「無冠の帝王」なんてのは本来孔子に冠せられた言葉で格好良すぎるが、残念ながらゆきゆき亭こやんは一度賞というものを貰っている。
二〇〇一年の第三十五回詩人会議新人賞評論部門で『日本語と押韻(ライミング)』が受賞している。
詩人会議がどういう団体か全く知らずに、ただ「公募ガイド」見て適当に応募したら、なぜか受賞してしまったというものだ。
まあ、思想的に多少は問題あるものの、これも一つの縁と一年くらい詩人会議と付き合うことになったが、このあとすぐにあの9-11同時多発テロ事件があり、詩人会議の方も反米路線を強化することとなり、まあ結局は思想的問題で追い出されるような形でやめてゆくことになった。
まあ、それでもいろいろな人に逢えたし、楽しい一年ではあった。本書はその頃書いた文章を集めたもので、今思えば人生の中でほんのわずかだが、文壇とやらの表舞台に立った時期でもあったwww。
『日本語と押韻(ライミング)』はその受賞作で、『子規のライム』『J-popの作詞と俳諧の手法』とともに『詩人会議』に既出。それ以外は、この頃書いてはみたものの日の目を見なかった。
○日本語と押韻(ライミング)
○子規のライム
○九鬼周造のライム
○J-popの作詞と俳諧の手法
○田村隆一、錯乱の旋律
○田村隆一の『芭蕉・夢七句』
○芭蕉「閑さや」の句
○俳諧と百姓一揆
日本語と押韻(ライミング)
酔っ払いのライマーただ今ここに参上
言葉のケツ追っかける難病
先天性ライミング症候群が病名
検査結果は陽性
Taiki & Mummy D, zeebra『末期症状』
ライミング(押韻)は西洋の詩では普通に行われていることだし、日本のすぐそばの中国でも古代より延々と続いていた一つの伝統だった。日本はその中国から夥しい数の文化を吸収したにしても、日本語の詩歌の伝統のなかでライミングということはまったくといっていいくらい行われることはなかった。日本が明治の近代化の際、これまた夥しい数の西洋文化の流入のなかで西洋の詩を学び、近代詩を確立したにもかかわらず、ライミングはせいぜい一部の実験的な試みに終り、ついに定着することはなかった。つい何年か前までは日本語はライミングに向かない言語だということを、ほとんどの人が疑うことがなかったのではなかったか。ところが、ここ五年くらいの間にライミングは若者の間で一つの文化現象となった。それは活字メディアを中心としたいわゆる「近代文学」とはまったく無縁の所から起きてきたものだった。アメリカのニューヨーク・ブロンクスで生まれたB-boyカルチャーから生まれたラップという音楽の影響によるものだった。
ニューヨークの貧しい黒人の間で生まれたこのB-boy(ブロンクス・ボーイの略)のカルチャーは大きく言って三つあり、一つはブレイクダンス、もう一つはグラフィックアート(落書き芸術)、そしてもう一つがヒップホップだ。ヒップホップは、レコードを回して同じ箇所を繰り返したり他のレコードと組み合わせることで音楽を作り出すDJ(ディスク・ジョッキー)と、その音楽に乗せてメッセージをリズムカルに語るMC(メッセージ・コメンター)から成り立つ。そのMCの繰り出す言葉の抑揚やリズムをそのまま生かした、決まったメロディーを持たない独特な歌が、いわゆるラップだ。それに歌や楽器が加わることもあれば、バンドで演奏されることもある。
このラップを日本の若い世代が取り入れ、日本語で試み、自分たちの文化に取り入れてゆく中で、日本語のライミングという問題が生じた。最初の頃は日本語は韻を踏みにくい言語だという固定観念を持つものも多く(たとえば八十年代の近田春夫がそうだった)、ライミングといっても駄洒落的な語呂合わせや同じような助詞の語尾を並べてライムっぽく見せているものも多かった。しかし、今やいわゆるラップに限らず、J-popやロックにもライミングの波は及んでいて、日本の流行歌にあってライミングは着実に根を降ろそうとしている。
この波が果たして、いわゆる伝統的な俳句や短歌や近代詩にも及ぶのか、それはまだ何ともいえない。しかし、日本人がきわめて短期間のうちにライミングをしない民族からライミングを好む民族に変ったとすれば、むしろそこからライミングというのが一体何なのかを問うのにちょうどいい機会なのではないか。ライミングの起源とまではいかなくても、ライミングがどのように受け入れられ、発展して行くのかを見るにはちょうどいいサンプルを提供するであろう。
一般に西洋ではポップスはもとより、ハードロックでもパンクロックでも、たいていの場合歌詞はライミングがなされている。日本の七五調以上にライミングしないものは詩ではないという感覚が根付いているのだろう。だから、ラップという新しい音楽が流行したときも、ライミングは当然のことであったし、別に珍しいことではなかった。しかし、日本人が西洋のポップスやロックなどの文化を受容したときにも、ライミングまでまねしようという発想はほとんど起こらなかった。それは八十年代に日本に最初にヒップホップという新しい音楽が入ってきたときも、最初はそうだった。日本語ラップの創製期において、ラップはまだ言葉の響きとか美しさとかいうことと関係なく、ただ早口でまくしたてるものくらいに考えられていた。まだ、その背後にあるB-boyカルチャーにも関心が払われず、初期のラップはむしろロックミュージシャンの余興か、歌謡曲でも際もので、あるいはほとんど商品名を連呼するだけのコマーシャルなどでお茶の間に入っていったものだった。爆風スランプの『ああ、武道館』やしぶがき隊の『寿司食いねえ』あたりがそれだ。この頃が一応、第一次のラップブームといえよう。そうした中で、最初にブレイクダンスやグラフィックアートとともに、ヒップホップにも関心を持つ先鋭的なミュージシャンたちがいた。近田春夫、いとうせいこう、高木完などがそれだった。しかし、近田春夫は日本語のラップにはライミングは不要と考えていたようだし、いとうせいこうのライミングもこんなもんだった。
元気に現金 一獲千金
パンクもバンクでBANG-A-GONG-MONEY
ナマは言えねえ 現なま ハラホレ
昭和げんロック やどロック ロック
いとうせいこう&タイニー・パンクス『マネー』(1986)
今から見ればどうしようもないオヤジギャグで、駄洒落とライミングの区別もついてないような状態だった。
八十年代に日本にラップが入って来たとき、ラップは詩や歌の歌詞とは違い、ネタに頼るという傾向を持っていた。つまり心に思ったことをそのまま言い表してゆくというよりは、最初にテーマを決めて、そのテーマを盛り上げるために面白おかしい言葉を選んで、一種のコントを作るような方法で作られることが多く、こうしたネタもの的手法はさすがに今日では主流ではなくなったが、それでもしばしば行われている。
また、言葉の調子を合わせるという点では、自然と伝統的な七五調に近づく傾向もあった。たとえば電気グルーブ(テクノハウス系で、いわゆるヒップホップとは異なるが)の初期のラップはこんな調子だった。
今が旬のまがいもの
それがパンクアート、ラップ、テクノハウス
辞書を引いても載ってねえ
ページ開いても載ってねえ
ヘビメタよりも音でけえ
だけど、パンクスよりも気がちっちぇえ
バンドみたいでバンドじゃねえよ
それは何かと尋ねたら
電気グルーブ『マイアミ天国』(1989)
厳密ではないが、大まかに七五調のフレーズが続いているのがわかるだろう。一見ライミングしているように見えるが、形容詞の語尾[ai]の口語的発音[e:]がたまたま重なっているだけで、詩全体に規則的なライミングがなされているわけではない。
スチャダラパーの初期のラップも七五調という点では大差あるものではなく、しかも典型的なネタものだが、ここでは語尾の一音節だけがライミングされている。
