『月光口碑』

https://note.com/muratatu/n/n41039568e788【上田玄句集考 『月光口碑』】より

武良竜彦(むらたつひこ)

 私はこの『月光口碑』を先に読み、その後『鮟鱇口碑』を読んでいる。

だから時系列に沿って読んだ人たちには見えていない、この『月光口碑』の文学的主題と表現技法を読み取り、そこから遡って『鮟鱇口碑』を読んだことで、その時点で、すでにあった上田玄俳句の文学的主題と表現方法論についての考え方が、本稿を書く私には可視化されていた。

 第一句集『鮟鱇口碑』から、この第二句集『月光口碑』まで三十五年の歳月が経っている。その間、上田玄は俳句から遠ざかっていた。

奥付の「著者略歴」にはそのことが、「約十年の俳句活動ののち休止。2011年再開」

と簡潔に触れられている。諸事情があるだろうが、その中断は、『鮟鱇口碑』で彼が表現し得たことへの、他者からの評価はもとより、自己評価が低かったということを意味する。その自己評価の低さは、彼を取り巻く前衛的俳句環境からの、芳しからぬ評価が影響したのだろうことは間違いない。

しかし、私は上田玄の俳句創作の中断は、逆に大変意義があることではなかったかと推察する。そのまま続けていたら、他者からの批判に惑わされて、独自の文学的主題の表現への意思など捨てて、表現の手段であるべき難解さを目的としたような、本来的な文学的表現から逸脱してしまったような、前衛俳句派の一部に感じられる、難解表現俳句へと逸れてしまうことになったのではないかと思うからだ。

だが、そんな私の危惧は杞憂だったようだ。〈モチーフ〉優先を批判されて中断したにも拘わらず、彼は独自の表現へと向かう志は棄てなかったようだ。

上田玄の俳句再開の年が、東日本大震災が起きた年だったことは、ただの偶然ではない。極言すれば、この大惨事が起きていなかったら、上田玄は永遠に俳句の道に戻って来なかったのではないか、そのようにすら思えるのだ。

震災直後、俳句界の多勢が一つの虚構的な社会正義的な死んだ言葉に魂を売り渡し、通俗的な表現に絡め取られるという現象が起きたが、その深層心理的な深いところで、何かそれだけでは言い足りないもの、それを超えた何かを表現しないではいられない思いに駆り立てられたことも事実だった。

やがてそれは、それまでの文明観、死生観などの見直しという方向性を生み出した。社会的にもそんな雰囲気が一瞬起きたが、ものの三年も経たぬうちに、それは風化し、震災以前の経済成長神話的な風潮に回収されてしまった。

だが、俳句を文学として受け止めている一部の俳人たちは、震災詠の内的な深化という形で、自己表現の在り方の軌道修正に真摯に取り組み始めて、この七年が過ぎてきている。一部の俳人たちの生と死に注がれる眼差しは、震災前にはなかったレベルへと確実に深化してきている。

そんな中で、上田玄はどのような気持ちで、俳句に立ち戻ったのか。

一言でこう言おう。彼は変わらなかった。

大震災という未曽有の大惨事が起きたからといって、彼には自分の文明観、死生観の変更を迫られるような〈事象〉には見えなかった。

何故か。

上田玄俳句は最初からそこに立っていたからだ。

それは『鮟鱇口碑』の文学的主題に深く思いを凝らせば解ることだ。

彼は自分が到達した文学的主題からの要請によって、当然のことのように、震災を契機として、言語表現の場に「呼ばれた」のである。

『鮟鱇口碑』に表現されていたのは、死んだ言葉とそれで出来ている社会と世界の死と、それに抗おうとした精神に対する虐殺の様である。

そう、彼は無意味化する世界の言葉に抗い、傷つき、敗北を喫した青春という命の側から、その死の諸相を凝視していた。

つまり彼は死者の目で『鮟鱇口碑』を書いていたのだ。

この主張が私の恣意的な言い分ではないことには、確たる証拠がある。

この『鮟鱇口碑』が書かれた時代に、それと併行して上田玄は、彼が敬愛する渡邊白泉論を二編書いている。それが俳句作品外の客観的証拠である。

白泉は無意味な戦争の現場における、無意味で無残な死というものに照準をしぼり、そこから俳句文学となり得る文学的主題を立ち上げようとあがいた俳人だ。その表現の仕方、方法意識に上田玄は深く共振し、白泉が筆を擱いた地点から、自分の俳句は始まったという強烈な自己認識と方法意識をもって、俳句創作を開始している。

そのことを私たちが知るのは、この第二句集『月光口碑』に、その二編の論考が収録されていることによる。

白泉の方法が独特なのは、上田が論考で指摘しているように、ただの物体のようにされてしまう兵士たちの死へ向ける眼差しを、自分自身にも向けつつ、言葉を発しようとしている点にある。

その眼差しで大切なことは、命の個別性、そのかけがえのなさ、尊厳に対する暴力の実相を描きだすことだ。暴力は言葉の死の現場で発生する。

言葉が死んだ世界で、命の交換不可能な個別性と尊厳の破壊の様から、独自の文学的主題を立ち上げていることである。

上田玄の文学的方法論を語る上で大切なのはそのことだけであり、形式論のようなことではない。そのことについては後述しよう。

いや、上田玄俳句の前で、不用意に表現技術論を語ることは、その非文学性を自ら曝すような自殺行為に等しい、と言っておこう。彼の文学的主題の中心には最初から、死、死者に向ける眼差し、そして死者の眼差し、死者から見られている自分と社会がある、ということだ。震災を契機に、彼のそんな文学的主題の表現に傾けていた情熱が覚醒したのである。

いや、次のように言うべきだろう。

彼の内部に達成されていたそのような主題によって、この時代の「今」に再び招き寄せられた、といった方が、彼の精神の在り様の、より正確な表現になるではないだろうか。

『月光口碑』に対しての評がどのように書かれたか、その実例を次に挙げよう。「鬣」六十二号(二○一七年二月刊)の堀込学が寄稿しているその全文である。

    ※

  月光寸借  殯の森の  我は  漏刻

 句集『月光口碑』の句群の中で「月光」は何者かの意志であるかの如く、補色、隠遁、蕩尽、瞑目し、そして散華する。

 句集の袖にも挙げられている掲句は「月光」、或いは「月」を擁する他の多行句とともに、句集名と同じタイトルである「月光口碑」の章に置かれている。死者を葬るまでの通過儀礼である「殯」、そして「漏刻」の語が一句の中で均等に配され、それらが共鳴している美しさは比類がない。思えばこの「我は/漏刻」は儀礼に使用される時計を擬人化した意にも取れるが、「殯」の期間に己の最終的な死までの時間を確認している亡者自身の思いであろう。或いは先に死んでいった仲間たちの通過儀礼を見守っている墓守の思いであろうか。いずれにしても本来的な死に至ってはいない「亡者」が句の主体であることを想像する。

 亡者である私が何故この場所にいるのか定かではない。しかし亡き者である私は月光がわずかに射した瞬間にその事実をあらためて確認してしまったのだろう。そして「殯の森」は月光の力を借りなければならない程、現世から遠く離れた光の届かぬ世界であり、亡者である私の最終的な「死」まで、あと如何程の時間を必要とするのか、その諦念を強く感受する。

「私もまた私自身への責めから逃れられない関わりのある死者たちをもつ戦中派なのである。奇妙に聞こえるかもしれないが、自死も虐殺死もあった自史から自由ではないことは、無策とはいえども手探りするその感触を左右してくるのである」                  (『月光口碑』「あとがき」)

