和鏡

https://www.meihaku.jp/curator-tweet/curator-tweet-japanese-mirror/ 【第17回 和鏡(わきょう)の見方】より

こんにちは、学芸員の山田です。今回は当館所蔵の「柄鏡」(えかがみ)を中心に、日本の伝統的な鏡である「和鏡」(わきょう)にご注目いただければと思います。

和鏡とは

青銅の鏡

今日、私達が使用する鏡のほとんどは、ガラス板の裏面に銀の膜を付着させた物ですが、今回ご覧いただく和鏡(わきょう)は、青銅(せいどう:銅と錫[すず]の合金)を鋳型に流し込んで作る「銅鏡」(どうきょう)に分類されます。近代に大量生産されたガラス鏡が広まるまで、日本では「鏡イコール銅鏡」だったのです。

銅鏡

銅鏡は世界各地に古くから存在。日本では弥生時代から古墳時代にかけて、中国や朝鮮から移入されたのが最初で、「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん)にある、魏(ぎ:三国時代に中国大陸北部を治めた国)が「邪馬台国」(やまたいこく)の女王「卑弥呼」(ひみこ)へ贈った品々の中に、100枚の銅鏡があったという記録は特に有名です。

光を反射し、自分の顔や周囲の風景を映し出す鏡に当時の人々は特別な力を感じたのか、銅鏡は豪族達が憧れる財宝となり、また古墳の副葬品としても多く埋められました。

中世の和鏡

日本の銅鏡は、奈良時代まで中国の銅鏡にならった物でしたが、平安時代後期には日本独特の様式を備えた銅鏡の和鏡が完成。中世の和鏡は、鏡背(きょうはい:姿を見る鏡面[きょうめん]の反対側)の中央に、手に持つための紐(ひも)を通す鈕(ちゅう)を設けた円形が基本で、鈕の周囲に草花や鶴、亀といった吉祥文(きっしょうもん:縁起が良いとされた図柄)を描き表すことがよく行われました。

当館所蔵品に中世和鏡があるか探してみたら、なんと茶釜の蓋(ふた)に転用された物を発見しました。身を薄く削り、つまみを打たれて蒸気孔も開けられるなど改造されてはいますが、山と松林、波に建物が描かれる点から、大阪を代表する神社「住吉大社」(大阪市住吉区)の風景を描いた「住吉鏡」(すみよしきょう)だったと考えられるのです。

また、鏡背の縁に幾何学的な模様がめぐるのは鎌倉時代後期から室町時代の和鏡に見られる様式です。

佛通寺尾垂釜

釜の蓋に改造された銅鏡

近世の柄鏡

室町時代後期、棒状の柄(え:持ち手)を加えた柄鏡が、中国や朝鮮から新たに入ったことで、和鏡に次の変化が起こります。従来の紐付き鏡より扱いやすい柄鏡が江戸時代以降に鏡の主流となり、鏡背に様々な画題を表現した柄鏡が出回るようになるのです。

画題が増加した理由には、柄の登場で鈕が不要になり、鏡背全体に図柄を描けるようになったことと、平和な時代に女性の髪結いが発達し、鏡全体も大型化したことが考えられます。特に上流の家庭では婚礼道具のひとつとして、銅鏡が蒔絵(まきえ)の箱とともに特別に用意されることもありました。

(略)

当館は現在、柄鏡を数十点所蔵。図柄をいくつかのグループに分類し、興味深い物をご紹介します。まず、家紋を入れた柄鏡をご覧下さい。真ん中に堂々と家紋が入るのは、家の主張の強さが感じられます。

(略)

家紋だけでなく、他の図柄と組み合わせた作品も存在。

右の写真は、「隅入り角に木瓜」(すみいりかくにもっこう)紋を南天(なんてん)の枝が囲みます。

南天は「難[なん]を転[てん]じる」という縁起担ぎで好まれました。

定番の縁起物

古来、人々は姿を映し出す鏡に神秘性を見出しました。日本でも災いを除いてくれるアイテムとして、鏡背の図には吉祥文や信仰に関するものが取り入れられ、厄除けや神社のご神体など、鏡には実用以上の役割も期待されたのです。