今日は土曜日だ大集合
ファミコン戦士が皆集う
素人玄人そろうとも
まさしくその場は即戦場
おのおの自慢の技披露
あいつに負けじと皆競う
憎いぜずるいぜあん畜生
知らず知らずに真剣勝負
負けたら悔しさが付きまとう
負けるくらいなら死にたいよ
かたわらに置いた遺言状
負けてたまるかど根性
スチャダラパー『ゲームボーイズ』(1991)
長母音のオーと短母音のオとが混じっているが、耳で聞く分にはそう違和感はない。
しかし、七五調ラップの時代はそう長く続かなかった。七五調の詩はたしかに四拍子のリズムには乗せやすい。しかし、この乗せやすさはメロディーのある歌ならともかく、ラップにしてしまうとどうしても単調で変化の乏しいものになってしまう。それが本場のアメリカのラップに比べてもいかにもカッコ悪い。そのため、七五調ラップは程なくダサいラップの代名詞となった。
八拍均等にリズムを刻む中で七音節や五音節の詩がいかにリズムに乗りやすいかは、これまでもしばしば指摘されてきたことだった。日本の七五調だけでなく、漢詩が五言と七言を主流とすることも、韓国の時調が七七調を基調としていることもそれで説明がつく。しかし一方で、一文字字余りにすることで二拍の所に三音節乗せることになり、三連符を刻むことでリズムに変化がつけられることを、我々は古くから感覚的に知っていた。実際、和歌の五七五七七も厳密なものではなく、字余りの短歌がかなりの頻度で作られている。
秋の田の刈穂のいほの苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ 天智天皇
唐衣着つつなれにしつましあればはるばる来ぬる旅をしぞおもふ 在原業平
実際に声に出して読んでみると、よく注意すればわかることだが、「苫をあらみ」「つましあれば」「旅を」の所で無意識のうちに三連符を刻んでいる。俳句にもこの三連符の効果を持つものは少なくない。たとえば
芭蕉野分してたらいに雨を聞く夜哉 芭蕉
櫓の声波を打って腸凍る夜や泪 芭蕉
のような破調の句は、「芭蕉野分」「波を打って」の所が三連符になることで独特の緊張感を引き出している。日本のラッパーもまたリズムが単調に8ビートを刻むのではなく、しばしばそこに変化を与える三連符の効果に十分気づいていた。(それをフロウと彼らは呼んでいる。)そのことが次第に定型を踏みはずし、変化に富んだ字数のラップを生み出していった。
九十年代の前半までの日本のヒップポップシーンはむしろ生みの苦しみとでもいうべき多様な実験がなされた時期であった。ECDは押韻というよりは類似する言葉を並べてゆく、先のいとうせいこう的な語呂合わせをより洗練したものにし、後のラッパーに影響を与えていった。それは
ECDいっそ乾電池
ECDいっそ感電死
173センチ
レンチで調子直せれば便利
千里の道も全然全然びくともしないで
あー行くとも行くとも
ECD『いっそ感電死』(1995)
というような調子だ。
ライミングを定着させるには、ライミングと駄洒落を区別するということも重要だった。本来ライミングの効果というのはあくまで音楽的なものであって、意味に関してはほとんど影響を与えない。しかし、似たような言葉を二つ並べたとき、相反する二つの効果を生じることがある。一つは掛け言葉や造語のような意味の融合で、もう一つは相反する意味のものがお互いに打ち消し合って無意味(ナンセンス)を生じるという効果だ。こうした効果は紙一重の所がある。前者は詩にとって重要な要素となるが、後者がいわゆる駄洒落となる。
もちろん、別に駄洒落そのものが悪いというわけではない。ユーモアは時と場合によっては文学にも必要となる。駄洒落はいわばメッセージが持ちうる意味を無効にする。たとえば「隣の家に囲いができたってね」「へい」という古典的なギャグは、隣に囲いができたということがひょっとしたら何か重要な意味を持つのかもしれないと思わせておいて、それを無効にすることでメッセージの生み出す緊張感をそぐ働きがある。「あなたは癌です」「ガーン!」というのもそういう類だ。会話の緊張感を消し去り、無意味にするという点では無意味な間投詞もしばしば同様な効果を上げる。「ガチョーン」「アジャパー」の類だ。こうした言葉は緊張緩和が要求されている場面では喜ばれるが、逆に緊張を要求される場面で発せられると、怒られたり、人格を疑われたりする。
先のいとうせいこうのラップは駄洒落に陥っていたし、無意味な「ハラホレ」なんて言葉も入っていた。しかし、ECDの場合、意味を破壊しナンセンスを生み出して笑いを取るということはほとんど見られない。その点ではより本来のライミングに近づいている。
さらに同時期、Tokyo NO.1 soul setはむしろライミングよりも、メッセージの意味を重視させ、むしろ近代詩的な発想に近づいている。
僕らはそもそも昼に生きるのか
そうでなければ何故、昼は
太陽の光りで注意を引き
たちまち僕らの目を眩ませて
輝きたいと思わせるのか
より高く、もっとより高く
空想よりももっと高くと
たえず光源へとおびき寄せる
なら飛び立とう、そして到達しよう
足場が不安定なのに気づかずに
翼のバランス考慮して
飛翔は合理的に計算され
おかしい所は無いはずなのに
妙に自信だけ持っているのに
昇天への欲望はどうして
狂気のように見えるのか
『黄95~太陽の季節』Tokyo No.1 Soul Set(1995)
駄洒落ラップやネタもの的な笑いを取る方向を拒否した点では、これもラップがより詩として洗練されてゆく一つの方法ではあった。ただ、ライミング文化の受容という点では完全に後退してしまっている。かせきさいだあもそれに近い方向を持っていたが、しかしこの方向は結局日本のヒップホップの主流にはならなかった。実際、商業的に成功したのはECDの路線でもTokyo No.1 Soul Setの路線でもなかった。むしろライムやリリックを両方とも切り捨てて、日常会話に近づけてゆく(おそらくは深夜放送のトークを理想とする)方向に向い、しかも相変わらずネタもののギャグで勝負し続けたスチャダラパーやEast end & Yuriだった。詩というよりは、むしろ散文ラップに向かうものだった。
九十年代前半において、まだ世間のヒップホップカルチャーについての認識は皆無に等しく、売れるためにはいわゆる「際もの」だとか「色物」だとかいわれる路線を取らざるを得なかった。世間で十分受け入れられていない音楽をやっている音楽家にとって、ギャグで客を集めるということは、別に珍しいことではない。クレージーキャッツはジャズバンドだったし、ドリフターズもエレキバンドだった。ヒップホップが売れなかった時代に、ギャグ路線を取った色物的なものであれ、ヒット曲を出し、世間にヒップホップの存在を知らしめたことは決して意味のないことではない。一九九四年はEast end & Yuriの『DA.YO.NE.』や小沢健二featuringスチャダラパーの『今夜はブギーバック』のヒットなどで、第二次ラップブームの時期をむかえ、East end & Yuriはヒップホップ界で初の紅白歌合戦出場歌手となった。
しかし、本格的なライミングへの道は、この頃のマイナーシーンの新しい世代の間で動き始めていた。それまでのお笑いラップや語呂合わせラップに飽き足らず、あくまでカッコいいラップを追及し、一躍脚光を浴びたのが、Zeebra率いるキングギドラだった。Zeebraのラップの大きな特徴はフリースタイルと呼ばれる即興的なライミングと計算されたフロウ、そしてギャグやおちゃらけを交えないという点だった。
