http://itsuki.natsui-company.com/?eid=407 【「選句」という仕事】より
大阪の隠れ家に滞在しています。
あっという間に新年度が始まり、そしてもう4月が終わり…なんという慌ただしさでしょう。
「新・折々のギャ句」の審査会もしないといけないのですが、金子どうだ先生とのスケジューリングがうまくいかず、延び延びになっております。申し訳ない。「仕事だ」と言い張る、どうだ先生の時間をなんとかゲットできるよう努力してみますので、もう少しお待ち下さい。
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さて、匿名?協会の皆さんへのお返事をかねて、「選句」についてワタクシなりの考え方を一言(というには、少々長いか。がははは!)
いろんな場面での「選句」の仕事をさせていただいておりますが、各種の「俳句大会」にしても「テレビ・ラジオの俳句番組」にしても「ネット・iモードの俳句サイト」にしても、最も悩み抜くのは、最優秀句として推す作品の質です。自信をもって推せる「最後の一句」を見つけだせるかどうか。それさえ見つければ、任務の最も重要な部分をクリアできるわけですから、当然のことながらこれはもう毎回の真剣勝負です。
例えば、iモード「俳句の缶づめ」金曜日作品にしても、俳句マガジンいつき組「くらむぼんが笑った」ページにしても、「最後の一句」がバシッと見つかったときの快感ったらないわけです! 出会った瞬間、すぐさま鑑賞文を書きたい衝動が溢れてくる! あッ、きたッ!って感じ。「最後の一句」の手応えは、剛速球や絶妙に巧い変化球を受けた時のキャッチャーミットの感触に似ているのかもしれません。
そんな句に出会ったら、ワタクシの脳髄?(海馬かもしれないけど)は、ピキピキ悦びます。うっとりと溶けそうになることもあれば、ぷるぷる震えたり、爆発的に弾けることもあります。選句作業は、集中力の持久走。自分が俳句を作る10倍の忍耐力を要しますが、自分の脳を悦ばせてくれる一句にめぐりあった瞬間の快感が、この作業の原動力なのです。
私の脳を悦ばせてくれる句はどれも必ず、「想定外のオリジナリティー」と「想定外のリアリティー」を合わせ持っています。大量の投句の山から、この二つの条件に見合ったものを探し出し、その条件をクリアした作品の中の、さらなるベスト一句。これが「最後の一句」の条件です。
「なにも想定外うんぬんまで言わなくても、全投句の中で一番好きだったものを推せばいいんじゃないの?」というお考えもあるとは思いますが、もし私が投句者の立場だったとしたら…と、ハタと考えるわけです。
投句者として「想定内」の作品が「最後の一句」に決まったとしたら、わたしゃ、そっちにこそ憤慨すると思うのです。「こんなのが選ばれるんなら、もうここには投句しなくていいや」なんて思われるのは嫌なので、(選者として)必死で「最後の一句」を探します。「最後の一句」の評価基準を満たす「絶対評価」、あくまでもこれを貫く努力をするのが、選者としての誠意だと思うのです。
何がツライって、どんなに探しても「あッ、きたッ!」って手応えにめぐり会えない時です。キャッチャーミットがパシッ!と鳴らない時。うーむ…これはきっと見落としたに違いないと、もう一度印をつけた句を見直します。それでも見つからない時は、「きっとある!」と信じて全句を見直します。そこまでやってみても…見つからないときもあります。それは仕方がない。そういう時もある。
でもとにかく選者の務めとして「最後の一句」を決めなくてはいけない…となると、ここから苦肉の「相対評価」が動き出します。いくつかの候補作品を並べての、比較検討が始まるわけです。
選者が私一人であるときは、自分が納得するまで、この「相対評価」の検討が脳内で延々と行われます。自分が納得できないまま選評書いても、なんの説得力も無い。何よりも自分が気持ちワルイ…。これもまた忍耐力。黙々と考え続けます。
選者が複数である時。
文学的主義主張の違いをぶっ飛ばすぐらいの「絶対評価」価値の高い「最後の一句」が見つかっている時は、とてもスリリングな興奮する審査会になります。主義主張を真っ正面からぶつけ合いつつも、最終的な合意が成立するのは、全て作品が持つ力。真の「最後の一句」さえ見つかっていれば、刺激的で質の高い議論が生まれます。これもまた快感、そしてなんたって後味が爽やか!
