悼む

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私が本当に疲れて  生きることに疲れきって  空からも木からも人からも

目を逸らすとき  あなたが来てくれる  いつもと同じ何食わぬ顔で

駄洒落をポケットに隠して

『悼む詩』は、谷川俊太郎さんがゆかりある人々への、はなむけとして捧げた詩を集めた一冊。上の詩は、河合隼雄さんに捧げられた詩の一節です。


https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498753797.html 【「北寿老仙を悼む」は個人的な献詩だった。】より

君あしたに去(い)ぬ ゆふべのこころ千々(ちぢ)に 何(なん)ぞはるかなる

君をおもふて 岡のべに行きつ遊ぶ 岡のべ何ぞかくかなしき

与謝蕪村「北寿老仙を悼む」冒頭

茨城県結城市の、与謝蕪村「北寿老仙を悼む」詩碑を訪れた時、知ったことを書きたい。

蕪村の詩人としての「異色性」、「偉大さ」は、周囲全て、わびさび 或いは、雅こそ、詩歌の真髄であった時代、西洋詩に匹敵する、青春性豊かな「ロマン」を高らかに詠ったところにある。

この「北寿老仙を悼む」は「春風馬堤曲」と並ぶ蕪村の…、いや、日本詩歌史上の最高傑作の詩である。さて、その詩碑の最後には、こう書いてある。

庫(こ)のうちより見(み)出(い)つるまま是(これ)にしるし侍(はべ)る

(「庫」は「こ」ではなく「く」と読むのかもしれないが、それはともかく。)要約すると、

倉庫の中から見つかったものを、そのまま書き写したと書いてある。

つまり、この「傑作」はどこかに発表したものではない。「北寿老仙」(結城在住の俳人・早見晋我(はやみ・しんが)のこと)の死を悼んだ蕪村が、晋我の死に捧げた個人的な「詩」であった、ということがわかる。

案内板を読むと、この「詩」は、早見晋我の子孫が、倉庫で見つけ、晋我の「五十回忌法要」の時に発表したものだそうだ。

晋我は1671年生まれ、蕪村は1716年生まれ。45歳の違いがある。子…というより、晋我にとっては蕪村は「孫」のような存在であっただろう。晋我は、土地になじみのない蕪村の才能を見抜き、あれこれとかわいがっていたようだ。蕪村はその「御恩」に感謝し、この「詩」をひっそりと書き、遺族に渡したのではないだろうか。

そのこと(あくまで推量だが…)が私を感動させた。蕪村の、晋我に対する感謝の思いがひしひしと伝わってくる。考えれてみれば宮沢賢治の傑作も、多くは個人的に書き溜めたものである。(俳句を含む)詩は、無償の思いこそ美しいのではないか。


https://www.kogeistandard.com/jp/insight/serial/editor-in-chief-column-kogei/wabisabi/ 【日本の美意識「侘び寂び」】より

「侘び寂び」とは、禅の影響から生まれた、日本の伝統的な美意識の一つである。日本には「もののあわれ」や「粋」など、古くからさまざまな美意識があるが、侘び寂びは、海外にまで広く伝わっている日本の言葉の一つであり、国際的な美意識といえる。日本文化の中では、文学や絵画、工芸に建築、料理の盛り付けに至るまで、さまざまなところにこの美意識は影響を与えており、日本文化を海外に伝える上では、欠かすことのできないものだ。

「侘び」と「寂び」

侘び寂びは、現代では一言で用いられることが多いが、本来、「侘び」と「寂び」はそれぞれ異なる言葉である。「侘び」は、気落ちするという意味を持つ動詞「わぶ」、孤独で味気ないことを指す形容詞「わびしい」からきたものであるが、中世になり、茶の湯を通じて、そうした不足した状態に新たな美が見出され、後に「侘び茶(わびちゃ)」という茶の湯の一様式が生まれることになる。

「侘び茶」は、江戸時代から使われた言葉とされるが、室町時代にすでにその精神が生まれている。室町時代後期、公家・武士の間で豪華な茶の湯が流行したが、それに対し、質素な茶の湯を追求する茶人たちがいた。その茶人の一人こそが、「侘び茶」の創始者といわれる村田珠光である。浄土宗の増であった村田珠光は、その当時、高価であった唐物の茶碗などを用いず、雑器とされていた素朴な茶碗や道具を使うことを重んじ、質素な状態に美を見出す新たな茶の湯を始めた。この侘び茶は、その後、千利休が大成し、今でもその精神は多くの茶人に受け継がれている。