本来アメリカのB-boyカルチャーではスポーツ感覚で互いに競うということに重点が置かれていた。ダンスバトル、DJバトル、そしてラッパーもまたMCバトルを行っていた。ZeebraはこのMCバトルの感覚を取り入れ、いかに巧みに韻を踏んだ言葉を即興で吐き出せるかを互いに競うという仕方を持ち込むことで、ライミングを急速に発達させた。それまではせいぜい末尾の一音節か二音節くらいで韻を踏んでいたのに対し、ライムを競うようになってから三音節、四音節と韻字の数を急速に増やしていった。
そのzeebraひきいるユニット、キングギドラの記念碑的なラップは次のようなものだった。
Zeebraの脳味噌フリースタイルモード
きまっちまったあとはいつもこのコード
シークレットコードまるで暗号のように
乱雑に羅列される単語
キングギドラ『空からの力』(1996)
誰かの夢また行方不明
悲観的思考で現実見つめ
あとでつけた言い訳の説明
見失ったが最後絶体絶命
キングギドラ『行方不明』(1996)
これがほぼ、その後のラップのスタイルとして、大きな影響を与えていくこととなった。
詩で勝負ごとというと、奇妙に思うかもしれないが、日本でも古代より歌合というのが行われていたし、中世の連歌も集まった連衆がその場で誰が最も巧みに句を付けるかを一句ごとに競うというものだった。さらにでき上がった連歌の中で佳句の上に点を打ってゆき、誰が一番多くの点を取ったかを競った。こうした遊戯は江戸時代の俳諧にも受け継がれ、いわゆる「点取り俳諧」を生み出した。今日の近代俳句もよくよく考えて見れば、投句されてきた俳句を選者が審査し、入選句数や入選順位を競うものだ。
即興でライムをするということ自体、日本人にはそれまでほとんど経験のないことだった。しかし考えてみれば、即興で五七五の句を作り、それを競うということであれば、実は日本人は果てしなく長い時間それを経験してきた。特に俳人や歌人を志すものなら、日常目に映るものを即興で俳句や短歌の形式にするという訓練を誰しもやっているのではないのか。それこそ「今まさに電車のドアが閉まろうとすれども我はまだ階段に」みたいな練習をひそかにやってなかっただろうか。交通標語だって五七五だし、我々は日常的にこうした決まった文字数に言葉を収める訓練をしてきた。だからこそ、七五調は日本人の血となり、肉になってきた。ラップにフリースタイルを取り入れるということは、単に即興のライミングに挑戦するというだけでなく、MCバトルで勝とうと思えば日常的にライミングの練習を行うことになる。また、互いに相手のライミングを聞くことによって、お互いの経験を学び合うこともできる。そして、競うようにたくさんの作品が作られてゆけば、次の世代はそれを聞くことで自然にライミングの感覚に慣れることもできる。これまで日本人がライミングを苦手としてきたのは、そうした過程を我々はまったく経験してこなかったし、する機会もなかったからではなかったか。
一九九九年、Dragon Ashの『Let's yourself go, let's myself go』のヒットによって始まった第三次ラップブームは、Zeebraの影響を受けた降谷健志によって作られたものだった。Dragon Ashは本来ロックバンドとしてスタートしたバンドで、それにヒップホップの要素を取り入れた、いわゆるバンド系ラップだった。しかし、『Let's yourself go, let's myself go』やzeebra、ACOをフューチャーした『Greatful days』のヒットによって、それまでマイナーだったラッパーたちが一躍メジャーになった。しかも、それまでのブームのようないわゆる色物としてではない。際ものではない、おちゃらけではない、若者のカッコいい新しい音楽としてヒップホップがついにメジャーなものになった。これとともにライミングに対しても駄洒落や語呂合わせとは違ったカッコいいものとして若者の間で認識されるようになってきた。そうなると、ロックやJ-popの歌詞にも人は競ってライミングを取り入れるようになる。ライミングが日本人の心に定着するにはそういう過程が必要だったのではなかったか。次に掲げるのは二十世紀末の日本人のライミングの一つの到達点である。
草木は緑
花は咲き誇り色とりどり
四季はまた巡り小春日和
用もないのにただ並木通り
思う今一人
ハーフタイムなんてなしに過ぎる日常
俺もなんとかここで一応
やりくりしてるわけで
時にはなりふり構わず生きよう
Dragon Ash『静かな日々の階段を』(2000)
ライミングの必然性というのは、それが耳で直接聞いた時の響やリズムといったものと切り離せないもので、だからラップのような早口で読み上げる形式のものでは最も早くその必然性が自覚された。さらに音楽の詞をきれいに響かせるという点で、ライミングがすぐにJ-popに影響を与えたのも理解できる。それなら、何で今まで日本ではライミングというものが発達することがなかったのだろうか。
日本語のライミングが難しいとされた理由の一つには、日本語の一つの単語の音節数が多いため、間伸びするからだというのがあった。しかし、それならスペイン語やラテン語も同様の欠点を持っていたはずだ。また、日本語は助詞や助動詞で終ることが多く、同じ助詞で終らせると単調になるというのも理由とされてきた。しかし、詩では体言止めも多用されてきた。むしろ古くから日本語にライムが重視されなかった最大の原因は音楽の形式、つまり吟詠という一音節を極端に長く引き伸ばして朗々と歌い上げる習慣にあったと思われる。つまり、句の語尾と次の句の語尾が来るまでの時間が長すぎれば、ライミングの効果はそれだけで目立たなくなる。ライミングの持つ効果を十分発揮させるには、前の句の語尾がまだ記憶に残っているうちに次の語尾が来なくてはならない。しかし、日本の吟詠だと次の語尾が来たときには既に前の句の語尾を忘れてしまうくらい時間が経過してしまう。これだと脚韻はほとんど音楽的効果を上げることができない。ライミングが効果を上げるには早いテンポで句が繰り出される必要がある。その意味で、吟詠とラップは両極にあるものだ。
それに加えて長く引き伸ばす吟詠は必然的に言葉を短く切り詰める必要を生じる。そのため発達したのが、二つの類似する韻を持つ単語を末尾に並べるのではなく、一語にまとめて掛け言葉にするという技法だった。たとえば、
世にふるもさらに時雨の宿り哉 宗祇
という句の「ふる」は「雨が降る」と「世に経る(年老う)」という二つの言葉を掛けて用いられている。これをライミングの技法で作りかえるなら、こんな感じになるだろう。
時雨世に降る
雨宿りする
我よわい経る
「ふる」という言葉を二回重複して用いる分、句は長くなる。そして長くなった分、早い調子で歌い上げることで時間としては釣り合う。
漢詩であれば一音節の単語が多いため、ゆっくりと吟じても語尾と語尾との時間の経過は少ない。しかし、日本語の吟詠の場合、一つの単語が長い分、韻を踏んでもその間の時間の経過が長すぎてしまう。それが最大のネックだったことは、中世の和歌や連歌に五韻連声のような尻の音と次の頭の音とを合わせる独特なライミング法があった所からも想像できる。五韻連声はたとえば『水無瀬三吟』の最初の部分で次のように用いられている。
雪ながら山もと霞む夕べ哉
行く水遠く梅にほふ里
川風にひとむら柳春見へて
しかし、吟詠の伝統は明治期に急速に衰退し、代りにそれまでの日本にはなかったようなテンポの早い西洋の歌曲が入って来たとき、なぜライミングは定着しなかったのだろうか。それはおそらく、近代詩が俳句や短歌同様、出版メディアを中心に発展したことに原因があるのではないかと思われる。いわば近代の日本の詩人は自分の詩をライブの場で直接聴衆に向かって朗読して、耳で聞かせるということをほとんど行ってこなかった。それゆえ、文字表記や活字の配列には単に気を配るだけでなく、様々な技法を実験してきたにもかかわらず、音声上の技法にはほとんど注意がはらわれてこなかった。それに加え、和歌の伝統技法から脱却することを詩の近代化として捉える意識が強かったため、言葉遊びや技巧があるのは文学の本質からはずれる、という一つのイデオロギーを生じていた。詩が書物で読まれるものである限り、近代詩は次第に散文化し、読み物として発達する傾向を持っていた。
