https://oratio.jp/p_column/senpuku-sazanka 【潜伏キリシタンの生活を助けたサザンカ】より
黒島は、対馬暖流の影響もあって比較的暖かい地域である。常緑照葉樹が濃い緑の葉を茂らせ、島全体が黒っぽく見えることから「黒島」と名付けられたとも言われている。
その中でも根谷ねや地区は島内で最も温暖な場所として知られ、巨大アコウもそびえる。その巨大アコウのすぐ近くの橋本はしもと家の脇に樹齢250〜350年と推定される「根谷の大サザンカ」がある。幹回り1.8m、樹高約10m、サザンカでは県内一の大きさで、黒島の名所のひとつだ。
このサザンカの木は、橋本家の先祖が西彼杵半島から迫害を逃れて黒島に移住する際に持ち込み、隣の家との境に植えたといわれている(佐世保市指定天然記念物)。当時、潜伏キリシタンたちは、サザンカの種から採れる油を食用として利用していた。この1本の木は貧しい生活を助ける大切な存在だったのである。
禁教時代に海をわたり、それから明治、大正、昭和と激動の時代を生き、今もなお秋になると美しい白い花を咲かせているサザンカ。その強い生命力は、潜伏キリシタンの強さと重なる。
https://www.gakuinkai.com/hakumon43/tearoom/saijiki_bn2021.html 【山茶花】より
山茶花(さざんか)は、花の少ない晩秋から冬場にかけて私たちの目を楽しませてくれる貴重な花である。この花が観賞され始めたのは室町時代ごろといわれており、お寺や広い屋敷の庭に好んで植えられていた。野生の花は白色の一重だったようだが、江戸時代にたくさんの園芸品種が育てられた。元禄から文化・文政年間になるとその人気は相当なもので、「本草花蒔絵」では60図、100品種が取り上げられている。同じ科の椿と山茶花はとても良く似ているが、椿は花が丸ごと落ちるのに対し、山茶花の花弁は命を惜しむかのように一枚一枚散って行く。
斎藤茂吉(明治15年(1882)~昭和28年(1953))は、伊藤左千夫門下の歌人でアララギの中心人物。精神科医として青山脳病院の院長を務め精神医学に尽力した。精神科医で随筆家の斎藤茂太は長男、次男は精神科医・随筆家・小説家の「どくとるマンボウ」こと北杜夫である。山形県の寒村で生れた茂吉は、23の歳に精神科医の斎藤紀一の婿養子となり、医師となったのち、31歳で紀一の娘・輝子と結婚する。
中学時代に佐々木信綱の「歌の栞」を読んで短歌の世界に入り創作活動を開始し、高校時代になって伊藤左千夫に師事する。生涯に全7冊の歌集を発表し、1万7千首余りの歌を詠んだが、あくまでも精神科医を本業とする姿勢は崩さず、「歌は業余のすさび」と称していた。
それにしても「山茶花」と書いて「サザンカ」と読むのは無理がありそうだ。山茶花は中国ではツバキ属(椿、山茶花、茶)の花を表す一般的な呼び名だったらしい。でもツバキは春に咲くから「椿」になって、山茶花はサンサカ→サザンカとなったのではないかといわれている。江戸時代には「茶山花」と書かれていた書物もあり、それが誤記されて「山茶花」になったという説もある。
私が住んでいるところは狭山茶の産地で、周りには茶畑がたくさんあるが、山茶花と同じ仲間の「茶」も一重の山茶花とよく似ている。近寄って見ると小さいながら凛とした気品のある姿をしていることに驚かされる。
