https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1149 【紫式部】より
むらさきしきぶ
平安中期の物語作者,歌人。《源氏物語》《紫式部日記》《紫式部集》の作者。生没年不詳。誕生は970年(天禄1)説,973年(天延1)説などがあり,また978年(天元1)説は誤りである。本名も未詳。父は当時有数の学者,詩人であった藤原為時。彼女は幼時に母(藤原為信の女)を失い,未婚時代が長かった。996年(長徳2)越前守となった父とともに北陸に下り,翌々年帰京,父の同僚であった山城守右衛門佐の藤原宣孝と結婚,翌年賢子(のちの大弐三位(だいにのさんみ))を産んだ。1001年(長保3)夏に宣孝が死に,その秋ごろから《源氏物語》を書き始めた。05年(寛弘2)ごろの年末に一条天皇の中宮彰子のもとに出仕した。はじめ〈藤式部〉やがて〈紫式部〉と呼ばれるようになる。〈紫〉は《源氏物語》の女主人公紫の上にちなみ,〈式部〉は父為時の官職式部丞による。出仕当初は違和感に苦しんだらしいが,やがて中宮の親任を得て《楽府》の進講をした。また天皇が〈日本紀をこそ読み給ふべけれ〉と賞めたので,同僚から〈日本紀の御局〉とあだ名されたともいう。10年(寛弘7)夏ごろ《源氏物語》を完成し,さらに同年末までに《紫式部日記》をまとめたらしい。一条天皇没後も上東門院彰子に仕え,《小右記》長和2年(1013)5月25日条に〈為時女〉の文字が見える。同年10月ごろから長期間宮仕えを中断したあと,19年(寛仁3)1月に再び彰子のもとに出仕しているが,それ以降は明らかでない。晩年には仏教信仰に傾斜を加え,友人との贈答歌にも無常の色が濃い。日記を通じて見えるその人がらは,強烈な自我を根底としながら表面は慎ましく,調和と中庸を旨とするところがあり,複雑な性格と思われる。
伝承としては,(1)狂言綺語の罪によって地獄に堕ちたとするもの,(2)その裏返しの,紫式部は観音菩薩の化身とするもの,(3)石山寺に参籠の折,湖水に名月が映ったのを見て,〈今宵は十五夜なりけり〉と《源氏物語》を〈須磨〉巻の一節から書き起こしたとするもの,(4)その起筆は大斎院選子内親王から上東門院に珍しい物語をと注文されたためとするもの,(5)紫式部は道長の妾であったとするものなどがある。ことに(5)は近来その可能性が注目されているが,信用すべき根拠には乏しい。
[今井 源衛]
https://www.excite.co.jp/news/article/Japaaan_219364/ 【本当は別の名前だった!?「紫式部」という女房名にまつわる”違和感”に気づきますか?【光る君へ】】より
本当は別の名前だった!?「紫式部」という女房名にまつわる”違和感”に気づきますか?【光る君へ】
時は寛弘2年(1006年)12月(翌年同月説もあり)。
夫・藤原宣孝(のぶたか)と死別して5年以上の歳月が流れ、紫式部(むらさきしきぶ)は藤原彰子(しょうし/あきこ。一条天皇の中宮)の女房として出仕しました。
紫式部という呼び名は本名ではなく、いわゆる女房名(にょうぼうな。いわゆるビジネスネーム)であることはよく知られていると思います。
紫とは、彼女の代表作『源氏物語』のメインヒロイン・紫上(むらさきのうえ)から。
ちなみに『源氏物語』がヒットする前は、藤原氏であることから藤式部(とうのしきぶ)と呼ばれていました。
そして式部とは、父・藤原為時(ためとき)の官職である式部丞(しきぶのじょう)からとったと言われています。
だから人呼んで紫式部。平安時代を代表する女流作家として、後世にその名を轟かせるのでした。
が、ここで一つ違和感を覚えます。なぜ彼女は紫式部と名づけられたのでしょうか。ちょっと変ではないでしょうか?
何が変なのか?そこから何が分かる(推測される)のか?今回は紫式部の女房名について、その謎を考察したいと思います。
■出仕当時、父と夫の官職は……
本当は別の名前だった!?「紫式部」という女房名にまつわる”違...の画像はこちら >>
国立文化財機構 蔵「紫式部図」
紫式部が出仕したのは寛弘2年(1006年)12月と言いました。
この時点で、父親の藤原為時は式部丞ではなく、越前守(えちぜんのかみ。国司長官)です。
なので、父親の官職から女房名をつけるのであれば、藤越前(とうのえちぜん)などとつけるのが妥当ではないでしょうか。
ちなみに亡き夫・藤原宣孝(右衛門権佐・山城守)から官職をとるなら、藤山城(とうのやましろ)あるいは藤右衛門(とうのゑもん)となりそうです。
なぜ父親の、しかも古い官職が女房名に使われたのか?
それはもしかしたら、寛弘2年(1006年)以前から既に出仕していたからのかも知れない。そんな説があると言います。
時をさかのぼること19年、永延元年(987年)に藤原道長(みちなが)と源倫子(りんし/ともこ)が結婚する時に、紫式部は倫子付きの女房として出仕していたとか。
永延元年(987年)時点であれば、確かに父・為時は(元)式部丞です。だから、藤式部で何もおかしくありません。
『今鏡』などには紫式部が源倫子に仕えていたことが記されており、この説を裏づけます。
また『紫式部日記』の記述から、彰子に仕えていた時点で、どうもキャリアがありそうです。
もしかしたら、以前に仕えていた紫式部が10数年ぶりに現場?復帰したから昔の女房名で呼ばれたのかも知れませんね。
■終わりに
以上、紫式部の女房名から、通説よりも早い時期から出仕していた説について紹介しました。
果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」では、この説が採用されるでしょうか。
道長と倫子の結婚を、女房として見届けなければならない”まひろ(紫式部)”の心中……ドラマ的に盛り上がりそうです。
果たして実際はどうだったのか、今後の究明がまたれますね!
