https://ogurasansou.jp.net/columns/arakaruta02/2023/05/20/25837/ 【非時香菓 - 小倉山荘】より
常世から来た果物
第十一代垂仁(すいにん)天皇は在位が九十九年に及んだとされる神話時代の天皇です。
『古事記』や『日本書紀』は相撲節会(すまいのせちえ)や埴輪(はにわ)の創始は垂仁天皇の治世に行われたとしていますが、いかにも神話、伝説と呼ぶにふさわしい事績は田道間守(たじまもり)の常世(とこよ)行きでしょう。
これは天皇が田道間守を常世の国に遣わし、「ときじくのかくのこのみ」を探させたという話。常世は海のかなたにあるという伝説上の理想郷で、不老不死の楽園として描かれることもあります。記紀神話は田道間守がもたらした「ときじくのかくのこのみ」は橘(たちばな)のことと記しており、その名は「季節にかかわらずよい香りを放つ木の実」を表すと考えられています。
漢字表記は「非時香菓」。
「菓」は菓子でなく果物を示す文字でした。「ときじ」は「時」に否定的な意味を作る接尾語「じ」が付いてできた形容詞で、その時期ではない、季節はずれである、といった意味を持ちます。「ときじく」はその連用形です。
大伴家持(おおとものやかもち 六)にこのような歌があります。
たちばなは花にも実にも見つれども いや時じくになほし見がほし(万葉集巻第十八 4112 大伴宿祢家持)橘は花でも実でも(その姿を)見たけれど時期にかかわらずもっと見ていたいものだ家持はこの歌と組み合わせた長歌(4111)で橘を持ち帰った田道間守の業績を称え、
橘は四季それぞれに楽しめると賛美しています。
橘は実さへ花さへその葉さへ 枝に霜降れどいや常葉の樹(万葉集巻第六 1009 元正天皇)
橘は実も花も葉も(すばらしく)枝に霜が降りてもなお緑のままの木なのだ実のところ、橘は日本原産の柑橘類ですから、海のかなたへ採りに行く必要はありませんでした。
しかし常葉(とこは=常緑)の木てあることから常世を象徴する植物という考えがあったらしく、上記のような招来伝説が作られたのでしょう。
時知らぬ山
『万葉集』関連では山部赤人(やまべのあかひと 四)が富士をこのように詠んでいました。
天地(あめつち)の分れし時ゆ 神(かむ)さびて高く尊き駿河なる布士(ふじ)の高嶺を 天の原振り放(さ)け見れば渡る日の影も隠らひ 照る月の光も見えず白雲もい行きはばかり 時じくそ雪は降りける 語り継ぎ言ひ継ぎ行かむ 不尽(ふじ)の高嶺は(万葉集巻第三 317 山部宿祢赤人) 反歌
田子の浦ゆうち出でて見れば 真白にぞ布士の高嶺に雪は降りける(万葉集巻第三 318 山部宿祢赤人)
富士は空を行く日の光も隠れ、照る月の光も見えず、白雲も進むことができないほどの高い山であり、季節を問わず雪が降っているというのです。
在原業平(ありわらのなりひら 十七)に似た内容の歌がありますが、富士を「時知らぬ山*」と詠んでいます。「ときじく」は平安時代には古語になっていたのでしょう。
*時知らぬ山は富士の嶺 いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらむ
facebook羽賀 ヒカルさん投稿記事【時が止まる果実を守れ】
「麻」とか「漆」といった縄文から日本人が大切にしてきたものが絶滅危惧種になっています。そういうモノは多いのですが、その一つが「倭橘(やまとたちばな)」。こちらは2000年以上前の日本からあった日本固有種ジャパンオンリーの柑橘。
古事記、万葉集、古今集、といった全ての古典に「倭橘」は登場します。さらに「右近橘、左近桜」といって宮中においては天皇陛下から見た右手に倭橘は植えられていたそう。文化勲章の花も「倭橘」です。
倭橘の果実は又の名を「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」といって「時を忘れるような香りのお菓子」という意味があります。日本で最初のお菓子のようです。
今年に入って2度「倭橘の果実」をいただく機会がありました。私、柑橘が好きなことで有名なんですが、マジで時間がとまりました。正直「今まで食べてきた柑橘と次元が違う」と思いました。「私が求めてきた柑橘の香りはコレだったんだ」と。
そして、今日、「なら橘プロジェクト」さんの案内で倭橘の花の香りをかがせてもらったのですが、これもまた至高の香り。。。頭頂のチャクラまでつきぬけて、香りでトリップしました。「ホントこういう植物守らなあかん」と思ったんですが、倭橘が実をむすぶようになるまでに5年以上。70年以上は育っていきます。
育てようと思ったら、自分の世代だけでは無理。だから子孫に語り伝えていかねばならないんです。日本人は和歌などに、祈りと共に、その植物の大切さや神秘性をこめてきたんです。
そして、そういうのを守ろうとする人たちが「保守」だと考えます。
写真は倭橘に縁が深い廣瀬大社。そして、その花。
0コメント