ところで、わが家の庭にも先ごろ赤い山茶花が咲いた。この家を新築して引っ越してきて間もない頃、枯山水の庭を作ろうと計画し、老庭師に築庭を依頼した。二人で額を寄せ合って設計図を完成させ、石組みを配置したり、大きな木を植えたりした後、当の庭師が来なくなってしまった。どうしたのかと思って呼びに行くと死んでしまっていた。それでやむなく設計図を頼りに自分で完成させたのだが、大変だったのが四ツ目垣作りである。見様見真似で何とか作り上げたが、杭の丸太や竹材は7~8年で朽ちてくるので、その都度新しく作り直さなければならない。二年ほど前も作り直すことになったのだが、次に作るときには果たして自分が生きていられるかどうか、生きていたとしても垣根を作り直すほどのパワーがあるかどうか分からない。そこで半永久的に使えるようにと、杭は強化アルミ製の角材を、竹材はプラスチック製のものを使って作ることにした。それでも竹が交差する部分は(美的な観点から)棕櫚縄で男結びに結わなければならない。この技術が難しく7、8年も経つと忘れてしまうので、また庭作りの本を引っ張りだして、首っ引きでやる。ようやくできたけれど、どうも味気ないので四ツ目垣に沿うように山茶花の苗木を植えた。
経緯が長くなってしまったが、その山茶花がこの度ようやく花開いたのである(右上写真)。
ところで、私が地方へ単身赴任をしていた頃には「さざんかの宿」が大ヒットしていて、スナックへ行くと部下の課長の十八番で、よく聞かされたものだ。(ちなみに私の十八番は工藤静香の「MUGO・ん…色っぽい」だった)。作詞:吉岡治、作曲:市川昭介で大川栄作が歌っていた。いい歌なのでyoutubeで紹介しようと思ったけれど、よく歌詞をみてみると、これは不倫の歌ではないか。こんな歌を健全な43会の紳士、淑女諸氏に慫慂してはまずいと思い、止めた。代わりに抒情歌風のまじめな「さざん花の歌」(作詞:寺尾智沙、作曲:田村しげる)をご紹介することにする。
さざん花の歌/鳴海日出夫 - YouTube
三沢 充男
2021年10月18日(月)
芙蓉
「芙蓉の顔(かんばせ)」という言葉をご存知だろうか。広辞苑をひくと「芙蓉のような美しい顔だち」と説明されている。芙蓉の清楚で高雅な趣は、美人を形容するに相応しいものとして人々を魅了してきた。
ピンクの一重咲きが基本品種で(日本の固有種には白はないから上掲の写真はアメリカフヨウか、あるいは交配種かも知れない。)花径は8~10センチと大きいのだが、朝咲いて夕方には萎んでしまう一日花である。短命な大型美人といったところだろうか。
八重咲きの「酔芙蓉」は朝の咲きはじめは白く、午後にはピンク、夕方には紅と、刻々と色を変えていく様が素面から酔顔になっていくのに似ていることからその名がついたといわれている。一日花ではなく翌日になっても咲き続けるため、一本の木に三つの色が入り混じることもあるらしい。
華やかさの裏に憂いを含むこの花を、古来より中国や日本の文人、画家達は競って詩や絵画のモチーフに取り入れてきた。白楽天の「長恨歌」の中にはたびたび芙蓉の名が登場し、雪舟や狩野永徳を初めとする室町・桃山時代の名匠なども競って描いている。中国・日本を問わず芙蓉は名花中の名花といえるだろう。
東京国立博物館には南宋時代の李迪(りてき)の筆による国宝・紅白芙蓉図2幅が所蔵されている。(国宝・紅白芙蓉図)
右の図「当盛六花撰・芙蓉」は江戸時代の名匠、広重と豊国(三代目)の合作である。豊国が役者絵を広重が花の絵をと、それぞれの得意の部分を担当しているが、背景の色とも馴染んで見事な調和である。 与謝野鉄幹の歌では芙蓉は秋の花とされているが、花期は7~10月初めまでで、日当たりが良い肥えた土地を好む。一度植えればほとんど手入れの必要はなく、毎年開花する。樹皮の繊維が強いため、昔は観賞用のほか縄や下駄の鼻緒に、また和紙の補助材料としても利用されていた。
芙蓉はその美しさにもかかわらず、和歌に詠まれているのは意外と少なく、俳句の方に多く詠まれている。代表的なものには次の句がある。
枝ぶりの日ごとにかはる芙蓉かな 芭蕉
一輪の芙蓉に秋をとどめたり 虚子
わが家から狭山湖へ上る道すがら、西武球場へ向かう車通りの多い県道を渡ってすぐの家の庭先に芙蓉が咲いている。かなり古い農家で、家の前には半ば壊れかかった物置があり、農具を積んだ軽トラックが止めてあったりしているが、入口の道路から母屋に至る敷石道の両側には、手入れのされていない広い庭があり、雑然と草木が茂っている。その無造作が却って季節季節でいろいろな花を通る人に楽しませてくれるが、今の時期にひと際目を引くのはこの芙蓉である。
