facebook新田 修功さん投稿記事
悲しみの沼にはまらないように……⁉️😭すべては過ぎ去る……⁉️🌈🍃
読書セラピー「賢者の一言」中村天風
時が来れば必ず道は開ける。
「あんな事もあった」、「こんな事もあった」と懐かしく思う時がきっとある。
絶対積極で生き抜く言葉 より
………………………………✨✨✨
今、苦労や悲しみの真っ只中にいる人も、いつか必ず思い出話しとして誰かに話せる時がやってきます。
世の中のすべての出来事は、時とともに過ぎ去っていくのです。
風のように、雲のように、虹のように🌈
だから心配しないで、いつまでも悲しまないで、前を向いて歩きましょう🏃♀️💕
ネバーエンディングストーリーの「悲しみの沼」のように、悲しみに心を囚われてしまうと、沼の底に沈んでいってしまいます😱
この世の出来事は、すべて起こるべくして起こります。
私たちは、この世に人生を体験するために生まれてきたのですから……😇🎶💕
この素晴らしいホログラム映像のアトラクションを、思いっきり楽しみましょう🎢🎡🎠
この世を去る時が来るまでに……🤣
今日も読んでくれてありがとう🙏😊
https://j-theravada.com/dhamma/kougi/kougi-082/ 【無常が幸福に転換する②】より
無常を理解すると幸福を得られると先月はお話ししました。しかし人間は、幸福になりたいと言いながら、不幸になる道を選んでばかりいるということもお話ししましたね。
摩訶不思議なことは起こらない
科学は、電子顕微鏡まで発明し、宇宙の果てまで見える望遠鏡まであるというのに、生きる上で一番大切なことをどこまで発見してきたのでしょうか。
結局、お釈迦さまがおっしゃった事実は今も事実であって、それほど難しく考える必要はないのです。
ただ、我々の悩み苦しみ、精神的な問題が生まれるのは、私たちが自然の法則に逆らっているせいだということです。死ぬものは皆死ぬ、消えるものは皆消える、自分の若さも毎秒毎秒消えていくものだということ。すべては電流の流れ、光の流れと同じで、実体をつかまえられるものではなく、瞬間瞬間変わっていくものなのに、それに逆らって、光の実体を捕まえようとするから、苦しみが生まれるのです。
川を見て、これは隅田川だと言ったとしても、「隅田川」という実体はないのです。瞬間瞬間新しい水が流れてくる。それを我々は、仮に「隅田川」と名付けて呼ぶだけです。「私」もそう。仮に名付けているだけです。
すべては変化していくのです。だから落ち着きましょう、混乱する必要はない、悩む必要はない、リラックスしましょう、何があっても、あるべきことしかあり得ませんから、摩訶不思議なことは世の中には起こらない、非科学的なことは起こりません、因果法則に反することは何一つ起こりません…ということです。自分についても、他人についても、あるべきことが起こるだけ。だから、落ち着くこころをきちんと作っておけば大丈夫。それが、お釈迦さまのおっしゃる「悟りの境地」ということなんですね。
私も他の人も幸福に
無常の理解、悟りの境地に関係する『慈悲の瞑想』について、ここで少しお話ししましょう。
人間というのはわがままで、本当は自分のことしか考えていません。他人のことを気にして泣いていても、本当は自分のことで泣いているのです。こころというのは、自分のことしか考えないようにできているのです。人はものごとを、いつでも自分中心に考えています。そのため、お互いが孤立してしまい、戦うようになってしまうのです。親子関係でも、母親は子供を自分のために動かそうとし、子供もやはり母親を自分のために動かそうとする。そこでやっぱり戦いが生まれてしまいます。ですから、世の中をスムーズに生きるということが難しくなってしまうのです。
スムーズに生きるためには、慈しみの気持ちで生きて欲しいのです。私も幸福になりたい、そして他の人も幸福になって欲しいと。私だけ幸福に、というのではない。あるいは、私の幸福をさておいて、他人を幸福にしてあげようというのも、あまり合理的な話ではない。それでは相手にとっても、「あなたが不幸なのに、こちらの面倒を見られても」ということになってしまいますからね。
我々のこころの中の『生命を愛する気持ち』『みんな一生懸命生きている、みんな同じだと感じる気持ち』を大切にして欲しいのです。
個々の生命の違いを知ること