 句集全体を見渡せば、掲句の主体が、そして「手探り」で月明の「殯の森」にいる者が作者と近接していることは明らかであろう。

 上田の多行句は他の多行句を扱う作家と比すると外連味を押さえ禁欲的である。淡々と切れを提示し、そのリズムを尊重しながら、一句内での行と行の動静は限定的であり、読む者は、その句の音韻に集中することが可能となる。掲句においては「我は/漏刻」のフレーズが読者に強く迫ってくるのもそのためかも知れない。そこに鎮魂、贖罪といった意識を感じ取るのだが、掲句を含め『月光口碑』の一句一句が厳粛に規律正しく語られているのは文字通り、句それぞれが「口碑」であることの証左であろう。それにしても「漏刻」とはなんと美しい言葉であることか。

    ※

 私もこの句については、似たような評をするだろう。

 堀込は前半でしっかり句を、その一語一語の選択のされ方、配置のされ方を手がかりに読み込み、そこからこの句の文学的主題を探り、その主題に沿った評文を書いている。その後、この句の表現技法である多行表現について、その主題を表現するために、この形式の何が生かされているかについても、的確に評している。

上田玄はこのような「本来的な死に至ってはいない」「亡者」の「時間」を置いたのだ。災害の犠牲者が痛ましいのは、死の覚悟をする、つまり自分の死を自覚する猶予もなく、そのかけがえのない生を断ち切られることにある。

そんな死者たちの無念さ、無残さの有様は、白泉が戦争俳句で執拗に描こうとした主題と通底する普遍性を持つ。

同時に上田玄の『鮟鱇口碑』と『月光口碑』の自分とその時代にあった無意味な世界の言葉で圧殺される精神の様とも通底する普遍性を持つ主題だ。

だから、白泉と上田は自分の俳句の中で、その「亡者」たちを、生かして行動させ、思念させる時間を与えようとするのだ。

簡単に死の向こう側に追いやって、手を合わせて悼んだりはしない。

このとき、上田玄はこの  月光寸借   殯の森の  我は   漏刻

というような深い的主題を持つ俳句を書いていたのである。

田玄は津波、死者・行方不明者の数、原発などを直接俳句に持ち込まない。怒り、無力感、失われたかけがえのない日常などを詠む変わりに、静かに「殯の森」を自分の心と句の中に置いたのである。

そういう意味で、この句は上田玄なりの深い「震災の句」であったと言える。

そしてもっと重要なのは、震災関連語を締め出す代わりに、この「月光口碑」の章でも、彼の喪失体験の原点である、内面化された言葉たちを置いている。上田玄が白泉の戦争俳句の主題から継承した、自分の命さえ自分の意のままにならぬ不条理な戦下の兵士たちの状況、それを自分の体験的「今」として俳句表現に取り込んだ、無意味な世界の言葉で圧殺される精神の様を表す言葉を置いた。

その言葉とは。

破獄、逃散、貧窮,秩父の吶喊、人柱,黒旗畳む、戦場、鉱山(やま)、小レーニン、戦後、屠殺、兵士、戦火、軍靴、聖戦、兄は帰らず、我吊る縄、虜囚、破船である。

ある時代を想起させるには有効であっても、この言葉たちは文学的普遍性を損ないかねない。だが上田は敢えて時代的「個別性」という具体性の体現によってしか現れないことを表現しようと志す。それは小説的な主題の表現の仕方であり、韻文学では異例であり、あまり評価されないことだ。

たとえば前句集『鮟鱇口碑』の句群の中から、「ぞうはんゆうり」「ばりけーど」「ぽちょむきん」「はんせん」という言葉が使われた俳句がなかった場合のことを想像してみよう。すると、無意味な世界の言葉で圧殺される精神の様を、脱意味化を図った「無意味」な言葉で表現したという「普遍的」な主題を持つ句集すっきりとしたものとして成立するが、作者の上田玄の情念と、それを生み出した現実というリアリティが失われた味気ない句集となってしまう。

文学的な表現の現場を、現実性を削ぎ落した「象徴性」、「記号性」だけに依存した表現で済ませてしまうことに違和感を抱く上田玄という作者の姿勢が、ここから見えてくる。それは俳句界ではあまり肯定的な評価を受けない姿勢であることは確かだ。

上田は白泉の俳句から掴み取った視座で、自分の記憶という歴史の重みを、破獄、逃散、貧窮,秩父の吶喊、人柱,黒旗畳む、戦場、鉱山(やま)、小レーニン、戦後、屠殺、兵士、戦火、軍靴、聖戦、兄は帰らず、我吊る縄、虜囚、破船というような言葉によって表現している。

そこに彼の表現上の整理されない亀裂がある。その亀裂を埋めようとはせず、わざわざ深手を負おうとしているように見える。

上田玄が敬愛する白泉の俳句から、何を感受し、自分の文学的主題としたかが解る、上田玄による二つの白泉論の一部を次に摘録しておこう。

この二つの論考は『月光口碑』上梓の前、つまり前句集『鮟鱇口碑』の時代、俳句創作中断に至る前に書かれたものである。

そのうちの「渡辺白泉の枯野」から。(初出81年3月「現代俳句」第10集 注 引用文中、重要と思われる箇所に太字化を施している。)

   ※

  薄暗き太腿を立て戦死せり       走り行き横を振り向きて戦死せり

  眼をひらき地に腹這ひて戦死せり     鼻を顎を天空に向けし戦死

  中空へ駆け去るごとく伏しし戦死

渡辺白泉の『支那事変群作』中の、日本兵の戦死像である。一読すれば、それは酷なくらいに冷静な観察に思える。昆虫の生態を凝視する科学者の眼、カメラのレンズを思うかもしれない。非情とまで思えるほどに日本軍の兵士の戦死を表現したこと自体が、当時の文学状況のもとにおいてみるならば、注目に値することだろう。

だが私には、それは、単に冷静な観察、描写だとは思えない。当時の精神的空気の中で、日本兵の戦死を表現するのに、その死を美化するような要素をなぜ白泉は排除できたのか、その可能根拠への問いが、私をつき動かすのだ。

そこには、生を突然外的に断ち切られた非業の瞬間が焼き付けられている。

眼を開いたまま地に伏す兵士、あお向けに頼りなく転がっている兵士の、太腿を立て膝を空へ向けたフォルム。私の眼にはこのフォルムがいつまでも残像として残る。うつ伏せならまだ防御の意思を感じさせる。あお向けに、何ら防御の構えもなく、人間のもっとも弱いところをさらけ出している――このフォルム。このフォルムがとり出されたということだけでも、作者の透徹したリアリズムを見出すことができる、

他のすべての要素を消し去ってこの無惨なフォルムが造型されていること、そのことに私の想像は刺激される。この黒い像が放りだされたずだ袋のようなものであるだけ、私は、そこにはないその兵士たちの〝本体〟に思いをはせる。

彼はその瞬間、何を見、どこの空気を嗅ぎたかったのだろう。ふり向いて何を告げようとしたのだろう。――そこには〝駆け去るがごとく〟中空に漂流する兵士のプラズマがある。

 白泉が造型したこの無惨なフォルムは、だから、単に〝戦死体〟の諸相を外面的にスケッチしたものではない。自分の他なる戦死体と彼との感応の交点が、薄暗き太腿であり、天空に向けられた鼻、顎なのだ。彼の外なる戦争を描写する精緻さがそこにあるのではなく、彼と兵士を貫く〝無駄死〟への戦慄が表現されているのだ。彼をとらえて離さなかった〝無駄死〟を拒否する体感こそが、報道された「戦争」の現実の中から、あの非業の瞬間を定着させたのではないだろうか。

 とはいっても、それは、単に白泉の危機感を投影した自画像ということではない。赤黄男の石の上の鬼や流木の句は悲痛なまでに孤絶だが、白泉のこの群作中の句は、そういう絶対的な個へと研ぎすまされていく性質のものではない。やはりそこにあるのは、大陸の兵士と彼とをあいへだてた上で、その感応の交点を定着させる構造だろう。