※参考文献:
角田文衛『紫式部とその時代』角川書店、1966年1月
トップ画像:大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
https://gururinkansai.com/murasakishikibuyukari.html 【紫式部ゆかりの地】より
紫式部ゆかりの地を巡ります。天台圓浄宗 大本山 廬山寺
天台圓浄宗 大本山 廬山寺は、京都市上京区にある。
天慶元年(938)、比叡山第十八世座主 元三大師良源(がんざんだいしりょうげん)(慈恵大師)が京都の北、船岡山南麓に開いた與願金剛院(よがんこんごういん)に始まる。
寛元3年(1245)法然上人に帰依した住心房覚瑜(じゅうしんぼうかくゆ)が出雲路に廬山寺を開き、南北朝時代にこの二ケ寺を兼務した明導照源(みょうどうしょうげん)上人によって廬山寺が與願金剛院に統合された。
この時から寺名を廬山天台講寺と改め、圓、密、戒、浄の四宗兼学道場となった。
その後、応仁の乱や家事により類焼し、当時の再建勧進には、「此の地は洛中の叡山、日本の虎渓(中国の江西省の廬山にあった谷の名称)なり、誰かこれを帰敬せざらん」と記されている。
元亀3年(1571)、織田信長の比叡山焼き討ちにも遭遇するが、正親町天皇の勅命を受けて、現在地(紫式部邸宅址)に移転した。
現在の本堂は、宝永5年(1708)、天明8年(1788)に、世にいう「宝永の大火」、「天明の大火」で相ついで焼失した後、寛政6年(1794)に光格天皇が仙洞御所の一部を移築し、女院、閑院宮家の下賜をもって改装されたものである。
また当寺は、明治時代初期の廃仏毀釈により廃された御黒戸四箇院(おくろどしかいん)(宮中の仏事をつかさどる四ケ寺、二尊院(にそんいん)、般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)、遣迎院(けんげいいん)、廬山寺)の一寺院である。
明治5年9月、太政官布告で総本山延暦寺に附属した。
昭和23年(1948)圓浄宗として元の四宗兼学(円、密、戒、浄)の道場となり、今日に至っている。
紫式部邸宅址 源氏庭
当地は、紫式部の曾祖父にあたる中納言 藤原兼輔(877-933)から叔父の為頼、父の為時へと伝えられた広い邸宅であった。
それは鴨川の西側の堤防の西に接していたため「堤邸」と呼ばれ、それに因んで兼輔は「堤中納言」の名で知られていた。
紫式部は百年ほど前に兼輔(かねすけ)が建てた「旧い家」で一生の大部分を過ごしたといわれ、この邸宅で藤原宣孝(のぶたか)との結婚生活を送り、一人娘の賢子(かたいこ)(大弐三位(だいにのさんみ))を育てた。
婚姻生活は、約三年で宣孝が病死したために終わったが、この夫との別れをきっかけに「源氏物語」を執筆し始めたとされる。
右大臣の藤原道長が源氏物語の評判を聞きつけ、紫式部を娘の中宮 彰子の女房に推薦した。
紫式部が、女房として宮仕えをしながら全54巻、登場人物500人を超える世界最古の長編恋愛小説を当地で書き上げており、門前には「紫式部邸宅址」の石碑がある。
この邸宅址は、昭和40年(1965)に考古学者角田文衛博士によって考証され、新村出博士揮毫の紫式部邸顕彰碑がある。
本堂南には、白砂と苔及び紫のキキョウを配した「源氏庭」があり、慶光天皇廬山寺陵の前には、彰子が法成寺境内に建立した東北院のものと伝える「雲水ノ井(くもみずのい)跡」がある。
平成7年(1995)には、紫式部 大貮三位 歌碑が建立された。
紫式部 大貮三位 歌碑
紫式部 大貮三位 歌碑は、京都市上京区廬山寺境内にある。
平成7年(1995)9月に紫式部顕彰会が建立した石碑には、次のように刻されている。
大貮三位
有馬山 ゐなの ささ原 風吹けば いでそよ人を 忘れ やはする 紫式部
めぐりあひて みしや それとも わかぬまに 雲かくれにし 夜半(よは)の月影
いずれの和歌も小倉百人一首に収められている。
後拾遺集 恋ニ 七〇九 小倉百人一首第五八番
有馬山 猪名の川原 風吹けば いでそよひと人を 忘れやはする 大弐三位
(解説)
後拾遺集の詞書に「離れ離れ(かれがれ)になる男の、おぼつかなくなど言ひたるに詠める」とある。作者のもとへ通ってくることも途絶えがちになってきた男が、「あなたが心変わりしたのではないかと気がかりです」などと言ってきたのでこの歌を詠んだという。
(歌意)
有馬山に近い猪名の笹原に風が吹くと、笹の葉がそよそよと音をたてる。さあそのことですよ。お忘れになったのはあなたのほう、私はどうしてあなたのことを忘れられるでしょうか。
新古今和歌集 雑上 一四九九 小倉百人一首第五七番
めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に
雲がくれにし 夜半(よわ)の月影<月かな(百人一首)> 紫式部
(解説)
新古今和歌集の詞書に「早くより童友だちに侍りける人の、年ごろ経てゆき逢ひたる、ほのかにて、七月十日のころ、月にきはひて帰り侍りければ」とある。
久し振りに再会できた幼友達が、ほんのわずか会っただけで、雲に隠れる月と競うように帰りましたので詠んだという歌である。
(歌意)
めぐり逢って見た月が、前に見た月であったかとも分からないうちに、雲に隠れてしまった夜中の月の光よ。ーめぐり逢って見た人が、その人であったかとも分からないうちに、姿を隠してしまった人よ。歌碑横の説明板には次のように記されている。(一部追記あり)
紫式部 大貮三位 歌碑
大貮三位
作者は名を賢子(「越後弁」(祖父為時の「左少弁」と「越後守」にちなんだ女房名))と言い、父は右衛門權佐・藤原宣孝、母は紫式部。
長保二年(一〇〇〇年)に出生、永保二年(一〇八二年)に薨じた。
親仁親王(後の後冷泉天皇)の乳母(めのと)となり、従三位奥侍に昇進した。
三位であると共に太宰大貮・高階成章と結婚したため、宮廷では天喜2年(1054)以降「大貮三位(だいにのさんみ)」と呼ばれた。
歌人としては母親に匹敵するほどの才媛で、歌集「大貮三位集」を遺した。
きわめて聡明で人徳があり、乳母典侍として、後冷泉朝の宮廷文化の昂揚に大きく寄与した。
紫式部
紫式部は、越後守・藤原為時の娘で、名は香子(たかこ)と言ったらしい。
生年は天延元年(九七三年)頃、没年は長元四年(一〇三一年)頃と推定される。
夫・藤原宣孝の卒後、中宮・藤原彰子に仕えた。中古三十六歌仙のひとりとされ、大作「源氏物語」のほか「紫式部日記」「紫式部集」といった作品がある。
その文名は遍く知られており、ユネスコによって、「世界の偉人」のひとりに選定されている。 平成七年(一九九五年)九月 文学博士 角田文衛 撰
雲水の井
雲水の井は、京都市上京区の廬山寺本堂の東側にある。
雲水の井(くもみずのい)は、慶光天皇廬山寺陵の前(南)にあり、藤原道長の娘 上東門院 藤原彰子(988-1074)が法成寺境内に建立した東北院のものと伝えられている。
加藤繁生氏は、「廬山寺墓地の石造遺構 ー伝『雲水の井』ーについて」(史跡と美術781号)で、この「下り井戸」について詳しく検証している。
安永9年(1780)に出版された「都名所図会」の廬山寺の図には、寺の後方に「雲水の井」と書き入れられている。
上東門院 藤原彰子は、長元3年(1030)、法成寺の北東一角に「東北院」を建立した。
そして愛娘小式部内侍に先立たれて寂しく過ごしていた女房の和泉式部のために院内に一庵を設けた。