左下の鏡には長寿の象徴である松と鶴の図に「千歳」の文字が入り、長生きへの強い願いが伝わります。

右下の鏡は松竹梅図。松竹梅は、中国では文人(ぶんじん:学問教養を身に付けた人)が人間の理想像を植物に託した、「歳寒三友」(さいかんさんゆう)という画題で好まれましたが、日本では江戸時代頃から縁起が良いものとしてとらえられ、現在に至ります。

松鶴に「千歳」字

松竹梅

想像で補う文字の意匠

上掲の、松鶴に「千歳」字の柄鏡は図柄と関連する言葉を入れたものですが、具体的な図柄を省略して文字を主体にした意匠も存在します。

「花」字の柄鏡

何の字でしょうか?

左上の写真は、「花」の1字が中央に置かれていますが、人々はどんな花を思い浮かべたのでしょうか。江戸時代には桜や梅が主だったでしょうが、現代ではさらに多くの答えが挙がるかもしれません。

もうひとつ、右上の写真中央にくずし字で書かれているこの字は、何を表しているでしょうか。ヒントは「空想の生き物」。

答えは「龍」の字です。

和鏡にまつわる職業

鏡師の銘に注目

和鏡を作る職人「鏡師」(かがみし)は、室町時代後期から自分の銘(めい)を鏡背に入れ始めます。特に、1573年(元亀4年)「織田信長」(おだのぶなが)が優秀な職人に「天下一」の称号を与えるようになると、天下一銘の鏡も増加。

ただし、江戸時代前期には鏡に限らず、あらゆる職人が天下一を用いて称号の価値が下がったため、江戸幕府5代将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)は、1682年(天和2年)に天下一の名乗りを禁止します。

鏡師は代わりに「和泉守」のような受領名を使いますが、江戸時代後期に禁止が緩和されると、天下一と受領名を合わせた長大な銘が鏡に鋳出されます。このことから、江戸時代の銅鏡は制作時期をある程度特定することができると言われているのです。

めっきをかけ直す鏡研

鏡研の職人「職人風俗絵貼交屏風 中形 二曲 一隻」

座り込んで鏡を磨いている鏡研

「職人風俗絵貼交屏風 中形 二曲 一隻」

和鏡の材質である青銅は一般的に黄色っぽく輝き、普通の景色を映そうとしても黄色がかります。そのため、たいていは鏡面に錫めっきを施しましたが、使っているうちに曇ってしまい、時々めっきをかけ直す必要があったのです。

江戸時代には、「鏡研」(かがみとぎ)と呼ばれた人々が街の各家を回り、曇った銅鏡のめっきを磨き落とし、新たに錫のめっきをかけていましたが、めっきに使う薬剤には水銀が含まれ、危険な一面もありました。

当館所蔵の「職人風俗絵貼交屏風 中形 二曲 一隻」には、座り込んで鏡を磨いている鏡研の姿が描かれ、めっき作業の一端をうかがえます。また、当時の川柳にも鏡研をテーマにした作品が見られ、日常生活に身近な職業だったことも感じられます。


https://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2023/10/17/hagurokyo-1/ 【和鏡(わきょう)への道のり】より

現在、平成館企画展示室では特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」(2023年11月19日まで)を開催しております。同じような大きさの円い鏡ばかりが並んでおりますが、そのみどころについて、1089ブログで2回に分けてご紹介したいと思います。

特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」展示会場

「和服」、「和食」、「和室」、「和風」……、「和」は美称として頭に「大」をつけることもあり(「大和」)、「やまと」すなわち日本を指すことばとしてなじみのあるものです。現在当館で開催中の特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」のタイトルにある「やまと絵」も、「大和絵」と記されることもあり、中国絵画の主題や様式を反映した「唐絵(からえ)」や「漢画」に対して、日本的な主題や様式を示す絵画に対して用いられてきたものです。