侘び寂びのもう一つの言葉である「寂び」は、漢字からも想像ができるように、孤独や閑寂の中に美を見出すことを意味する。古いもの、寂しいものを否定することなく、受け入れることで、そこにある生を感じようとする意識ともいえる。日本で暮らしていると、季節の変化の中で、枯れていくものには、その先に芽生える命を感じるものだが、そう感じられることが、寂びの美意識にも通じている。

不完全であること

「侘び」と「寂び」。それぞれ異なる言葉であったこれらの言葉だが、近しい意味を持つこともあり、今では「侘び寂び」という言葉で、世界にも広く伝わるようになった。これには、禅の説明が欠かせない。禅は仏教の宗派の一つだが、日本文化に深く浸透し、茶道だけでなく、絵画や建築など、日常のさまざまなところに影響を与えてきた。世界に「日本の禅」を広めた第一人者とされる鈴木大拙は、著書『禅と日本文化』の中で、侘びと寂びの両方についてその重要さを語っており、海外に侘び寂びの存在を伝える大きなきっかけとなった。

禅の世界では、不均衡であり不完全なものにこそ、美が宿るとされる。不均衡というものは、禅の庭園の大きな特徴ともされているものだ。また、「不完全」という言葉は茶道にも通じ、岡倉天心がその著書『茶の本』の中で、茶道の根本を「不完全なものを敬う心」と英語で記したことから、海外にも「Imperfect(不完全)=茶道の根本=日本の美意識」として伝わっていったともされている。茶の湯以外にも、禅の庭や絵画、工芸品などを通じて、不完全なものを愛でる美意識は、日本の暮らしにさまざまな形で溶けこんでいき、侘び寂びの言葉とともに、国際的にも知られていくようになった。中でも、枯山水の庭は、侘び寂びを表現した美しい日本の庭として、海外からの観光客が多く訪れる場所ともなっている。

また、侘び寂びを知る上で、何よりも大切なことは、この言葉の背景には、日本の自然観があるということだ。「不完全」という言葉も、自然がどこまでも不完全であることに繋がっている。日本には四季があり、自然の移ろいを感じることができるが、それが「侘び寂び」という美意識にも大きく影響を及ぼしている。海外の人が、この言葉に心惹かれるのは、その根底にある日本の自然観に尊さや憧れを感じるからであり、侘び寂びを伝える際には、日本という土地の個性や自然への向きあい方も合わせて伝えていくことが大切になる。

侘び寂びに触れる

見渡せば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮

この歌は、鎌倉初期の歌人である藤原定家の歌であり、侘び寂びの世界を表現している歌の一つとされている。侘び寂びを日常の世界で感じるためには、この歌のように素朴な景色を眺めたり、茶の世界に足を踏み入れるのも一つだが、もう一つの方法は、六古窯の壺や古伊万里のような工芸品に触れてみることだ。

工芸の世界では、薪窯で焼成した窯変の茶碗や、加飾のない素朴な漆器など、今の時代でも、侘び寂びの美を追い求める作り手が多くいる。中でも、六古窯の壺や花器は、昔と変わらぬ素材と製法で作られているものも多く、今でも、侘び寂びを映し出した作品が多くある。また、陶芸品であれば、茶碗や壺以外にも、古伊万里や古唐津、古九谷という表現があり、これらは昔のやきものが持つ素朴さを現代の感性で追求していくものであり、侘び寂びの美意識に通ずるものがある。「古」とつくやきものはいずれも、滲みや歪みが独特の味わいとなり、その奥深さに新しく気づくことがある。

現代における侘び寂び

侘び寂びというのは、豪華なものの対岸にある美意識であり、華やかな時代にこそ、浮かび上がるものである。利休の時代も、華やかな金銀の世界を追い求める天下人がいたからこそ、その裏返しのように侘び茶の精神が広まったのだろう。現代でも同じように、より快適で高度な社会を実現しようとする人々がいる一方で、質素で素朴な暮らしに立ち戻ろうとする人々もいる。どちらかに優劣があるということではなく、両者は光と影のような存在なのかもしれず、そうだとすれば、国際社会が成熟すればするほどに、この「侘び寂び」という美意識は求められていくものとなる。今の時代に、日本の工芸品が海外からも注目されているのは、こうした美意識を求める人々が増えているからでもあり、侘び寂びという美意識は、これからの暮らしにとって、学ぶべきものの一つなのだ。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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