この庵は後に「誠心院」(正式名は「華嶽山東北寺誠心院」)と名付けられ、二度移転して、現在は新京極蛸薬師にある。→ 誠心院
東北院は、その後何度か移転し、現在は洛東真如堂(真正極楽寺)の傍らにある。
東北院境内の「軒端の梅」は、和泉式部ゆかりの梅として知られている。→ 雲水山 東北院 軒端梅
「拾遺都名所図会」に洛東の東北院について、次のような記述がある。
「東北院 極楽寺の西に隣る(中略)
雲水井(くもみずのゐ) 堂前の西にあり
軒端梅 同所にあり
抑(そもそも)いにしへの東北院といふハ上東門院の御願にて御父御堂関白道長公の棲みたまふ法成寺の傍らにつくらせたまふ(中略)
和泉式部塔 雲水 軒端梅ハ今所々にあり みな東北という謡曲によりて後世作ると見へたり
當寺の再興ハ元禄年中也
東北院のわたどののやり水に影を見て読み侍りける
続後撰 影みてもうき我なみだ落ちそひてかごとがましき瀧の音かな 紫式部」
上記の紫式部の和歌について、「拾遺都名所図会」、続後撰和歌集では、「東北院」での歌とされているが、
(陽明文庫本)紫式部集では、「土御門院にて」詠まれた歌として載せられている。
(久保田孝雄氏ほか「紫式部集大成」参照)
山本利達氏校注「紫式部日記 紫式部集」では、次のように記されている。
土御門院にて、遣水の上なる渡殿の簀子にゐて、高欄おしかかりて見るに
影みても うきわが涙 おちそひて かごとがましき滝の音かな
(歌意及び説明)
遣水にうつる姿を見るにつけても、つらいわが身の上を思って流れる涙が遣水に加わって、
この涙のせいだと恨むかのような滝の音よ。
寛弘五年(一〇〇八)五月五日は、土御門殿で行われていた法華三十講の中心行事のあった日で、その翌朝の歌。(後略)
加藤繁生氏によると、雲水の井は、現在も数カ所に残されており、廬山寺本堂東側の雲水の井もその一つである。
また、謡曲「東北」に因んで、かつて廬山寺境内に「澗底(かんてい)の松」も植えられていたという。
土御門第跡
土御門第跡は、京都市の京都御苑内にある。
現地の案内板には、次のように記されている。
土御門第跡(つちみかどていあと)
平安時代中期に摂政・太政大臣となった藤原道長の邸宅跡で、拡充され南北二町に及び、上東門第(じょうとうもんてい)、京極第(きょうごくてい)などとも呼ばれました。
道長の長女彰子(しょうし)が一条天皇のお后となり、里内裏(さとだいり)である当邸で、後の後一条天皇や後朱雀天皇になる皇子達も、誕生しました。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」の歌は、この邸で催された宴席で詠まれたといいます。
紫式部日記で描かれる土御門第と源氏物語
紫式部日記の寛弘五年(1008年)霜月(十一月)一日の条。
一条天皇の中宮彰子が出産した第二皇子敦成親王の五十日の祝いが藤原道長の土御門邸で催された。
祝宴もたけなわとなり、許されて中宮の前に参上した公卿たちが女房たちにたわむれかかる。
左衛門の督すなわち藤原公任もふざけて
「このあたりに若紫はおられますか
(あなかしこ、このわたりに、わかむらさきやさぶらふ)」と呼びかける。
それを聞いた紫式部は
「源氏ににているような人もお見えにならないのに、ましてあの紫の上がどうしてここにいらっしゃるのだろう
(源氏にかかるべき人も見えたまはぬに、かのうへは、まいていかでものしたまはむ)」
と心に思う。
(「源氏物語千年紀展」紫式部日記絵巻の解説 参照)
この紫式部日記の記述が、源氏物語の成立に関する第一次資料として認められている。
「わが世の望月」の歌について
上記案内板にある道長のわが世の望月の歌は、寛仁2年(1018)10月16日、道長と倫子の娘 威子が後一条天皇の中宮となった日に詠まれた。
山本淳子氏は、「道長ものがたりーわが世の望月とは何だったのか」で、当日の様子について概略次のように記している。
当日の子細は、道長の「御堂関白記」より(藤原)実資の日記「小右記」に詳しい。
道長が和歌を詠んだのは、内裏の紫宸殿で立后の儀式が行われた後、場を道長の土御門殿に移しての宴(「穏座(おんのざ/おんざ)」)でのことだった。
前々年七月の火災で灰燼に帰した土御門殿はこの六月に新造され、前より高く聳える屋根など、全て道長の指示通りに輝かしく造り替えられていた。
宴がやがて寛いだ二次会になると、音楽が奏でられる中、道長は大納言の実資に戯れるように言った。「我が子に盃を勧めてくれんか?」(中略)
しばらくして、道長は次のように言った。
<以下は、「小右記」>
「和歌を詠まんと欲す。必ず和すべし」てへり。 答へて云はく、「何ぞ和し奉らざるや」。
又云はく、「誇りたる歌になむ有る。但し宿構(しゅくこう)に非ず」てへり。
此の世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も 無しと思へば
<大意>
太閤(道長)が下官を呼んで云ったことには、「和歌を読もうと思う。必ず和すように」ということだ。
答えて云ったことには「どうして和し奉らないことがありましょうか」と。また、(道長が)云ったことには、「誇っている歌である。但し予め用意していたものではない。」ということだ。
「今夜のこの世を、私は最高の時だと思う。(16日で)空の月は欠けているが、私の望月は欠けることもないと思うので。」
私(実資)が申して云ったことには、「御歌は優美です。醜答(しゅうとう)する方策もありません。満座は、ただこの歌を誦すべきでしょう。元稹(げんしん)の菊の詩に、(白)居易は和すことなく、深く賞嘆して、終日、吟詠していました。」と。→ 京都新聞 文遊回廊
諸卿は私の言に饗応して、数度、吟詠した。太閤は和解し、特に和すことを責めなかった。夜は深く、月は明るかった。酔いに任せて、各々、退出した。(後略)
(倉本一宏氏編「現代語訳小右記」 参照)
藤原道長の「御堂関白記」は、10月16日の様子について、大変詳細に記しているが、わが世の望月の歌に関しては、次のように和歌とだけ記し、どのような歌であったかは記されていない。
数献の宴飲の後、禄を下賜した。大褂(おおうちぎ)一重であった。ここに至って、私は和歌を詠んだ。人々はこの和歌を詠唱した。本宮の儀が終わって、人々は分散して帰って行った。
(倉本一宏氏「藤原道長「御堂関白記」(下)」 参照)
→ 藤原道長ゆかりの地
一条院跡
一条院跡は、京都市上京区梨木町にある。
名和児童公園西側に、京都市の案内板があり、次のように記されている。
源氏物語ゆかりの地
一条院跡 平安京左京北辺二坊一町・四町跡
一条院は、平安京の北東に隣接した邸宅で、一条天皇の里内裏(さとだいり)として有名(一条院内裏)。
東西二町のうち御所として用いられたのは西側の一町で、東側は附属する財政や物資の調達を担当する別納(べちのう)であった。
この邸は一〇世紀前半の藤原師輔(もろすけ)から子の伊尹(これまさ)・為光(ためみつ)へと伝えられ、富裕な受領の佐伯公行(さえきのきんゆき)が買得して東三条院(円融天皇女御の藤原詮子(せんし))に献上。
女院は子の一条天皇の御所として修造し、長保元年(九九九)の内裏焼亡(一条天皇の代には内裏が三度焼亡)から寛弘八年(一〇一一)の崩御まで里内裏として使用された。
東の別納は道長・中宮彰子(しょうし)父娘の直廬(じきろ)(宿泊所)が設けられていた。中宮彰子に仕えた紫式部が日記に書いている内裏はこの一条院内裏で、一条天皇時代の文化サロンの舞台となった。