行きに写真に収め、帰りがけにもう一度目で見て楽しむ。この辺りはさして恵まれた郷土ともいえないが、都会に近い割には自然だけは豊かだと思っている。
そういえば、いろいろ調べているうちに、芙蓉の上手な写真の撮り方というのが載っていた。芙蓉や木槿(むくげ)のような一日花の撮影にまず気を付けるべきは撮影する時間帯だという。花の生命力が旺盛な朝方に撮ると瑞々しい花姿が捉えられる。また傷みやすい花なので構図を決めるときには虫食い葉やしおれた花が入らないアングルを選ぶことも大切。
最大のポイントは「光選び」。この花の透き通るような花びらや淡い色を一番美しく見せるのは、直射日光よりもやわらかい光。真夏の強い光で撮ったのでは、花に強烈な影が落ちるうえ、花の持っている繊細な風情を消してしまうことになる。撮影は雲がかすかに空を覆う薄曇りの日を選ぶと良いらしい。
さて上掲の写真、日射しは頃合いだったが果たして出来映えは……。
https://goutara.blogspot.com/2020/03/blog-post_11.html 【「ヤマトタケル」って誰?】(1)
「ヤマトタケル」って誰?(前口上)
ではでは、本題へと進んでいくわけでございますが、最近歳のせいか長文が書けなくなってまいりまして、今回もあんまり長くないのです。
しょーもない話ならいくらでも書けるのですが、そこはそれ、やっぱそれなりのプライドという何の役にも立たないものが、あったりするじゃありませんか。
ヤマトタケル(生年不詳 - 景行天皇43年)は、記紀などに伝わる古代日本の皇族(王族)。
『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される。現在では、漢字表記の場合に一般には「日本武尊」の用字が通用される。
第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。
wikipedia
で、ありますが
同じくwikipediaに
『古事記』では、倭建命の曾孫(ひまご)の迦具漏比売命が景行天皇の妃となって大江王(彦人大兄)をもうけるとするなど矛盾があり、このことから景行天皇とヤマトタケルの親子関係に否定的な説がある。また、各地へ征討に出る雄略天皇などと似た事績があることから、4世紀から7世紀ごろの数人のヤマトの英雄を統合した架空の人物という説もある。
とありまして、ワタクシも複数の英雄を統合したという点には賛同致しますのです。
つまり「ヤマトタケル」は「倭」の「武」であり、「建」(勇猛な、猛々しい)なのですよね。
また、「ヤマトタケル」の墓所についても
日本書紀
景行天皇40年是歳条では、日本武尊は「能褒野」で没し、それを聞いた天皇は官人に命じて伊勢国の「能褒野陵(のぼののみささぎ)」に埋葬させた。しかし日本武尊は白鳥となって飛び立ち、倭の琴弾原(ことひきはら)、次いで河内の旧市邑(ふるいちのむら、古市邑)に留まったのでそれぞれの地に陵が造られた。
古事記
景行天皇記では、倭建命は伊勢の「能煩野」で没したとし、倭建命の后・子らが能煩野に下向して陵を造ったとする。しかし倭建命は白い千鳥となって伊勢国から飛び立ち、河内国の志幾(しき)に留まったので、その地に陵を造り「白鳥御陵(しらとりのみささぎ)」と称したという。
延喜式(延長5年(927年)成立)
諸陵寮(諸陵式)では「能裒野墓」の名称で記載され、伊勢国鈴鹿郡の所在で、兆域は東西2町・南北2町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する(伊勢国では唯一の陵墓)。