 かつて窓秋の『河』に対して「作者は民衆そのものの中へ身を沈めることをついになし得」なかったと批判し、「新たなる立場」(「東西南北」昭12)を己に課した白泉。弾圧以前の自分の句集を『涙涎集』と命名した白泉。そういう彼にとって、むざむざ非業の死に追いやられる兵士たちは、「涎し涙する我等貧しき無産勤労階級」(『白泉句集』あとがき)の一員にほかならなかっただろう。小春日和のもとでの涎、涙は、大陸に送り出されて太腿を立てた死体となったのだ。大陸の兵士と自分とを貫く感応を〝無駄死〟の戦慄に見、その根っこに彼我を「無産勤労階級」として捉えかえす意思があったからこそ、白泉は、あの喧噪状態のなかにあって、あくまでも、〝無駄死〟を強いられる側から構成した戦争像を俳句史上に表現しえたのだと思う。

(略)

 だから私の前には、白泉の絶望の深さだけが伝わってくるようないくつかの句がのこされている。

  赤き足十本描かれ枯野の日       蓋のない冬空底のないバケツ

  気の狂った馬になりたい枯野だった   わが頬の枯野を剃ってをりにけり

  落日の枯野軍手が潰れてた       秋の日やまなこ閉ずれば紅蓮の国

 沼津時代の淡彩な作句のうちに、ときおり間欠泉のように噴きあげているこれらの痛切な「枯野」の句は、社会を責めるよりも、自分自身への絶望にま正直に鼻つき合わせている白泉を浮かびあがらせて、息苦しいほどだ。彼が、そのような自虐から気を取り直して、もう一度、「悽愴な結論」にたち戻って俳句をつくっていたなら、おそらく俳句の現状はいくらか容貌を異にしていただろう。

 そういう期待は、かの「悽愴な結論」に多くを望みすぎているのだろうか。あれは理想主義的な観念上のものだろうか。私にはまだ答えはない。だが、実存的に挫折した己れに正直だった白泉の霊気が漂うようなこの「枯野」のこそが、私が歩きださねばならないところだとは思っている。白泉の自分自身に対するごまかしのない目には、あの「原爆の日」の句のように、戦後的シチュエーション総体を胡散臭いものと喝破するだけの力をもっているのだから。

    ※

 前半のキーワードには、私が指摘した、上田玄が「震災詠」とは決して言わないで書く「殯」の構想の俳句と通底する視座がすでにある。

まさに「〝無駄死〟を拒否する」「非業の瞬間を定着」しようとしている点において、白泉の拘りを、自分の文学的主題としているのだ。

後半頻発する「民衆そのものの中へ身を沈めること」「貧しき無産勤労階級」という視座から主題を立ち上げようとしていることにも共通点がある。上田俳句に登場する「ヴ・ナロード」という言葉がそれを象徴する。

「社会を責めるよりも、自分自身への絶望にま正直に鼻つき合わせている白泉」も、上田玄自身の思いを投影したものだ。苦しみのただ中に身を置くものは、自分の在り方の是非を問う地点に自分を追い込み、それを限りなく内面化してゆく闘争をする。そういう心の闘争をする者にとって、「戦後的シチュエーション総体」が「胡散臭い」ものに見えてしまうのである。

白泉が見たものと、上田が見た青春の辛酸、安保闘争や学園紛争などが重なり合い、共に「戦後的シチュエーション総体」の「胡散臭さ」を浮かび上がらせている。

『月光口碑』は次の章立てで構成されている句集だ。

句集全体が一つの連作だった『鮟鱇口碑』とはそこが違う。

  月光口碑  崑崙  私唱雪月花  鳥獣草樹  發墨 この五章立ての句集である。

一つひとつの章が『鮟鱇口碑』のような連作になっていると言えなくもない。 各章の扉の裏に、あたかも「碑」の背面に刻まれた縁書きのように、短文が添えられている。とても大切な構成意図が含まれているので、まず、それを次にすべて書き出しておこう。

   ※

「月光口碑」

M・Oに連れていかれた小さな呑み屋の白黒テレビの中では、カシアス・クレイが舞っていた。

「崑崙」

 M・Oにはオールドボルシェビキ、略称オルボルという仇名があった。そこには、彼の頑固さに辟易する思いと、それに負けないほどの敬意が込められていた。

「私唱雪月花」

 アポロ11号の月面着陸は、巣鴨の拘置所で録音放送で聴いた。夜空を見上げることはできなかった。

「鳥獣草樹」

 西武沿線の、キャベツ畑と雑木林に囲まれたアパートでM・Oが振舞ってくれたのは、キャベツだけが具のラーメンだった。

「發墨」

 「句歌合わせ」という企画があって、「風」というテーマが与えられていた。

    ※

 この『月光口碑』の巻末に林桂が「解説」を寄稿している。林桂は「鬣の会」が発行する俳句誌「鬣」と「風の花冠文庫」の編集発行人でもある。

 林桂がその「解説」で記述している、各章の時代的な意味の解題を次に摘録する。『月光口碑』の全体的な構成の意図を知る上で参考になる。

    ※

〈略〉『月光口碑』は、M・Oへの献辞を持つ。そしてこの献辞は句集を統ぶものでもある。言わば、上田の「戦後的シチュエーション総体」を喝破するためのものであろう。M・O個人というよりもむしろ、上田が生きた時代への献辞とでもいうべきものだ。したがって、『月光口碑』は、白泉が戦ったものを、上田がどう戦ったかを、「口碑」として描くものとなる。「正真正銘戦後の子」(著者略歴)に刻印された時代の風を受けながらも、それを白泉の普遍的な表現に突き抜けようとするのが、上田玄の志であろう。

 各章に碑の裏面のように書かれた短文が、深くで時代と俳句を関係づける。「月光口碑」の「白黒テレビの中で」舞っているのは「カシアス・クレイ」。クレイは、一九六四年に「モハメド・アリ」に名を改めている。一九六四年は、四六年生まれの上田が、高校を卒業して上京した年であろう。それは六○年安保と七○年安保の中間地点であり、アメリカによるベトナム戦争が本格化する年だ。「私唱雪月花」のアポロ11号の月面着陸は一九六九年。「發墨」の「句歌合わせ」は、上田が参加した「未定」の企画であった。一九八○年代に飛んで、上田の俳句表現獲得の地平を示唆する。『月光口碑』には、俳句に流れる時間に二重構造になるような時間が構築されている。

   ※

 この「解説」で『月光口碑』の中の時間と、上田玄がそれを書いた現実の時間の関係が理解できるだろう。

 上田玄はそれを二〇一一年の時点で書き始めているのだ。

 そうその年の三月初旬に東日本大震災が起きている。

 表現者のだれもが「何か表現しなければ」という思いに突き動かされた情況の中で、上田玄はやがて『月光口碑』に収録されることになる俳句群を書き始めている。彼の潜在的な文学的主題が、彼を俳句表現の場に連れ戻したのだ。

◇ 月光口碑

 この章の「月光」を総論で述べたように「殯」の時空と解く。

その視座で読み解いてゆくと、上田玄の情念の世界がくっきりと浮かび上がってくる。

腹減った  飯喰わせ  けもの径寄る 月の光に

「けもの径」がこの句のキーだろう。「腹減った」「飯喰わせ」は「無産勤労階級」者の決して癒えることない飢餓感の叫びである。そんな労働者たちが「けもの径」に(、)集っているのではなく、労働者たちの無数の「けもの径」が(、)そこでクロスしているのだ。「月の光に」という「殯」の時空が放つ光の下で。つまり「殯」の時間に吸い寄せられるようにそこでクロスする、その交点に上田玄の情念がある。

