花: 🌷🌸🌹🌼🌺🌻@lilacblueblue 3月3日 ひな祭り
女の子の健やかな成長を祈る節句の年中行事 別名:「桃の節句」
桃の花が咲く頃で桃の木には魔除けの力があるとされていたことから今日の誕生花:花桃花言葉:よい気立て
Facebook大隅 和子さん投稿記事【日本人の心を育む節句】
3月に入り太陽の光が温かくなってきて春の兆しを感じます
3月3日は上巳の節句を迎えますひな祭り🎎です✨
日本の文化の素晴らしさは季節を意識することができる節句という行事にあらわれているように感じます。季節の変わり目を受け止め自然や生命のリズムと調和しながら暮らすという
日本の伝統的な価値観に根ざしています💖素敵ですね先人に感謝です
https://kigosai.sub.jp/001/archives/9941 【桃の節句(もものせっく) 仲春】
【子季語】三月節句/弥生節句/雛の節句/桃の日/桃花の節
【解説】
三月三日に女児のいる家では雛を飾り、桃の花、白酒等を供え子の成長を祝う。明るく華やかな行事。五節句のひとつ。
【例句】
娵らせて娘の空や雛節句 許六「正風彦根躰」
明日しらぬ雛の栄耀やけふの桃 支考「三日月日記」
しめやかな雨も女の節供かな 蝶夢「草根発句集」
旅人の桃折りてもつ節句かな 樗良「樗良句集」
桃の日や下部酒もる蒸蝶 白雄「白雄句集」
桃の日や深草焼のかぐや姫 一茶「七番日記]
裏店やたんすの上の雛祭り
高井几菫
裏店(うらだな)の「店」は家屋の意味。落語などでお馴染みの裏通りの小さな住居である。段飾りなど飾るスペースもなく、経済的にもそんな余裕はない。したがって、小さな一対の雛がたんすの上に置かれているだけの、質素な雛祭りだ。でも、作者は「これでいいではないか、立派なものだ」と、貧しい庶民の親心を称揚している。現代であれば、さしずめ「テレビの上の雛祭り」といったところだ。すなわち、かつての我が家の雛祭り。学習雑誌の付録を組み立てては、毎年飾っていた。作者の几菫(きとう)は十八世紀の京の人。蕪村門。(清水哲男)
見にもどる雛の売場の雛の顔
岡田史乃
こういうことって、時々ありますね。買い求めたいというのではなく、もう一度よく見て、記憶にとどめておきたい衝動にかられることが……。このように、誰もが「思い当たる」世界を描くのは、俳句ならではの表現法でしょう。自由詩は多く説得する文学ですが、俳句は多くしゃらくさい説得など拒否する文学とも言えるかと思います。現実の事物や現象に取材して、自らの感性を読者の「心当たり」の方向に開いていくのですから、簡単にできることではありません。それこそしゃらくさい個性とやらを、いかに消すか。あるいは、いかに隠すか。誰にでも一応は可能な文学の、もっとも困難なポイントはここでしょう。妙なことを言うようですが、俳人は、その意味でジャーナリスト感覚がないと大成できないような気がします。たとえば正岡子規を「寝たきりジャーナリスト」、富田木歩を「座りっぱなしジャーナリスト」などと考えてみると、それこそ「心当たり」がいろいろと出てきそうです。あと半月ほどで雛祭。娘たちが小さかった頃は、テレビの上に学年雑誌の付録のお雛様を飾っていました。小学館よ、ありがとう。『ぽつぺん』(1998)所収。(清水哲男)
釘を打つ日陰の音の雛祭
北野平八
作者は雛の部屋にいるわけではない。麗かな春の日。そういえば「今日は雛祭だったな」と心なごむ思いの耳に、日陰のほうから誰かの釘を打つ音が聞こえてきた。雛祭とは関わりのない生活の音だ。この対比が絶妙である。明と暗というほどに鮮明な対比ではなく、やや焦点をずらすところが、平八句の真骨頂だ。事物や現象をややずらして相対化するとき、そこに浮き上がってくるのは、人が人として生きている様態のやるせなさや、いとおしさだろう。言うならば、たとえばテレビ的表現のように一点に集中しては捉えられない人生の機微を、平八の「やや」がきちんとすくいあげている。先生であった桂信子は「ややの平八」と評していたころもあるそうだが、「しらぎくにひるの疲れのやや見ゆる」など、「やや句」の多い人だったという。「やや」と口ごもり、どうしてもはっきりと物を言うわけにはまいらないというところで、北野平八は天性の詩人だったと思う。多くの人にとっての今日の雛祭も、多くこのようなさりげない情感のなかにあるのだろう。作者は1986年文化の日に肺癌のため死去。享年六十七歳であった。『北野平八句集』(1987)所収。(清水哲男)
音立てて鉄扉下り来る雛の前
岡本 眸
夜の人形店。通りがかりの作者が足をとめて眺めていると、急にシャッターが下りはじめた。店じまいの時間なのだ。それはそれで止むをえないことながら、「もう少し見ていたいのに」という思いが容赦なく瞬く間に断ち切られていく。句集の前後の句からすると、このときの作者は退院したてだったようだ。だから、病院で検査を受けた帰途の出来事かもしれない。身も心も弱っているときの、この断絶感にはまいるだろう。元気な身だったら、句はおそらく生まれなかったと思う。気弱く足取りも弱く、店先を離れていく作者の姿が目に見えるようだ。どこか、人間という生きものへの「いとおしさ」を感じさせる一句である。雛(ひな)人形自体への哀しみを詠んだ句は多いけれど、こうしたテーマでの扱いは珍しい。下りてきた鉄扉の向こう側に残る人形の残像。おほろげではありながら、しかし、くっきりと鮮やかである。そこには、何の矛盾もない。『朝』(1971)所収。(清水哲男)