が、審査会が「相対評価」に移ってくると、これはもうケンケンガクガクの泥沼。季語の本意の認識が違ってるのは当たり前、類想類句の把握が違っているのも当たり前、そもそも季語を季語として認めない…なんて立場もあるわけで、一見派手に議論しているように見えて、実は内容が噛み合わない議論。議論しても議論しても合意点の見いだせない議論。審査会は難航必至。そして最後はお決まりの挙手。どこの審査会も同じです。
先だってのワタシクの「『金曜日』レベルの一押しが見つからない」という発言に、匿名さんが「おうおうゆーてくれるじゃねえか!?」と思わず切り返してこられたお気持ち重々分かります。だって投句する側も、真剣に投句してるわけですから、「見つからない」なんて言われるとムッとするのは当たり前です。実に言葉足らずで申しわけなかったと思います。ごめんなさい。
私の「見つからない」発言は、
「絶対評価」における「想定外のオリジナリティー」と「想定外のリアリティー」を持った「最後の一句」が見つからなかったという意味であって、投句して下さった作品が皆ボロかった…なんて言いたかったのではありません。生き生きした作品はたくさんありました、楽しい作品もたくさんありました。それらの作品は皆、六千七百句の予選をくぐり抜けてくるだけの「(5音分の)オリジナリティーとリアリティー」を持った作品であるわけで、やはり私たちはそこを目指していくしかないと、改めて思うわけです。
| HGDT | 2009/04/28 2:00 AM |
以下ボツになったと思われる我が句です。後学のために一言頂けるとありがたいです。
1、良寛の隠れし小屋に春時雨 2、夜鷹呼ぶ小屋傾きて春の月
3、雨止みて古木に憩ふ白き蝶 4、天空にあると云う城蝶ぞ識る
HGDT君のこれらの作品の問題点も、「オリジナリティーとリアリティー」の追求であり、その内容を的確に表現する技術力を身につけることに尽きるのではないでしょうか。
「いつき組」の組員からは、「次にこの番組がある時は、もっと大々的に知らせ、番組当日はたくさんの人たちと一緒に生放送を見ながら、ワイワイ投句を愉しめる企画を考えよう」という声も出ています。メールが打てない人も、BSが見られない人も、みんなが参加できる工夫を考えはじめてくれてます。
そして今回の番組を企画してくれたスタッフたち。今までの古いスタイルを廃し、新しいものに変えるためには、水面下での大変な苦労と葛藤があったはずです。
かつて『俳句王国』という番組を立ち上げ、育て続けたプロデューサー・村重さんと当時の苦労を懐かしみつつお酒を飲むことがありますが、それは言葉に尽くしがたい闘いの足跡です。今回の『ニッポン全国俳句日和』のスタッフの皆さんもまた、同じような苦労を舐め、葛藤に立ち向かったはず。俳句を愛する人間の一人として、熱いスタッフの思いが大組織の理屈や都合の中で消されていかないことを強く願います。そのためにも、是非皆さんの声をNHKに届けて下さい。それが、「俳句を愛する」スタッフたちにとって、最も大きな援護射撃になるはずです。
そして、次回は皆で、「ニッポン全国俳句日和・ワイワイ投句祭りIN松山」?の企画も大いに楽しもうではありませんか!