と複数の墓所が記載されており、これも複数の「ヤマトタケル」の存在を示唆しているのではないかと考えられます。
例えば、古事記の景行天皇の条に
又伊那毘能大郎女の弟、伊那毘能若郎女を娶して、生みませる御子、真若王 次に日子人之大兄王 又倭建命の曾孫、名は須賣伊呂大中日子王の女、訶具漏比賣を娶して生みませる御子、大枝王
とありますが、この訶具漏比賣(かぐろひめ)、倭建命を初代として数えると、景行天皇から5代目から6代目にあたり、実際に娶すことは不可能なのです。
訶具漏比売
訶具漏比売(カグロヒメ)・迦具漏比売(カグロヒメ)は古事記に登場する人物名。日本書紀に対応する人物名は見られない。ただし、孫にあたる大中津比売命は日本書紀にも大中姫として見られる。
女性。
出自としてはヤマトタケルの玄孫。
しかし、ヤマトタケルの玄孫でありながら、ヤマトタケルの父の景行天皇の妃でもある。景行天皇(12代)から見ると自分の息子の玄孫と結婚したってことになる。そんなわけがない。
日本神話・神社まとめより
この辺りについては古田史学会の会報を見ていても、「少なくとも四人の倭建が区別できる」との記載を見ることができ、さらには『「倭建」は職位名』であるとの説を記しております。
ここらあたりを前提に、話を進めていきたいと思うわけでございます。
で、「ヤマトタケル」の事跡等については、こんなブログを見にこられる方々は、重々ご承知のことと存じ上げますので、以降よほどのことでない限りは省略させていただきまして、と。(単にめんどくさいだけ(笑))
というわけで、まずは「ヤマトタケル」からではなく、阿波国に所縁の深い、その御子である息長田別王(おきながたわけのみこ)より話を進めていこうと思います。
一妻(記では名は不詳、旧事本紀では橘媛)
息長田別王(おきながたわけのみこ、紀なし) - 河派仲彦王の父、息長真若中比売(応神天皇の妃)の祖父、稚野毛二派皇子の曽祖父、忍坂大中姫・衣通姫の高祖父。阿波君らの祖(旧事本紀)。
古事記 景行天皇段より
凡此倭建命平國廻行之時
久米直之祖名七拳脛恒爲膳夫 以從仕奉也
此倭建命娶伊玖米天皇之女布多遲能伊理毘賣命
【自布下八字以音】
生御子 帶中津日子命【一柱】
又娶其入海弟橘比賣命生御子 若建王【一柱】
又娶近淡海之安國造之祖意富多牟和氣之女布多遲比賣
生御子 稻依別王【一柱】
又娶吉備臣建日子之妹大吉備建比賣生御子 建貝兒王【一柱】
又娶山代之玖玖麻毛理比賣生御子 足鏡別王【一柱】
又一妻之子 息長田別王
凡是倭建命之御子等幷六柱
故 帶中津日子命者治天下也
次稻依別王者【犬上君建部君等之祖】
次建貝兒王者【讚岐綾君伊勢之別登袁之別麻佐首宮首之別等之祖】
足鏡別王者【鎌倉之別小津石代之別漁田之別之祖也】
次息長田別王之子 杙俣長日子王
此王之子 飯野眞黑比賣命
次息長眞若中比賣
次弟比賣【三柱】
故 上云若建王娶飯野眞黑比賣
生子 須賣伊呂大中日子王【自須至呂以音】
此王娶淡海之柴野入杵之女柴野比賣生子 迦具漏比賣命
故 大帶日子天皇娶此迦具漏比賣命生子 大江王【一柱】
此王娶庶妹銀王生子 大名方王 次大中比賣命【二柱】
故 此之大中比賣命者【香坂王忍熊王之御祖也】
読み下し
凡(おほよそ)此の倭建命(やまとたけるのみこと)国を平(たひら)げて廻(めぐ)り行きし[之]時、 久米直(くめのあたひ)之(の)祖(おや)、名は七拳脛(ななつかはぎ)を恒に膳夫(かしはで)と為(し)たまひて、[以ちて]従(したが)ひ仕(つか)へ奉(まつ)る[也]。