生命にはいろいろな違いがある。女性と男性は違う。一人一人も違う。動物と人間ではまた違う。虫と人間も違う。その『違う部分』で、我々は戦ってしまいます。相手が自分の言うとおりに、思うとおりに動いて欲しい。ですが、それはあり得ないことなのです。それぞれの個が、自分の目的を持って生きているのです。そのなかでまた、非論理的な『人間は平等なのだから、同じことをやりなさい』といった考え方を押しつけられて、またそこで戦いが生まれる。違うものは違うのです。
犬は犬に相応しい生活をしたほうが楽かもしれません。犬に人間のような生活をさせて、人間は喜ぶかもしれませんが、犬にとっては大迷惑なのです。犬に服を着せたり、たびたび散髪してやったりしても、犬にとってはかえって迷惑ですね。どんなにきれいな檻を作って犬を入れてやっても、それがどんなに豪華で高価なものであっても、犬にとっては迷惑なんですね。鳥がきれいだから、きれいな籠に入れて飾りたいと思っても、鳥にとっては森の中、藪の中で自由に飛んでいた方が幸福なんですね。飼った鳥が飼い主をつついたり、飼い犬に噛まれたりして、とんでもないペットだと怒ったりしますが、それは人間のわがまま以外のなにものでもありません。
仏教は、この事実をありのままに理解することを期待します。犬は犬である。人間は人間である。男は男である。女は女である。子供は子供である。私は別な人間である…それを理解した上でのみ『平等』という概念が成り立つのです。生命としては、皆それぞれ生きているのだと。この立場の上で、犬も幸福になって欲しいし、野生の動物も幸福になって欲しい、私も皆ともに幸福になりたい。このような理解の上で、慈悲の気持ちを育てなくてはいけないのです。
そうすると、誰かの面倒を見ようとして大きなお世話になってしまうとか、誰かに迷惑をかけるようなことはないはずです。「あなたの為に言ってるんじゃないの!」と怒る場合もありますね。その時は『あなたの為』ではなく、自分の希望通りにことが進まなかったので、相手に対して怒っているのです。
本当の慈悲の気持ちのある人は、そのような反応を示しません。その人は別の人なのだから、別の生き方を選んだということを理解するのです。ですから怒りは生まれてきません。自分の子供が悪いことをしても怒りません。子供もそれなりに別の人間で、自分で正しいと思ったことをやっただけです。
では、子供が悪いことをしたときにはどうするのか。それを教えてあげるのは当然です。「あなたが悪い」という立場ではなくて、たとえば、「あなたがやっていることは、あなたにとって『迷惑』である。あなたが勉強しないでサボったら、あなたにデメリットがある」ということを伝えられれば、「ああ、私のことを本当に心配して言っているんだな」と感じることでしょう。「こらっ。何をやっているんだ。ちゃんと学校へ行け」などと言ってしまうと、自分の自由が奪われてしまう、というように感じるのです。
我々に慈悲のこころがなければ、人を怒る権利もないし、人に教える権利もないのです。慈悲の心がなければ母親にも父親にも、子供を育てる権利もなくなってしまうのです。
個々の生命の違いを知ること
必要なのは『慈悲』なのです。慈悲がある人は誰にでも正しいこと、間違っていることを教えてあげ、やさしく指導することができるんですね。そこには大きな調和の世界が生まれます。
ですから人間には『慈悲』が必要です。慈悲といっても、宗教用語としての慈悲ではなくて、すべての生命に欠くことのできないものです。各自で必ず実行するべきものです。
自分がご飯を食べたからといって、自分の家族が皆、満腹するわけではありません。我々は、生命の生きる権利をよく理解し、その上で自分にも同じ権利があることを知り、互いにそれぞれの権利を侵すことなく、生活していくべきなのです。自分の子供であっても同じです。子供をいじめることがなければ、子供も親をいじめることはありません。たとえば、家庭内暴力を振るっている場合は、子供が「いじめられてきた」と思っているからなのです。それを発散しているだけです。ですから、慈悲さえあれば、世の中のすべての争い、すべての戦いは、きれいさっぱり消えるはずです。
これまでお話ししてきたように、我々がやらなければならないことは二つあります。一番目は、慈悲の気持ちを育てることです。生きているなら、世の中のすべての争いが消えて、平和に生きていられることが何よりなのです。それも、声高に人類に向かって発言しても仕方がないのです。個人個人が慈悲の気持ちを育てて、それぞれの個人が他人と戦わないことを実践すれば、問題は解決するのだということです。