   月光滂沱  破獄を  識るや  座頭鯨は

「滂沱」とは「殯」の時間の激流である。すでに我が身は「獄」にある如しという思いが、それを「破る」という意思を生む。その意識がないところに、この世界を超えた先の世界など夢想することもできない。「座頭鯨」という生き物は地域毎に集団を形成して移動し、集団間では交流がない。ブリーチングとよばれる大きなジャンプをする。何故ブリーチングをするか判っていない。作者はその謎のジャンプに、つねに海面に叩き戻されるしかない不可能性の哀しみを見ているのだ。

   月が放つ  蓮の糸  きりがない  咽ぶには

 カンダタに天界から下ろされた蜘蛛の糸ではない。「殯」の時間に垂直に下ろされた上田玄の情念の糸の比喩である「蓮の糸」である。すでに死んでいる世界の中で、死にかけている魂に、何を「咽」ぼうと「きりがない」。それでも上田玄の思念の糸は深く垂れることを止めない。

   月光破瓜  迸るものよ   ヒースの神も   葦芽も

「破瓜(はか)」は原義的には女子十六歳のこと。「瓜」字が「八」字を二つ合わせたように見えるところから漢詩文で用いられる表現。転じて八の二乗で六十四歳を言う場合もある。統合失調症の病型の一つ。女子に限らないが、思春期から二十歳前後に発症することからこう呼ばれる。

今は処女喪失の文学的表現で使われることが多い。女子が性交をはじめて体験し、処女膜が損傷を受けること。あるいは性交以外の理由で処女膜が損傷を受けることも含む場合がある。「八」(女陰)に「凸」(男性器)が挿入される様を見立てている、瓜そのものが女性器としての暗喩を持つからなど、由来については諸説ある。そんな喪失体験のイメージを「月光」つまり「殯」の時間に負わせているのだろう。その喪失体験から「迸るものよ」と詠嘆して、「ヒースの神」と「葦芽」が並列されている。「ヒース」は荒れ地とそこに咲く花。「葦芽」は「あしかび」と読む日本の古語的響きの発芽の様をいう言葉。

   月光風鬼   草木塔を  過(よ)ぎる    逃散

「風鬼」とは風の神だが、利欲・名誉・苦楽など、人の心を動揺させるものを風にたとえ、さらに人を惑わすことから鬼にたとえていう言葉。死者が送ってきた人生苦を象徴しているのだろう。「草木塔」は種田山頭火の句集名にもなっているが、草木に感謝し、その成長を願って建立される石碑のことである。「逃散(ちょうさん)」は、日本の中世から近世にかけて行われた農民抵抗の手段、闘争形態である。逃げることが闘いであった命の分厚い重みの中の「殯」なのだ。 

   月光餞別  老松の  叩き狂いし  津軽三味線

「餞別」は別れの「はなむけ」。「津軽三味線」の重厚な調べ以外に、この句を語る言葉はない。死者を送る「殯」のBGMに相応しい。

   月光怯懦  遊動円木  ひとつ

 上田玄俳句初めての一行空白を用いた句である。「遊動円木」の孤立感、孤独感がこの空白行のせいで際立つ。この「切れ」効果の増幅としての空白は、表現的にはまだシンプルである。だが、この体験が上田玄俳句を飛躍させる助走になっていったことが、やがて解るだろう。

   月光粘菌   稚児愛   いずれ   漂着す

 これは解釈が難儀な句だ。作者がこの句の主題を表現するために「稚児愛」という言葉のイメージから、何を取り出そうとしているかが不明だからだが、後半の二行の「いずれ」「漂着」という言葉から想像できるのは、その事象が漂流の果てにどこかに打ちあげられるという「結末」から想像できることもある。

日本の古典物語のジャンルの一つに「稚児物語」というものが存在する。中世から近世初頭にかけて書かれた物語の類型で、寺院における僧侶と稚児の間の愛執をテーマに描いたものである。特に室町時代において、寺院内部では稚児を対象とした男色(稚児愛)が広く行われていたことが背景にある。それは男色そのものなら武家などにもあった。鎌倉時代の『宇治拾遺物語』などにもこうした作品が取り上げられている。独立した作品として本格的に取り上げられるようになったのは室町期以後。こうした物語はそのテーマの性格上、稚児の死による別離など悲劇的な幕引きをする作品が多かった。

その事実からすれば、この「稚児愛」には表の世界からは隔絶されたことの、悲劇的な結末のイメージを、作者はこの句に負わせているのだろう。冒頭の「月光」の下に添えた「粘菌」のイメージが森の暗がりを想起させる。

   忍冬となる   行は  市井の  月光奇貨

「忍冬(すいかずら)」は冬場を耐え忍ぶイメージを持つ植物である。「行」は「ぎょう」と読めば仏教語の仏語の十二因縁の一で過去に身・口・意の三業(さんごう)によってなした善悪すべての行いや、因縁によって作られた、一切の無常な存在という意味や、僧や修験者の修行、または住・座・臥とともに四儀の一で歩くことを意味する。「くだり」と読めば着物の縦の筋や、上から下までの一列、または文章などの行の意となる。「こう」と読めば旅、おこない、書を世に出すなどの意となる。どのイメージを取り出しているのだろう。

「市井」つまり巷の「奇貨」つまり珍しい品物、利用すれば思わぬ利益を得られそうな事柄・機会を示すこの結語から、素直に読めば、厳冬を耐えての何か精神的な行いに、希なる何かが得られるかもしれないと、月光注ぐ「殯」の時の中で念じているのだろう。

   月光枕流  湧き立つ   錵か   破墨であるか

「枕流」は「漱石枕流(そうせきちんりゅう)」の「枕流」であろう。偏屈な態度で、自分の誤りを指摘されても直そうとしないこと。負け惜しみでひどいこじつけをすることを言う。夏目漱石の雅号の「漱石」の由来として有名で、「負けず嫌い、偏屈者」という寓意を込めている。中国西晋の時代、孫楚は、隠遁しようと決心して、友人の王済に「山奥で石を枕にし、川の流れで口をすすごう」と言うべきところを「石で口をすすぎ、流れを枕にしよう」と言ってしまった。それを指摘されると「流れを枕にするのは、汚れた話を聞いた耳を洗うためで、石で口をすすぐのは歯を磨くためだ」と言い張ったという故事から。だから「月光枕流」とは、そもそも人の生や死には意味などありはしないが、それに逆らって、不本意な死を強いられた魂に「殯」の時空的猶予を与えるという、無意味に対して無意味を重ね返すことで、その命のかけがえのない固有性を表現しようとする作者の情念の籠もった造語だろう。

「錵」は「にえ」と読み、日本刀の地肌および地肌と刃部との境目にそって銀砂をまいたように、細かくきらきらと輝いているもの。「破墨」とは「はぼく」と読み、水墨画の技法。「墨を破る」というのは「淡墨をもって淡墨を破る」こと、つまり淡墨の上に淡墨を重ねたりする「濃墨をもって淡墨を破る」というように、墨を重ねて墨の濃淡で立体感を表現する技法をいう。命のかけがえのない固有性に、作者が見出そうとしている輝き、色彩、濃淡を表現しようとする作者の情念が感じられる句である。

   蕎麦殻や   無精の   月の   隠れ癖

 蕎麦をうつには先ず「蕎麦殻」を取り除く根気のいる工程をこなさなければならない。「無精の」のイメージから、そんなこともやる気になれず、そのままに放置されている感じだ。明るく照らしたかと思うとすぐ雲に紛れる月の「隠れ癖」のように。