なお、当該地は南北朝時代、後醍醐天皇を擁護して鎌倉幕府の倒幕に貢献し、建武新政の要職についた名和長年が、天皇方と足利方の京都合戦により建武三年(一三三六)六月三〇日に戦死した終焉の地と伝えられ、現在は名和児童公園となっており、石碑が建っている。
名和児童公園東側には、「贈従一位名和長年公殉節之所」と刻した石碑がある。→ 名和長年戦死の地
枇杷殿跡
枇杷殿跡は、京都市上京区の京都御苑内にある。
現地に設置された駒札(案内板)には、次のように記されている。
枇杷殿跡(びわどのあと)
このあたりにあったといわれ、平安時代前期、藤原基経から三男 仲平に伝えられ、敷地内には宝物を満たした蔵が並んでいたといいます。
一〇〇二(長保四)年以降、藤原道長と二女 姸子(けんし)の里邸として整備され、御所の内裏炎上の折は里内裏ともなり、一〇〇九(寛弘六)年には一条天皇が遷り、紫式部や清少納言が当邸で仕えたといわれます。
一〇一四(長和三)年、再び内裏が炎上し、その後、三条天皇はこの邸で後一条天皇に譲位したといいます。
紫式部集(補遺)にある枇杷殿で詠まれた和歌
紫式部集(補遺)には、次の歌が載せられている。
一条院の御事の後、上東門院、枇杷殿へ出で
たまうける日、詠み侍りける
ありし世を夢に見なして涙さへとまらぬ宿ぞ悲しかりける
(解説)
寛弘8年(1011)6月22日に一条天皇が崩御され、中宮 彰子(万寿3年(1026)出家して上東門院と称した)が一条院内裏を引きはらい、
寛弘8年10月16日に枇杷殿(当時 藤原道長が伝領)へ移御された日に詠んだ
(歌意)
帝の御在世時を、はかない夢だったと思いなして御所を立ち去りますが、帝の御影は申すに及ばず、ながす涙さえもがとまらない、
この仮の宿のような御所が悲しく思われることです。
(新日本古典文学大系24 土佐日記 紫式部日記ほか 参照)
東三条院址 東三条殿址
東三条院址(とうさんじょういんし) 東三条殿址(ひがしさんじょうどのあと)は、京都市中京区にある。
京都市中京区上松屋町の押小路通(おしこうじどおり)と釜座通(かまんざどおり)の交差点に、「此附近東三條殿址」と記した石標が建てられている。
石標横の案内板には、次のように記されている。
東三条院址(とうさんじょういんし)
東三条院の址はこの辺りを中心として、二条通、御池通、新町通、西洞院通に囲まれた東西約一三〇メートル、南北約二八〇メートルに及ぶ細長い地域をいい、平安時代に隆盛を極めた藤原氏の邸があった所である。
はじめ醍醐天皇皇子重明(しげあきら)親王の邸であったが、平安時代初期に藤原良房(よしふさ)が譲り受けた後は、藤原氏出身の女子で皇妃、母后となった人が居住する慣わしとなっていた所である。
藤原兼家(東三条殿と称した)の姉娘超子は冷泉天皇の女御となって三条天皇を、妹娘詮子は圓融天皇の女御となって一条天皇を、それぞれここで産んでいる。
殊に詮子は一条天皇の即位後、皇太后となり、出家して東三条院と称した。
その後、邸は藤原道長に引き継がれたが、邸内は尊美を極め、庭内池に竜頭船を浮かべて、天皇の行幸を仰ぎ、公家の遊宴が盛んに行われた。
その華やかな様は「本朝文粋」にも記されているが、邸は安元三年(一一七七)に火災で焼失した。
京都市
なお、焼失時期については、当地で皇子 憲仁親王(後の高倉天皇)の立太子の儀が行われ御所となり、仁安元年(1166)に焼失したともいわれる。
紫式部は、彰子中宮付きの女房として出仕しているが、その間 彰子中宮は、内裏に2年、一条院に3年、枇杷殿に1年、東三条殿に半年程生活し、一条天皇崩御の後は、彰子皇太后(上東門院)として、土御門殿で生活したと考えられている。
真珠庵
真珠庵は、京都市北区紫野大徳寺町にある大徳寺の塔頭である。
一般拝観は受け付けていない。
永享年間(1429-1441)、一休禅師(宗純)を開祖として創建されたが、応仁の乱で焼失し、延徳3年(1491)、堺の豪商 尾和宗臨(おわそうりん)によって再興された。
方丈は寛永15年(1638)の建立で、木造一休和上坐像(国重文)が安置されている。
方丈内部の水墨画「山水図」、「花鳥図」は室町時代の曽我蛇足の作、障壁画「商山四皓図(しょうざんしこうず)」「蜆子猪頭図(げんすちょとうず)」は、桃山時代の長谷川等伯の作といわれている。
書院の通僊院(つうせんいん)は、正親町(おおぎまち)天皇の女御(にょうご)の化粧殿(けわいどの)を移築したものといわれ、金森宗和(かなもりそうわ)好みの茶室、庭玉軒(ていぎょくけん)が付属している。
庭園(国の史跡及び名勝)は、方丈の東庭、南庭及び通僊院庭園があり、東庭は室町時代の作とされ、石組の配列から「七五三の庭」と呼ばれている。
寺宝として、大燈国師墨蹟(だいとうこくしぼくせき)(国宝)、紙本著色苦行釈迦像、墨溪(ぼっけい)筆の紙本墨画達摩像、紙本墨画竹石白鶴図(ちくせきはっかくず)(京博保管)など、多数の文化財を有している。
また、境内には、茶道の祖、村田珠光(じゅこう)の墓、紫式部産湯の井戸がある。
杉田博明氏「源氏物語を歩く」では、紫式部産湯の井戸について、写真とともに、次のように紹介されている。
おもしろいのは、一方、大徳寺真珠庵に現存する紫式部のうぶ湯の井戸であろう。
真珠庵は一休禅師を開祖とする大徳寺塔頭中随一の寺。
井戸は方丈北、茶の村田珠光が遺愛といわれる手水鉢の横、正親町天皇皇后化粧所の前に、わずか一メートル四方の井戸が暗い口をあけている。
井戸には、和泉式部のうぶ湯の井戸の伝説もある。かつてこの地が彼女の夫藤原保昌の邸宅地だったことからであろうか。もとより真偽のほどはわからない。
京都市バス大徳寺前下車、徒歩5分。
雲林院
雲林院は、京都市北区にある臨済宗大徳寺派の寺院である。
平安時代には、この付近 紫野は、広大な荒野で、狩猟も行われていた。
淳和天皇(在位823-833)は、この地に離宮 紫野院を造り、度々行幸した。
桜や紅葉の名所として知られ、文人を交えての歌舞の宴も開かれている。
その後、紫野院は、仁明(にんみょう)天皇、その皇子 常康(つねやす)親王に伝領され、
貞観11年(869)に僧正遍照(そうじょうへんじょう)を招き雲林院と呼ばれ、官寺となった。
平安時代中期には、雲林院で開かれる菩提講が世に知られていた。
歴史物語「大鏡」は、この菩提講で出合わせた二人の老人 大宅世継(おおやけのよつぎ)と夏山繁樹(なつやましげき)の昔語りという趣向で展開される。
「源氏物語」「伊勢物語」にも、雲林院が登場し、「古今集」以下歌枕としても有名で、謡曲「雲林院」はそうした昔をしのんで作られている。
鎌倉時代には、雲林院の敷地に大徳寺が建立された。
現在の観音堂は宝永4年(1707)に再建され、十一面千手観音菩薩像、大徳寺開山大燈国師像を安置している。
京都市バス大徳寺前下車、徒歩3分。
小野篁卿墓、紫式部墓所
小野篁卿墓、紫式部墓所は、京都市北区紫野西御所田(ごしょでん)町にある。
堀川通から西に入ると、向かって右側に小野篁卿墓、左側に紫式部墓が並んでおり、紫式部顕彰会の石碑が建立されている。
当地から西方にある雲林院には、「源氏物語ゆかりの地」の案内板があり、京都市の記した案内文には、墓所について次のように紹介されている。
「ここより東方三六〇mの堀川通の西側には紫式部と小野篁の墓伝承地がある。」