雛飾りつゝふと命惜しきかな
星野立子
五十歳を目前にしての句。きっと、幼いときから親しんできた雛を飾っているのだろう。昔の女性にとっての雛飾りは、そのまま素直に「女の一生」の記憶につながっていったと思われる。物心のついたころからはじまって、少女時代、娘時代を経て結婚、出産のときのことなどと、雛を飾りながらひとりでに思い出されることは多かったはずだ。「節句」の意味合いは、そこにもある。そんな物思いのなかで、「ふと」強烈に「命惜しき」という気持ちが突き上げてきた。間もなく死期が訪れるような年齢ではないのだけれど、それだけに、句の切なさが余計に読者の胸を打つ。俳句に「ふと」が禁句だと言ったのは上田五千石だったが、この場合は断じて「ふと」でなければなるまい。人が「無常」であるという実感的認識を抱くのは、当人にはいつも「ふと」の機会にしかないのではなかろうか。華やかな雛飾りと暗たんたる孤独な思いと……。たとえばこう図式化してしまうには、あまりにも生々しい人間の心の動きが、ここにはある。蛇足ながら、立子はその後三十年ほどの命を得ている。私は未見だが、鎌倉寿福寺に、掲句の刻まれた立子の墓碑があると聞いた。あと一週間で、今年も雛祭がめぐってくる。『春雷』(1969)所収。(清水哲男)
われの凭る壁に隣は雛かざる
飴山 實
尾羽打ち枯らした浪人が、長いものを抱くようにして壁に凭(もた)れかかっている。もはや進退きわまったという姿。長屋の壁は薄いので、隣家で雛祭を寿ぐさんざめく笑い声などが聞こえてくる。ホーホケキョ。「もう、春か」。……というような情景では、まったくない(笑)。しかし、こんな情景に通じるような落魄の心持ちが、作者にはあったのだろう。この明暗の対比が、近代的抒情効果を生む仕掛けの正体だ。一方、隣の部屋には、笑いさざめく人たちの間に、こういう年老いた女性も静かに座っている。「来し方や何か怺へし雛の貌」(菅井富佐子)。毎春見慣れてきた雛の顔であるが、こうやってつくづく眺めていると、何か物言いたげなようであり、それを懸命に怺(こら)えているようである。さながら私の人生のように、言いたいことも言わずに、雛もここまで過ごしてきたのか。人形に感情移入できるのは、やはり女性に特有の才質の一つと言うべきだろう。今日飾られている雛人形には、雛の数だけ、それぞれの女性の思いがこもっているのだ。そう思うと、いかに私のごとき暢気な男でも、あらたまった気持ちにさせられる。『少長集』(1971)所収。(清水哲男)
紅梅や一人娘にして凛と
上野 泰
季語は「梅」ではなく「紅梅(こうばい)」。白梅に比べて花期が少し遅いことから、古人が梅一般と区別して独立した位置を与えたことによる。句意は、それこそ紅梅のごとくに明晰だ。早春の庭の「一人娘」の「凛(りん)」とした姿がくっきりと浮かび上がってくる。可憐にして健気。他家の娘でもよいのだが、作者にも一人娘があった(下に息子二人)から、おそらく自分の娘のことだと思う。このときに、彼女は十六歳。小さいころには「弟に捧げもたせて雛飾る」のような面があって、気は強いほうなのだろう。というよりも、日常的に弟二人に対していくには、気が強くならざるを得なかったと言うべきか。むろん例外はあるけれど、総じて兄弟のある「一人娘」のほうが姉妹のいる「一人息子」よりも気丈な人が多いようだ。一人息子には、どこか鷹揚でのほほんとした印象を受けることが多い。この違いは、どこから来るのだろうか。兄弟への対応とは別に、女の子が早くから料理など母親の役割を分担するのに対して、男の子は父親の代わりに何かするというようなことがないので、いつまでも子供のままでいてしまう。そこらへんかなあ、と思ったりする。「この娘なら、もう大丈夫」。作者の目を細めてのつぶやきが、聞こえてくるような一句だ。『一輪』(1965)所収。(清水哲男)
立子忌や岳の風神まだ眠る
市川弥栄乃
季語は「立子忌」で春。実は、今日三月三日が星野立子の命日である。雛祭の日に亡くなった女性は数えきれないほどおられるだろうが、何も女の子のハレの日に亡くならなくとも……と思えて、ひどく切ない。ましてや、立子にはよく知られた名句「雛飾りつゝふと命惜しきかな」がある。切なすぎる。作者はこの切なさを踏まえて、あえて雛飾りから目を外し、遠くの「岳(だけ)」に目をやっている。ここが、掲句の眼目だ。岳には、やがて春の嵐をもたらす「風神」も「まだ」ぴくりともせず静かに眠っている。立子の住んだ鎌倉でも、春一時期の風は強く激しい。彼女の安らかな眠りのためには、三月三日とはいえ、むしろ風神が荒れ狂う日などよりも余程よかったのではなかろうか。静かな眠りにつかれたのではなかろうか。立子を尊敬する作者は、そう自分自身に言い聞かせているのだと読んだ。だいぶ以前に当欄で書いたことだが、私は「○○忌」なる季語は好きではない。使うのなら、身内や仲間内で勝手にやってくれ。いかに高名な俳人の命日であろうとも、こちらはいちいち覚えてはいられないからと。そんな私が掲句について書いたのは、やはり雛祭と女性である立子の忌日が同じであるという哀しさ故である。忌日で思い出すのは、もう一人。宝井其角は、旧暦二月三十日に世を去った。新暦だと、彼の命日は永遠にやってこない理屈である。俳誌「草林」HomePage所載。(清水哲男)