此の倭建命(やまとたけるのみこと)、伊玖米(いくめ)天皇(すめらみこと)之女(むすめ)布多遅能伊理毘売命(ふたぢのいりびめのみこと) 【布自(よ)り下(しもつかた)八字(やじ)音(こゑ)を以(も)ちゐる】を娶(めあは)せ、 御子(みこ)帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)を生みたまひ【一(ひと)柱】、 又、其(その)海に入りし弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)を娶せ、御子若建王(わかたけるのみこ)を生みたまひ【一柱】、 又、近淡海(ちかつあふみ)之安国造(やすのくにのみやつこ)之祖(おや)意富多牟和気(おほたむわけ)之女(むすめ)布多遅比売(ふたちひめ)を娶せ、 御子稲依別王(いなよりわけのみこ)を生みたまひ【一柱】、 又、吉備臣(きびのおみ)建日子(たけひこ)之妹(いも)大吉備建比売(おほきびたけひめ)を娶せ、御子建貝児王(たけかひこのみこ)を生みたまひ【一柱】、 又、山代(やましろ)之(の)玖玖麻毛理比売(くくまもりひめ)を娶せ、御子足鏡別王(あしかがみわけのみこ)を生みたまひ【一柱】、 又、一(ある)妻之子(みこ)は、息長田別王(おきながたわけのみこ)、
凡(おほよそ)是(これ)倭建命之御子等(ら)并(あは)せて六柱(むはしら)なり。
故(かれ)、帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)者(は)天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。
次に、稲依別王(いなよりわけのみこ)者(は)【犬上君(いぬかみのきみ)、建部君(たけるべのきみ)等(ら)之(の)祖(おや)】、 次に、建貝児王(たけかひこのみこ)者(は)【讃岐(さぬき)の綾君(あやのきみ)、伊勢之別(いせのわけ)、登袁之別(とをのわけ)、麻佐首(まさのおくび)宮首之別(みやのおくびのわけ)等(ら)之祖(おや)】、つぎに、足鏡別王(あしかがみわけのみこ)者(は)【鎌倉之別(かまくらのわけ)、小津(をづ)の石代之別(いはしろのわけ)漁田之別(すなたのわけ)之(の)祖(おや)也(なり)】。
次に、息長田別王(おきながたわけのみこ)之子(みこ)は杙俣長日子王(くひまたながひこのみこ)、 此の王(みこ)之子(みこ)は飯野真黒比売命(いひのまくろひめのみこと)、 次に息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)、 次に弟比売(おとひめ)【三(み)柱】。
故(かれ)、上(うはつかた)に云(まをしし)若建王(わかたけるのみこ)真黒比売(まくろひめ)を娶(めあは)せ、 子(みこ)須売伊呂大中日子王(すめいろおほなかつひこのみこ)【須自り呂に至るは音を以ちゐる。】を生みたまひ、 此の王(みこ)淡海(あふみ)之(の)柴野入杵(しばのいりき)之女(むすめ)柴野比売(しばのひめ)を娶(めあは)せ子(みこ)迦具漏比売命(かぐろひめのみこと)を生みたまふ。
故(かれ)、大帯日子天皇(おほたらしひこすめらみこと)此の迦具漏比売命を娶(めあは)せ、子(みこ)大江王(おほえのみこ)を生みたまひ【一柱】、
此の王(みこ)庶(まま)妹(いも)銀王(しろがねのみこ)を娶せ、子(みこ)大名方王(おほなかたのみこ)、次に大中比売命(おほなかつひめのみこと)を生みたまふ【二柱】。
故(かれ)、此(こ)之(の)大中比売命(おほなかつひめのみこと)者(は)【香坂王(かごさかのみこ)、忍熊王(おしくまのみこ)之御祖(みおや)也(なり)】。
https://kyoto-kyuteibunka.or.jp/column/1744/ 【第3回 倭姫命と日本武尊の歴史的役割】より
京都宮廷文化研究所特別顧問 所 功
世界的に注目される「コメは命」
かつてゴールデン・ウィークに岐阜の田舎へ帰省中、わずか1週間で家の周囲はみごとな水田となり、ほどなく美しい若緑に染めあげられた。皇居の中にある吹上の御田畑でも、天皇陛下みずから4月上旬に米と粟の種播きをされ、5月中に苗を手植えされる。平成8年(1996)の宮中歌会始(御題「苗」)で披露された皇后(現上皇后)陛下の御歌にも、「日本列島 日ごとの早苗 そよぐらむ 今日わが君も 御田にいでます」と詠まれている。