さらに、一部日本語でのライミングを試みた人たちも、たいていは一音節だけで韻を踏もうとしていた。ここに一つの落し穴があったように思う。たとえば英語でpray(祈る)に対しgray(灰色)と韻を踏んだ場合、一音節のライミングでありながら、意味を持った二つの単語が微妙に結びつき、「灰色の祈り」といった意味の加算が生じる。しかし、日本語で「祈り」「灰」という韻を踏んでも音素レベルでの一致にすぎない。たとえばこれを「祈り」「血糊」と韻を踏むなら、そこに血塗られた祈りというニュアンスを生じさせることができるかもしれない。ところが、押韻を試みてもたいていの場合、英語や漢詩にならって韻を踏もうとする。そして、一音節だけやってみてあまり効果がないからやめよう、というふうになりがちだったのではないか。私は日本語のライミングが十分な効果を上げるには最低三音節(長母音、二重母音は二音節に数えて)は必要だと思っている。これがいわば日本語ライムの臨界だ。三音節ライムを越えたあたりから、ヒップホップシーンでも急速にライミングが見直され、広がってゆくようになった。
今日のラップを聞くにつけ、私は「日本語だってやればできるじゃないか」と思っている。しかし、それはラップであって詩ではないという人もいるかもしれない。実は、私はラップ、作詞、近代詩、短歌、俳句なんていう境界線がなくなり、詩が一つになればいいなと思っている。明治の近代詩の揺籃期にあって、正岡子規はまだ、俳句、短歌、漢詩、近代詩を平行して制作し、詩は一つだという感覚を持っていた。しかし、その弟子たちは各々俳句、短歌の結社を作り、互いに門戸を閉ざし、そのまま今日に至っている。その子規はまた、ライミングの先駆者でもあった。子規は明治三十年にこう言っている。
「われは調子の上より新体詩に韻を踏まざるべからずとは言はず、されど今の散文的新体詩を韻文的ならしむる一方便として韻を踏むことを勧むる者なり。韻を踏みたるがために佶屈聱牙ともならん、支離滅裂ともならん。佶屈聱牙も支離滅裂も刺激剤として必要なりと信ず。」
今、その刺激剤の役割を果たしているのが、俳人でも歌人でも詩人でもなく、ラッパーなのである。
子規のライム
正岡子規というと俳句や短歌は有名だが、たくさんの新体詩の作品が残されていることについては、あまり知られていない。というのも、これまでの正岡子規研究の大半は俳人か歌人の手によるものだったからだ。彼らにとって正岡子規を読むということは、自分たちの作っている俳句・短歌の基礎の確認であるとともに、自分たちがこの偉大な先人の真の後継者であることを主張し、権威づける手段であることははっきりしていた。だから、子規に対し若干の批判はあるものの、おおむね子規が芭蕉から近代俳句へ、万葉から近代短歌への伝統の正当な橋渡し役であることを疑うものはなかったといっても言い過ぎではないだろう。しかし、子規の作った新体詩作品が一つや二つではない以上、我々は子規論を俳人や歌人の独占物にしておくわけにはいくまい。ここでは子規の詩の大きな特徴であるライミング(押韻)を手がかりに、正岡子規の隠された一面に触れてみたいと思う。
子規の新体詩研究のこれまでの困難は、おそらくライミングという西洋や中国では普通に行われていながら、日本ではなじみの薄かったこの技法のせいもあっただろう。しかし、子規にとって新体詩を漢詩や西洋詩のようにライミングするというアイデアは決して唐突に現われたものではない。まだ俳句や短歌の革新を手がける前の明治二十二年の『詩歌の起源と変遷』で既にほのめかされていることだった。実際に子規がライミングを試みるのは明治三十年のことだから、最低でも八年越しのアイデアだった。しかし、私はこのアイデアはもっと古かったのではないかと想像する。というのも、子規は幼少期から漢詩に親しみ、生涯に渡り夥しい数の漢詩を残している子規のことである。明治十五年刊の『新體詩抄』(外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎撰)の中に谷田部良吉の『春夏秋冬』という、ライミングをした日本語の詩を見つけた時、既にこのアイデアが生じていたことは十分に考えられる。
この日本語でライミングするというアイデアは、新体詩の揺籃期には盛んに議論されたものの、既に長いこと近代文学史の中では忘れられた状態にある。しかし、幸いなことに今はラッパーたちの類稀な努力によって、日本語のライミングはそんなに珍しいことではなくなった。つまり、今日であれば比較研究によって子規のライミングの特徴を描き出すことが可能となったのだ。試みに、ここに今日のライムと子規のライムを並べてみよう。
消えていく夢の数
煮え切らない気持ちに爪を噛む
胸を刺す痛みをくたびれたこのノートに書き留め
今日より明日へ
折れた鉛筆の針
変らぬ現実のシーン
降り出した雨にじんでいく文字
何も語らない死んでいるように
プラスとマイナス
また行ったり来たりする二つの解釈
最悪の結末をかたくなに
拒み続けまた歌い
もがき続け甘くない水じゃ潤せぬ喉
忘れたくつろげること
また無情に過ぎる二十四時間
未だ見えないあのユートピア
二十四時間この宇宙の下
がむしゃらな思いをシュートした
未だ見えないあのユートピア
(Kick The Can Crew『ユートピア』より)
指かゞなへて 十あまり
思へば夢の 昔なり
我まだ若き 花の顔
春に酔ひたる 心、猶
道の柳も 手折らまく
籬の桃も かざすべく
手の觸れ足の 踏むところ
いづれ情の 浮くそゞろ
(『おもかげ』子規全集 第八巻より)
Kick The Can CrewはKreva, MCU, Littleの三人からなるユニットで、ここではそのKrevaによる部分を抜粋した。KrevaはB-Boy ParkのMCバトルで二年連続優勝を果たした、まさに実力ナンバーワンのラッパーだ。
ライミングする音節数は子規のほうが遥かに少ないが、最後の「の踏むところ/の浮くそゞろ」あたりは今日のラップと比べても遜色がない。しかし、よく見ると子規のライムは最後の一字だけを取ってみると「り」と「り」、「く」と「く」というように単なる母音の一致ではなく子音までもが一致してるのに気付くだろう。これに対し、Kick The Can Crewの方は「いく文字」「いるように」のように長母音と短母音が同じ韻として扱われたり、「二十四時間」「宇宙の下」のように、最後の「ん」の音が無視されたりしている。これは子規のライミングがあくまで漢詩の「韻字」の発想によるものなのに対し、Kick The Can Crewの方は耳で聞いた感じを重視しているからだ。
子規は明治三十年の『新體詩押韻の事』(子規全集 第八巻)という論稿で、ライミングの仕方について三つの説を挙げている。
「日本の語は総て母音を以て終る者なれば支那、英國などゝ稍異なり。故に其量に付きても三説あり。 第一、最後の母音のみを韻とする者(あ、か、さ、た、な等皆同韻なり。此説に従へば僅に六種に止まる。即アイウエオンなり。)
第二、最後の一字だけを韻とする者(「い」と「い」、「か」と「か」、「ぶ」と「ぶ」、「ん」と「ん」、「きヨ」と「きヨ」の如し。此説に従へば韻の種類八九十ある筈なれど実際に用ゐ得べきは四五十に上らざるべし。)