   月光万朶   一位の木  合歓の木  谺留まれば

「万朶」の「朶」は垂れ下がった枝のことだから、「万」がついて多くの花の枝または多くの花の意になるが、月光がたくさん降り注いでいるという意味よりも、たくさんの「個」の死に対する、それぞれの「殯」の時に向き合っているという意味だろう。「一位の木」は常緑高木で深山に生える。樹皮は赤褐色で浅い裂け目がある。葉は針状でねじれた羽状につく。実は種子を肉質の仮種皮が覆い、秋に熟す。その名は笏の材料としたところから位階の一位にちなむ。秋元不死男の句に「落人に愛されし峡一位の実」がある。これらのイメージをこの句は負い、さらに「合歓の木」のイメージも負う。「合歓の木」はマメ科の落葉高木で東北地方以南の山野に自生する。葉は羽状複葉で互生し、小葉が数十枚並んでつく。蕪村の句に「雨の日やまだきにくれて合歓の花」がある。夜になると小葉が手を合わせたように閉じて垂れ下がる。この句はその合掌のフォルムを負っているのだろう。「谺留まれば」で深山幽谷の反響音の中、益々、その瞑想性を深める効果を出している。

   月光瞑目  飛雁でありし  燧火  潮風呂

「瞑目」には目を閉じる意味の「瞑目して祈る」という使われ方で「祈り」のフォルムに直結する言葉。また、他に安らかに死ぬという意味があり、家族などに看取られ瞑目する、というような使われ方をする言葉だ。「飛雁」は飛んでいる状態を指したくて「飛」を付けて、季によって渡りをするイメージを次の「燧火」「潮風呂」負わせているのだろう。「燧火(すいか)」には火打ち石を打ち合わせて出す火、打ち火、切り火の意味と、敵の襲撃や危急を知らせるために打ち上げる火、燧の意味がある。後者を言いたいのなら烽火という言葉を使うはずだから、ここでは前者の意味だろう。「潮風呂」は「塩風呂」とも書き、海水または塩水を沸かした風呂である。とすれば、前の「燧火」はこの風呂を沸かすため着火の動作の意味を帯び、つかの間の滞留感が出てくる。渡りをする雁のような身の上に、つかの間の滞留のイメージを「殯」の時に与えている。

   掌の   月光も   証拠となるのだ   時間泥棒よ

「時間泥棒」の罪の証拠として、その手に刻まれた「月光」という「殯」の時を「時間泥棒」に突き付けているのは誰か。もちろん服喪中の表現主体である。その主体が祈りを捧げている死者を、虐殺した、この世界の社会システムという犯人が名指されているのだろう。

   月光一会   貧窮を問う   真神   薦神

「一会」は一度の出会いの「一期一会」の「一会」とも思われるが、この語は一つの集まり、特に法会や茶会の意味も含む。となると当然「殯」の「法会」的にイメージを纏う。そこでこの死の貧窮故の帰結が問われている。「真神(マカミ)」は日本伝承の聖なる神で、大口真神(おおぐちのまかみ)とも呼ばれ、ニホンオオカミが神格化したものだ。「薦神(こもがみ)」の「薦」は草を編んで織った敷物、むしろで「菰」とも書く。「すすめる」という意味の方の語義としては、解薦(かいたい)という神判のときに用いる神羊のことで、これを犠牲にして草に包んで神前にすすめたことにより、「すすめる」の意となった。句意としては「貧窮」を問うているのがこの二つの神なのか、「問う」行為のイメージとして三行・四行に並立したのかは不明だ。

   月光隠遁  無音の   底の   穂麦の稔り

 不思議な響きの句だ。月光という「殯」の隠遁的空間。その「無音の」「底の」魂の「穂麦の稔り」。不毛だったかも知れない人生を送った死者たちの魂の異次元での充実の祈りであろう。

   月光慇懃  秩父の  吶喊  薦と化す

「慇懃」は真心がこもっていて礼儀正しいこと。また、そのさまを言う。心を込めた「殯」の様のことだろう。「秩父の/吶喊(とっかん=ときの声をあげること)」と言えば秩父事件を想起せずにはいられない。明治一七年(一八八四)秩父地方の農民が困民党を組織し、自由党員とともに高利貸しへの返済延長や村民税の減税などを要求して蜂起した事件のことだ。武装した一万人近い農民が高利貸しを襲撃、郡役所・警察などを占領したが、軍隊の出動によって鎮圧されたという。この句にまた「薦」の語が登場する。蓆の旗のイメージを負いながらも、もろくバラバラに解体された神体、身体のイメージが漂う。

   月光逡巡   竿の先なる  御霊の  義眼

「逡巡」は決断できないで後込みすること、躊躇いである。「竿」のように高く翳すものは戦闘の印であるか、神の依り代である。その先端に掲げられたのは、死の「御霊」の代わりに、明日の方向を見澄まそうとする「義眼」である。すでに失われた明日に、それでも目を凝らそうとしていて切ない。

   月光皮膜  野に  撒かれたり  人柱

 これは語義の解釈分析の必要のない直球表現の句だ。「殯」の祈りの、思い凝らせども、生きた命の分厚さに比べれば「皮膜」のような薄さである。その絶望感が、「野に/撒かれたり/人柱」と鮮やかな具象表現を呼び込む。「人柱」とは犠牲、つまりこの世のあらゆるものことどもの生け贄に他ならない。

   月光亡八   黒旗畳む   勇みの   友ぞ

永久革命の旗の意味する絶対自由、解放の理念を抱いて生きていた友と自分自身の精神的死、「仁義礼智忠信孝悌」などとっくに失われていた社会によって、自分たちもそれを失うという精神的圧殺に見舞われた、普遍的な死に対する「殯」の時を置く俳句であるといえるだろう。 

   戦場に   月光不動   わが名は    煙

これは白泉が描いた戦禍の兵士たちを照らす月光、つまり「殯」の眼差しの句だろう。「月光不動」、ぴたりとそこに照準を当てて思いを凝らしている。作者は命の個としての掛替えのなさ、も尊厳の証として「わが名」を問うている。自分の名でもあり、無残に死に追いやられる一人ひとりの兵士たちの名でもある。だがそれは「煙」のように虚空に消え去るのみである。

   破落(ならず)戸(もの)  こもごも   碑を書く  月光補色

「破落戸」は品行悪しき者、定職もなく悪事をして歩きまわる者、無頼漢、ごろつき、生計が思うようにならない者。「こもごも」は多くのものが入り混じっているさま、または次々に現れてくるさま。「破落戸」が書いている碑文の内容は読者の読みに委ねられている。そんな者たちでも碑文を認めるほどの思いを込める何かがあるのだ。そこに寄り添う「月光」に「補色」されて。  

   月光昵懇   鉱山(やま)の   古謡の  染みるを待つか

「昵懇」の「昵」は、なれしたしむ意だから「昵懇」で、親しく打ち解けてつきあう意となる。日本の近現代史の「鉱山」は苦難の血の色が染みついている。足尾銅山の公害の原点はもとより、人を人とも思わない劣悪な炭鉱労働の実態。「古謡」の哀愁を帯びた声が癒しがたいその歴史の重みを証し立てている。

   木漏れ月光   我を  腑分けす  小レーニン

 悼みと痛みの実感の籠った痛恨の句だろう。官僚主義的な硬直した言葉たちが、無為の自分を規定しにかかっているような古今の風潮の中で魂は孤立している。「木漏れ日」という言葉はあっても「木漏れ月光」という言葉はない。存在しない言葉でそれに抗っている。

   月光愁殺   帆は   徒に   棚引くも

 青春の舟は常に座礁する。揚げられた帆は記憶の風を孕んでも、座礁した舟を動かすことは二度とないだろう。「愁殺」、愁いにて殺される、過去を引き摺る今に佇む魂を言い得て妙なる造語である。

