https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho175/kai17502.html 【常世国とこよのくにと
非時香菓ときじくのかぐのこのみについて】より
神戸市 谷本 茂
(とこよのくに)(ときじくのかぐのこのみ)
一、はじめに
本稿は、会報一七三号(二〇二二年一二月)に掲載された大原重雄氏の「田道間守の持ち帰った橘の ナツメヤシの実のデーツとしての考察」に接して、氏が採用された『日本書紀』の史料批判の方法に疑問を抱いたことを端緒としている。『日本書紀』にしか記述されていない「神仙秘区」としての「常世国」に関する情報を本来の伝承内容に含まれていたものと見做してそれに基づいて考察する大原氏の史料批判の方法に、筆者は賛同できないばかりか、西江碓児氏・古田武彦氏が提案した「非時香菓=バナナ」説(『市民の古代』第十四集 新泉社 一九九二年)を全面的に否定する結論にも妥当性が乏しいと考える。
勿論、「常世国」はどこか?「非時香菓」が何なのか?という問題には、情報量が少ないので、確固とした結論(確実な共通認識)が得られるとは限らない。従って、本稿では、大原氏の所説(「常世国」は西方にあり、「非時香菓」はデーツであろう)を否定するつもりはなく、氏が指摘された{「非時香菓=バナナ」説は妥当性が低い}という評価について別の視点を導入し、南方の「常世国」の場所を推定し「非時香菓=バナナ」説が依然として有効な(蓋然性の高い)仮説であるという私見を提示する。
二、「常世国」の場所は『日本書紀』の記述に依拠して考察すべきか?
大原氏は、タヂマモリ伝承の「常世国」について『日本書紀』(巻第六・垂仁天皇紀・百年春三月条) (注1)は〝古事記と違って常世国の特徴をくわしく記述しており、また神仙思想の関係する表現も含まれることから、漢籍の転用が考えられたが、書紀集解には関連するような漢籍の例文はあっても直接引用されたものは認められず、何らかの伝承を漢文にしたのではないかと思われる。ただ弱水については検索すると多数の用例が見られる〟として、『日本書紀』の情報に依拠して、中国文献の弱水の場所を探索し、「常世国」の場所を西方の砂漠地帯であろうと推定された。それに伴い、そこに育つナツメヤシの実(デーツ)を「非時香菓」と比定したのである。つまり、『日本書紀』の記述に本来の伝承が残されていると考えて、それを重視するのであるが、その史料性格の評価は妥当であろうか?
関連史料を見ると、『古事記』(注2)には、『日本書紀』の「常世国」に関する説明(万里踏浪、遥度弱水、神仙秘区、往来十年など)に相当するものは無い。この点、(古田武彦氏が『盗まれた神話』で指摘しているように)『古事記』に無くて『日本書紀』にだけある記述/伝承内容については、そのオリジナリティについて慎重な批判的態度が求められるのではなかろうか? 私見では、『日本書紀』のタヂマモリ伝承中の「常世国」の説明部分は、漢籍からの知識を含む編纂者の潤色の可能性が高く、国内伝承には本来存在しなかった情報とみなすのが妥当であるように思う。それを説明するために、まずは、『日本書紀』の当該部分(注1に相当する部分)を除く記紀の記載から読み取れる「常世国」の場所を検討しよう。
三、「常世国」の場所について推察できること
①常世の国(または郷)に行ったとされるのは、スクナヒコナ神、ミケヌ命、タヂマモリであり、タヂマモリはそこから帰還している。遠方ではあるが、帰還可能な場所であるという認識がある。[史料:省略]
②伊勢の国は常世の浪がしきりに打ち寄せる国、常世国は熊野の岬から出発して辿り着く場所、常世国に度(わた 渡)る、波を踏んで渡り行く、という諸認識がある。伊勢の国の打ち寄せる浪の描写からは、黒潮の流れと関係した場所(黒潮を遡上した源流域か)と思える。[史料:省略](『万葉集』にもこの認識が散見される。)