第三、最後の一字と其前の字の母音とを韻とする者(「きん」と「りん」、「つく」と「すく」、「よる」と「のる」の如し。此説に従へば韻の種類は非常に増加す。)」
第一のタイプのものは明治二十二年に出版された訳詩集『於母影』にも見られるし、明治二十四年の中西梅花編『新體梅花詩集』にも見られる。しかし、これらの韻の踏み方は必ずしも統一されたものではなく、そこには第二のタイプのものも混じっている。たとえば『於母影』の中の『笛の音』という詩は
君をはじめて見てしとき
そのうれしさやいかなりし
むすぶおのひもとけそめて
笛の聲とはなりにけり
という一のタイプの押韻で始まるが、途中では
そのふく笛の音に添へて
おのがおもひはつたへなむ
そのふくこゑをたのみきて
さきのうたをばうたひなむ
という二のタイプのフレーズが入る。第二のタイプの押韻は第一のタイプの押韻のたまたま子音まで一致したものと取ることもできる。第二のものだけに限定したライミングは子規の独創かもしれない。
第三のものは『新體詩抄』の矢田部良吉の詩、『春夏秋冬』に習ったものだ。それは
春は物事よろこばし
吹く風とても暖かし
庭の桜や桃のはな
よに美しく見ゆるかな
野辺の雲雀はいと高く
雲井はるかに舞ひて鳴く
というものだった。
三つの説を実際に子規の作品においてたどると、子規のライムはこの第二の型から始まる。子規の最初のライミングされた詩は明治三十年の一月二十日の『日本人』第三十五号に掲載された四編で、その中の一つがこれだ。
老嫗某の墓に詣づ
われ幼くて恩受けし
姥のなごりの墓じるし、
せめては水を手向けんと
行くや、湯月の村の外。
昔辿りし田の小道、
寺を廻りて埋葬地、
三年過ぐればこは如何に、
墓満ち満ちぬ、尾に谷に。
彼方に見ゆる岡高く
薄の穂波さし招く、
薄は吾を知るか、その
吾も薄を見覚えの
その墓に来て思ひきや、
さて似もつかぬ戒名や。
しりへを見れば又しりへ、
薄の垣の一搆へ、
そこぞと許り尋ね入る、
そこにもあらぬ墓立てる、
右も左も薄、墓、
あの墓か、この穂薄か
詮方盡きて彳みつ、
無常の思ひ胸を打つ。
鷺谷下る道半ば、
心残りて見返れば
数百の墳墓いづれそれ、
いたゞき許り見え隠れ、
湯の山颪吹き靡き、
白髪を乱す花薄。
(子規全集 第八巻)
子規は『新體詩押韻の事』でこう言う。
「韻の量に付きて種類あり。西洋にては最後の母音(其母音の後に子音来る時は其子音をも併せて)を繰り返すなり。go, show,又はchain, main,の如し。支那にては一字の音を全く繰り返し又は半ば繰り返す者なれば西洋の韻と同じ量か又は之より少し多きことあり。例へば「リン」「ギン」といふ韻は西洋と略同じく、「シウ」「シウ」といふ韻はSの子韻だけ西洋のより量多し。」
ここで子規はgo, showに第一の「最後の母音のみを韻とする者」を見て取り、そのあとのchain, mainを第三の「最後の一字と其前の字の母音とを韻とする者」とするならば、子音で終り母音を持たないのを一字と数えてしまっていたことになるだろう。これを日本語に当てはめると、「あまり」「なり」、「顔」「猶」ということになる。ここで、英語のt,n,pのような文字と日本語の「り」や「お」とを同等に捉えている。これは明らかに「字」ということに惑わされた発想だ。単独で音節にならない英語の末尾の子音と、母音子音との両方が一致した日本語の一音節を、同じように「一字」として同じ分量の押韻としている。これは「ん」を独立した韻字として扱うところにも現われている。
世を憤るそのために
名士の末に生れけん、
不平に駈られ、君終に
都を出れば行路難。
(『田中館甲子郎を悼む』より)
この「けん」と「難」とをライムとみなすのはこうした「韻字」という発想による。子規のライムは文字ライムだ。これに対し、今のライムは末尾の字の一致を必要としない、あくまでも母音の一致によるライムだ。だからこそ「二十四時間」と「ユートピア」がライムになる。文字的には「十(じゅう)」と「ユー」は一致しないが、発音上は一致するし、「時間(じかん)」と「ピア」は明らかに末尾の文字は異なるが、母音は一致している。
韻の量の推定について、子規はもう一つ間違いを犯している。それは英語や中国語に一音節、二音節の単語が多いのに対し、日本語には一音節の単語は少なく、三音節以上の単語が少なからずあるということだ。このため、英語や中国語では一音節の母音の一致でも、単語レベルでの類似となる。たとえば、「暁」と「鳥」との韻の一致は、「あかつき」の「き」と「とり」の「り」との一致ではない。単語全体の韻が一致しているくらいの(たとえば「あかつき」と「かざむき」くらいの)類似性を持つ。そのため、漢詩のライムは一音節でも日本語の一音節以上の強烈な印象を与える。特に五言絶句などは五音節毎に韻が踏まれるために、本来はかなり強いライムを持っている。試みに李白の『秋浦の歌』をヒップホップ風に訳しておこう。
秋浦歌 李白
白髪三千丈 白髪頭が三千丈
縁愁以個長 悩んでいたらまた延長
不知明鏡裏 鏡は誰だか分からねぇ
何處得秋霜 どこで得たのかその秋霜
同じ明治三十年一月二十日の『日本人』に掲載された最初のライム作品『古白の墓に詣づ』では、同語反復による疑似ライムがあちこちに用いられている。
何故汝は 世を捨てし。
浮世は汝を 捨てざるに、
我等は汝を 捨てざるに、
汝は我をぞ見捨てにし。
の中二行は同語反復だし、一行目と四行目も同じ「し」という助動詞で韻を踏んでいる。
億萬人を 容るるべき
浮世は、古白 てふ汝が、
大文学者 てふ汝が
住むとはいかで 知り得べき。
も「べき」「てふ汝が」の反復による。こうした同語反復のライムは、その後の『俚歌に擬す』にも見られる。こうしたライムはもっとも初歩的なもので、全部がこの手のものだと、果たしてライムと呼べるかどうかということにもなりかねない。しかし、部分的にであれば、今日のラップでも用いられている。たとえばZeebraの『Mr. Dinamite』には「…奴ら、…奴ら」という「奴ら」の連続が見られる。しかし、これは曲の中のめりはりの一つであって、こればかりだったらライムとは言い難いだろう。しかし、おそらくライムの起源の一つには、こうした同語反復による対句やリフレインが関係しているのかもしれない。同語反復に近いものに、特定の語尾や感動詞を付け足す方法がある。漢詩でも『楚辞』など古いものでは「兮」の文字を語尾に補ってライムにしているものがある。日本の童謡『あんたがたどこさ』もこの種のライムに属する。ラップでも最近は用いられないが、初期の古いラップ、たとえばEast end &Yuriの『DA. YO. NE.』は「…でぇ」「…だしぃ」という語尾を用いたこのタイプのものに属する。私は韓国の音楽事情についてはよく知らないが、九十年代前半のソ・テジやデュースのラップもゴ(?)やヨ(?)といった語尾によるこの種のライムに留まっているようだ。
ライミングするとき、同語反復は一番初歩的なものとして、同音意義語というのも思いつきやすい。たとえば、「…だろうか」に「廊下」という言葉は出て来やすいが、これだと駄洒落に陥る可能性も高い。次に思いつきやすいのは一字違いだ。たとえば、「祈り-血糊-道のり-日取り-気取り-緑」なんていうのはわりかし踏みやすい。しかし、「祈り」からいきなり「みそぎ」「煮干し」なんて言葉は出て来にくい。これはやはり、言葉を母音と子音に分解し、子音をランダムにすげ替えるという作業そのものが習熟を要するからだ。さらに、文法的な働きの違う言葉はより高度になる。たとえば「祈り」に対し「青い鳥」だとか「一人飲み」のような。その点ではKick The Can Crewの「最悪の結末をかたくなに/拒み続けまた歌い」というライムはかなり難易度が高い。こうした習熟は体で覚えるもので、理窟ではない。