   月光紙背  海牛色の  異郷に   果てむ

「紙背」は文章に示されないが、奥に隠されていることの意。「海牛」は「うみうし」ならば、軟体動物のうち殻のないものの総称。巻き貝の仲間であるが、殻は退化して体はナメクジ形で、頭部に牛の角に似た触角と、後部にえらをもつ。色の目立つものが多く、浅海の岩上や海藻の間にすみ、多くは海藻を食べる。「かいぎゅう」と読めば海牛目の哺乳類の総称。ジュゴン科とマナティー科が現存。浅海や河川にすみ、前肢は鰭状、後肢は退化して外形はクジラに似るが、分類上はゾウに近い。草食性で、特徴的な口を持ち、動作は緩慢。どちらのイメージを借りても「異郷」に果てるような境涯に相応しい存在だ。「月光紙背」がまだ言葉を与えられていない、ただ暗示するだけのくぐもる思いを言い当てている。

   これはこの  月光褶曲   戦後というも  屠殺され

「褶曲」という平らな地層が地殻内部のひずみによって横圧力を受け、しわを寄せたように波形に曲がる意味の言葉のイメージと、戦後といっても「屠殺」という、恰も家畜の如く飼い慣らされた果てに虐殺される命のイメージの言葉たちによって、読者の胸に引き起こされる心的宙吊り効果である。月光という「殯」の時の歪みに表れる心象である。

「これはこの」という昔語りの語りだしの古典的な響きを醸し出している。

   月光一穂  甘藍が  選る  未生

 農家で出荷されるキャベツ「甘藍」は人によって選別されるが、「未生」というまだこの世に生をうけない、自我のない絶対無差別の境地は、「甘藍」によって選別されるのだという。それは何を意味するのか。「殯」の時に揺れる「一穂(いっすい、は、植物の穂のことではなく、炎・煙などを穂に見立てていう言葉)」」の炎や煙のごとく、自然の摂理にただ従い生まれて死ぬだけの命の様をいっているのだろう。その自然な死さえ選択できず、何かの力で断ち切られた魂への、反語的鎮魂の響きがする。

   眠り請えば  無辜に  注ぐか  月光スープ

「殯」の時の「スープ」状の無意識世界への混沌の予感だ。

   繃帯を  月光煮沸  兵士は    揮発す

 この句の背景には白泉の次の連作句がある。

  繃帯を巻かれ巨大な兵となる        繃帯が上膊を攀ぢ背を走る

  繃帯の中の手足を伸ばしてゐる        繃帯の瞼二重に天を瞠む

  繃帯が寝台の上に起き上がる         看護婦の胸が現れ消えあらはれ

  看護婦の胸の小山を攀ぢて墜つ        看護婦の胸の広野に母が立つ

  看護婦の胸の膨らみに渇き覚む        褶青き円き看護婦帽夕空

 この連作句について上田玄はこう評している。その一部を次に摘録しておく。(『月光口碑』所収「渡辺白泉の繃帯」より)

    ※

 死に瀕した傷兵の熱に痺れた脳髄に、看護婦の胸が点滅する。点滅につれて制服の白衣はぬぐい消され、生命感を漲られせた乳房に変じていく。その胸の小山をいまは幼児となった兵士が攀じていく。――ここでは白泉の視線の発するところは完全に野戦の病床に臥す兵のものとなっている。しかもその兵自身の内面の像を視るものに。(略)

 この白泉の特異な表現の力は繃帯の句にも貫かれている。これらの句にしても、直接的には負傷兵の外面的な描写のようにみえる。(略)だが、繃帯が背を走る触感、繃帯を手足に巻かれた抵抗感、繃帯に締めあげられた圧迫感――こういう外からのレンズでは把えきれない内側からの皮膚感覚がむしろ句の核をなしているといえよう。まさにそういうものとして、

  繃帯を巻かれ巨大な兵となる

という句は、弊履に等しいこの俺が巨大な兵となるのかという兵自身の内面的な落差の意識をあくまでも基礎としているのである。(だから当然にも「巨大な兵となつてゐる」と描写的に書かれてもいないのだと思う)。その外見の巨大を外から揶揄する風刺の句にとどまるのではなく、兵自身の困憊、絶望の象徴的な表現として、戦争そのもののラジカルな表現へと深まる力をそこにもっているのにちがいない。(略)白泉はあるがままの繃帯ではなく、まさに物神化された「繃帯」を俳句表現の世界にもたらしてくれた(略)ここにおいては「普遍性のある、しかも極めて具体性に富んだ」一語が成就されている(略)

   ※

 上田は白泉のこの連作句へのオマージュとして、

   繃帯を   月光煮沸   兵士は    揮発す

と詠み、自分の文学的主題の中に兵士を呼び込み、巻かれた「繃帯」を解き、「殯」の時の中で「煮沸」浄化しているのだ。一字下げの四行目の「揮発す」は、そう解釈してこそ生きる響きを持つのである。それで無残に死んだ兵士たちが浮かばれるわけではないけれど、「揮発」する兵士たちの無念を、心を込めて抱き締めてやれるのは、こんな主題詠の俳句の中でだけではないかと。

   月光剥離  幼きどちは  戦火の   衢  

「どち」はふつう名詞の接尾語として付くが、ここでは珍しく「幼き」につけて独特の雰囲気を出している。「幼き友」のような語の省略形だろう。意味合い的には互いに親しい間柄の人で、親愛の情が籠っているのを感じる。「衢(ちまた)」は道股のことで、道の分かれる所、世間、世の中を指す言葉である。戦火の嵐の吹き荒れる世相の中の、幼馴染たち同士の悲しい別れを暗示する「剥離」が効いている。それを丸ごと「殯」の時の中に置いているのだ。

   月光幻肢  乳鉢  捨てし  薬師かな

「幻肢」は幻影肢とも言い、事故や病気が原因で手や足を失くすか、生まれながらにしてそれを持たない患者が、存在しない手足があたかも存在するかのように感じること。だから「月光幻肢」とは「殯」の時間の中の幻視としての身体性のことだろう。本物の身体ではないからどこかもどかしい。以下の三行の表現はそのもどかしさの具象的表現だと解る。薬を作ってあげたくても、そのための道具を失くしているのだ。

   月光散華     軍靴を作る   手ぞ  いまは

「散華」とは花をまいて仏に供養すること。その、花を散らす意から、死ぬことを意味するようになり、特に若くして戦死することを指して使われる。そんな風に若い命を散らすような悲惨な戦争の歴史を持ちながら、私たちの手はまた「軍靴」を作る手と化していないか、と。

   月光押印  聖戦名乗る 種子を  育み

 前の句の解釈が的外れではなさそうであるのは、この句の批評性の含意にも通底しているからだ。これはもう解説は無用であろう。私たちの額には「殯」の印が黒々と押印されている。

   月光蕩尽  何を唄うか  野末の  物見

 死について当事者意識を欠くあらゆる世俗の行為は、しょせん「物見」的遊興消費財と化す。「殯」の時をそんな「蕩尽」に引き渡してはならない。

   石板に  父の  一筆  月光は縷縷

「石板」は文字通りの意味では平たい石の板。また、石の皿のことだが、これはただの「石板」ではなく、昔、小学教育の教材だった「石板」のことではないか。紙製品が貴重だった戦後の混乱期に、生徒には文字書きの練習用で小さな石板とスティック状の「チョーク」のようなものが与えられた。結構な持ち重りがして、それをカバンといっしょに抱えて通学するのは難儀だった。落とすと簡単に割れ、ご飯粒と薄紙で接合して、無残な姿になったものである。そんな「石板」に「父の/一筆」は書かれているのだ。たいした内容ではなさそうなことは想像がつく。「縷縷」は細く長くとぎれることなく続くさま、こまごまと詳しく述べるさまの意である。作者は自分の幼年時の父の姿を「殯」の時の中で「縷縷」と回想し、鎮魂しているのか。その日本の「父」の姿は何故か哀しく憐れだ。