それでは一般の方にはちょっとなじみの薄い「和鏡」とは、一体どういったものでしょうか。

日本において前近代には鏡は銅(青銅)で作られるのが一般的で、顔を写す面とは反対の面(鏡背<きょうはい>)には様々な装飾が施されました。銅鏡は溶かした銅を型(かた)に入れて作る鋳物(いもの)なので、型に表した文様(もんよう)を鋳出(いだ)して装飾することがよく行われました。中国・漢の時代には幾何学的な文様や観念的な神仙世界の文様が好まれましたが、唐の時代になると、鳥や花といったモチーフが大きく生き生きと鏡背に表されるようになりました。和鏡のルーツはこの唐代の鏡(唐鏡<とうきょう>)に求められます。

唐の鏡は飛鳥から奈良時代に、遣唐使によって日本にもたらされました。奈良にある興福寺の中金堂の地下から発見された瑞花双鳳八花鏡(ずいかそうほうはっかきょう)は唐鏡と考えられるもので、中央にある鈕(ちゅう 紐などを通すためのつまみ)を挟んで左右に鳳凰(ほうおう)が向き合って表され、上下には中国風の花文様が配置されています。

他にも瑞雲双鸞八花鏡(ずいうんそうらんはっかきょう)のように、鈕の左右に鸞(らん)という想像上の鳥が向き合って表され、上下に雲、界圏(かいけん)と呼ばれる円い線の外側(外区)に雲や蝶が配置された鏡もあります。こちらは日本で唐鏡を型にとって作られた(これを「踏み返し」といいます)鏡のようで、コピーを繰り返した画像のように文様がぼやけてきているのが特徴です。

こうした唐代の鏡やこれを模倣した鏡(唐式鏡<とうしききょう>)が和鏡の遠いご先祖様に当たるといえます。

国宝 興福寺鎮壇具 瑞花双鳳八花鏡

奈良市興福寺中金堂須弥壇下出土 中国・唐時代・8世紀(E-14255)

(本館1室にて2023年10月31日から12月3日まで展示)

瑞雲双鸞八花鏡

兵庫県宍粟市山崎町金谷出土 奈良時代・8世紀 柴尾清平氏寄贈(E-14306)

(本館1室にて展示中。2023年10月29日まで)

平安時代になると、踏み返しから脱却し、唐鏡をお手本にした鏡が日本で作られるようになります。平安時代に主流となる瑞花双鳳八稜鏡(ずいかそうほうはちりょうきょう)は、鈕の左右に向かい合う鳳凰、上下に中国風の花文様(瑞花)が表され、外区には花唐草(はなからくさ)の文様がめぐっています。これは基本的には先に見た瑞花双鳳八花鏡と瑞雲双鸞八花鏡の構成を踏襲していますが、中国に例がなく、唐鏡を元にしてこれを翻案し、日本で創出されたと考えられます。

重要文化財 瑞花双鳳八稜鏡

平安時代・11~12世紀(E-19934)

(展示の予定はありません)

また、907年に唐が滅んだ後、五代十国の興亡を経て、960年に強大な帝国を築いた宋の時代に作られ、民間の貿易船などによってもたらされた鏡(宋鏡<そうきょう>)も和鏡のご先祖様に当たります。

これら宋鏡の特徴は、鏡胎(きょうたい)が薄く作られていることや内区と外区を分ける界圏がないこと、鈕がとても小さく文様などが表されないところにあります。中国からもたらされた京都・清凉寺(せいりょうじ)の本尊・釈迦如来立像(しゃかにょらいりゅうぞう)の胎内に納められていた鏡や獅子唐草文六花鏡(ししからくさもんろっかきょう)はそうした特徴を備えた作例です。

獅子唐草文六花鏡

宋時代・10~13世紀 中国(TE-81)

(展示の予定はありません)

これら唐鏡には見られない特色も和鏡に反映されており、唐鏡と宋鏡をルーツに、平安時代・11世紀後半頃に、和鏡が成立したと考えられるのです。

つまり、和鏡は、中国の鏡が年月をかけて、日本風にアレンジされたものということができます。そしてその主題も、中国の鏡やこれを模倣した鏡に見られたような瑞花や鳳凰といった空想上の存在から、秋草や松、鶴や雀といった身近に存在する植物や鳥へと移っていったのです。

今回特集して展示している、山形県鶴岡市の羽黒山(はぐろさん)にある出羽三山神社(でわさんざんじんじゃ)の御手洗池(みたらしいけ)から出土したいわゆる「羽黒鏡(はぐろきょう)」は、そうした和鏡の極致を示すものとしてよく知られています。