古雛をみなの道ぞいつくしき
橋本多佳子
毎年雛祭になると、詩人・高田敏子の小さい文章を思い出す(池田彌三郎監修『四季八十彩』所載)。なのに、毎年タイミングを逸して、ここに書けないできた。今年こそはというわけで、紹介しておく。詩人は、終戦までの三年ほどを、台湾で生活していた。「引揚げとなったのは、終戦翌年の三月末で雛は飾られたまま、(中略)リュックを背負って家を離れる私達を見送ってくれたのです。/戸口を出るとき振りむくと、家財道具もみな処分してしまった部屋に、雛は明るい静けさで座していられて……私はなぜあのとき、内裏さまだけでもかかえにもどらなかったのかと悔やまれています。雛だけは処分するのもつらく、最後まで飾っていたのですのに……。雛はその後どうなったのでしょう。雛の行くえが心にかかっています」。置き去りにせざるを得なかった雛は、長女の初節句に調えたものだった。その「長女に女の子が生まれて、初節句の雛を求めに売場をめぐっていたとき、娘がいいました。『お母さん、なるべくよいのにしてね、もう戦争もないでしょ。いつまでも大事にしてあげられるのですもの。』」。ところで、掲句の前書は次のようだ。「祖母の雛上野の戦火のがれて今も吾と在り」。多佳子の祖母は、彰義隊の戦いにあっている。戦争戦後の混乱のなかで、このほかにも、雛たちのたどった運命はさまざまだろう。いつくしき雛の歴史は、またいつくしき「をみな」の歴史そのものでもある。NO WAR !「古雛」は「ふるびいな」。『信濃』(1946)所収。(清水哲男)
雛菓子を買はざるいまも立停る
殿村菟絲子
季語は「雛菓子」で春。通常は「雛あられ」を指すことが多い。雛祭りに、白酒や菱餅とともに供えられる。作句時の作者は、五十歳前後という年齢だ。もうだいぶ以前に、雛を飾ることは止めてしまっているのだろう。それでも、店先の雛菓子の前では、思わずも立ち止まって眺め入ってしまうというのである。私も買いはしないが、色彩につられて立ち止まることはある。が、作者のように女性ではないから、その美しさを楽しむだけだ。でも女性の場合には、単なる美しさを越えて、幼かったころからの雛祭りの思い出が脳裡に明滅することだろう。紅、緑、白と明るい色彩の配合ではあるが、いずれも淡い色合いである。その淡さが、逆に懐旧の念をいっそう濃くすると言うべきか。紅は桃の花、緑は物の芽、白は雪をあらわしているそうで、春到来の喜びが素直に伝わってくる。ところで、この三色の配合はクリスマス・カラーと共通していることに気がついた。こちらは紅というよりも赤だけれど、濃度が異る点を除けば、クリスマスの色もほぼ同じものを使う。使いはじめたいわれには諸説あるようだが、一説に、赤はキリストの血、緑はもみの木の十字架を思わせる葉っぱ、白は日本と同じく雪の色を表現したものだという。しかし、あまり詮索することでもないだろうが、日本のそれに意味的にも共通する雪の白をベースに考えると、要するに雪におおわれた白一色、あるいは無色の現実世界に刺激をもたらす色として、赤と緑が自然に使われるようになったのだろう。理屈は、あとからつけられたのだと思う。蛇足を重ねておけば、これら三色にもう一色重ねるとすると、日本では黄色、欧米では金色だ。このあたりでも、ほぼ共通している。『路傍』(1960)所収。(清水哲男)
左大臣の矢を失いし頃の恋
寺井谷子
失恋だろうか、あるいは片想いだったのか。苦い体験も、時を隔てて振り返れば、甘酸っぱい味に変わっていることもある。「左大臣」は、むろん桃の節句の雛壇に飾る人形の一人だ。弓をたばさみ、背には矢を背負っている。この爺さんは大権力者だが、ときに恋の橋渡し役もつとめたというから、酸いも甘いも噛み分けた人格者というキャラクターなのだろう。ところが、ある年に飾ろうとして箱から出してみると、どうしたことか背負い矢が無くなっていた。そのまま飾るには飾ったけれど、なんともサマにならないのである。そういえば、成就しなかった恋も、ちょうどあの頃のことだった。成就しなかったのは、もしかすると橋渡し役の逆鱗に触れたのかもしれない。と、そこまでの含意があるかどうかはわからないけれど、雛飾りと失われた恋との取り合わせは、どこか甘美な思いへと読者を誘う。過ぎ去れば、すべて懐かしい日々。そんな抒情性につながっている。私は男兄弟だけだから、雛祭りとは無縁だった。だが、子供ふたりは女の子。長女が三歳くらいになったときに、雛人形を求めてやろうとしたら、ひどく怖がっていらないと言われた。次女も同様に、人形の類いはいっさい受け付けなかった。なるほど、よくよく見ると、人形には不気味なところがある。怖いと言えば、その通りである。そんなわけで、ついに私は自宅での雛祭りとは無縁のままにきてしまった。近所の図書館では、例年この時期に数組の古い雛たちが飾られるので、それらを拝見するのが私のささやかな雛祭りということになる。「俳句」(2003年5月号)所載。(清水哲男)
雛の日の鱗につつむ死もありぬ
吉田汀史