   月光巡礼  崑崙の山羊   母は   織り継ぐ

 今度は「殯」の時の中で、「巡礼」者の心となって「母」が回想されている。「崑崙」は中国の伝説的地名で、黄河の源であり、玉(ぎょく)を産出し、不死の仙女、西王母の住むという西方の楽土。つまり西方幻想の地である。そこで飼われている「山羊」の毛で「母」は織物を「織り継」いでいるという美しすぎる幻想的回想、つまり鎮魂である。前の句の父の哀しく憐れな感じに比べて、この母のあまりの美しさが、却って悲しみを誘う。西方幻想に連なる中国大陸のイメージは、近現代日本の軍国的拡張故の悲劇の地となった記憶を引き摺るからか。

   大首小首   喉首素首  月光一射   兄は還らず

「素首(そくび)」は他人の首をののしっていう語。最初の二行は脚韻を踏んでおり、何やら昔の児童の囃子詞遊びめいた響きだ。後の二行は「一射」に狙撃的な響きがあり、戦時下の雰囲気が全面に出てきて、出征したまま還らぬ人となった「兄」の姿で留めを刺す。

 この連続した三句の「父・母・兄」は戦争の世紀の中の昭和日本を活写したような句群だ。

   月光浸潤   隙あらば   綯う   我吊る縄

 液体のイメージで染みこみ広がる「浸潤」。逃れられないような不穏さの響きを持つ言葉だ。油断するという感じの「隙あらば」、自分を吊し首にする「縄」が「綯」われている。社会が自分を罠にかけてそうしようとしているような被害感と、怠惰にしていると、という自縛のイメージを合わせ持った句で、身動きもままならぬ圧迫感がある句だ。

   月光屹度  四肢に 雌伏の  ばち指ぞ

「雌伏(しふく)」は「雌伏して時の至るを待つ」と慣用されるように、雌鳥が雄鳥に従う意から、人に屈伏して従う意味となり、実力を養いながら活躍の機会をじっと待つということも表すようになった言葉。「ばち指」は撥指のことで、上肢・下肢の指の先端が広くなり、爪の付け根が隆起し凹みがなくなった状態を指す。肥厚した指が太鼓のバチ状であることから、こういうようになったという。この症状自体に痛みなどはないが、重大な疾患の症状として現れる事が多いという。「屹度」、いつもそうなってしまうという失意が込められている。「雌伏」の終わりなき時間の絶望感も漂う。

   月光寸借  殯の森の  我は  漏刻

 この句についてはすでに詳述したので繰り返さない。この章、この句集の代表句といってもいい句だろう。

   海馬海豚は   畢竟  月の  虜囚であるか

「海馬(かいば)」は、大脳辺縁系の一部で、脳の記憶や空間学習能力に関わる脳の器官。それに続けた対句のような「海豚(イルカ)」は一転して、海の生き物で知能が高いといわれている動物である。「畢竟」「月の」ときて、結びの行を「虜囚であるか」にしているので、これも戦争のイメージで完結している句だ。「海馬海豚」は知的な能力も、最後は「殯」の時の囚われものと化すということか。

   破船とや  月光海道   飛魚は  喪主

「破船」といえば吉村昭の小説を想起せざるを得ない。小説では、航路を見失った廻船を火の明かりで暗礁の多い浜に誘い込んで座礁させ、村人が船に乗り込んで積み荷を略奪、船員を皆殺しにしてしまう。難破船を「お船様」と呼んで神の恵みのように受け止めている、村の儀式化された行事でもあったという話である。この小説を想起しなくても「破船」自身が悲惨な命の末路を示す言葉だ。「月光海道」という美しい響きが、その悲惨さを際立たせる。「飛魚」といっしょになって「喪主」務める作者の心の「殯」である。

 以上が「月光口碑」の章の全句である。

 こうして「月光口碑」の全句を読み了えてみると、普通の人なら、辞書を片手にしなければ意味すら解りかねる語彙が使われていることが解る。

そんな深く広い語彙力をもって、そんな言葉を句の中に配置し、多行表現俳句の改行という「切れ」の効果を使って、通常の散文的文脈の中では繋がるはずもない言葉たちを配置する作句をしているのだ。

その斬新な言葉の結びつき、あるいは反発、または並列によって、一句一句に「殯」の時間を挿入することで浮かび上がる主題の表現がなされていることも、了解いただけたに違いない。

 『鮟鱇口碑』から『月光口碑』の間に、心ならずも置くことになった「中断」の時間が、上田玄俳句に、この豊穣の表現世界への扉を開く猶予を与えることになったのだ。そう思えば、それはとても有意義な休暇だったと言えるだろう。

「月光口碑」の章以降については、各章の数句を取り上げて、その章の時代と、それを詠んでいる作者の現在地を鑑みて、各章の文学的主題についての総論的な解釈だけを述べることにしたい。

 ○ 「崑崙」から

 先に引用した次のパラフレーズがある章である。

   ※

 M・Oにはオールドボルシェビキ、略称オルボルという仇名があった。そこには、彼の頑固さに辟易する思いと、それに負けないほどの敬意が込められていた。

   ※

「月光口碑」の章のパラフレーズでは「白黒テレビの」「カシアス・クレイ」に象徴される上田玄の六○年安保と七○年安保の中間地点の、革命幻想時代が刻印されていた。この章の句を書いている上田玄は東日本大震災直後から始まる、第二次俳句創作開始のただ中にあり、その革命幻想時代を、喩的題材として「死」とその「殯」の文学的主題を立ち上げた句を書いた。

「崑崙」のこのパラフレーズでも、上田玄の精神的状況がまたその渦中にあることを示している。今度は「殯」ではなく、その渦中の精神的軋轢の様を描き出そうとしているようだ。

   塩漬けの  魂魄を  荷に   驢馬の列

「塩漬け」という、取り出して賞味するために準備していたものが、使われることなく埋もれてしまう状況や物、精神を表現している。今さら放棄してしまうこともかなわず、その「荷」を「驢馬」のように背負わされて歩く他はない。「列」という言葉が自分だけではない、同じ時代を生きた同朋たちへの眼差しを感じさせる。

   独居に  白墨(チョーク)  マントラ一語  漂うは

「マントラ」は、サンスクリットで「文字」「言葉」の意。「真言」と漢訳され、大乗仏教や、特に密教では仏に対する讃歌や祈りを象徴的に表現した短い言葉を指す。戦後の価値観の崩壊、革命幻想の崩壊、二重の精神的崩壊を体験したこの時代の若者たちは、それ以前、そしてそれ以後のどんな「青春」も体験したことがない、深い精神的惑いの中に放り込まれていた。「真言」と漢訳した日本語にしてみたところで、そんなものは袖が触れるだけで消えてしまうような「白墨」書きの幻想に過ぎない。そう解っていても、まだ何か、真理と呼べるような確かなものがあるではないかと、性懲りもなく「幻想」を引き摺る最後の世代である。だがその足掻きの心が社会のグズグズの崩壊を押し留める最後の砦ではなかったか。それを失くし、箍が外れてしまったような節操なき今日の社会の在り様がそれを証明している。

   汝が墓は  氷河に  遺す  手型であれば

「汝」とは、かの時代を駆け抜けてきた自分と同朋たちのことだ。そのときの精神がもう死んだと思っている世代の心の「墓」の状態である。

   武器なきと  歯もて  闘う  樅となる

「樅」にはクリスマスツリーの樹の他に、『樅ノ木は残った』という山本周五郎の歴史小説で描かれた仙台藩伊達家で起こったお家騒動「伊達騒動」のイメージがつき纏う。借用されているイメージはその「残った」の部分だけだろう。上田玄の青春時代の若者は最初から闘うべき武器が失われていた。つまり言葉が失われていた。言葉はこの時代に決定的に死に、そして今に至っている。だから言葉ではなく「歯」で闘おうと意思している。つまり言葉ではない「俳句の言葉」で。

