https://hakko-daiodo.com/kamon-c/cate5/hanabishi/hanabishi6.html 【丸に花菱】より
古来より和文様として様々な場面で用いられてきた[花菱]紋。また家紋として武田信玄で有名な甲斐源氏一門が用いたことで知られますが、その由来とは?そこに込められた意味も含めて[丸に花菱]紋を詳細に解説します。
[丸に花菱=まるにはなびし]は[花菱]紋の一種で、何らかの植物の花冠をモチーフとした植物紋と思われがちですが、実際は[唐花=からばな]とよばれる古代中国で用いられた文様が元となっています。
文様としての「丸に花菱」
奈良時代前後に中国から伝来してのち、平安時代の[国風文化=こくふうぶんか]の影響から、独自のデザインに変化した唐花は、花弁が5弁で表現されるのが通常ですが、花菱紋は4弁でさらに菱形状に変形させた図案となります。
元になる文様(この場合は唐花)を変形させて作られた家紋としては、珍しく豊富な種類を誇り、単独で分類化されるのが一般的です。日本では、"菱"の文様も古くから用いられてきましたが、その"菱"よりもさらに華やかな印象を与える"花菱"は、それほど公家社会で重用された文様であるということです。
日本にも伝播していた古代文明の装飾
中国からもたらされた大陸由来のさまざまな文様は、当時の特権階級の垂涎の的とも言うべき存在で、さまざまな建築物・調度品・衣装などをきらびやかに飾り立てるのに重要な役割を果たしました。
当時、大陸の文化は一種のステータスで、例えるなら現代人が最先端のモードを取り入れるような感覚です。支配階級の中でも位の高い者ほど、大陸文化を取り入れるキャパシティが広くなり、位が下の者は、そのありさまに羨望を抱いたことでしょう。一般民衆に至っては蚊帳の外と言った感じだったのではないでしょうか。
唐の都・長安へ抱くイメージは、現代の日本人の世界的な都市に対するそれとは違い、もはや憧憬の念とも言えるものでしょう。例えば、現代人がニューヨークへ行く事と、奈良・平安時代の人々が長安へ行く事の困難さの比較ひとつを取ってみても、それは明らかではないでしょうか
華やかな公家文化を演出
遣唐使が廃止される前後から芽生えた国風文化の影響により、大陸由来の文様たちは日本独自の発展を遂げていきます。その中でも平安貴族のような上流階級に重用されたものは、のちに有職文様と呼ばれ、華やかな公家文化の形成の一翼を担います。
http://www.harimaya.com/o_kamon1/buke_keizu/html/uku_k.html 【宇久(五島)氏
丸に花菱】より
(清和源氏武田氏流/瑳峨源氏源綱流)
その出自には源平の二説が出ている。平氏説では、平正盛次男の家盛を宇久氏の祖としている。平氏は寿永二年(1183)に西走して源頼朝に敗れさったが、家盛は肥前国宇久島にのがれ山本に住みついたとする。源氏説は、瑳峨源氏源綱の後裔とも、清和源氏武田信義の後裔ともいわれる。また武田信弘が宇久島に渡り、初代家盛と改めたというが不明。
いずれにしても宇久氏は宇久島を基盤に発展し、今川了俊による松浦一族の一揆契諾に参加、その後五島漁主間で、漁業権等をめぐる一揆契諾をさいさい結んでいる。覚のとき、福江島岐宿に入り、その子勝は岐宿から深江に移り、辰の口城を本拠とした。
永正四年囲は玉之浦納の反乱により殺され、子の盛定は平戸に逃れ、平戸松浦興信の助けで福江島の奈留・大浜・貞方・玉之浦氏を支配した。そのころ福江島の田尾、中通島の青方.奈摩らの諸領主層を服属させている。そして、これらの領主層を一定の職制に整備した家臣団化がみられる。すなわち、浦中五人衆、六名字、その他福江四人衆、上三頭、下三頭よりなっている。しかし、平戸松浦氏、志佐氏らの支配もあるため所領収取関係は複雑であった。
盛定は、永正十八年(1521)には江川城を築き、以後、江川城は盛利に至るまでの居城となる。天文九年(1540)に明の王直が来航して貿易の利を説くと歓迎、通商の密約を結んで福江の一角に住まわせた。唐人町に現存する「六角井」はその遺構である。
純定は、永禄九年(1566)にポルトガル宣教使のアルメイダやロレンソを招いて、キリスト教の教義を説かせるとともに、教会堂を寄付などしてかれらを援助している。また庶子の純堯は、大浜氏の養子となっていた。永禄十一年に入信してルイスの洗礼名をもち、室の松浦氏もマリーと称している。
二十代純玄は、秀吉の九州征伐に参陣し、五千余石を受封して、居城を福江江川城に定めた。朝鮮出兵には水軍をもって参加、小西行長に属して先鋒となり、初めて五島氏を称した。その後ふたたび朝鮮に出動、豊臣姓を受け、慶長三年家康に会見して藩領を安堵された。
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