊する人を増やすために料理家やライターとして活動する「自炊料理家」の山口祐加さん(28)と、幼いころから地球の生態系に興味を抱いて昆虫食を実践し、今年、昆虫を食材とするレストランを開いた篠原祐太さん(26)です。神奈川県鎌倉市の自宅に、辰巳さんを訪ねました。
素直に生きていかないと 食べ損なってしまうわよ
山口 私は料理初心者に自炊を勧めていますが、その中には一人暮らしの方も少なくありません。辰巳さんは、誰かを想って料理をするとおっしゃっています。自分自身で自分に料理を作る「自炊」ということを、どう考えていますか。
辰巳 自分のいのちを全うするための生き方は、一人暮らしでも家族と暮らしていても変わらないと思います。私も19歳のときからずっと一人暮らしですよ。でも、幸いなことに、人間って愛さずにはいられないのよ。何かを、誰かを絶対的に愛して生きていくものです。愛されることもなく、愛することもなく生きていくなんて、人間はそのようにできていません。自分のいのちに逆らうような生き方を、わざわざすることはないよ。料理も同じ。もっと素直に生きていかないと、食べ損なってしまうわよ。
篠原 僕は自分が開いているレストランにどんなお客さんが来るか分からないので、料理を提供する相手を想うのが難しいと感じる瞬間があります。辰巳さんは料理本を書かれるときに、どういうふうに読者を想っていますか。
辰巳 具体的にどういう人ってことはないですね。当たり前の人です。誰でも持つはずの、悩みとか疑問とか、そういうことを想像して書いています。
食材をよく観察するより しようがないわね
篠原 僕は、どうしても食材の力を信じ切れずに、調理しすぎてしまうことがあります。辰巳さんのように、食材の価値を引き出すコツは何でしょうか。
辰巳 やっぱり、食材そのものをよく観察することよりしようがないわね。例えば、私の本にはシイタケのステーキを書いているけれど、何も難しいことはない。自然に(原木で)作ったシイタケを、あんまり水を飲まさないように清潔に洗う。次に、水気を取って厚手の焼き鍋に油を入れ、シイタケを傘のほうから入れて、あまり強くない火で焼いてみてごらんなさい。それからシイタケのスープは、干しシイタケを水で戻してから蒸します。その時に、シイタケを戻した水も蒸し器に入れることを忘れずに。戻した水にはシイタケの養分が出ているからね。そういうことは、食材を観察していれば自然にわかってしまうのよ。
山口 それは直感的にわかるものなんでしょうか。それとも、失敗を繰り返してレシピを作られてきたのでしょうか。
辰巳 何度も失敗したら貧乏になっちゃうよ。一度失敗したらもう結構ですよ。「よし、今度は絶対失敗しない」と思ってやる。そういう決意というか、腹の決め方が大事なんですよ。
山口 辰巳さんはスープ教室を開かれていますが、それを通して伝えたいことは何ですか。
■スープ教室
辰巳さんは、嚥下(えんげ)困難になった父親のために、おいしくて飲みやすく滋養になるスープを8年間にわたって作り続けました。父親が亡くなった(1980年)後は、地元のクリニックで弟子とともに、病院食でスープを広める活動に取り組んでいます。また「辰巳芳子スープ教室」を主宰しています。
辰巳 伝えたいのは、ものの本質を把握すること。そうして、ものの本質に自分を従わせることですね。食は呼吸と同じように、いのちの仕組みに組み込まれているのだから。人は風土と一つになり、その一環として生きるようにすべきだと思います。
何を食べるか 自然を見て、庭を見て考えています
山口 食べ物がなかった戦後とは違い、今は食べ物があふれている時代です。何を食べたら良いか、献立に悩んでいる人も少なくありません。
辰巳 無理やり献立を考える必要はないんですよ。いま何を食べなければならないかということは、自然そのものが教えてくれるのですから。コンクリートだらけの都会で考えているから、無理がある。何を食べるかは、私は自然を見て、庭を見て考えています。八百屋さんでも、季節ごとに出てくるものを見れば、何を食べればいいかは自然に分かりますよ。
篠原 僕たちは自然からいろんな恵みをいただいていますが、辰巳さんからご覧になって、自然に何かを返せているなという感覚になる瞬間はありますか。僕の場合は、食べるだけ食べてそこでストップして循環が分断されているという感覚があります。とくに野外で昆虫や野草を食べているときです。何をしたら自然に返すことができるのでしょうか。