例えばその中の一つである菊楓蝶鳥鏡(きくかえでちょうとりきょう)では、鈕を挟んで植物文と鳥がそれぞれ向かい合い、界圏で内区と外区が分かれる構図は維持しながらも、植物は菊に、鳥は雀のような小鳥に替わっています。蝶が外区に留まっているのも唐鏡の要素を色濃く残している点で興味深い作例です。

同じ主題で他の作例も見てみましょう。菊枝双鳥鏡(きくえだそうちょうきょう)では、同じく界圏を残す形式ながら、界圏を無視して菊花が勢いよく伸びていき、鳥は向かい合うのではなく、並ぶように飛んでいます。ここでは既に唐鏡の構図が完全に崩れているのがわかります。

菊楓蝶鳥鏡

山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 平安時代・12世紀(E-15432)

(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)

菊枝双鳥鏡

山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 平安時代・12世紀(E-15420)

(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)

また、界圏がなく、鈕の小さい宋鏡の系譜に位置づけられる菊枝双鳥鏡(きくえだそうちょうきょう)では、文様的な構成を脱却し、一幅の絵画のように菊と小鳥が表されています。このような構図の自由さも和鏡の魅力の一つです。こうした絵画的な構図は同時代の他の工芸品にも見られるもので、当時のやまと絵はもちろん、これに影響を与えた中国・宋代の絵画の様式を受け継いでいると考えられます。

菊枝双鳥鏡

山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 平安時代・12世紀(E-15395)

(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)

「和」というと、純粋に日本で創造されたように思われがちですが、中国の先進的な文化を受容し、それを基礎にして作り上げられたのが和鏡の形状であり、鏡背文様の構図であるといえます。とはいえ、和鏡の文様に感じられる心和むような安堵感や自由な構図には、自然の豊かな東方の島国で育まれてきた日本人の好みが深く刻み込まれているのではないでしょうか。


http://astrophotoclub.com/wakagami.htm 【和鏡の文化史】より

●鏡の歴史は古い。世界では紀元前6000年ころから黒曜石を研磨した鏡からはじまったとされている。日本では弥生時代に朝鮮半島で製作された製品が海を渡ってもたらされた。それ以来いろいろな鏡が海外から入ってきたがそれを日本流に変形していき、日本独特の和鏡が成立していくことになる。

日本独特のものに発達していったのは主に鏡の背に描かれる文様にある。初期の鏡では鏡背の中央に突起物のつまみ(鈕:ちゅう)があって、絵を書くにしても中央に邪魔者があると絵として成立しにくくなる。そこを和鏡の場合はしだいに突起物を取り除きひとつの連続した画面に自由に絵を書き込むことができるようにした。これが鏡を芸術品・工芸品の世界へと導くひとつのきっかけとなったようだ。

鏡は石から始まり、銅、青銅、白銅などがその材料として使われた。黒曜石や白銅は磨くだけでも表面の反射率が増して実用になるが、その他の材料では磨いた後に錫メッキ等を施さなければ鏡としては使えない。ただ、錫メッキするためには当時は水銀を利用したアマルガム法を使っていたため、「鏡作りに子なし」と言われるほど職人の水銀中毒が慢性化していたという。

鏡の中には魔鏡と呼ばれるものもあって、鏡に光を当てて壁に映すと映像が浮かび上がるしかけになっている。これは鏡の表面に作られた微妙な凹凸が像を作り出している。

青木豊著「和鏡の文化史」(刀水書房)は、これらのことを詳しく述べている。特に鏡背の文様に関しては詳しく分類されて記述されている。文様も様々で「松・山吹・桜・藤・萩・鶴・鴛鴦・千鳥・雁・雀・・」など植物、動物、人物、架空の生物、故事など範囲は広い。

鏡の目的としても、はじめは呪術、避難など鏡が持つ明るさがそれらを寄せ付けないと思われていた。また鏡が丸い縁を持つものが多いのは鏡と太陽を結び付けていることによる。

鏡にまつわる話は範囲が広くひとつの文化史を形成している。鏡を通して人間の営みが見えてくる。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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