https://www.sakigake.jp/special/2020/haiku/article_49.jsp 【選句のポイントは?】より
俳句には「選」がつきものです。新聞の読者投稿欄は、選者によって選ばれた作品が掲載されます。どんな句が選ばれるか。その判断基準は選者の頭の中にあるわけですが、選ばれて公表された作品を見ると、この選者はこういう作品を評価しているのだな、ということがうすうすわかります。
この欄にもよく登場する俳人高浜虚子に「選は創作なり」という言葉があります。選者は、選ということを通して作品の価値を発見する。さらには作家を育成する。だから選というのは創造的な行為だというのです。では、その虚子という人はどんな選句をしたのでしょうか。
次の四句は森川暁水(ぎょうすい)=1901~76年=の作。「ホトトギス」昭和6(1931)年9月号の虚子選入選句です。このうち○を付けた句は、後年に虚子がさらに厳選した『雑詠選集』採録句です。○が特選、無印が佳作と思えばよいでしょう。
○梅雨の漏りふえつゝ夜に入りにけり…(1)
妻起きてひとりさわげり梅雨の漏り…(2)
○わらうてはをられずなりぬ梅雨の漏り…(3)
梅雨の漏りかゝりてぬるゝ水仕かな…(4)
暁水は「昭和の一茶」と称され、貧困を詠った作が得意でした。これらは梅雨の雨漏りを詠んだ作。○印の句は、事実をたんたんと詠んだ(1)と、作者の困惑した表情が彷彿(ほうふつ)とする(3)でした。いっぽう、騒ぐ妻を詠んだ(2)と、濡(ぬ)れながらの水仕(みずし)(台所の水仕事)を詠んだ(4)は、その事柄を狙って詠もうとした作意が露(あら)わなので、○に至らなかったと推察します。
このように同じ題材の句を並べると、句の選び方がある程度わかります。今回は、同じ題材を詠んだ複数の投稿句を見比べてみましょう。
事実をたんたんと詠む
梅咲きて百七歳の叔父が逝き …(1)
大往生梅の香りに送られて …(2)
花好きな叔父を偲ばす梅の花 …(3)
樋渡タツ子さん(湯沢市、74歳)の作。私が選者なら、この三句では(1)を選びます。「百七」という具体的な数字が効果的。「梅咲きて~叔父が逝き」という簡潔な口調が良いですね。(1)と比べると、(2)の「大往生」「梅の香りに送られて」は演出が目立ちます。作者には言いたいことがたくさんあるわけですが、それをことさらに言おうとせず、事実だけをたんたんと詠むほうが、読者には受け入れられ易いのです。(3)は「偲ばす」が少し言い過ぎかもしれません。「偲ばす」を消してはいかがでしょうか。
梅咲くや花の好きなる叔父の逝く
素朴な表現を心がける
陽が差して賑やかに舞う寒雀 …(1)
極寒の朝に煌めく冬日差し …(2)
屋根の雪雫となりし雨水かな …(3)
永井喜則さん(北秋田市、63歳)の作。冬から春への移ろいを詠みました。私が選者なら、この三句では(3)を選びます。「雨水」は二十四節気の2月半ば。「屋根の雪雫となりし」は雪解けの気分を誇張することなく、そのまま詠んでいます。いっぽう(1)の「賑やかに舞う」、(2)の「煌めく」は少しばかり肩に力が入っています。たとえば次のように、より素朴な表現を試みてはいかがでしょうか。
たくさんの寒雀が飛ぶ様子は、日がさしていくつも飛ぶや寒雀
極寒の朝の明るい日の光は 極寒の朝や明るく冬日あり
https://gospel-haiku.com/info/howsenku.html 【正しい選句の手法】
ほんとうの実力は選句でわかる
はじめに
こんちには、やまだみのるです。
選句を見ればその人の実力がわかるといわれます。 投句は偶然に佳句が授かることもありますが、 選句の場合はまぐれで秀句を選別するということはまずないからです。
英会話の先生から聞いた話ですが話すことより聞き取る訓練のほうが大切だということでした。 なぜなら聞き取る能力以上のレベルで話すことは出来ないからです。 聞き取り=選句、話す=投句、と置き換えてみるとよくわかる説明だと思います。
いいかえれば選句のレベルアップが図れれば当然作句力も向上するということになりますね。 つまり、日々の選句の訓練は俳句上達のためのもっとも重要な要素なのだと言えます。 ここで説明している手法は実際の句会で選句するときも同じですから、 そのためにもぜひ正しい選句手法に慣れておいてください。
選句は清記を印刷して行う
あなたは、どんな方法で選句をしておられますか?