辰巳 (生産地の近くに住んでいるので)私だったら、土を大切にするということができます。鎌倉には駅の近くに青物市場があって、みんなそれを買っていますよ。それで近隣の農家はうまくいっているんじゃないかな。都会の人が自然を大切にしながら食生活を整えていくには、どうしたらいいのか……。生産者から直接食材を取り寄せることができればいいんですけどね。
篠原 僕自身は、食生活を充実させるというよりは、「自分が自然の循環に入っている」「地球の一部として自分がいる」という感覚をどうしたら得られるのか、という悩みを子どものころから抱えていました。
辰巳 大事なことは、地球のあり方を考えて食べていくことですね。昔はこの国の自然のことだけを考えればよかったけれど、今は地球の中のこの国の状況を考えないと食べ損なってしまいます。太陽、水、空気など食材の原点的なところを謙虚に思い直して、汚さないように、大切にしなければならないと思っています。自然を一番汚して取り返しがつかないのは原子力でしょうね。
■大豆100粒運動 高い栄養価があり、日本の食文化に欠かせない食材である大豆を、子どもたちの手で播種し、収穫してもらう運動。「子どもたちにいのちの尊さや食べ物の大切さを心と体で実感してほしい」という辰巳さんの願いを原点に、2004年に長野県で始まりました。食育のほか、食料の自給率向上と食の安全・安心を目的とするこの運動は、「地域おこし」として全国にも広がりをみせています。
何を食べるか 自然を見て、庭を見て考えています
山口 食べ物がなかった戦後とは違い、今は食べ物があふれている時代です。何を食べたら良いか、献立に悩んでいる人も少なくありません。
辰巳 無理やり献立を考える必要はないんですよ。いま何を食べなければならないかということは、自然そのものが教えてくれるのですから。コンクリートだらけの都会で考えているから、無理がある。何を食べるかは、私は自然を見て、庭を見て考えています。八百屋さんでも、季節ごとに出てくるものを見れば、何を食べればいいかは自然に分かりますよ。
篠原 僕たちは自然からいろんな恵みをいただいていますが、辰巳さんからご覧になって、自然に何かを返せているなという感覚になる瞬間はありますか。僕の場合は、食べるだけ食べてそこでストップして循環が分断されているという感覚があります。とくに野外で昆虫や野草を食べているときです。何をしたら自然に返すことができるのでしょうか。
辰巳 (生産地の近くに住んでいるので)私だったら、土を大切にするということができます。鎌倉には駅の近くに青物市場があって、みんなそれを買っていますよ。それで近隣の農家はうまくいっているんじゃないかな。都会の人が自然を大切にしながら食生活を整えていくには、どうしたらいいのか……。生産者から直接食材を取り寄せることができればいいんですけどね。
篠原 僕自身は、食生活を充実させるというよりは、「自分が自然の循環に入っている」「地球の一部として自分がいる」という感覚をどうしたら得られるのか、という悩みを子どものころから抱えていました。
辰巳 大事なことは、地球のあり方を考えて食べていくことですね。昔はこの国の自然のことだけを考えればよかったけれど、今は地球の中のこの国の状況を考えないと食べ損なってしまいます。太陽、水、空気など食材の原点的なところを謙虚に思い直して、汚さないように、大切にしなければならないと思っています。自然を一番汚して取り返しがつかないのは原子力でしょうね。
■大豆100粒運動 高い栄養価があり、日本の食文化に欠かせない食材である大豆を、子どもたちの手で播種し、収穫してもらう運動。「子どもたちにいのちの尊さや食べ物の大切さを心と体で実感してほしい」という辰巳さんの願いを原点に、2004年に長野県で始まりました。食育のほか、食料の自給率向上と食の安全・安心を目的とするこの運動は、「地域おこし」として全国にも広がりをみせています。
鍋で炊飯 食材と向き合う実感
溝口恵子(DIALOG学生記者)
辰巳さんは95歳ですが、年齢を感じさせない力強い話しぶりには驚かされました。その日その時を一所懸命に生きてきた姿が彷彿としました。その言葉に促されて、取材の翌日、煮干しで出汁をひき、鍋でお米を炊いてみました。
いつもの炊飯器なら、ボタンを押しておしまい。でも、鍋で炊くお米は火加減が命。早朝の静かなキッチンで「ボコボコボコ……」と沸騰する音に耳をすませ、たちのぼる湯気を見ながら時間を調整する作業に、「食材と向き合うとはこういうことか」と思いました。
