神を待つ松

https://toranekozuan.com/forest_memo/%E7%A5%9E%E3%82%92%E5%BE%85%E3%81%A4%E6%9D%BE/ 【神を待つ松】より

「松」は「神を待つ木」ということで「マツ」という名前がついたという説もある。日本では樹木が神の依り代とされることが多く、常緑樹の松は不老不死のシンボルでもある。お正月の門松も歳神さまへの目印として飾る。

自然の中を歩いている時、自分は日本人だなと感じる。非常に大雑把な分け方をすれば、西洋では「自然は神がおつくりになった」という考えが根底にある。日本では「自然の中に神がいる」または「自然そのものが神」という考えがある。もちろん考え方は個々人でも違うし、どちらが正解というものではない。

日本では山自体が御神体だったり、山に御神木があったり、そのうえ色々な神が色々なところにいるのだ。そして神のつかいとしての動物(シカやクマなど)もいる。

しばらく高い山には行っていないけど、山に入る時に手を合わせ、道端のお地蔵さんや道祖神に手を合わせ、御神木に敬服し、シカと目が合えば何か見透かされて時が止まったような感じになり、山頂に神社があればそこで改めて手を合わせる、といったふうに、神様だらけの自然を行く感じが自分にはしっくり来る。

去来信仰(春には山の神が田に降りてきて田の神となり、秋には山へ帰り山の神になるというもの)もほのぼのとした神が想像されて良い。そして、山の神は人々の仕事によって姿を変える。狩猟を行う人にとっての山の神は「野獣を支配している神」なので、獲物を仕留めるとその一部をお供えにする(ケボカイやモチグシなど)。木こり(杣人)にとっての山の神は「樹木を司る神」なので、木を切る前に許してもらい、切ったら同じ木を植えて償う(マサカリダテやトブサダテなど)。農耕が盛んであった日本にとって多くの場合は、山の神は「農耕神」であり、農作物の豊凶を司る神。日々の生業の中に、自分より大きな大きなものを感じつつ、それに畏怖と親しみを持ちながら暮らしていた頃の日本は、きっと貧しくても豊かだったんだろうと想像する。昨今では、宮本常一の「忘れられた日本人」を読んでいる時や、東北地方の木彫りの民間仏を見た時などに、そんな気持ちが強くなる。

語源メモ:松=神を待つ / 森=籠る(神々が籠るところ) / 榊=境の木(神と人間の境にある木)または栄える木 / 樒(しきみ)=悪しき実(実に毒アリ。昔は土葬だったので、動物よけに墓地によく植えられる)。

樒については、冬でも森の中でアオキと同じくらい緑緑している。私がよく行く場所で見るのは低木のツルシキミまたはミヤマシキミ。冬は赤い実が目立ち、食べてみたくなってしまう(←ダメです)。写真はツルシキミ、だと思う。夏の暑さで葉が少しやられているが、既に実が付いている。

※これまでの投稿もだけれど、今日書いている内容、全部森林インストラクター試験に出る範囲。なので勉強と個人の雑感を兼ねてのメモ。森林と林業の二科目の中だけでも樹木、植物、鳥、昆虫、土壌、木材・・・さらにあと二科目。膨大な内容。園芸品種は出ないのが救い。改めて、ただテキストを勉強すれば良いという試験ではないと感じる。年間、かなりの回数の自然歩きをしているけど、自分の知識不足が思い知らされます。


Facebook相田 公弘さん投稿記事

「目につくものになんでもいいから感謝する」  □『 アボリジニーの酋長 』

あるとき、見慣れぬ衣装を身につけたひとりの患者が医師の所にきました。

オーストラリアの先住民族のアボリジニーの酋長でした。

医師が問診をはじめようとすると、彼はそれを手で押さえ、こういったのです。

「このままでいいです。お医者さんは人を癒すのが仕事ですから、

ここで私といっしょに祈って私を癒してください」

内科医であるその人は唖然としました。

酋長は、静かに目を閉じていましたが、しばらくすると医師をじっと見つめ、続いてゆっくりと、部屋のもののひとつひとつに目をとめていきました。

医師は、どう対応したらいいのか考えているうちに、彼のあまりにも敬虔なまなざしに胸をうたれ、ただ彼のなすに任せていました。

はじめは戸惑い、何か医者らしいことを言わなければと焦った医師は、不思議なことにいつのまにかこころが落ち着き、酋長とふたりきりで黙って座っているのが、心地よく感じられるようになったのです。

20分くらいたった頃でしょうか、酋長は、静かに立ち上がると深く頭を下げて、部屋から出て行こうとしました。

はっと我に返った医師は、彼の腕をつかみ、もう一度椅子に腰かけるように促しました。

素直に腰かけた酋長に医師は尋ねました。

「ここへ何しにいらっしゃったのですか」

『癒していただきに・・・』

「あなたは何をしていたのでしょうか」

『祈っていました』

「何を願って祈っていたのですか?」

『何も願いません』

「でも、祈ったのでしょう」

『はい、祈りました。

私たちにとって、祈るとは、願いごとをすることではなく、ただ感謝することです。

目にとまったものを、ひとつずつしっかり見つめ、それを存在させている大いなる方に、感謝することです。

大いなる方につながっているようになるまで、感謝するのです。』

「それで癒されたのですか?」

『はい、大いなる方とのしっかりしたつながりを実感しましたから』

酋長は立ち去り、病院に2度と現われることはありませんでした。

*・゜゜・*:.。..。.:*・゜・*:.。. .。.:*・゜゜・**・゜゜・*

『目につくものになんでもいいから感謝する』

このアボリジニーの酋長を見て感じたのは、存在(being)が経験(doing)に先立ち、経験を生み出すという真実は変わらないということです。

要するに、「まわりの現実(条件)が○○になれば自分が幸せになる」という生き方ではなく「幸せな自分が○○を創造していく」(Being)という生き方へシフトしていくことが 大切なのかもしれません。

奇跡がないことが奇跡であるという事実、「当たり前」なんて何1つないということに気づいたとき、僕達は 自分自身の深い部分とつながっているんですね。


Facebook斉藤 一治さん投稿記事

日本の文化には、「お陰様で」とか「はい」「ありがとう」などのすばらしい「無我の文化」があふれています。

私たちはそうした「無我の文化」を日常生活の中で実践するだけで無我の世界に近づける恵まれた環境にあります。

私たちは、恵まれた日本文化を存分に活用して「お元氣ですか」という挨拶の中でも、「お陰様で」と答えながら、天地自然のおかげ、先祖のおかげ、社会のおかげ、親子兄弟姉妹のおかげ、身の内五臓六腑のおかげなど無限のおかげに感謝申し上げます。

そして次から次へと押し寄せる運命のすべてに対して「もとはこちら そのままけっこう」と無条件で「はい」と答え、「ありがとう」のひとことで困難を乗り越えて行きます。

また、呼吸一つが無事出来ても「ありがとう」、目が見えても、音が聞こえても、手足が動いても「ありがとう」と感謝申し上げます。

これだけのことが実践できるようになっただけでも、世の中は明るくなり一人一人の運命は大きく好転します。

宇宙空間の万物万象は、すべてのものが「宇宙全体の一つの生命」に繋がって存在している平等の生命です。

太陽様が善人も悪人も平等に照らしているように、宇宙全体の一つの生命に繋がっている万物万象は、一人残らず幸福にならなければならないという絶対の使命を背負って存在しています。

私たちは、そうした無我の世界を説明した仏典や聖書のすべてを差別することなく「諸法無我」の世界まで次元を高め、一人でも多くの人に「諸法無我」の世界を伝える菩薩道を精進します。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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