この稲作=「お米」作りが、いま世界で注目されつつある。年々深刻化する地球上の食糧危機を救うには、収穫量が多く栄養価も高い米穀の増産が最も有効とみなされている。現に国連では、平成16年(2004)を「国際コメ年」と定め、“Rice is Life(コメは命)”という合い言葉を掲げて、その普及に努めている。また、欧米などでも、日本のおいしい高級米(特にSUSHI)の需要が急騰しているという。
その「お米」作りと最も関係の深い伊勢の神宮が創祀されたのは、3世紀後半ころの垂仁天皇朝とみられる。ついで、その神威を仰ぎながら全国統一を積極的に進められたのが、4世紀前半ころの景行天皇朝と推定される。
ここで、それらのために力を尽くされた著名な皇女と皇子たちをとりあげよう。
ヤマトヒメノミコトの神宮創祀
古くから皇祖神(皇室の祖先神)と仰がれる天照大神は、前回述べたように、第10代崇神天皇が、それまで王宮内にお祀りされてきた形を改め、皇女の豊鍬入姫命とよすきいりひめのみことに託して宮外へ遷された。その際、御鏡と御剣の代器を作らせて、宮中の賢所に置かれたという(斎部広成『古語拾遺』)。
ついで第11代垂仁天皇は、先帝が「神祇を礼祭いやまひ、己を剋せめ躬を勤めて、日に一日を慎」むことにより「人民富み足り天下太平」となった。そのため、「今朕が世に当りても、神祇を祭祀ること、あに怠りあらんや」と仰せられ、特に天照大神の祭祀を異母妹の豊鍬入姫命から皇女の倭姫命に託し任された。
そこで、倭姫命は、天照大神を奉じて、5人の勇将らと隊を整え、倭の笠縫邑(桜井市)から出発された。そして菟田の筱ささ幡はたから、近江(別伝では伊賀)・美濃を廻り、おそらく尾張勢力との対決を避けて、ようやく伊勢へ入られたのである。
すると、天照大神が「この神風の伊勢の国は、常世の浪の重浪帰する国なり。傍国の可怜うまし国なり。この国に居らんと欲ふ」(この神風が吹く伊勢の国は、常に波の打ち寄せる海の近くにあり、大和の傍らの美しい国だから、ここに居たいと思う)と告げられた。よって、倭姫命はその神勅に従われ、「その祠やしろを伊勢の国に立て……斎宮いわいのみやを五十鈴の川上に興たつ」に至ったという(垂仁天皇25年紀3月丙申条)。
これが皇大神宮(内宮)の創祀伝承である。それを政治史的にみれば、大和朝廷による東方(東国)進出の拠点が伊勢に築かれたことを意味すると解される。
しかも、それが有力な武将を率いる皇族の女性(斎王)により行われ、遍歴の末、皇祖神に最も好ましい奉斎地の発見となったのである。その実年代は、およそ3世紀末に近いころとみられる(拙著『伊勢神宮』講談社学術文庫参照)。
ヤマトタケルノミコトの東奔西走
この倭姫命の同母兄にあたる次の第12代景行天皇は、『日本書紀』によれば、みずから九州にも東国にも遠征されたという。しかし、『古事記』によれば、勅命を奉じた倭建命が東奔西走して国内統一を飛躍的に前進させたとある。
ヤマトタケルノミコト(大和朝廷の武勇にすぐれた皇子)というのは、後の尊称であって、実名を小碓命(兄を大碓命)という。タケルノミコトは、勅により九州平定に遣わされた際、天照大神に仕える叔母の倭姫命から賜った御衣・御裳で女性に変装して、「熊曽くまそ建たける」兄弟を討つことができた(『古事記』によれば、その帰途、山陰の出雲へ廻り「出雲いずも建たける」も討った)という。
ところが、大和へ凱旋すると、父帝から再び東国の平定を命じられた。そこで、ミコトは途中「伊勢の大御神宮」へ参って、倭姫命から「草薙剣」などを賜り、相模(駿河か)で土豪の火攻めにあったが、その御剣によって切り抜けることができた。ついで、走水(浦賀水道)を渡って上総(千葉)へ渡ろうとされた際、暴風で軍船を出せなくなった。すると、同伴した妃の弟おと橘たちばな姫ひめの命みことが、みずから進んで海に身を投げ、神の怒りを鎮められたという。