倉本一宏氏は、紫式部の墓所について、次のように記している。(「紫式部と平安の都」)
さて、「源氏物語」のあまりの名声ゆえに、後世、紫式部が観音の化身だったという伝説が生まれた。
その逆に、色事を中心とした絵空事を書いて人々を惑わしたというので、仏教の五戒の一つである「不妄五戒(ふもうごかい)」を破ったとして、紫式部が地獄に堕ちて苦しんでいるという伝説も生まれた。(「宝物集(ほうぶつしゅう)」「今物語」「雨月物語」)
それと関連して、地獄とこの世を行き来する冥官(めいかん)説話のある小野篁によって地獄から助け出されたという伝説も生まれ、紫野にある二つ並んだ土盛りが、「紫式部の墓・小野篁の墓」と称されている。
この「紫式部の墓」は、すでに室町時代初期に著わされた「河海抄(かかいしょう)」にも、紫式部の墓は雲林院の塔頭である白毫院の南にあると記されているから、この土盛りのことを指している可能性がある。
堀川通の北大路から下った島津製作所の北隣にあり(現京都市北区紫野西御所田町)、「紫式部顕彰会」(角田文衛会長)による顕彰碑が建っている。
もちろん、もとより伝説の世界の話である。
小野篁(おののたかむら)(802-852)は、平安時代の漢詩人、歌人。小野妹子の子孫で、父は「凌雲集」の選者 小野岑守(みねもり)。
参議に任ぜられて、野宰相(やさいしょう)、野相公(やしょうこう)などと呼ばれ、冥官(みょうかん)とする蘇生説話などで知られる。
紫式部は、平安中期の物語作者、歌人。「源氏物語」「紫式部日記」「紫式部集」の作者。生没年及び本名は未詳。
父は、当時有数の学者、詩人であった藤原為時。長徳2年(996)越前守となった父とともに北陸に下り、翌々年帰京。
父の同僚であった山城守右衛門佐の藤原宣孝と結婚、翌年賢子(のちの大貮三位(だいにのさんみ)を産んだ。
長保3年(1001)宣孝が病死し、その後「源氏物語」を書き始め、寛弘2年(1005)一条天皇の中宮 彰子のもとに出仕した。
はじめ「藤式部」やがて「紫式部」と呼ばれるようになる。紫は源氏物語の女主人公 紫の上にちなみ、式部は父 為時の官職 式部丞による。
引接寺(千本ゑんま堂)
引接寺(千本ゑんま堂)は、京都市上京区閻魔前町にある。
光明山歓喜院引接寺と号する高野山真言宗の寺院で、本尊として閻魔法王を祀り、一般に「千本ゑんま堂」の名で親しまれている。
開基は小野篁(おののたかむら)卿で、あの世とこの世を往来する神通力を有し、昼は宮中に、夜は閻魔之庁(えんまのちょう)に仕えたと伝えられ、朱雀大路頭(すざくおおじかしら)に閻魔法王を安置したことに始まる。
その後、寛仁元年(1017)叡山恵心僧都の法弟、定覚上人が「諸人化導引接佛道(しょにんけどういんじょうぶつどう)」の意を以って当地に「光明山歓喜院引接寺」を開山した。
本堂には丈六の閻魔王坐像と司命、司録の像、地蔵菩薩立像が安置され、壁面には狩野光信筆と伝える「冥府の図」が描かれており、閻魔王宮を模している。
小野篁は「お精霊(しょうらい)迎え」の法儀を授かり、塔婆供養と迎え鐘によって、この世を現世浄化の根本道場とした。
精霊迎えの法とは、閻魔王から現世浄化のために、塔婆を用いて亡き先祖を再びこの世へ迎える供養法で、のちに盂蘭盆会に発展する法儀である。
境内北側にある名桜「普賢象桜(ふげんぞうさくら)」は咲いた時に双葉を持ち、花冠のまま落ちる珍しい桜である。
往時、この地に桜が千本あったことと、葬送地としての蓮台野の入口にあたり供養の卒塔婆が無数に並び建っていたことに由来して、「千本」という地名が生まれたと言われている。
毎年5月1日から4日間、境内の狂言堂で千本ゑんま堂大念仏狂言が演じられる。定覚上人によって始められたと伝えられ、鎌倉時代に明善によって再興された。
京都では壬生(みぶ)、神泉苑とともに大念仏狂言として知られている。
鰐口、太鼓、笛で囃すのは他の狂言と同様であるが、無言ではなく有言劇として演じられ、京都市無形民俗文化財に指定されている。
京都市バス乾隆校前下車、徒歩2分。
引接寺塔婆 紫式部供養塔
境内東北隅にある、圓阿上人作の引接寺塔婆は、高さが6.1mの十層の多重石塔で「至徳三年(1386)」の刻銘があり、国の重要文化財に指定されている。
九重塔に裳階をつけたとも、二重の宝塔の上に多層塔の残欠八重を積み上げたもいわれる珍しい石塔である。
円形基礎の周囲に14体の地藏小像が彫刻され、一重目には四方に石仏が配され、二重目には四本柱の中に円柱の軸部を置き、三面には鳥居、もう一面には連座上の月輪を刻み、それぞれの中に胎蔵界四仏の梵字を表している。
三重目から上には反り返りの良い八個の笠石を置き鎌倉時代の特徴を備えている。
この石塔は、もとは紫野の白毫院にあったともいわれ、紫式部供養塔と称されている。
紫式部の顕彰碑
紫式部の顕彰碑は、京都市北区大徳寺大慈院にある。
京都観光案内所の資料によると、寛政7年(1795)建立の顕彰碑で、非公開とされている。
今井源衛氏の「人物叢書 紫式部」(昭和41年刊)によると、
この顕彰碑は、はじめは「小野篁卿墓、紫式部墓所」の傍に建てる予定であったものが、差支えがあって、寛政10年に碧玉庵(廃滅)に移された後、居所を変え、大慈院に落ち着いたという。
→ 京洛逍遥(110)紫式部に縁のある大徳寺
片山御子神社
片山御子神社は、京都市北区の上賀茂神社(賀茂別雷神社)の第一摂社である。
現地の案内板には、次のように記されている。
賀茂別雷神社 第一攝社 片山御子神社
祭神 玉依比賣命 一柱一座
延喜式内の古社である。
「延喜式」には、「片山御子神社 大、月次 相嘗、新嘗」と載せている。
賀茂縣主族の祭祀の権を握って居られた最高の女性、本宮御祭神別雷神を感得せられた神で、常に別雷神の御側に待ってお仕え申し上げておられたのである。
よって現在にあっても本宮恒例の祭祀には、先づ当神社に祭を行う例となっている。
それは只今より御奉仕申し上げる本宮のお祭は、御祭神の御名によって、お仕え申し上げる由を、予め奏上せんとする意味から行うのである。
古来第一攝社と崇められている。
事情かくの如くであるので、皇室の御崇敬も厚く、本宮へ行幸、御幸等の場合は当社へも奉幣あらせられることが縷々あった。天正十九年六月十一日正一位を奉られている。
古く当社の後ろに「よるべの水」を湛えた甕が三個あったが、天正年中汚穢の禍を懼れて地下に埋没したという。
片山御子神社は、片岡社とも呼ばれており、縁結び、子授け、安産の神様として知られている。
源氏物語の作者である紫式部は、当社に参拝祈願した際に下記の和歌を詠んでいる。
賀茂にまうでて侍りけるに、人の、ほととぎす鳴かなむと申しけるあけぼの、
片岡の梢おかしく見え侍ければ
ほととぎす 声まつほどは 片岡の
もりのしづくに 立ちやぬれまし
(「新古今和歌集」巻第三 夏歌)
(通釈)
ホトトギス(将来の結婚相手)の声を待っている間は、
この片岡の杜の梢の下に立って、朝露の雫に濡れていましょう
※ホトトギスと共に片岡の杜もまた素晴らしいという意味
当社南側にある「岩上」の隣 灯篭脇には、京都北ライオンズクラブの奉納した上記和歌の歌碑がある。
紫式部歌碑(上賀茂神社)
紫式部歌碑(上賀茂神社)は、京都市北区にある。
歌碑横の説明板には、次のように記されている。
紫式部歌碑
ほととぎす 声まつほどは 片岡の
もりのしづくに 立ちやぬれまし
揮毫 後藤西香先生
石材 鞍馬石
奉納 京都北ライオンズクラブ