これに対し、子規が「お」と「お」、「り」と「り」のような同音節のライムにこだわったのは、子規のライミングが自ら作った韻字表と首っ引きのもので、身体的な習熟にまで至ってなかった証拠であろう。子規は新体詩で韻を踏もうとしたときに、すぐに「韻さぐり」という韻字表を作ったという。これをもって子規の並々ならぬ努力を評価する向きもあるが、問題はそれが正しい方向への努力だったかということだ。スポーツでも非科学的な無茶なトレーニングは体をこわすだけで良いことは何もない。韻字表を作るという発想もまた日本語の音声を感覚的に捉えるものではなく、むしろ機械的に文字を当てはめてゆく作業となる。これは日本の漢詩の特異なやり方だ。中国人にとって漢詩の韻は母国語のもので、表にしなくても感覚的に理解しているものだ。韓国人にとっても漢詩は韓国音で発音されるため、やはり母国語だ。そのため韓国では漢詩の文化が庶民の間にまで浸透し、金笠(キム・サッカ)のような国民的に広く親しまれている漢詩人がいる。
たとえば、日本では孟浩然の『春暁』という詩を「シュンミンフカクギョウ/ショショブンテイチョウ」とは発音しない。しかし、こう読んだ方が韻を踏んでるということがはっきりわかる。しかし、これを「春眠暁を覚えず/處々啼鳥を聞く」というと、どこで韻を踏んでいるかはっきりしない。「覚えず」と「聞く」で韻を踏んでいるわけではない。書き下し文という日本の伝統的な漢詩読解法では韻を訳出することができない。にも関わらず、漢詩を創作するときには規則として韻を踏まなくてはならない。こうして長いこと日本人はライムの持つ本来の面白さを知らず、ただやかましい面倒くさい約束事として韻を踏んできた。面白さがわかったとしても、それは文字遊戯としての面白さに留まった。かつてはライムの先駆として横井也有の『鶉衣』の押韻俳諧が引き合いに出されることもあったが、それは
木曽路に假の旅とて別しが
武蔵野に長きうらみとは成ぬ留
呼べばこたふ松の風
消てもろし水の漚
わすれめや 茶に語し月雪の夜
おもはずよ 菊に悲しむ露霜の秋
庵は鼠の巣にあれて 蝙蝠群れて遊
垣は犬の道あけて 蟋蟀啼て愁
昔の文なほ残 老の涙まず流
といったもので、漢詩の韻字を用いた文字遊戯であって、日本語でライミングしているわけではない。(どちらかというと途中の「にあれて蝙蝠」と「道あけて蟋蟀」の方がライムになっている。)
おそらく、本来のライムの発展の道筋から言うと、同語反復の語尾や対句からやがて同音異義語を対句に用いることを発見し、それが母音のみを一致させるものへと進化してきたのだろう。そして、日本の場合同音異義語の発見が掛言葉へと発展することで、ライムへの道が未発達のままに留まったのだろう。
子規は最初第二の「最後の一字だけを韻とする」ライムから始めるが、やがて慣れてくると、時折第三の「最後の一字と其前の字の母音とを韻とする」ライムが所々に混じるようになる。そして、それがさらに進むと冒頭で掲げた「の踏むところ/の浮くそゞろ」というような多音節ライムも登場するようになる。これはいくつもの詩を作っているうちに、本人も無意識のうちに脳の中にライミングするための回路が形成され始めていたのだろう。子規のこういう多音節ライムは偶然ではない。「浮くそぞろ」なんて言い方は不自然な倒置だし、あえてその不自然な句を用いるのは、ライムが面白いから以外に理由はないだろう。
子規が提起した三つの説のうち、第一の「最後の母音のみを韻とする」方法は、あとの二つに比べ、散発的な実験に終った。『猩々』や『芒老ゆ』がそれに当る。ともに明治三十一年秋以降の作品だ。ここではその『芒老ゆ』を掲げておこう。
芒老ゆ
芒老いて菊はつぼむ
萩を刈りて菊は開く
白き薔薇に晴るゝ小雨
葉鶏頭に散る夕栄
蝶来らず居らざる蜘
静かなるは秋行く園
くさる落葉うるほふ土
四十雀はひそかに在り
病みて三年庭を踏まず
窓にもたれ景を弄す
雲は過ぐる上野の杉
山気骨にしみて寒し
(子規全集 第八巻)
ここにおいてようやく子規は韻字的発想から逃れて来たのだろう。しかし、そのライムは一音節から二音節に留まった。子規の新体詩の創作は明治二十九年から三十年に集中的に作られ、ライミングは三十年に入ってからになる。そして、三十一年の一月を境に新体詩の創作は急に減り出す。これは三十一年の二月から『歌よみに与ふる書』の『日本新聞』への連載を始め、本格的な短歌革新に乗り出したからだ。このため、せっかく韻字の発想を離れ、母音による多音節ライムへの道が開かれかけたところで、結局子規の新体詩の仕事は終りを告げることになる。
子規が『新体詩押韻の事』でライムの効用について挙げている箇所でも、その内容は漢詩での経験から来たものと思われる。
「第一、狭き範囲に在れば却って自己の技量を現すに適すること
第二、言語の範囲を限られるがために却って思想上の惑いを生ぜず早く作り得ること
第三、限られたる韻語を探して韻語より思想を得るがために却って奇想警句を得ること」
このうち第二については韻字表と首っ引きで作るときのやり方で、母国語で感覚的に作る場合はむしろ選ぶほどの言葉が思い浮かばず、かえってあれこれ言葉を探すことになり、なかなか早くは作れない。早く韻を踏める言葉を見つけ出し、詩句を作るには、かなりの習熟を要する。
第一の「技量を現す」ということは、ともすると軽視されがちだが、案外近代の日本の詩人に欠けていたのはこの部分ではなかったか。いわば、「詩人」が世間からなかなか尊敬されず、プロとして自活しにくい理由は、誰でも無条件に「すごい」と言わせるような技術を持っていないという点ではなかったか。たとえば井原西鶴は一日にして二万三千五百句を作るという俳諧大矢数興行を行った。今日ではこれを愚の骨頂と見る向きもあるが、しかし、内容を全く知らなくても、一日にして二万三千五百句は無条件に「すごい」と言える数字だ。それと同様、目の前で即興で次から次へと韻を踏んだ詩を作ってみせれば、詩のことを何も知らない人でも「すごい」と言うのではないか。いわば、これまでの日本の詩人には一種の職人芸として人を唸らせるものがなかったのではなかったか。昔の歌人は雅語を使いこなすことと掛言葉や縁語などの古典技法に通じていることで、一つの技術職となることができたし、連歌師や俳諧師は即興で付け句を行うことで、やはり一つの技術職となることができた。しかし、近代では詩は「誰にでも作れるもの」になってしまった。この「誰にでも作れるもの」を作っても人からの尊敬を得ることは難しい。俳句の五七五でさえ小学生でも作れるから、技術と呼べるほどのものではない。しかし、多音節でライミングするというのは習熟が要求されるもので、詩人を技術職として確立する一つの手段になるのではないか。
第三の「奇想警句を得る」という効用も実際は馬鹿にならない。というのも、天才的な言語感覚を持っているならともかく、普通の人は日常的な文脈からはずれる言い方を思いつくことはなかなかできない。良いにつけ悪いにつけ月並になる。これに対し、ライミングすることはしばしば日常的な言い回しを困難にする。「消えていく夢の数」と来れば、たいていの人は「数えあげれば切りがない」みたいな続き方を思いつくだろう。これだと韻を踏めない。「切りがなく」とすれば一応二音節ライムにはなるが、これでも韻としては弱い。これを「夢の数」と五音節とってひねり出せば、「爪を噛む」というフレーズも浮かぶ。そこでKick The Can Crewの「消えていく夢の数/煮え切らない気持ちに爪を噛む」というフレーズも浮かんでくることになる。奇想を得るというのは、韻を踏める言葉から内容を逆算して考えてゆくことによって生じる。たとえば「祈り」と「煮干し」は普通に考えれば到底結び着きそうにない。だが、これを「飢えた野良猫の祈り/腹を満たす一本の煮干し」とでもすれば、それっぽくなる。