画面の上から順に見ながら自分の気に入った句に出くわしたらチェックを入れ、 早々に、二句目のチェックが入ったらそれでよし・・というような無責任な選句になっていないでしょうか。 画面を見ながら、たくさんの作品の中から正しく二句を選ぶのは多分無理です。 選句は必ず清記を印刷して行うようにしてください。
GH毎日句会では、選句のページに各種の印刷フォーマットを用意していますのでこれを利用されると便利です。 印刷された清記をもとに選句を始める手順は次のとおりです。
印刷された清記を一句ずつ見ながら共感できると思う作品に赤えんぴつなどでチェックを入れていきます。 「○」印ではなくて、「レ」印をつけていきます。
この段階の作業はいわば「予選」です。厳選ではなく緩選を心がけて全体の10%〜20%ぐらいを選ぶといいでしょう。
予選作業のことを、「抜き取り」とも言います。 つまり、別に白紙のメモを用意してこれに書き出すのです。こちらの方が理想的です。
予選が終わったら、「レ」印の中から五句くらいに絞り込みます。このとき、「レ」印を囲むように、「○」印をつけるとわかりやすいです。
五句に絞り込んだ中から最終的に二句に絞り込みます。このときは、「○」印に重ねるように、「○」印をつけます。 つまり、「◎」印になるわけです。
選句が決定したら、パソコンの選句画面を開いて選句番号にチェックを入れ送信します。
このような手順をふむことで、パソコン画面と対する時間も少なくなり目の保護のためにもよいと思います。
毎日の選句データは、ファイルに保存しておくと後日の復習の良い資料となります。 みのる選の結果と照合したり尊敬する先輩の選と比べたりすると良い学びができます。
どうしても印刷できないひとは
どうしても印刷できないという環境の方もいらっしゃるでしょうね。 そんな場合は、次のような手法で選句作業をしてください。
A4程度の白紙メモを一枚用意します。
選句画面を見ながら一番上から順に一句ずつ読みます。
ほぼ、合格と判断した句に出くわしたらその句をメモに書き出します。
10%〜20%くらいの割合、総数が100句でしたら10句〜20句程度抜き取るのが目安です。
一番下の行まで、全部見終わったら選句画面を閉じます。
メモへの抜き取りが終わったら絞りこみの作業に移りますが、 でもその前にひとまず小休止して目を休めてください。 画面からの抜き取り作業はとても目が疲れますのでゆっくりコーヒーでも飲んでリラックスしてから、 絞り込みの作業にとりかかられるのがリズムとしてもいいです。
抜き取り作業が終わってからの絞込みの手法は、「清記を印刷をして行う」場合と同じです。
https://gospel-haiku.com/hl/senku.html 【選句の心がけ】より
俳句上達のためには、確かな選句力、鑑賞力を培うことが大切です。
選句力を向上させるには
選句力に具体的な基準はなく、それを向上させる方法を説明するのも難しいです。
けれども、選句力が向上すれば作句力の向上になるということだけは保証できます。
選句力の向上のために私が句会のたびに必ず励行していた方法を皆さんに公開します。
まず自分が予選した句と選者の選とがどのくらい一致したかをチェックします。尊敬する先輩のそれとの比較もまた有効です。
選者の選と合致している句が多いほど自分の選句が正しい方向にむいているのだと確認することが出来るのです。
この学習法は、多くの方が取り入れていると思いますが、さらにもう一歩突っ込んで復習すると更に効果的です。
それは、選者の選のうち自分が取りこぼした作品について何故自分は採れなかったのか、どういう理由で選者はその作品を採ったのかということを復習するのです。
選者の選評などを真剣に聞いていればそのヒントが得られます。それでも分らないときは遠慮なく聞くという勇気も必要です。
こうした努力の積み重ねを実行する人としない人とでは、同じ年月の修行をしても明らかに力の差が出てきます。
鑑賞力を向上させるには
選句力というのは作品の鑑賞力と同じです。
鑑賞力を向上させるのに一番よい方法は、「合評」に参加することです。ただし予習もせず思いつきのままコメントしていたのでは成果は得られません。
どのような方法で予習すればいいのかについて説明しましょう。
季語・季感をチェック
鑑賞をはじめる前に、作品に使われている季語はどれか、作品に詠み込まれている季感はどうかを真っ先にチェックします。
季語=季感だとは決めつけていけません。
秋口といふその言葉待たれゐし 青畝
使われている季語は「秋口」ですが季感は晩夏だということが分かりますか?