平成二十年十月十八日
歌碑北側にある片岡社(片山御子神社)に紫式部が参拝した時に詠んだ歌で、新古今和歌集に収められている。
紫式部歌碑(長神の杜)
紫式部歌碑は、京都市右京区の小倉百人一首文芸苑の一つ 長神の杜にある。
歌碑前にある説明板には、次のように記されている。
新古今集
小倉百人一首第57番
紫式部
めぐりあひて 見しやそれとも 分かぬまに
雲がくれにし 夜半(よわ)の月かな
歌意 久しぶりにめぐり逢って見たのが確かであるかどうか、
見分けがつかないうちにあなたは慌ただしく帰ってしまった。
雲の間に隠れてしまった月のように。
書 日比野 光鳳
廬山寺境内にも、同じ和歌の碑が建立されている。→ 紫式部 大貮三位 歌碑
「夜半の月かな」は、新古今集 紫式部集 百人一首の古い写本では 「夜半の月影」となっているため、廬山寺の歌碑は、「夜半の月影」となっている。
石山寺
石山寺は、滋賀県大津市にある東寺真言宗の寺院である。
747年に聖武天皇の勅願によって、良弁(りょうべん/ろうべん)が開創したと伝えられている。→ 良弁僧正ゆかりの地
本堂(国宝)は、平安中期再建の内陣と、1602年に淀殿の寄進で増築された舞台造りの外陣からなる。
本尊の如意輪観世音菩薩は、安産、除厄、縁結、福徳の秘仏で、自然の岩盤そのものを削り整えた台座に安置されている。
この岩盤は、石山の名の由来である本堂前の硅灰石(天然記念物)と一体となっている。
東大門は、運慶、湛慶作の仁王像を配したもので、源頼朝が寄進したものである。
境内には、二重塔としては日本最古の優美な多宝塔(国宝)がある。
寺に伝わる石山寺縁起絵巻には、紫式部が参籠して、源氏物語を起筆したことが描かれている。
経蔵北側には、紫式部供養塔があり、光堂南東には紫式部像がある。
JR東海道本線石山駅下車、徒歩すぐの京阪石山駅から石山坂本線で石山寺駅下車徒歩10分。
源氏物語と石山寺起筆伝説
四辻善成(1326-1402)が室町時代前期に編集した「河海抄」巻第一の冒頭には次のように記されている。
新しく作りいたして、奉るべきよし、式部に仰せられければ、石山寺に通夜して、この事祈り申けるに、
おりしも八月十五日の月、湖水に映りて、心のすみわたるまゝに、物語の風情、空に浮かびけるを、忘れぬさきにとて、仏前にありける大般若経の料紙を本尊に申うけて、
まづ、須磨・明石の両巻を書きはじめけるを、これによつりて須磨の巻に今宵は十五夜なりけりと、おぼしいでゝとは侍にや、のちに罪障懺悔のために、
般若一部六百巻を彼寺にみづから書きて、奉納ける、いまにありと云々
(源氏物語千年紀展図録所収 藤本孝一氏「石山寺と源氏物語」参照)
恵日院 慈眼堂
恵日院 慈眼堂(えにちいんじげんどう)は、滋賀県大津市にある。
寛永20年(1643)に徳川家光の命により建立された。
正門をくぐると、両側の重厚な石灯籠が続く奥に、慈眼大師南光坊天海大僧正の廟所がある。
境内の北側には、近世以降の天台座主らの廟所があり、多くの石造五輪塔や宝篋印塔がある。
中央には、桓武天皇の供養塔があり、紫式部、新田義貞、東照大権現供養塔などが建立されている。
一段高いところには、合計13躯の阿弥陀如来石仏(十三石仏)がある。
これは天文22年(1553)、観音寺城主 六角義賢が、母の追善のために建立した鵜川の四十八体仏を移したものといわれている。
天海(1536-1643)は、江戸時代前期の天台宗の僧である。
慈眼大師と号し、徳川家康、秀忠、家光の三人の将軍に仕え、とくに家康の懐刀といわれた。
会津高田(福島県)出身で、11歳で出家し、14歳のときに比叡山に登り、三井寺や南都の諸寺を遊学している。
元亀2年(1571)延暦寺が織田信長の焼き討ちに遭うと、甲斐の武田信玄のもとに逃れた。
慶長4年(1599)武蔵国仙波喜多院に入り、後に下野の宗光寺に入った。
天海の令名を聞いた徳川家康は、慶長12年(1607)比叡山の探題奉行に任命した。このとき、東塔の南光坊に住んでいたことから、後に南光坊天海と呼ばれた。
慶長8年(1614)豊臣秀頼が方広寺を再建し、巨鐘を鋳造すると、いわゆる鐘銘事件にかかわり、大坂の陣の戦乱を開くきっかけをつくった。
元和2年(1616)徳川家康の死去に伴い、葬儀の導師となり、久能山に葬り、同年大僧正に任ぜられた。
寛永2年(1625)江戸上野に東叡山円頓院寛永寺を開いて関東天台宗総本山とした。
寛永16年(1643)108歳で死去し、慶安元年(1648)に慈眼大師の諡号を賜った。
京阪電鉄石山坂本線坂本駅下車、徒歩10分。参拝者用の駐車場がある。
紫式部歌碑
紫式部歌碑は、滋賀県野洲市あやめ浜にある。
石碑には次のように刻されている。
(南面)
おいつ島
しまもる神や
いさむらん
浪もさわがぬ
わらわべの浦
(北面)
沖の島は、古くから人の心をとらえていた島で、
歌に詠まれたり、文学の中にその名をとどめている。
この歌は、紫式部が、沖の島の対岸であるあやめ新田童子が浦のこの地から、
遠く沖の島を望んで詠んだものと言われている。
平成五年三月吉日建立
中主町観光協会
平成十六年十月合併により改名
野洲市観光物産協会
この歌は紫式部集に載せられており、次のように紹介されている。
みづうみに、おいつ島(注1)といふ洲崎に向ひて、
わらわべの浦(注2)といふ入海(いりうみ)(注3)のをかしきを、口ずさみに
おいつ島 島守る神や いさむらむ
波も騒がぬ わらはべの浦
(おいつ島を守っている神様が、静かにするようにいさめたのだろうか、
わらわべの浦は波も立たずきれいだこと)
「おいつ島」に老いを、「わらわべの浦」に童を思って趣向したものである。
紫式部が、父とともに越前に出向いて、その帰路に詠んだ歌である。
(注1)延喜式によると、蒲生郡に奥津島(おいつしま)神社がある。
現在、近江八幡市北津田町にある大島奥津嶋がそれだとすると、当地周辺の洲崎をいうものと考えられる。
(注2)現在地は不明であるが、大中之湖の東北方にある乙女浜かといわれる。「入海」は、入江のことである。
(新潮日本古典集成 「紫式部日記、紫式部集」 参照)
野洲市観光ナビには、所在地の地図が掲載されている。
百々神社 紫式部歌碑
百々神社 紫式部歌碑は、滋賀県近江八幡市北津田町にある。
百々神社(ももじんじゃ/どどじんじゃ)は、大蛇の魂(おろちのみたま)を祀る神社である。
平成11年、参道の北側に建立された紫式部歌碑には、変体かなを交えて次のように刻されている。
おいつしま志万もる
神やいさむらんなみもさわ可ぬ
わらは邊(辺)のう羅
紫式部
この歌は紫式部集に載せられており、次のように紹介されている。
みづうみに、おいつ島(注1)といふ洲崎に向ひて、
わらわべの浦(注2)といふ入海(いりうみ)(注3)のをかしきを、口ずさみに
おいつ島 島守る神や いさむらむ
波も騒がぬ わらはべの浦
(おいつ島を守っている神様が、静かにするようにいさめたのだろうか、
わらわべの浦は波も立たずきれいだこと)
「おいつ島」に老いを、「わらわべの浦」に童を思って趣向したものである。
紫式部が、父とともに越前に出向いて、その帰路に詠んだ歌である。
(注1)延喜式によると、蒲生郡に奥津島(おいつしま)神社がある。
現在、近江八幡市北津田町にある大島奥津嶋がそれだとすると、当地周辺の洲崎をいうものと考えられる。
(注2)現在地は不明であるが、大中之湖の東北方にある乙女浜かといわれる。「入海」は、入江のことである。