しかし、子規の『新体詩押韻の事』では音声の一致によって二つの単語が結び付けられるという効用には触れられていない。しかし、ライミングの一番の面白さは、とにかく似たような音の並ぶ面白さだ。母音の一致というだけで思いがけない言葉が飛び出してきて、互いに意味を深めあったり、時には駄洒落になったり、いろいろ変化が加わる。暁と鳥、この二つが並べば、暁という字に鳥の啼き声が、鳥という字に夜明けの清々しさが加わる。しかし、「春眠暁を覚えず/處々啼鳥を聞く」ではその面白さが伝わらない。
英語や中国語は語尾に名詞の来ることが多いが、日本語だと用言か助詞で終ることが多い。子規の明治二十二年の『詩歌の起源及び変遷』でも指摘されているとおり、日本語のライムにはこうした文法的な困難があった。 「國詩の韻をふまぬは固より韻は詩に不必要なりとの意にはあらざるべく、只々文法上韻を用ふるを許さざるのみ。今試みに漢詩の韻脚を見るに、名詞動詞助字杯を自在に用ゐ、西洋の詩にては名詞動詞副詞形容詞前置詞等何れの言葉をも韻字に用ゐ得れども、日本語は一句の終りには必ず動詞助動詞の語尾か、又はテニハが来るべき組立なる上に、此語尾やテニハは実に其数少くして、到底之を用ゐては無数に変化せしむる能はざるなり。」(『詩歌の起源及び変遷』子規全集 第九巻)
しかし、実際和歌や俳諧では体言止めということが頻繁に行われてきた。子規もやがてそのことに気付くことになる。子規は明治三十年の『新体詩押韻の事』ではこう言う。 「日本にて古来韻文の體を成す者にて句尾に名詞多きは俳句なり。只俳句は一首の長さ新體詩の一句位なれば長さの点より韻を踏む能はず。今新體詩に韻を踏まんとせば多少俳句の構造を学ばざるべからず。又俳句の構造を学ばんには新體詩に韻の踏めぬ事はあるまじと思はる。」
体言止めには基本的に二パターンある。一つは倒置によるもので、もう一つは語尾の省略によるものだ。前者はたとえば、
むざんやな兜の下のきりぎりす 芭蕉
は「兜の下のきりぎりすはむざんやな」の倒置、
五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉
は「最上川は五月雨をあつめて早し」の倒置だ。
これに対し、後者の例では、
夏草や兵どもが夢のあと 芭蕉
のようなもので、これは「夏草に兵どもが夢のあと(を見るようだ)」の省略、
ゆく春や鳥啼き魚の目は泪 芭蕉
は「ゆく春に鳥啼き魚の目は泪(するようだ)」の省略だ。発句(俳句)ではしばしば倒置と省略の両方を組み合わせて、複雑な言い回しをする。
閑さや岩にしみ入る蝉の声 芭蕉
は「閑さに蝉の声が岩にしみ入る(ようだ)」の倒置プラス省略、
ゆきゆきて倒れ臥すとも萩の原 曾良
は「萩の原をゆきゆきて倒れ臥すとも(あとあらん)」の倒置プラス省略だ。
先に掲げた子規の最初のライム、『老嫗某の墓に詣づ』でいうと、このうち体言止めが用いられているのは
1、行くや、湯月の村の外。
2、昔辿りし田の小道
3、寺を廻りて埋葬地
4、薄の垣の一搆へ
5、右も左も薄、墓、
6、白髪を乱す花薄。
という二十八行中の六行で二一・四パーセントに当る。このうち1と6は「湯月の村の外に行くや」「花薄が白髪を乱す(ようだ)」の倒置、2、3、4、5は「昔辿りし田の小道(を行き)」「寺を廻りて埋葬地(に出)」「薄の垣の一搆へ(あり)」「右も左も薄、墓(ばかりなり)」の省略だろう。最初に掲げたKick The Can Crewの『ユートピア』では二十箇所中十四箇所までが体言止めで、実に七十パーセントに及ぶ。なお、『新体詩抄』の矢田部良吉の『春夏秋冬』も二十四行中七行が体言止めで二九・二パーセントだから、日本語のライミングに体言止めがいかに欠かせないかがわかるだろう。
子規の新体詩が十分な成果を収められなかったのは、子規だけの問題というよりは、当時の新体詩が抱えている一般的な問題ではなかったかと思われる。それは明治の新体詩が「我邦にも長歌だの、三十一文字だの、川柳だの、支那流の詩だのと様々の鳴方ありて、月を見ては鳴り、雪を見ては鳴り、花を見ては鳴り、別品を見ては鳴り、矢鱈に鳴りちらすとも十分に鳴り尽すこと能はず…略…蓋し其鳴方の漸く簡単なるを以て見れば、其内にある思想とても又極めて簡単なるものたるは疑なし。甚だ無礼なる申分かは知らねども、三十一文字や川柳等の如き鳴方にて能く鳴り尽すことの出来る思想は、線香姻火か流星位の思に過ぎざるべし。少しく連続したる思想内にありて鳴らんとするときは、固より斯く簡単なる鳴方に満足するものにあらず。」という『新体詩抄』の外山正一の序文にあるように、俳句や短歌では表現できないような複雑な思想を表現するために長編の詩を必要とするところから始まったところにある。ここでいう思想が何であるか、『新体詩抄』を読めばすぐにわかる。まず『ブルウムフヰールド氏兵士帰郷の詩』『カムプベル氏英国海軍の詩』『テニソン氏軽騎隊進撃ノ詩』と冒頭から軍歌が並ぶ。『ロングフェルロー氏人生の詩』(外山正一訳)も「此世の中は戦争ぞ/其戦争の中に居て/人に生まれた甲斐もなく/人に使はれ追はれつゝ/あゆむ羊や牛たるな/人に劣らず憤発し/功名手柄なすべきぞ」という調子のものだ。さらに矢田部良吉の『勤学の詩』、外山正一の『社会学の原理に題す』のような学問を勧める詩など、簡単に言えば明治の国体精神を学校教育を通じて国民に徹底させるというものだった。特に外山正一の『抜刀隊』の詩は、国木田独歩が『抒情詩』(明治三十年)の序で「何時の間にか山村の校舎にまで普及し、『われは官軍わが敵は』てふ没趣味の軍歌すら到る處の小学校生徒をして足並み揃へて高唱せしめき」というものだった。それは
我は官軍我敵は 天地容れざる朝敵ぞ
敵の大将たる者は 古今無双の英雄で
之に従ふ兵は 共に慓悍決死の士
鬼神も恥ぬ勇あるも 天の許さぬ反逆を
起しゝ者は昔より 栄し例あらざるぞ
敵の亡ぶる夫迄は 進めや進め諸共に
玉ちる剣抜き連れて 死ぬる覚悟で進むべし
といった詩だ。抜刀隊というのは西南戦争のときに薩摩に恨みを持つかつての会津藩士を中心に集めて、国が組織したと言われている。
子規は『新体詩抄』の出た明治十五年頃、ちょうど自由民権運動に熱中していたが、これとて決して国体そのものを否定するのではなかった。子規の自由民権運動での演説の草案が、子規自身が主に学校に関係して書いた文章を綴じた『無花果艸紙』の中に残されている。そこには「自由とは何か」といったような根本的な問いは見られない。そこに並べられているのは、むしろ次のような言葉だ。
「然レトモ余ノ察スル所ニ依レバ我國ノ自由敢テ欧米諸國ノ自由ニ及バザランコト必セリ 然レハ則チ欧米人ニ在テモ亦自由主義ノ未タ我國ニ拡張セザルヲ以テ必ス私カニ其心中ニ於テ我ヲ侮ルベシ…略…然レトモ今諸君ニ対シテ現今ノ日本国ハ未タ自由ノ真理ヲ知ラザルノ国ナリ 故ニ外邦ノ侮辱ヲ受クルコト甚シ」(子規全集 第九巻)
何のことはない。自由主義でないと外国から馬鹿にされる。日本の名誉を重んじ、国家の威光を万国に知らしむるには、国家はまず自由の真理を国民に告げなくてはならない、といった内容だ。この論理なら、欧米諸国が武力をもってしてアジアを植民地化しているから、日本も同じように軍備を拡張し、朝鮮半島を侵略してゆかないと欧米諸国に馬鹿にされる、という論理に容易にすり変ることができる。もちろんこれは冗談で言っているのではない。子規の『明治二十九年の俳諧』(子規全集 第四巻)にはっきりこう書かれている。
「日本が世界列国の間に押し出して日本帝国たるものを世界に認められんとするには日清戦争は是非とも必要となりしなり。」