季語は「雛の日(雛祭)」。その命すこやかにと、女の子の息災を祈って行われる行事だ、桃の節句とも言われるように、春開花の季節のはなやぎが行事の本意によくついて色を添える。そのはなやぎの中にあって、しかし作者のまなざしは同時に、どこか遠くの海での孤独な命の終焉に向けられている。「鱗(うろこ)につつむ死」とは魚のそれであるが、単に「魚の死」と言うよりも、「死」をより生々しいものとして読者に訴えかけてくる。鱗がつつんでいるのは、もはや魚とは言えない存在である。それを「死」そのものでしかないと掴んだときに、雛の日のはなやぎの中に、あたかも実体のように「死」は突きだされたのだ。古来、はなやぎの中にさびしさを見出すという感性は珍しくはないけれど、掲句のようにさびしさの根拠を明確に、いわば物質的に指示した例は珍しいと言えよう。しかも作者は、漠然たる思いつきで海での死を思い描いたのではない。雛の日を終えた雛たちは、やがて女の子の命と引き換えに、海の彼方へと流されてゆく運命にある。流し雛。すなわち両者はそれぞれの死を媒介にして、海中で出会うのである。句は、そういうことを暗示している。何というさびしさだろうか。同じ作者に「わが父の舟とゆき逢へ流し雛」がある。まるで子供みたいな発想だと、笑うこと勿れ。「わが父」がこの世の人ではないと理解するならば、夢まぼろしの世界でしか実現しない願いを、作者は「鱗につつむ死」同様に実体化したいのだと気がつく。祈りとは、そういうものだろう。かつて能村登四郎は、作者の特質を「現実のものを夢幻の距離で眺めて詠む」ところにあると言った。至言である。『浄瑠璃』(1988)所収。(清水哲男)
京雛の凛凛しき肩に恋心
磯田みどり
季語は「雛」で春、「雛祭」に分類。「雛」と「恋(心)」との取り合わせは、よくありそうでいて、実は珍しい。愚考するに、雛祭りの主役である人形は常に男女一対であり、そのことは恋の成就を既に体現しているのだから、雛壇に恋風が吹くことはないと思うのが普通だろう。結婚披露の場で、あらためて二人の恋を感じることがないのと同じことだ。ところが、作者は雛飾りをみているうちに、読者にはどの人形かはわからないが、その「肩」あたりに恋の微風が吹いているようだと感じたのだった。態度はあくまでも凛々しく毅然と目を張ってはいても、そこはかとなく匂い出ている恋する心。写実的な江戸雛とは対照的な「京雛」のふくよかな顔が、そうした連想を呼んだのだろうか。しばし立ち去り難く、雛に見入っている作者の姿までが浮かんでくるような句だ。ところろで、写真(見にくくてすみません)は近着の「俳句研究」(2005年3月号)の表紙。イラストを一見して「あれっ」と思った読者もおられるだろう。つまりこれが伝統的な「京雛」の飾り方で、向かって右側に内裏雛が配されている。京阪地方では、いまでもこの飾り方にする家庭は多いはずだ。昔の江戸でも同じ配置だったが、明治期の西洋化の影響で天皇家の男女の並び方が変わったことから、いまでは左側に男というのが一般的になっている。全国誌である「俳句研究」が、あえて珍しい京風の表紙にしたのは何故なのだろうか。『柳緑花紅』(2005)所収。(清水哲男)
雪女くるべをのごら泣ぐなべや
坊城俊樹
無粋を承知で標準語にすれば「雪女がくるぞ男の子なんだから泣くな」とでもなるのだろうか。雪女は『怪談』『遠野物語』などに登場する雪の妖怪で、座敷わらしやのっぺらぼうに並ぶ、親しみ深い化け物の一人だろう。雪女といえば美しい女として伝えられているが、そのいでたちときたら、雪のなかに薄い着物一枚の素足で佇む、いかにも貧しい姿である。一方、西洋では、もっとも有名なアンデルセンの『雪の女王』は、白くまの毛皮でできた帽子とコートに身を包み、立派な橇を操る百畳の広間がある氷の屋敷に暮らす女王である。この豪奢な暮らしぶりに、東西の大きな差を見る思いがするが、日本の伝承で雪女は徹底した悪者と描くことはなく、どこか哀切を持たせるような救いを残す。氷の息を吹きかけるものや、赤ん坊を抱いてくれと頼むものなどの類型のなかで、その雪のように白い女のなかには、幸いを与えるという一面も持っているものさえもあり、ある意味で山の神に近い性格も備えている。さらに掲句には、美貌の雪女にのこのこと付いて行く愚かな人間の男たちへの嘲笑が込められているような、女の表情も垣間見ることができる。「雪女郎美しといふ見たきかな」(大場白水郎)、「雛の間の隣りは座敷童子の間」(小原啄葉)など、かつて雪に閉じ込められるように暮らしてきた人々が作り出した妖怪たちに、日本人は親しみと畏れのなかで、深い愛情を育んできたように思えるのだ。『あめふらし』(2005)所収。(土肥あき子)
手に受けて少し戻して雛あられ
鷹羽狩行