(新潮日本古典集成 「紫式部日記、紫式部集」 参照)
白髭神社 紫式部歌碑
白髭神社 紫式部歌碑は、滋賀県高島市にある。
昭和63年(1988)4月に紫式部を顕彰し、高島町観光協会が建立した。
白髭神社の本殿北側の石段上に歌碑と説明の石碑がある。
「紫式部集」所収の和歌で、歌碑には、万葉仮名で次の詞書と和歌が刻されている。
近江の海にて三尾が崎といふ
所に綱引くを見て
みおの海に
綱引く民の
てまもなく
立ちゐにつけて
都恋しも
→ 「紫式部集」解読
東の石碑には、次のような説明がある。
この歌は、「源氏物語」の作者紫式部が、この地を通った時に詠んだものである。
平安時代の長徳二年(九九六)、越前の国司となった父 藤原為時に従って紫式部が京を発ったのは夏のことであった。
一行は逢坂山を越え、大津から船路にて湖西を通り越前に向った。
途中、高島の三尾崎(今の明神崎)の浜べで、漁をする人々の綱引く見慣れぬ光景に、都の生活を恋しく思い出して詠んだのが右の歌である。
その夜は勝野津に泊り、翌日塩津から陸路越前に下った。
紫式部にとって、この長旅は生涯でただ一度の体験となった。
彼女は越前の国府(武生市)に一年ばかり滞在したが、翌年の秋、単身京に帰った。
ここに紫式部の若き日を偲び、当白髭神社の境内に歌碑を建て永く後代に顕彰するものである。
なお碑文は「陽明文庫本」に依り記した。
昭和六十三年四月吉日 建立
高島町観光協会
塩津浜 常夜燈公園 歌碑
塩津浜 常夜燈公園 歌碑は、滋賀県西浅井町塩津浜にある。
かつて塩津湊は、北陸道と大津 京を結ぶ琵琶湖水運の要衝であった。
そのため、越前国の敦賀と塩津湊を結ぶ「塩津街道(海道)」が繁栄し、常夜燈は旅人たちの目印や灯台の役割を果たしていたといわれている。
当地の常夜燈は天保5年(1834)に建てられたもので、南北に走る塩津街道と東西にのびる牛賀道が交差するこの地の馬荷役が大神宮に奉納したもので、台座には「海道繁栄」「五穀成就」「馬持中」と刻まれている。
この街道は、平安時代に越前国司として下向する藤原為時一行が通ったことから、父 為時に同行した紫式部の歌碑が建てられている。
歌碑には、次の紫式部の和歌と万葉歌(巻11-2747)が刻されている。
歌碑の和歌 解 説
知りぬらむ
ゆききにならす塩津山
よにふる道は
からきものぞと
紫式部 紫式部集に収められている和歌である。
輿に乗って塩津街道の深坂越えをしていた紫式部は、
自分の輿を担いでいる人夫が峠の坂の険しさに愚痴をこぼすのを聞いて、
人生の世知辛さと塩津山の塩辛いを掛け、
「世の中というのは塩津山の道のように厳しいものなのです」と詠んだ。
あぢかまの
塩津をさして漕ぐ舟の
名を告(の)りてしを
逢はざらめやも
読人不詳 万葉集巻11「古今相聞往来歌類の上」所収
味鎌の 塩津をめざして 漕ぐ船の
名は打ち明けたのだもの 逢ってくれないことがあろうか
「あぢかまの」は、地名であるとする説と枕詞であるとする説がある。
「名は告りてしを」は名を相手に告げて結婚の意思の表明をすること。
(日本古典文学全集8万葉集(3) 参照)
歌碑裏面には、「塩津海道と常夜燈」の説明文がある。
福井県敦賀市にも同じ紫式部和歌の解説板が設置されている。→ 深坂古道 紫式部の和歌解説板
深坂古道 紫式部の和歌解説板
深坂古道 紫式部の和歌解説板は、福井県敦賀市にある。
解説板には、次のように記されている。
長徳二年(九九六)頃、紫式部が父藤原為時と
ともにこの峠を越えたときの詞書(ことばがき)と歌
塩津山といふ道のいとしげきを
賎(しづ)の男(お)のあやしきさまどもして
「なおからき道なりや」といふを聞きて
知りぬらむゆききにならす塩津山
世にふる道はからきものぞと
「紫式部集」
(大意)
塩津山という道が草木が大変茂っているので
輿(こし)をひいいて荷物を運ぶ人足が誰もみすぼらしい姿をして
「やはりここは難儀な道だなあ」と言うのを聞いて、
お前達もわかったでしょう。いつも往き来して歩き馴れている塩津山も、
世渡りの道としてはつらいものだということが
深坂古道は、近江塩津と越前加賀を結ぶ道で、古来「深坂越え」と呼ばれ、越前と近江を結ぶ主要道として賑わった。→ 深坂古道コースマップ
万葉の歌人 笠金村や紫式部が父 藤原為時に同行して通った道としても知られ、平清盛が息子重盛に琵琶湖ー敦賀間の運河の開削を命じたところでもある。
その際に大岩を割ろうとしたところ、石工が激しい腹痛に襲われたため工事は中断し、大岩を掘り起こすとお地蔵さまであったといわれる。
この地蔵が、現在の峠道に鎮座する「深坂地蔵」と伝えられ、別名「堀止め地藏」と呼ばれ、旅人が道中の安全を祈願して塩を供えたことから「塩かけ地藏」とも呼ばれる。
古道沿いには、紫式部の和歌解説板のほか、「深坂問屋跡」「深坂地蔵」「笠金村歌碑」などがある。
滋賀県西浅井町の塩津浜常夜燈公園には、同じ和歌の歌碑が建てられている。
JR北陸本線新疋田駅から徒歩20分。
紫式部公園
紫式部公園は、福井県越前市にある都市公園(近隣公園)である。
面積は1.9haで昭和56年に都市計画決定がされ、昭和61年(1986)6月に竣工した。
源氏物語の作者として知られる紫式部は、長徳2年(996)に藤原為時が越前守に任じられたため、父とともに京から越前国の国府に赴いた。
紫式部集には、旅の途中の歌、国府の館での歌、越前滞在中のものと思われる藤原宣孝に贈った歌、帰京の歌が収められている。
紫式部の越前国府での生活は短く、一年余りで藤原宣孝との結婚のため、先に帰京している。
この公園は、紫式部が越前市で過ごしたことを記念してつくられたもので、日野山を仰ぎみる十二単衣の紫式部立像(圓鍔勝三(えんつばかつぞう)作)、池、釣殿、谷崎潤一郎らの石碑がある。
当時の国府の館は、平安貴族の住宅様式となっていた寝殿造であったと考えられている。
寝殿造とは、寝殿(正殿)を中心とした数棟の建物と、池や築山などを配した庭園で構成された邸宅である。
当地の庭園は、平安朝庭園研究の第一人者 森蘊(もりおさむ)が作庭したもので、寝殿造庭園と釣殿が、平安時代の趣のままに再現されたのは、全国でも初めてのことである。
紫式部歌碑(円地文子書)
紫式部歌碑(円地文子書)は、福井県越前市紫式部公園内にある。
昭和61年に建立された石碑には、次のように刻されている。
紫式部詠
身のうさは 心のうちに したひきて
いま九重に(ぞ) 思ひみだるる
円地文子 書
(意味)
宮仕えをしていても、わが身のつらさや憂いは、いつまでも心の中についてきて
今 宮中であれこれと心が幾重にも乱れることだ。
紫式部は、夫 藤原宣孝に先立たれた後、娘 賢子を育てながら物語の創作に明け暮れていた。
やがて物語作者として知られるようになった紫式部は、一条天皇の中宮 彰子のもとに女房として召し出される。
紫式部の初出仕は、寛弘2年(1005)(一説に寛弘3年)12月29日といわれる。
この歌は、そのときに詠んだ歌で、「紫式部集」では、「初めて内裏わたりを見るに、物の哀れなれば」との詞書に続いて、この歌が収められている。
「九重に(ぞ)」は、宮中の意と、幾重にもの意をかけている。
これまでの境遇と一変した宮中の栄華のさなかに身を置いて、いくえにも思い乱れる内心の憂いを見つめた歌である。
なお、この揮毫が、円地文子氏の絶筆となったといわれている。
紫式部歌碑(谷崎潤一郎書)