それから煮干し出汁。今までは出汁パックを使っていた私ですが、出汁をひいて、残った煮干しは煎って味付けし、ふりかけにしました。上品な出汁の味わい、香ばしい煮干し、噛めば噛むほど甘いお米。味わいながら、辰巳さんの言葉を反芻しました。
「日本は貧しい国なんだよ」という辰巳さんの言葉をスッと理解できないのは、戦争の体験の有無や、生きた時代の違いのせいだけではありません。スーパーに行けば何でも手に入る便利な時代。手にした食材がどんな人に、どんな環境で育てられたのかを考えることはほとんどありませんでした。普段から食と命を結びつけて考えることが、まっとうな食を未来に引き継ぐために必要な姿勢だと今回の取材で学びました。
辰巳芳子(たつみ・よしこ)
1924年生まれ、聖心女子学院卒業。料理研究家の母・辰巳浜子の味を継ぎ、国内外のシェフのもとで研鑽(けんさん)を積む。父親の介護を通じてスープの持つ力に開眼。料理教室や著書、メディアなどで食といのちの大切さを訴えている。また安全で良質な食材を次の世代に引き継いでいくため、「大豆100粒運動」などにも取り組んでいる。
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しのはら・ゆうた 1994年、東京都生まれ。昆虫食歴22年。コオロギラーメンやコオロギビール、タガメジンなどを発売。今年6月、東京・日本橋馬喰町に昆虫食レストラン「ANTCICADA(アントシカダ)」をオープンした。
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やまぐち・ゆか 1992年、東京都生まれ。自炊料理家。慶応大卒業後、出版社などを経て独立。料理教室などで自炊の楽しみを伝える活動をしている。著書に、週3日の自炊で食材を使い切る『週3レシピ』(実業之日本社)。
(朝日新聞10 月12日)
Facebook中井健二さん投稿記事
医食同源と共に感謝する事が大切。当たり前と思っている事が実は当たり前では無い。
Facebook斉藤 一治さん投稿記事
道元禅師は24歳のとき、中国(宋)に渡り、4年間修行されて、28歳で日本に帰りました。
54歳で亡くなられるまで「正法眼蔵」95巻、「永平清規」6巻などの著述を残しています。
この「永平清規」6巻の一巻であります「赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)」には、食事をいただくときの作法が親切丁寧に述べられております。
巻頭では「法等食等」を強調しています。
つまり、「法」は「食」と同じであり、仏の教えが自分に備わっているのであれば、食事の作法も適切に行われるということです。
食事が適正ではなく、いい加減なものであれば、生活がいい加減になり、幸せで健康な明るい毎日を過ごすことはできない、ということです。
更に言いますと「日常茶飯」、毎日の食事とお茶の中にこそ、真理があり「当たり前」と思われている「平凡な日常生活」こそ、修行です、となります。
この「赴粥飯法」に、食事をいただくときの五つの教訓「五観の偈」(ごかんのげ)がありますので、次に紹介させていただきます。
一つには功の多少を計り彼の来処(らいしょ)を量る。
二つには己が徳行(とくぎょう)の全欠をはかつて供に応ず。
三つには心を防ぎ過(とが)を離るることは貪等(とんとう)を宗とす。
四つには正に良薬を事とすることは形枯(ぎょうこ)を療ぜんが為なり。
五つには成道(じょうどう)のための故に今この食(じき)を受く。
以上
これを斉藤なりに現代語訳しますと下記のようになります。
一つ、この食事が整うまでの多くの人々の働き、つまり食物を栽培した人や料理したかたがたの精進に思いをいたします。
そのような食事をいただくことを有りがたいことと感謝申し上げます。
二つ、この有りがたい食事をいただくにあたって、自分はそれに相応しいものであるかどうかを反省します。
三つ、心の汚れを清め、貪りの心を持たないように食事をいただきます。
四つ、この食事を、健康な心身を維持するための良薬としていただきます。
五つ、この食事を、仏である「本当の自分」を知るためにいただきます。
以上
食事をいただく前に、この「五観の偈」を唱えていた習慣は、今や忘却の彼方に消え去ってしまいました。
これらの教訓を要約している「いただきます」と「ごちそうさまでした」との感謝の念だけでも、必ず食前食後に唱えていきましょう。
合掌
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