③常世の国には長鳴鳥ながなきどりがいる。常世国伝来の長鳴鳥が(弥生時代前期~中期に?)日本列島内にいた。[史料:省略]
④常世の国にはトキジクノカグノコノミ(紀では「非時香菓」)がある。それは、垂れ下がった状態のもの(「縵」で表現されるもの)と棒状のもの(「矛」または「竿」で表現されるもの)と、外見に顕著な違いがある二種類が存在する。[史料:注1と注2を参照]
⑤常世の国には、蚕に似たトコヨノムシがいる。それは、長さ四寸ばかり(十二~十三センチメートル程)で、親指くらいの大きさ(太さ)があり、緑色で黒い斑点がある。[史料:省略、後述(三の三)節を参照のこと]
⑥奈良時代以降、「常世の国」は、海の彼方、波を越えて行く場所にあり、豊穣/穀物をもたらす存在であり、不老不死や若返りが実現する仙人界(理想郷)であるという観念に結び付いた。八世紀以降では必ずしも実体のある具体的な領域とは考えられていない。大原氏の依拠した『日本書紀』の情報(注1)は、紀編纂時の「神仙秘区」の思想が文飾という形で入り込んでいる可能性があると考え、本稿では、この情報を保留して他の情報から「常世国」について考察してみる。
記紀編纂以前(七世紀まで)のタジマモリ伝承を理解するには①~⑤について具体的に分析することが必要である。ここでは、詳細な分析全体は紙数の制限により難しいので、簡単に私見の結論の概略だけを以下に示す。
(三の一)「常世国」からの海流と「常世国」から日本列島への帰還可能性
熊野や伊勢に流れ来る黒潮および、九州北部や山陰地方に流れ来る対馬海流の源流域は、東南アジア、フィリピン、ニューギニアの海域である。(そこから北赤道海流を遡上すればアメリカ大陸の西側海域に至る。)どこまで海流を遡上するかは別にして、少なくとも、日本列島の所謂〝南方海域〟から海流が流れて来ていることは周知の事実である。
(三の二)「長鳴鳥」(ながなきどり=鶏の祖先種)の棲息域
ニワトリの起源としては、単元説と多元説があるが、東南アジアの密林や竹林に棲息している赤色野鶏せきしょくやけいを祖先とするという単元説が有力である。「長鳴鳥」の種類や棲息数が多いのは、現在ではインドネシアであり、鳴き合わせも盛んである。いずれにしても鶏の祖先種は広くみて、インド・セイロン、ビルマ、マレー、タイ、インドネシアにおよぶ東南アジアを中心とする領域にいたと考えられている。
日本列島のニワトリに関しては弥生時代中期~後期の遺跡である原の辻遺跡・唐神かみから遺跡(長崎県壱岐市)から出土した骨が最古とされている。一九五九年に鳥類学者・黒田長久が報告し、近年、再検討が行われまさしくニワトリの骨であることが確認された。他に、福岡県大川市の酒見さかみ貝塚(有明海側、筑後川下流域)からもニワトリの骨が出土している。一九九二年(平成四年)に愛知県清須市・名古屋市西区の朝日遺跡(弥生時代前期~中期 大規模環濠集落遺跡)から中足骨が出土している。弥生時代のニワトリは現代の食肉用・採卵用の品種と異なり小型で、チャボ程度であったとされる。出土が少量であることから、鳴き声で朝の到来を告げる「時告げ鳥」としての利用が主体であり、食用とされた個体は廃鶏の利用など副次的なものであったと考えられている。[ウィキペディアの記述より部分的に引用]
「常世の長鳴鳥」と壱岐島・原の辻遺跡の最古の鶏の骨との関係は興味深い! また、有明湾岸や伊勢湾岸の鶏の骨は、黒潮源流域である〝南方地域〟との交流を示唆するものではなかろうか?「常世」領域の実在性を高める状況証拠といえよう。
(三の三)「常世の虫」とは何か?