雑誌にこの作者の句が載っていると、必ず真っ先に読む。何でもないような些事をつかまえる名手ということもあるが、単に巧いというだけではなく、句の底にはいつも暖かいものが流れていて、そこにいちばん魅かれているからだ。とくに心弱い日には、大いに癒される。揚句でも、まさに何でもない所作を詠んでいるだけだが、作句の心根がとても優しく温かい。雛あられを受けるときには、自然に両掌を差し出す。こぼしてはいけないという配慮の気持ちもあるのだけれど、そこには同時に人から物をいただくときの礼儀の気持ちが込められている。すると領け手の側は、その礼儀に応えるようにして、これまた自然な気持ちから両掌いっぱいに雛あられを注ぐのである。そういうことは句のどこにも書かれてはいないが、「少し戻して」という表現から、読者はあらためてこの日常的な礼節の交感に気づかされ、そこに何とも言えない暖かさを感じ取るというわけだ。ひとつも拵え物の感じがしない、こねくりまわしていない。けれども、人のさりげない所作の美しさにまで、きちんと錘がおりている。天賦のセンスの良さがそうさせたのだと言うしか、ないだろう。掲載誌より、もう一句。<まんさくの一つ一つの片結び>。「俳句研究」(2007年3月号)所載。(清水哲男)
雛飾る向ひ合はせにしてみたり
喜田礼以子
幼い頃、客間に飾られる雛人形は、自由に触ったり、ましてやお雛さまを使っての人形遊びなど堅く堅く禁じられていた。人形といえども、いつも手にするリカちゃん人形などとは一線を画す、ひたすら眺めるだけの存在だった。自分のものだというのに「お道具を失したら大変」「お顔を汚したら大変」と、そっと飾り、そっと仕舞われ、一番楽しそうな部分は一切子供が関わることができない大人の行事のように感じていたものだ。掲句の作者は、母の立場で雛壇を飾っているのだろう。ようやく自由に雛人形を手に取れるようになった今、そっと昔の夢を果たしているのではないだろうか。本来若い夫婦であるはずの男雛と女雛を、向かい合わせにしてみたのは、作者のなかにじっと潜んでいた少女の自然な動作であろう。たとえ叱られる存在などいまやいないと分かっていても、どこかに悪いことをしているような気分もにじませながら、人形遊びをしていた頃の呼吸を思い出し、「はじめまして」などと呟かせてもみるのである。『白い部屋』(2006)所収。(土肥あき子)
美と言ひしままの唇雛かな
石母田星人
早く片付けないとお嫁に行けなくなる、などというナンセンスな理由が現在もまかり通り、早めに出され早々に仕舞われる雛人形であるが、最近は立春に飾り、啓蟄の本日片付けることが多いそうだ。さらに忠実なる場合には、この日に手が付けられない場合には、雛人形たちを後ろ向きにすると、「眠られた」「お帰りになった」という意味を持ち、片付けたことと同様になるのだというが、全員後ろ向きの雛壇とは、さながらホラー映画を思わせる光景であろう。もともと、雛人形という時代がかった姿かたちは、日常とは全く別次元の美しさであることから、そこにはわずかな恐ろしさも含んでいる。人形の唇がうっすらと開いており、そこに米粒よりちいさな白い歯が並んでいることに気づいたのは、ずいぶん小さな時分であったが、そのとき可愛らしいとは対極のはっきりとした恐怖を感じたことを覚えている。確かに口元は掲句の通り「び」という形である。濃い紅に塗られた唇が、口角をひょいと上げ「び」と言いかけた形で固まっている。多くの家庭で今年のお役目が終わり、来年の立春まで、長く暗闇のなかでふたたび暮らす雛人形たち。てんでに納戸の隅に積まれた木箱のなかで、薄紙に包まれて何かを呟いているのだと思うと、それはふと「さびしい」の「び」なのかもしれない、と思うのだ。『濫觴』(2004)所収。(土肥あき子)
夜濯のはじめは水を見てをりぬ
坂本 緑
夜濯(よすすぎ)とは夜する洗濯のこと。「夏はその日の汗にまみれた肌着類を夜風が立ってから洗濯して干しても翌朝にはもう乾いてしまう。昼間勤めている女性や主婦は、夏は涼しい夜に洗濯することが多かった」と歳時記にはある。今の時代、盥で洗濯する機会はほとんどないだろうが、ぐるぐる回る洗濯機の水をぼーっと眺めていることは時折ある。清々しい朝の洗濯とはひと味違い、夜濯は一日の記憶がまだあらわな、体温が生々しく残っているものを洗ってしまうことの、なぜとはない不安や戸惑いがよぎる。作者の作品の多くは、日常を丁寧に掬い取り新鮮な側面を捕える。例えば〈あとついてくる掃除機や雛の間〉では主婦の忠実な手足となる電化製品との関係が、また〈蚕豆といふ幸せのかたちかな〉〈一人遊びの会話聞きつつ毛糸編む〉など、幸せな家庭のひとコマが再現される。しかし、掲句には愁いが澱のように沈んでいる。それは歳時記の実利的な本意とはまったく別に、まるで夜濯とは、夜吹く笛のようにしてはいけないことに思えてくる。夜濯の水に映ってしまう形のない不安を振り切るように、女たちは洗濯物を月にさらし、明日の新しい太陽を浴びさせるのである。『幸せのかたち』(2006)所収。(土肥あき子)
恋猫といふ曲線の自由自在
杉山久子
わが家の三毛猫は、松の内が明ける頃早々に恋猫となる。近所に野良猫もたくさん住む環境ながら、タイミングがずれているせいか、雄猫がうろつくこともなく、孤独のうちに恋猫期が終わる。そして、二月に入ると近所の猫たちの恋のシーズンが始まるが、この時期にはもう我関せず。ペットだからいいようなものの、女性としてはどうなのよ、と質問したいものである。恋猫の姿というのは、掲句の通り、立っても歩いても寝転んでもどこかしら魅惑の曲線を伴う。とはいえ、猫嫌いの方にとっては、あのくねくねした感じがなによりイヤと言われるのかもしれない。猫好きが多い私の周りで、はっきり猫が嫌いという方の理由を聞くと「抱いたときのあのぐにゃっとした感じ」なんだそうだ。「お菓子が嫌いなのはあの甘いところ」に通じるような、とりつく島のなさに思わず笑ってしまったが、猫が苦手という何人かに聞くと、総じて「分かる分かる」と頷かれる。猫諸君。抱かれるときは少し身を固くしてみてはいかがだろうか。〈雛の間に入りゆく猫の尾のながき〉〈猫の墓猫に乗られてうららけし〉『猫の句も借りたい』(2008)所収。(土肥あき子)