季語が「秋口」だから秋の句だと決め付けて鑑賞してしまうと、句意を理解することは出来ないですね。
俳句鑑賞は季語云々ではなく「季感」だということを肝に命じましょう。
季語らしいことばが見あたらなくても季感が感じられれば「無季」ではなく立派な俳句なのです。
一例を示しましょう。
植え終へし棚田に風の生まれけり
俳友の作品ですが、一読「季語」らしい言葉は見当たりませんね。
でも冷静に鑑賞すると「植田」という季語の変形であることが分ります。
老らくの手習を星御覧ぜよ 青畝
さてこの句はどうでしょうか。「星」だけでは季語にはなりませんね。
実はこの作品は七夕の句なのです。
願い事を七夕の短冊に書いて吊るしますね。裁縫や習字の上達を願ってという意味があったと伝えられていますが、先生のこの句はそれを踏まえて詠まれているのです。
これらの句を無季と決めつけるのは愚かであることが分っていただけたと思います。
上記の例句とは真逆のことになるのですが、季語が詠み込まれていても全く季感を捉えていない作品があります。
いわゆる「季語動く」作品です。選者は真っ先にこのチェックをします。没となる作品の大半はこれに該当します。
俳句は一人称の文学
俳句は基本的に一人称の文学と言われます。
必ずしも作者自身という意味ではなく「主人公」と言うほうが適切かもしれませんね。
要するに一人の主人公がいて、その人の目から見た感動を写生するのです。
客観写生を勘違いする人が多いですが、作者が存在せず第三者的な目で詠まれたかのように鑑賞するのは間違いです。
主人公=作者自身と決め付けるのもよくありません。俳句は日記のようなものですが、あくまで文芸なので作者が主人公でない場合も許されるのです。
春憂しと妻のわたしに言はれても
じつはこの作品、作者はみのるですが句の主人公は妻です(^o^)
あくまで参考ですので、このような作り方を推奨しているわけではありません。
句意を具体的に鑑賞する
◯◯がいいですねぇ〜 △△という措辞も素晴らしいですねぇ〜
というふうに表現や措辞の鑑賞だけで終わってはいけません。
作者は何に感動したのか、それをどう伝えたいのか、ということを具体的に汲みとることが重要なのです。
ああかもしれない、けれどもひょとしたらこうかもしれない
というような鑑賞もほめられません。いつも曖昧な鑑賞で終わる…癖がつくからです。
私はこうだと思う…と断定する勇気をもちましょう。間違っていても恥じることはありません。そのための学びなのですから。
他人の意見も受け入れる
句の鑑賞に絶対正解はありませんから、他の人の意見や鑑賞も理解する姿勢が大事です。
なるほど、そういう視点もあるのか
と素直に受けいれる謙虚さをもちましょう。
合評は、それぞれの意見を、参加者全員が共有することで、はじめて一句の鑑賞が成り立つのです。
青畝俳句を合評した記録が、有志の奉仕によってまとめられています。一年間かけて合評しその後それを有志のメンバーでまとめてくださったこの記事は の財産です。
全員の記事を読むことで鑑賞句の全体像がよく見えてくる。そう思われたのではないでしょうか。
鑑賞力以上の句は詠めない
いきなり例え話で恐縮です。
英文の読み書きなら自信があるという商社マンでも英会話は不得手という人もいます。
文字ベースのやりとりは出来てもヒヤリングが出来ないと応答することは出来ないからです。
じつは俳句も全く同じなのです。
知識や論理は誰にも負けないと豪語する人が、他人をうならせるほどの佳句を詠んだり鑑賞文を書いたりできるとは言えません。
作者の感動を的確に共感できなければ、でたらめな鑑賞になるからです。
作句の学びには添削というサポートがありますが、選句や鑑賞の学びは合評に参加して自分で修練していくしか方法はないのです。
指導者は作者のどこを見ているか
最後に、選者としての視点について少しお話しておきましょう。
互選でどの句が一番高得点を得るか
ということには興味がありません。
誰がどのような選をしているか
ということに神経を集中させています。
選句傾向が分ればおおよその実力が判断できまので、その人をどのように指導すればよいかが分るからです。
は結社ではなく単なる趣味の俳句サイトですので、決してみのる選が絶対という位置づけではありません。
けれども伝統俳句を継承しようとするその精神は結社とかわりません。そのことを伝えたくてあえてこの記事を書きました。
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