さらに、蝦夷らを次々と帰順させて尾張まで戻られたミコトは、熱田の宮簀姫みやずひめ(国造の娘)に草薙の御剣を預けて伊吹山へ登られた。しかし、大蛇となった山の神に襲われて歩けなくなり、ようやく三重の能煩野のぼの(鈴鹿市)に辿り着いて亡くなった。そのとき、
倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし ……愛しけやし 我家の方よ 雲居立ち来も(大和は日本国中でもっともすばらしいところだ。重なり合う青い垣をめぐらしたような山々に囲まれた大和は実に美しい。……ああ懐かしいわが家のほうから雲が湧き起こってくるなあ)
と望郷の念を歌われた。しかもミコトの神霊は大きな白鳥と化し、大和から河内へと天翔ていったという。
このような大遠征は、景行天皇朝ころの様々な事績を、ロマンと悲劇性に満ちたタケルノミコト一人の英雄物語にまとめたのかもしれない。とはいえ、勅を承った男性皇族が先頭に立ち、神威を仰ぎながら命懸けで各地へ遠征して、およそ4世紀前半ころ、日本列島の大半を統一するに至ったことは、大筋において確かであろう。
「日本武尊」 渡部審也 筆
「日本武尊」 渡部審也 筆
オトタチバナヒメの“愛と犠牲”
ところで、妃のオトタチバナヒメは、愛する夫君のために犠牲となる際、「さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」(あなたは相模の野原で燃え上る炎の中に立ち、私を救けてくださいましたね)と詠み、夫君に感謝の誠を捧げておられる。
ちなみに、上皇后陛下の美智子さまは、昭和20年(1945)小学校5年生のころ(疎開先で)、この物語を読んで深く感動された。その際、「いけにえという酷い運命を、進んでみずからに受け入れながら、おそらくはこれまでの人生で、最も愛と感謝に満たされた瞬間の思い出を歌っていることに……強い衝撃を受けました。……愛と犠牲という二つのものが……ひとつのものとして感じられた」「愛と犠牲が不可分なもの」であることに気づいた、と語っておられる(平成10年『橋をかける―子供時代の読書の思い出―』すえもりブックスなど)。
わが国の統一史上には、いろいろな人々がさまざまに関わった。とりわけこのような皇族たちの“愛と犠牲”が大きな役割を果たしていることを、忘れてはならないであろう。
「弟橘媛」 伊東深水 筆
「弟橘媛」 伊東深水 筆
補注 倭建命葬送の誄歌
『古事記』には、倭建命が亡くなられた後、その后や皇子たちが陵を作り、涙を流して
なづきの田の 稲いな幹がらに 稲幹に
匍はひ廻もとほろふ 野老ところ蔓づら
と詠み、その後、命の神霊が白鳥となって飛び去ったのを追いかけて、更に
浅小竹原あさぢのはら 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな
海処うみが行けば 腰なづむ 大河原の 植ゑ草 海處はいさよふ
浜つ千鳥 浜よは行かず 磯伝ふ
と歌ったとし、更に「今に至るまで其の歌は、天皇の大御葬に歌ふなり」と記している。
平成元年(1989)2月24日に行われた昭和天皇の「大葬の礼」では、葬場殿と武蔵野陵において、宮内庁の楽師たちにより、この歌が誄歌(しのびうた・るいか)として和琴の演奏とともに奏された。これは明治天皇の大葬の際、当時の宮内庁楽部が古い楽譜を調査し、まとめられたものである。(久禮旦雄)
参考文献
所功「倭建命葬送の誄歌」(『別冊歴史読本 『古事記』『日本書紀』総覧』平成元年、新人物往来社→『所功 未刊論考デジタル集成 第1巻 古代ヤマト国家形成史』令和3年、方丈堂出版)
第4回 神功皇(太)后による遠征と摂政
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