雛の間につづく廊下もにぎはへる
原 霞
わが家は地方の新興住宅地にあったので、そこらじゅうに同世代の女の子が住んでいて、二月に入ると月曜日の登校時は「きのう出した」「うちも出した」とにぎやかに雛人形のお出ましを報告し、「学校が終わったら見に行くね」と約束し合うのだった。のんびり屋の母に「みんなもう出したんだってー」とせっつき、「うちはうち」などと言われていたのも懐かしいやりとりだ。それにしても、これほど居場所を選ぶ人形もないだろう。なにしろ和室でないとさまにならない。そして何段飾りともなると、雛壇に使用する場所だけでなく、一体ずつ収まっている人形を箱から出すためのスペースが必要であり、あれがないこれがないと作業エリアは果てしなく広がっていく。これはこっちの部屋に移して、これは一時廊下に出しておいて、などと算段するのも母と娘の楽しみの一つだった。かくして雛の間ができあがり、友人たちの雛詣を待つ。女の子たちの笑い声に続き、軽やかな足音が雛の間へと吸い込まれていくのは、きらきら光る動線のようだったことだろう。雛人形を飾らなくなって久しいが、毎年三月三日になると、あちらこちらのお宅のなかで華やかな光りの筋が行き交っていることを思い、ちょっぴりわくわくするのだった。〈山おぼろ湯をすべらせて立ち上がる〉〈包丁が南瓜の中で動かない〉『翼を買ひに』(2008)所収。(土肥あき子)
雛の間の障子半分湖に開け
中井富佐女
三月三日に東京に雪が降ったのは、二十五年ぶりのことだという。雨が雪に変わった今年の雛の日は、朝から春寒の趣だったが、昼から夕方にかけてきゅっと冷えこみ、暮れてからこれは予報どおり雪かも、とリビングの障子を少し開けたら、ベランダがうっすら白い。思わず、お雛様の方へ振り向いて、ほら雪、雪、と言ったのだった。この句は、湖に向かって雛を飾った障子を半分開けた、と言っているだけだ。でもこの、半分という一語に丁寧な所作が見え、暮らしと共にある湖に、一年に一度会うお雛様に、心を通わせている作者の姿が見えてくる。遠くを見ているようでどこも見ていないような、お雛さまの永遠の微笑みと広々とした湖に、時間はまた流れていながら止まっているようでもある。この湖は琵琶湖。滋賀の堅田に今も続く、浪乃音酒造の八代目中井余花朗・富佐女夫妻の合同句集『浪乃音』(1967)所収。(今井肖子)
流し雛波音に耳慣れてきて
荒井八雪
雛流しの行事は今も行われているが、その時期は、新暦、旧暦の三月三日、春分の日など地方によってさまざまだ。吉野川に雛を流す奈良県五条市の流し雛は、現在四月の第一日曜日ということなので明日。写真を見ると、かわいい着物姿の子供達が、紙雛をのせた竹の舟を手に手に畦道を歩いている。そして、吉野の清流に雛を流して祈っているのだが、その着物の色は、千代紙を思い出させる鮮やかでどこか哀しい日本の赤や水色だ。紙雛はいわゆる形代であり、身の穢れを流し病を封じるといい、雛流しは、静かでやさしい日本古来の行事のひとつといえる。この句は、波音と詠まれているので海の雛流しなのだろう。作者は雛を乗せた舟をずっと見送っている。春の日の散らばる海を見つめて佇むうち、くり返される波音がいつか海の心音のように、自分の体が刻むリズムと重なり合ってゆく。そんな、耳が慣れる、もあるのかもしれない、とふと思った。『蝶ほどの』(2008)所収。(今井肖子)
芽柳や声やはらかく遊びをり
遠藤千鶴羽
春先のお約束、あらゆる芽が出てくるなかで「柳は緑、花は紅」といわれるように、ことに美しさを極めるのは柳の芽であろう。万葉集に収められた大伴坂上郎女の「うちのぼる佐保の川原の青柳は今は春へとなりにけるかも」(佐保川沿いの柳が青々と芽吹き、もう春がくるのですね)にも見られる通り、古くから柳の美しさは詠み継がれている。掲句では中七の「声やはらかく」で柳の枝のしなやかさと若々しさがひと際明瞭になり、また上五の「芽柳」によって遊んでいるのは小さな女の子たちだろうと想像させ、両者が可憐な美を引き立て合っている。少女たちの声が、遊んでいるとわずかに分かる程度に、はっきり聞こえるでもなく、この世の言葉ではないような、まるで小鳥がさえずるかのごとく降りそそぐ。声がやわらかであるという、遠いとか小さいとかの距離でもなく音量でもない形容によって、声を持つ人間の存在を曖昧にさせ、より茫洋とした春の様子を浮かびあがらせているのだろう。そういえば、鈴を転がすような声、という言葉があるが、芽柳が風に吹かれる風情にも鈴が鳴るような華やぎがあると思うのだった。〈暗がりへ続く階段雛かざり〉〈巣作りの一部始終の見ゆる窓〉『暁』(2009)所収。(土肥あき子)
雛買うて祇園を通る月夜かな
若山牧水