そして次にすべきことは、無常を体験し、智慧を発達させて、苦しみが完全に消える解脱のこころをつくることです。瞑想の目的はこの二つなんですね。(この項終了)
https://ameblo.jp/toru-nishida/entry-12883360338.html?fbclid=IwY2xjawH9eo9leHRuA2FlbQIxMQABHWwhn0zfO_dt7I1O1gf1mdDSjJjSjCXZCZ1pCdy91TnnaSd4JYe5J9_u8w_aem_um30bilUlF8QTfqOXy0LIA 【唱えると神々が心の安らぎをプレゼントしてくれる「平和のマントラ」】より
愛する魂の冒険者たちへ「心の安らぎを唯一の目的にしていいんですよ」ある賢者がくれたこの言葉を、その時の光景とともに折に触れて、思い出しています。
病気や家族のことで本当にしんどかった時期のことでした。
その言葉の中にある光を受けてそこからだんだん人生が変わっていったような気がします。
私たちは誰でも自分にたくさんのことを課して一所懸命に生きています。
楽しい時もしんどい時もありますがどんな時にも自分なりに精一杯やっていて実はどの瞬間にも素晴らしい宝を天に積み上げて、魂を磨きあげているようです。
でももっと、そんなに自分に厳しくせず、安らぎの中で生きていいのかもしれません。
はだかでおぎゃあと生まれて一生懸命生きて旅立っていくその日まで心が平和であることを唯一の目的にしても良いのかもしれませんね。
もちろん、夢や願いや目標を達成していくあり方も素晴らしいと思います。
でも、そのあり方と、心が平和であることを目的にする事は両立することができます。
今回、インドでヨガと瞑想、巡礼をしていますが、、、
ヨガでは「シャンティマントラ」というものを唱えることがあります。
シャンティとは平和というような意味です。オーム シャンティ シャンティ シャンティ
とシャンティの言葉を3回唱えるんですよね。。。
世界の平和は自分の心の平和から始まります。オーム シャンティ シャンティ シャンティ
3回唱えるのは自分、身の回りの存在、世界の平和を祈り、祝福する意味があるそうです。
今回は下の方に音声つきの動画も載せさせていただきました。
全ての言葉は祈りのようなもの、と教わってきましたが、たとえば「ありがとう」というコトダマ、オトダマには素晴らしいパワーがありますよね。
ヨーガのマントラは「美しいな、そしてパワフルだな」と感じるものばかりです。
実は、、、マントラは、ヨーガの聖者たちが、深い瞑想状態で、神聖な領域に入って感得した音霊(おとだま)らしいのです。
マントラの音の波動は神聖な波動そのもの・・・
言葉の意味というよりは、その音そのものの波動によって、エネルギー的な変化変容、意識の進化をもたらしてくれる、ということで、まことにありがたいものなのでした。
心を浄化し、意識を高次に引き上げてくれる。そんな次元上昇のパワーがあるわけです。
面白いもので、サンスクリット語のマントラを唱えていると、頭が良くなったり、メンタルの状態が良くなったり、という実験が行われた例もあるんですよね。
で、、、 今日ご紹介するすばらしいマントラがシャンティマントラ(平和のマントラ)
短いですが非常に強力で、心の深いところから平安をもたらす作用があると感じます。歌うように唱えます。ある聖者のかたのご縁で知った「唱え方」で、これがめっちゃ気持ちいいメロディなんですよね。(藤井風さんもこの唱え方で唱えている映像を見つけました)
マントラは以下の通りですが、どうやって唱えるのか、わかりやすいように、シャンティマントラの音声(瞑想して唱えました)と、鎌倉の海と太陽の映像を編集したものを貼っておきますのでよかったら使ってみてください。
シャンティマントラ(平和のマントラ)
Samastah Lokah Sukhino Bhavantu Om Shanti Shanti Shanti
サマスターハ ローカーハ スキノー バヴァントゥ オーム シャーンティ シャーンティ シャーンティ
意味
生きとし生けるもの すべてが平和、自由、至福でありますように
ヨーガを創造された偉大な神様に感謝します。
今日も命にありがとうございます。
西田普にしだあまね
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