【常世の神/常世の虫】六四四年(皇極天皇三年)七月、富士川のあたりに住む大生部多おおふべのおおは、橘やホソキにみられる蚕に似た緑色の親指ほどの毛虫を常世神だといい、この虫を祀まつれば富と寿いのちが与えられると説いた。また巫覡ふげきも託宣により貧乏人に富、老人に若さが与えられるとしたので、多くの人々はこの虫を祀り供物を捧ささげ、歌い舞って常世神のもたらす福さいわいを求めた。この大流行は、秦河勝はたのかわかつが、大生部多を、人を惑わすとして、打ち据えたことで終わりを告げたと『日本書紀』は伝えている。この神の性格については道教信仰によるもの、反対に固有信仰によるものなどの見解がある。その祭りに巫覡が関与し、民衆が熱狂的に歌い舞いながら祀ったという行動様式は、平安時代の志多羅しだら神のそれに共通するものがあり、日本における宗教的民衆運動の一つとして位置づけられるものである。[西垣晴次](日本大百科全書(ニッポニカ)「常世神」の解説)[史料:省略]
通説では、{蚕に似た緑色で黒い斑点がある虫=常世の虫}は、アゲハチョウの幼虫という理解になっている。アゲハチョウが何故民衆に富と寿をもたらすのか全く訳が分からない解釈である。鈴木英文氏の説(「常世の虫とは何だったのか 家蚕と天蚕七」)によれば、トコヨノムシはアゲハチョウの幼虫ではなく、〝東南アジアで飼育されているエリサンの養蚕が、南方経由で日本に伝わり、日本在来のシンジュサンによる養蚕に発展したのではないか(大生氏のルーツは南九州)〟という。
○シンジュサン(樗蚕、神樹蚕)チョウ目・ヤママユガ科のガの一種。神樹はニワウルシの別名。
○エリサン(ヒマサンともいう)ヤママユガ科に分類される大型鱗翅目昆虫である。 野蚕やさんの仲間として家蚕かいこと同様に古くから養蚕が行われ、大型で飼育しやすい昆虫。現在でもインドのアッサム地方を中心に飼育されている。日本では、野外に近縁のシンジュサンがいる。幼虫の体色は、四~五齢期で黄色と青みがかった緑色の二種類がある。各体節に黒色斑点があるものがある。
つまり、通説の{常世の虫=アゲハチョウの幼虫}は誤りで、「常世の虫」はエリサンあるいはそれと近縁のシンジュサン(鈴木英文氏の説)とするのが妥当であろう。そうすると、「常世の虫」の原産地は東南アジアと考えてよく、「常世」は東南アジアの領域を指すと考えられる。
四、「非時香菓=バナナ」仮説の検討
以上の様に、「常世(国)」が、概略、東南アジア(オセアニアを部分的に含む)領域に存在したらしい状況証拠があるので、それらを踏まえて、「非時香菓=バナナ」仮説を検討してみる。
まず、従来から指摘され、大原氏も示している通り、橘たちばなは魏志・倭人伝の記述から三世紀には倭国(日本列島)に存在したものである。わざわざ、遠方から招来する植物ではない。それに、橘の実は香辛料にはなり得ても、生食では美味とは言いにくいであろう。甘みのある温州蜜柑では?という説もあるが、最近の遺伝子の研究では、橘も温州蜜柑も日本固有種(原産種)である。「非時香菓=柑橘類」説は成り立つ余地がないと思う。
大原氏は「かぐ 香」を「輝くさま」と解釈する従来の複数の解説を念頭に、「黄金色」が条件だとしても、デーツはそれを満たすのではないか、とされた。これは、「非時香菓=橘」説を肯定したうえでの本居宣長などの後追いの語義解釈の主張であり、「かぐ」自体の用例からは全く成立しない解釈である。「良い香りがする」という一般的な解釈で大過ないのではあるまいか。また、氏の〝果実そのものを遠路運搬するのは難しいのではないか〟という疑問・指摘は一理あるとしても、どれくらいの運搬期間を想定するかによって困難性の評価は違ってくる。現代でも未成熟のバナナ果実を船便で運搬し、消費地の倉庫でエチレンガスにより追熟された黄色のバナナが市場に出回るのであり、熟したバナナ果実が運搬されるわけではないのである。
以下に「非時香菓=バナナ」仮説を示唆する状況証拠を幾つか挙げる。
(四の一)バナナの歴史と原生種/原生領域の推定