子規の詩はその意味で、一方では明治二十九年のまだライミングを試みる以前の『洪水』という詩のように、人間が欲に駆られ森林を伐採するのを神様たちが見て、怒って洪水を起し懲らしめるという、国の林業政策を風刺する詩も詠んでいるが、全体としては国体精神の普及を計るという『新体詩抄』の発想を出るものではない。押韻するしないに関わらず、子規の新体詩の抱えている根本的な問題は、こうした上から大衆を見下ろすような国体思想の説教臭さではなかったか。明治天皇の母を称える『皇太后陛下の崩御遊ばされたるをいたみたてまつる』、ナポレオンの侵略戦争を豊臣秀吉に例え、英雄視する『奈翁假面の圖を見る』、船が沈むときに我が子を抱きしめていた母の愛を称える『子の愛』にしても、国家を家族の延長とみなす国体思想と無関係ではない。
ライミングの問題は、結局子規の新体詩の失敗とともに忘れ去られていった。ライムが根づかなかったのは、それが民衆の側の素朴な地口や語呂合わせなどの言葉遊びの中から正常な形で洗練され発展してきたものではなく、あくまで上から与えられた「規則」という発想が抜け切れなかったためだろう。明治二十二年の子規であったなら、地口、語呂合わせ、洒落、あるいは掛言葉などの古典技巧とライムを連続的に考えることもできたかもしれない。しかし、子規は明治二十五年頃の俳句革新の際、俳諧の伝統技法を完全に封印してしまっていた。そこにライムだけがいきなり説かれても、一度詩の技巧を排除したところに何でライムだけ正当なのか、説明に窮するところだっただろう。
そして、今日ライムの問題をふたたび提起できたのは、文学の権威と全く無縁なヒップホップという音楽のおかげだった。権威的な規則としてのライムではない、本当に大衆の中から沸き起こったライムだからこそ、多くの人を魅了する力があったのだ。
参考文献
『子規全集 第四巻 俳論俳話一』一九七五、講談社
『子規全集 第五巻 俳論俳話二』一九七六、講談社
『子規全集 第七巻 歌論・選歌』一九七五、講談社
『子規全集 第八巻 漢詩・新体詩』一九七六、講談社
『子規全集 第九巻 初期文集』一九七七、講談社
『子規全集 第十巻 初期随筆』一九七五、講談社
『子規全集 第十四巻 評論・日記』一九七六、講談社
『明治詩人集(一) 明治文学全集60』一九七二、筑摩書房
『評伝、正岡子規』柴田宵曲、一九八六、岩波文庫
『正岡子規』松井利彦、一九六七、桜楓社
『正岡子規』粟津則雄、一九八二、朝日出版社
『正岡子規』岡井隆、一九八二、筑摩書房
『子規歌論の発展と継承』有田静昭、一九八○、桜楓社
『正岡子規-創造の共同性』坪内稔典、一九九一、リブロポート
『正岡子規 人物叢書144』久保田正文、一九六七、吉川弘文館
『子規の近代』秋尾敏、一九九九、新曜社
『子規漢詩と漱石』飯田利行、一九九三、柏美術出版
九鬼周造のライム
西洋崇拝から来た押韻論
日本の新体詩は特殊な始まり方をした。西洋の詩は吟遊詩人の伝統を引き、大衆文芸の中から自然な発展を遂げてきたし、日本の和歌や中国の漢詩も同様、その国の長い歴史の中で培われ、十分な大衆的基礎を持っていた。これに対し、新体詩は明治の西洋化政策の中で生まれた。
当時の日本人にとって西洋というと、単にエキゾチックでもの珍しいというだけでなく、まず第一にその強大な軍事力への脅威が先にあった。そして、西洋への関心はもっぱら、その軍事力を支えている科学技術と資本主義経済だった。幸か不幸か日本は薩英戦争や長仏戦争で惨敗を喫し、攘夷を敢行する前に西洋の軍隊に対抗できるだけの科学力、経済力が必要なのを痛感したところだった。
人間は元来好奇心に富んだ生き物で、異国のエキゾチックなものに引かれるのは自然な反応だ。異文化との交流は自然に文化の融合を生み、それは文明の発展に不可欠なことだ。しかし、ひとたび国策として西洋化政策が行われると、欧風化は強制となり、同時に伝統文化や風習に対する激しい弾圧となった。今日でも日本人が自国の文化伝統に自信が持てず、いわゆる自虐史観の病理に陥っているのは、戦後の革新団体のせいなどではない。明治維新そのものが自分たちの過去の歴史を抹消し、偽りの歴史を捏造するものだったからであり、歴史の捏造を繰り返す限り本当の意味での民族の誇りは帰っては来ない。
『新体詩抄』の作者たちが西洋の詩を見てカルチャーショックを受けたのは、結局、恋や花鳥を詠む平和な詩しか知らなかった所に、初めて軍歌というものを知った驚きだったのだろう。そして、以降文学の近代化の旗手たちは力強い勇ましい文学を求め、日本の伝統文学を「軟弱」だとか「女々しい」だとか言って卑下してきた。この問題は文学的な性差別(テクスチュアル・ハラスメント)の問題にも関わってくる。
ライム(押韻)の問題も、基本的には西洋崇拝の中で浮上したといえよう。西洋の詩はちゃんと韻を踏んでいる。漢詩でさえ韻を踏むのだから、日本の詩も韻を踏まないと西洋はおろか中国にさえも遅れをとる。そういう発想が根底にあったことは十分想像がつく。斜投象で描かれた伝統絵画を見て青い目をした外人さんが「コノエ、エンキンホウガヘンデスネー」なんて言うと、すぐにこんな絵は価値がないと決めつけ、二束三文で外国に売られていったり、伝統音楽を外人さんに「コレ、オンガクデナク、ザツオンデスネー」なんて言われると、明治以前に日本には音楽がなく、節しかなかったということになってしまう。そんな心理は当然文学者にもあっただろう。別に西洋の人が楽しそうにライムでもって遊んでいるのを見て、面白そうだから真似してみようと思ったわけではなかっただろう。ライムに魅せられ、「はまった」わけでもなく、ただ韻を踏まないと西洋に遅れをとるという意識で始めたライムは、それこそ文字どおりの根無し草だった。
そして、この問題はやがて自然消滅していった。というのも、肝心の西洋の方が押韻定型詩から自由詩や散文詩の時代へと変わっていったからだ。西洋の最先端の詩がライムの形式にこだわらなくなると、今度は逆に押韻なんて時代遅れだ、ということになる。こうして明治の終りから大正にかけて自由詩の嵐が新体詩だけでなく俳句の世界にまで吹き荒れたとき、ライムの問題は次第に忘れられていった。そして、それ以降ライムに関心を持つのは、いわゆる「形式主義者」だった。
九鬼周造
九鬼周造もそうした形式主義者の一人だった。もっとも、九鬼が形式主義なのは、日常語の「形式にうるさい」という意味ではなく、カントの形式美学の系譜を引く本来の意味での形式主義者という意味でだ。つまり、美の基礎を人間の主観の超越的な形式に求めるという点での形式主義者だ。
九鬼周造というと、一般には『「いき」の構造』が有名だし、哲学をやった者にとっては、むしろ戦前にハイデッガー哲学を日本に紹介し、その時ドイツ語のExistenzに「実存」という訳語を与え、戦後の実存主義の流行の基礎を作った人としても知られている。一説には、フランス留学中たまたまある学生の家庭教師をし、その時フッサールやハイデッガーのことを教えた所、その学生こそが実は後にフランス実存主義の旗手となるサルトルだったとも言われている。
九鬼周造のライム論は昭和初期、時代からすると、日本が次第に国際社会から孤立し、破滅的な戦争への道を歩んでゆく頃のものだ。大正時代の自由詩の流行に対し、次第に自由という言葉が禁句になり、国家秩序への服従が強要されてゆく時代の中で、詩にもまた厳しい形式と秩序への服従が説かれる傾向が生じていたのだろう。俳句の世界でも井泉水、山頭火の自由律俳句が急速に衰退し、虚子の『ホトトギス』の俳句が全盛を究めた時期だった。(以下略)
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