今日は桃の節句、雛祭り。本来は身体のけがれを形代(かたしろ)に移して、川に流す行事だったという。のちに形代にかえて、雛人形を家に飾るようになった。女児を祝う祭りとなったのは江戸時代中頃から。掲出句は雛を買うのだから、三月三日以前のことである。酒好きな牧水のことゆえ、京の町のどこぞでお酒を飲んでほろ酔い機嫌。買った雛人形を大事に抱えて(いつもなら、酒徳利を大事に抱えているのだろうが)、今夜は月の出ている祇園を、ご機嫌で鼻唄でもうたいながら歩いて帰るところかもしれない。雛人形も、祇園の町も、照る月も、そして自分も、すべて機嫌がいいという句である。滅多にない幸福感。「通る」は一見平凡な表現のように思われるけれど、少々心もふくらんで「まかり通って」いる状態なのかもしれない。この句からは、誰もが「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」(晶子)を想起するかもしれない。しかし、この句の場合は「よぎる」よりも「通る」のほうが、むしろさっぱりしていてふさわしいように思われる。短歌と俳句は両立がむずかしいせいか、俳句を作る歌人は昔も今も少ない。それでも齋藤茂吉や吉井勇、会津八一をはじめ何人かは俳句を残している。牧水の句も多くはないけれど、他に「一すじの霞ながれて嶋遠し」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)
病室の母に小さき雛飾る
林まあこ
気がつけば、二月も半ば。雛を飾っているお宅も多いだろう。作者の母上は入院中なので、この年は病室に小さなお雛さまを飾ってあげた。娘としての優しい心根はよく出ているが、それだけといえばそれだけの句である。しかし、私たちの日常生活では、それだけのことが、当事者にはそれだけの何倍もの感慨を呼び覚ましてくれることも多いのだ。豆雛だろうか。病室のまことに小さなテーブルの片隅にちょこんと飾られたお雛さまは、他のどんな豪華な雛飾りよりも、母上を喜ばせたことだろう。私事に及ぶが、この一年間ほどは、両親ともに入院している病院に何度も見舞いに通ってきた。通っているうちに気がついたのは、病室というところでは四季の移ろいがほとんど感じられないことだった。一年中室温は同じに保たれているし、窓は不透明なカーテンで覆われており、むろん風なども入ってはこない。外からの音もあまり聞こえない。そんな部屋に、せめてもと花を飾ろうとしたら、禁じられていた。花は生きものだから、雑菌なども一緒に持ち込むことになり、病院にしてみれば大いに迷惑なのである。そんな私の個人的な事情があるので、この句をそれだけの句として突き放す気にはなれないのだった。近々見舞いに行くときには、豆雛を持っていこうと思う。『真珠雲』(2011)所収。(清水哲男)
ふと思ふ裸雛の体脂肪
後藤比奈夫
句に添えられた作者のエッセイによると「裸雛は大阪の住吉大社で頒けて貰える、掌に乗るほどの小さな土雛。」「烏帽子をかぶっているほかは全裸。男は胡坐、女雛は膝をしっかり合わせた正坐。」とある。句の印象からするとごくごく素朴な土人形といった感じ。むっちりとした膝、まるまるとめでたく肥えたお雛さまに体脂肪を思うところが面白い。雛の由来は人形(ひとがた)であり厄災を祓い、川や海へ流されたという。美しい段飾りのお雛さまは可愛い子の未来を願い親が設えるものだろうが、掲句の裸雛はその昔「子授け雛」と呼ばれており夫婦和合を願う雛らしい。日本各地にはいろんな役目を負ったお雛さまが数多くあるのだろう。宮崎青島神社の簡素な「神ひな」は安産、病気平癒などを願い神前に供えられる。わたしも九州の日田で買ってきた小さな土雛を飾って家族の無事を願い、雛の日を楽しむことにしよう。『心の小窓』(2007)所収。(三宅やよい)
たらちねの抓までありや雛の鼻
与謝蕪村
雛の眼差しや口元などの句は見たことがあるが鼻は初めてで、思わず飾ってあるお雛様の鼻をしげしげと見てしまった。三越、と書かれた桐の箱に入ったこのお内裏様は私の初節句の時のものなので、今どきのお雛様より小さめで、顔の長さが2.2センチに対して鼻の長さは0.7センチ、鼻筋はすっと通って高く、私の指でも十分抓(つま)める。小さい頃お母さんが、高くなれ高くなれ、と鼻を抓んでやらなかったんだなあ、と作者に思わせるようなお雛様は、きっともっと愛嬌があって素朴でありながら、どこかさびしい顔立ちだったのだろうか。低い鼻にコンプレックスのある身としては、そのお雛様に親近感を覚えると同時に、そういえば同じDNAを持つ妹も、姪の鼻を抓んでいたなあ、けっこう真剣に、とふと思い出した。『新歳時記 虚子編』(1951・三省堂)所載。(今井肖子)
婚の荷をひろげるやうに雛飾る
猪俣千代子
子どもの頃、姉を持つ弟としての雛祭は、白・桃色・緑色の雛あられが食べられるうれしい日でした。当時、広くはなかった居間に雛段を作り、赤い毛せんが敷かれ、人形が置かれると、男の子でもその周辺ではやんちゃな遊びはおのずと自制します。かつて、二月に入ってから三月三日まで、女の子がいる日本の家では雛人形が飾られていました。ところで、げんざい、バレンタインや クリスマスは一年の中でも一大イベントになっていますが、雛祭に関しては、さほど商業的な動きはないようです。雛祭はイベントではなく、代々、家の中で受け継がれてきた伝統だからでしょう。嫁入り道具として、実家からお伴を連れて来たような雛たちに、年に一度逢えるときでもあり、掲句には、そんな気持ちもあるのかもしれません。「婚の荷をひろげるやうに」とは、初々しさと覚悟のある、人生の節目の儀式を物語っているようです。節句には、同居の他者にもはっきりわかるような儀式性が必要で、それが赤い毛せんの段飾りと雛人形として家の中を一時、支配するのでしょう。雛人形を飾る心が受け継がれていくその伝統を、あらためて貴重なものだと思いました。以下蛇足。先月、那智勝浦と伊 勢の二見浦で雛祭スタンプラリーを見ました。商店や旅館には外から自由に出入りで来て、お雛様を観賞できました。「極めつけの名句1000」(2012・角川ソフィア文庫)所載。(小笠原高志)