バナナはそもそもマレー半島を中心とした東南アジアからニューギニア島にいたる湿潤地帯で栽培化されたと考えられる。今日でもこの一帯の森林部に野生種のムサ・アクミナータが幾種類も分布している。インドネシアだけで十五の変種があると報告されていて、一方、フィリピンやインド北東部には、別の野生種群、ムサ・バルビシアーナが見られる。これらの分布が、インドから東南アジア、ニューギニアに至る地域をバナナの起源地と考える根拠である。栽培化されたバナナは、紀元初期にポリネシア人によって太平洋の島嶼部へもたらされた。[BRNのウェブサイトの記述より]
(四の二)二種の形状の異なるバナナの果房
中村武久『バナナ学入門』(丸善ライブラリー〇二一 丸善 一九九一年)の記述によれば、栽培バナナの原産地はマレー辺りといわれているが、実際には、スリランカ、タイ、マレー、インドネシアの広い領域がバナナの栽培品種の起源地域と考えられる。大まかに、東南アジアとオセアニア地域とが原産地域といってよい。通常のバナナとは形状が顕著に異なるフェイバナナという種があるが、それはニューギニアからポリネシア辺りの原産である。〝このフェイバナナは大変変わったバナナで、普通のバナナの染色体の基本数が11であるのに、これは基本数が10である。形態的にも違いがあり、普通のバナナは果房が垂れるが、フェイは直立する。また茎を切ると紅い汁が出るという特徴がある。〟(八五頁)
通常の東南アジア系バナナとフェイバナナの形状の違いは、タジマモリ伝承に記述された「縵」「矛(竿)」という表記に対応していて、その顕著な形状の違いを的確に表現したものと思われる。縵は下に垂れる幅のある形状を表し(原意は垂れ幕の布)、矛(竿)は上に延びる細長い棒形状を表すと考えられる。本居宣長の主張する「縵=かづら」(植物の蔓つるや緒ひもに玉状のものを通した飾りに類するもの)[縵をカゲと読んで蔭橘子かげたちばなの意とする]および「矛(竿)=ほこ」(玉状のものを串(竿)刺しにした飾りに類するもの)[矛ほこは矛橘子ほこたちばなの意とする]は、「非時香菓=橘」説を肯定したうえでの語義の創作に近い解釈である。(『古事記伝』の批判は割愛する)
【図1】 東南アジア系バナナの果房
【図2】フェイバナナの果房の状態(棒状の茎の上に結実)
地図
五、おわりに
本稿は、大原氏の「非時香菓=デーツ」説を否定しようとするものではなく、「非時香菓=バナナ」仮説の蓋然性は低いと批評する氏の論拠に対して、「常世国」の想定候補地から考えて、「非時香菓=バナナ」仮説の有効性(蓋然性の高さ)を擁護しようと意図したものである。冒頭に述べた通り、情報量が不足しているので、「常世国」の場所や「非時香菓」の実体に対して決定的な論証は困難であろう。多様な見解を提示して、相互批判をすることで理解を深めていくことが大事であると思い、敢えて大原氏の所見に疑問と反論を示した。結論自体よりも、『日本書紀』解読の方法論として、批評を賜れば幸いである。
(注1) 日本書紀 巻第六 垂仁天皇紀:九十年春二月庚子朔、天皇命田道間守遣常世國令求非時香菓。香菓此云箇倶能未。今謂橘是也。
九十九年秋七月戊午朔、天皇崩於纏向宮、時年百卌歳。冬十二月癸卯朔壬子、葬於菅原伏見陵。
明年春三月辛未朔壬午、田道間守至自常世國、則齎物也、非時香菓八竿八縵焉。田道間守、於是、泣悲歎之曰「受命天朝、遠往絶域、萬里蹈浪、遙度弱水。是常世國、則神仙祕區、俗非所臻。是以、往來之間、自經十年、豈期、獨凌峻瀾、更向本土乎。然、頼聖帝之神靈、僅得還來。今天皇既崩、不得復命、臣雖生之、亦何益矣。」乃向天皇之陵、叫哭而自死之、群臣聞皆流涙也。田道間守、是三宅連之始祖也。
(注2) 古事記 中巻 垂仁天皇記:又天皇、以三宅連等之祖・名多遲摩毛理、遣常世國、令求登岐士玖能迦玖能木實。自登下八字以音。故、多遲摩毛理、遂到其國、採其木實、以縵八縵・矛八矛、將來之間、天皇既崩。爾多遲摩毛理、分縵四縵・矛四矛、獻于大后、以縵四縵・矛四矛、獻置天皇之御陵戸而、擎其木實、叫哭以白「常世國之登岐士玖能迦玖能木實、持參上侍。」遂叫哭死也。其登岐士玖能迦玖能木實者、是今橘者也。
(本稿は、二〇二二年十二月度の関西例会での発表資料を縮約したものであり、原資料に記載されていた史料原文の殆どを紙数の関係で省略した。なお、本稿の基本的趣旨である「常世国」の場所と「非時香菓=バナナ」仮説は、NHK文化教室[神戸/梅田]において二〇一七年に講演・発表したものである。)
[二〇二三年一月一四日稿了]
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