紫式部歌碑(谷崎潤一郎書)は、福井県越前市の紫式部公園にある。
高さ2m、幅2.5mの石碑には、次のように刻されている。
こゝにかく
日野の
杉むら
埋む雪
小塩の松に
けふや
まがへる
紫式部詠
谷崎潤一郎書
紫式部集では、次のとおり越前国府で詠んだ和歌が載せられている。
暦に、初雪降と書つけたる日、目に近き
日野岳といふ山の雪、いと深く見やらるれば
こゝにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に 今日や まがへる
(意味)
ここ越前では、日野岳の杉の群れをこうして雪が埋めているが、
暦に「初雪降る」とある今日は、都で見た小塩山の松に見まちがえることであるなあ。
日野岳は、越前国府から眺められた日野山(標高794.8m)で越前富士といわれている。
その美しい山の杉林に雪が積もっているのを見ると、京都の小塩山(おしおやま)に降り乱れる雪を思い出し、郷愁に浸っている紫式部の姿が偲ばれる歌である。
「小塩」は、京都市西京区大原野の小塩山(標高640m)。山麓に藤原氏の氏神を祀る大原野神社があり、雪、月、花、松などで名高い歌枕。
「まがふ(粉ふ)」は、入り乱れて、はっきりしなくなる、見分けがつかなくなる、乱れ散る、等の意。
「まがへる」については、「似ていて区別がつかない」と解するか「入り乱れる」と解するかで、研究者によって見解が異なっている。
(久保田孝夫氏ほか「紫式部集大成」参照)
この石碑は、昭和33年に河濯山芳春寺(越前市高瀬二丁目)に紫式部顕彰会の手で建立されたものが、紫式部公園完成時に移設されたものである。
裏面には、国文学者、山田孝雄博士の精細な文章が彫られている。
紫式部歌碑(清水好子撰)
紫式部歌碑(清水好子撰)は、福井県越前市の紫式部公園にある。
実践女子大学本「むらさき式部集」をもとにした歌碑には、次のように記されている。
としかへりて、「から(唐)人見にゆかむ」といひたる人の
「春は解くるものといかで知らせたてまつらむ」といひたるに
春なれど
しらね(白嶺)のみゆき
いやつもり
とく(解く)べきほどの
いつとなきかな
むらさき式部
(意味)
気が変わったら「宋の人々を見に行きます。」と言っていた人が、
「春になれば氷は解けるもの。そのようにあなたの心もうちとけるものだということを教えてあげたい。」と言っていたけれど、
「春にはなりましたが、白山の雪はいよいよ積もって、おっしゃるように解けることなんかいつのことかわかりません。私の心も同様です。」
この歌は、長徳3年(997)の紫式部とやがて結婚することになる藤原宣孝との贈答歌である。
当時、敦賀に来ていた宋国の人々に会うことを口実に、越前に下向してでも結婚を申し込みたいとという宣孝に、
紫式部は、加賀の白山に積もる雪を詠み込んで、私の心は解けませんと拒絶している。
加賀の白山は、標高2702mの雪で名高い歌枕で、白山が越前市からも眺められることは、地元の人々にもあまり知られていない。
紫式部と国府資料館 紫ゆかりの館
紫式部と国府資料館 紫ゆかりの館は、福井県越前市にある。
紫ゆかりの館は、日本を代表する女流作家、紫式部が越前国の国司に任命された父 藤原為時とともに、越前たけふの地で青春時代を過ごしたことから、2021年4月23日にオープンした資料館である。
この資料館では、紫式部の過ごした時代の武生の様子と、越前・丹南地域の伝統的工芸品を展示や物販を通して紹介している。
また、紫式部が過ごした平安時代や、伝統的工芸品について学び・体験できるイベント、ワークショップも開催している。
東隣には、平安時代の庭園を再現した全国で唯一の寝殿造庭園である「紫式部公園」がある。
JR北陸本線武生駅からバスで「紫式部公園口」下車すぐ。来場者用の無料駐車場がある。
越前市 武生公会堂記念館
越前市 武生公会堂記念館は、福井県越前市蓬莱町にある。
当館は、幕末に府中の藩校「立教館」があった場所に、昭和4年(1929)に建設された「武生町公会堂」の建物を活用した博物館である。
館内では、常設展「紫式部と越前国府」のほか、特別展などが開催されている。
玄関東側には、「建学記念碑」と刻した石碑がある。これは府中の藩校「立教館」を顕彰するため、同校の解説に尽力した府中の商人 松井耕雪(1819-1885)の没後50年を記念して、昭和9年に建てられたものである。
建物西側には、山本甚右衛門翁像と武生の名の由来石碑がある。
平成17年(2005)には、昭和初期の面影を残す建物として、国の登録有形文化財に登録された。
JR武生駅から徒歩5分。来館者用の無料駐車場がある。
武生公会堂記念館から西北約100mのところにある越前武生 蔵の辻には、次の紫式部歌碑がある。
降りつみていとむつかしき雪を掻き
捨てて山のやうにしなしたるに人々登りて
「なほこれ出でて見給へ」といへば
ふるさとに帰へる山路のそれならば
心やゆくとゆきも見てまし
(歌意)
ふるさとの都に帰る、その途次の鹿蒜山の雪ならば、
心も晴れるかと出て行って見もしようが(そうでないからつまらないわ)。
(新日本古典文学大系24 土佐日記 紫式部日記ほか 参照)
蔵の辻 紫式部歌碑
蔵の辻 紫式部歌碑は、福井県越前市蓬莱町にある。
石碑には、次のように刻されている。
(表面)
降りつみていとむつかしき雪を掻き
捨ててやまのやうにしなしたるに人々登りて
「なほこれ出でて見給へ」といへば
ふるさとに帰る山路(帰るの山)のそれならば
心やゆくとゆきもみてまし
紫式部の歌 石雲かく
(裏面)
寄贈 平成十四年仲夏
紫式部顕彰会
(大意)
降り積もって、うっとおしい雪を掻き捨てて、
山のように積み上げたのを、人々が登って、
「雪が嫌いでも、ここへ出てごらんください」と言うので
ふるさとの都に帰る途次に見える鹿蒜山のそれなら、心も晴れるかと雪も見るのだが
総社大神宮
総社(そうじゃだいじんぐう)大神宮は、福井県越前市京町にある。
主祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)である。
参道奥にある二の鳥居の額「総社大神」は、東郷平八郎の筆である。
社殿南西には、「越前国府」の石碑が建立されている。
国司は毎年、赴任した国内にある神社を巡拝、奉幣することなっていたが、平安時代になると一宮(いちのみや)二宮(にのみや)以下の国司所祭の神霊を一カ所に合祀して、総社が建てられるようになった。
当社が越前国の国府の地に鎮座する総社として、かつては惣社大明神と称し、現在では通称「おそんじゃさん」と呼ばれている。
「一遍上人絵伝」によると、正応3年(1290)、正応5年(1292)に時宗2世 他阿真教(たあしんきょう)が、当社に参籠したことが記されている。
室町時代以降、戦乱で総社は衰微したが、戦国武将の朝倉孝景(たかかげ)から社領30石の寄進や織田信長から庇(かば)いの禁制(きんぜい)を受けた。
縁起によると、府中城の修築を行った前田利家は、社地を二の丸としたため社殿を現在地に移したという。
文禄元年(1592)、府中に入封した青木紀伊守秀以は丹生郡新保村に30石の社領を寄進し、江戸時代に入って本多氏も社領30石を安堵し、明治維新に至っている。
祭礼は、府中祭りとして9月に行われる。
JR北陸本線武生駅下車、徒歩10分。参拝者用の駐車場がある。
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