雛の間の無人の明るさの真昼
林田紀音夫
誰もいない雛の間の真昼。赤い雛壇に、白い顔の殿方と姫君が座っています。笛や太鼓や箏などの楽器と、黒い漆塗りの器が細やかに配置されていると、静寂の中に華やぎがあります。真昼の雛の間には、作者と人形たち以外は誰もいない。その明るさを詠まれる雛たちは幸せです。掲句は、昭和63年、作者64歳の作。しかし、昭和49年に上梓された第二句集『幻燈』を読むと、つねに亡き人の存在が見え隠れしていた苦悩を辿ることができます。「風の流れにつねにひらたく遺体あり」「海のまぶしさ白骨の人立ちあがり」「水平線藍濃く還れない戦死者」(これは、「愛国」を掛けているのか?)「抽斗(ひきだし)いっぱいの遺影軒には鳩ねむり」。みずからも昭和20年の春、最後の現役兵として入営した記憶を忘れることができません。例句もふくめて、この頃までの句作の多くが無季破格です。戦争の記憶には、有季定型には納まりきらない不条理があると推察します。しかし、それから歳月を経て掲句では、平明の境地を獲得しています。「雛の灯を消してひとりの夜に戻す」も。『林田紀音夫全句集』(2006)所収。(小笠原高志)
机除け書物除け即雛の間
中村与謝男
今日の住宅事情では、昔の映画などに出てくるような特別な雛の間を作ることは難しい。それに雛本体はさして大きくなくても、かざるとなればかなりのスペースが必要だ。したがって、句のように机をずらしたり積んである本を片づけたりということになる。句集から推測すると、この雛飾りは一歳を迎えた娘さんのためのものらしい。親心が読者にも沁みてくる。我が家にも娘がいるのだけれど、どういうわけか雛に限らず人形全般が嫌いだったため、こうした苦労はせずにすんだ。しかし何も飾らないのも親として寂しいので、毎年小学館の学年雑誌の付録についてきた紙のお雛さまを、テレビの上にちょこんと乗せておいたのだった。人生いろいろ、雛飾りもいろいろである。『豊受』(2012)所収。(清水哲男)
あたたかにつむりを寄せて女の子
高田正子
女性の呼び方を定義することはむずかしいが、女の子とは0歳~10歳あたり、少女期の前のひと桁の年齢がふさわしい。過ぎた日にはたしかに私自身も小さな女の子であったはずだが、今となってはその語感には、過去というより、どこか曖昧で不思議な感触を抱く。放出する少年のエネルギーに対し、少女たちは光りを内包するように輝いている。女の子が集まり、頭を寄せて、ひそひそと小声でささやき合う姿は、まるで、妖精たちがきれいな羽を閉じてなにごとかを相談しているようにも思われる。ここまで書いて、ボッティチェリの描く「春」とつながっていることに気づいた。無垢な女の子こそ、春の到来にもっとも似つかわしいものなのだ。本日は桃の節句。あちらこちらの雛壇の前で、かわいらしいつむりが寄せられ、春を祝福する図が描かれていることだろう。〈雛壇に小さき箒ちりとりと〉〈ほほといふ口して三人官女かな〉〈雛さまの百年風を聴くおかほ〉『青麗』(2014)所収。(土肥あき子)
まほろばを見はるかすがに内裏雛
篠塚雅世
一年ぶり、と箱から出すお雛様。内裏雛と雪洞しか出さなくなってしまった我が家だが今年もテレビの横に並んでいる。榎本其角に〈綿とりてねびまさりけり雛の顔〉、渡辺水巴に〈箱を出て初雛のまま照りたまふ〉があるが、一年で老けてしまったように思うのも変わらず輝いているように感じるのも、いずれもお雛様らしい。掲出句の作者は、飾られている内裏雛が遠くまほろばを見ているようだ、と言っている。これも、気品のある微笑みと鮮やかで静かなたたずまいがいかにもお雛様らしく感じられる。年に一度出会う時、その時々の心の内がお雛様を通してふと見えるのかもしれない。『猫の町』(2015)所収。(今井肖子)
卒業の前夜に流す涙かな
宮田珠子
思わずはっとさせられた。明日は卒業式という夜、その胸に去来するものは何だったのだろう。卒業式の涙とは違う涙、多感な十代の姿がありありと感じられるのは、目の前の景がそのまま句となったからだろう。作者は当時四十代、涙をこぼしているのは作者の小学六年生のお嬢さんである。以前にも書いたことがあるが、作者の宮田珠子さんは二人のお嬢さんを残して平成二十五年の秋に五十歳で亡くなられた。〈雛にだけ話したきことあるらしく〉〈子供の日子供だらけてをりにけり〉〈裸子の気になつてゐる臍の穴〉など、独特の愛情あふれる目線で作られた吾子句はいずれも個性が光っている。句会報を整理していて掲出句を見つけたが、あらためてその早逝が惜しまれる。(今井肖子)
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