   撃てよ椋鳥   永久革命  またも説く故

 上田玄の多行表現俳句の四行書き方式に、初めて一行の空白行、つまりブランクが、その効果がしっかり認識されて使われた、記念すべき句でもある。深々とした断念、断絶の効果を意識して使われていることは句意からも明らかだ。

もっとも「月光口碑」の章でも一句、次の先行例があるにはある。

   月光怯懦  遊動円木   ひとつ

 この句のブランクには「切れ」を生かした飛躍はあまりない。その前の「遊動円木」の孤独感の「ひとつ」に素直に繋がる。

だがそれに比べて「撃てよ椋鳥」の句のブランクは、冒頭の一行を説明しない。「またも説く故」と一行目の理由の説明の形をとりながら、本当の説明になっていない。だから読者自身がその拗れの理由を心の中で補って観賞するしかない。その歪み方から立ち上がる何かに主題があるのだ。「撃てよ」と「椋鳥」に呼びかけているのなら、闘いなどしそうもない鳥に、何を、何故「撃て」と言っているのか、と読者は反応する。だが、ブランク行の後、語られるのは「永久革命」なんかまだ信じて、人に説いたりしているからだという。「永久革命」を説いた履歴を持つのは上田玄とその同胞たちである。つまりその銃口を自分(たち)に向けさせようしていることになる。そこにもう一段深い「何故」が仕込まれている。その「何故」を上田玄は解き明かさず、読者に投げている。

身に覚えのある読者の心に一言ではない苦い思いが沸き起こるだろう。

   テキーラや   革命なぞも  野の末に

この効果を意識したブランク行ありの四行俳句創作体験が、のちのち、上田玄の独創的俳句の確立の助走となってゆくのである。

「崑崙」の章の結びは次の句だ。

   遠き日は  麦を踏みたり 流離の  夕餉

 最初の二行が回想だろう。離郷前の農作業体験の回想と見てもいいが、この章の最後に、そんな回想に象徴される、ある意味、生きることの素朴な原点的風景をここに置くには、それなりの表現意図があるだろう。後の二行の「流離」「夕餉」の「現在」から回想されている。そんな素朴な自分の原点も、そして、かの青春時代のあった精神的原点も、共に喪失してしまった思いの中に佇んでいるのだ。 

◇ 「私唱雪月花」

 この章に刻まれているのは、次のパラフレーズだ。

   ※

 アポロ11号の月面着陸は、巣鴨の拘置所で録音放送で聴いた。夜空を見上げることはできなかった。

   ※

 アポロ11号の月面着陸は一九六九年で、まさに第二次安保が自動延長という論点逸らしの政治手法で継続され、上田玄たちの「闘争」が断ち切れてしまった時代である。その時の自分の精神性を回想して、この章の主題が立ち上げられている。それを書いている上田玄は東日本大震災後の俳句界的、表現の伝統帰り的風潮のただ中にいるのだ。

   地平より   照らす  幻日  雪つぶて

 この句は白泉の「地平より原爆に照らされたき日」が意識されている。白泉の主題が戦後、兵士の死から、原爆投下で終焉した敗戦という日本の無残な精神の死へと移っていったように、上田玄はこの章で、青春時代の闘争の苦い挫折の記憶と重ねてブレンドするように、日本という国の精神の在り様への視座を加えている。

「幻日」とは太陽と同じ高度の太陽から離れた位置に光が見える大気光学現象のことである。白泉の「原爆」に換えてそんな幻の光を置き、「日」に換えて「雪つぶて」を置く。白泉の句が屈折した思いに苛烈な批評性を持たせようとしているのに対して、上田玄は「雪つぶて」を我が身に打ち付けている。この表現方法がこの章全体を貫いている。

   目瞑れば届く   月光  繃帯越しの  昨日かな

 まだ「月光」の「殯」の思想と、白泉の「繃帯」を引き摺っている。いや、決してその二つを手放すまいとしているのだ。 

   ヴ・ナロード  月  天心に    吹きさらし

 ヴ・ナロード「民衆の中へ」、大井恒行は「革命幻想の崩壊、その渦中の苦闘なくして、言語表現としての多行表記の俳句から、滲み出ようとするアンビバレントな意識と心情を見ることは不可能なことだ。それは多行表記において改行される言葉から言葉へ移行する瞬間に、いわば宙づりにされている」と評していた。自分の「殯」の思想も、見上げる「天心」の月のように「吹きさらし」になっている。

◇ 「鳥獣草樹」

 この章のパラフレーズは次の通り。

    ※

 西武沿線の、キャベツ畑と雑木林に囲まれたアパートでM・Oが振舞ってくれたのは、キャベツだけが具のラーメンだった。

    ※

 まだ「革命幻想」のただ中か、その余韻を引き摺る時代を暗示している。

 その時代の回想造形句の中に、この章では、冒頭から父が登場し、その後も父母親族が登場する句が増えている。それだけを拾い出してみよう。

   円を   描けば   竜舌蘭でありし   父   月下の虹  母は   乱者か

    旅人か   天泣   翩翻  父に無かりし  白髪とよ   父にありし

   胴間声とぞ  盛塩   潰え   遠つ祖の   吐息の   熱を   掌に移す

   伯父も叔父も   煙もならず   南方   底闇   敵の    味方は父

   怒濤でありし  栗の花

 今までひたすら内省的で、思念の対象が自分とその時代だったの対して、自分のルーツである「遠つ祖」から父母へと広がりを見せている。そこに自分の問題意識や認識の根源でもある近現代史の負の影を見てしまっているようだ。

「死」の時間軸を辿るこの章には次の句がある。  

   揚雲雀   死は   早暁に   膝を折る

この句を読んだとき、河原枇杷男の「何もなく死は夕焼に諸手つく」を想起した。「死」という抽象名詞を主語にする表現である。普通の俳句では抽象名詞は使わず、そのことを具象的に表現するのが通例だ。上田玄も河原枇杷男もそれを主語にする。前衛的表現をする俳人がその方法を取るのは、彼らが表現しようとする主題自身が形而上学的なものだからだ。枇杷男俳句は表現主体がその幻想的な俳句世界を、生きて行為する現場を表現するという方法で詠まれる。その観点でこの俳句を鑑賞すると、死という観念そのものである精神主体が「夕焼けに諸手つく」という行為をしていることが解る。「何もなく」は死ねば何も無くなるとか、死後の無を表現しているのではなく、それ以外に為すべきことが何もない無為の状態を表しているのだ。他に為すことが「何もなく」、ただ死という行為をする精神主体が「夕焼けに諸手つく」という幻想的表現世界から、象徴的な文学的主題が立ちあがってくる。

上田玄のこの句も同様である。

「揚雲雀」の垂直の導線。「早暁」という水平に差し込む朝陽。その二つが交差する中で「死は」ただ「膝を折る」という行為をしている。この「死」は生きて死ぬ命という現象に投網をかける表現である。

読者はそこに何をどう読み取るか。

唯物論的「無」の前の冷たい真理を読み取るか、実存主義的な不条理感を読み取るか、宗教的諦念、自然との一体感を読み取るか、それは読者の自由だ。

こう読み込むと、上田玄の文学的主題が『鮟鱇口碑』と確実に違うところを目指し始めていることが了解されるだろう。

それは次の句にも感じられる。

   末黒野や   わが眼   わが爪    薨らず 

「末黒野」は春、枯れ草を焼いて一面に黒くなっている野原。防虫対策、新芽の健全な生育を促すためでもある。つまり蘇生のための行いだ。それは「焼かれる」という「死」を前提とする。だがこの句では「薨らず」、そのまま生き続けている。過去を焼いてしまおうとしない。一見、新たな出発は予感されていないように見える。だが無意識下で新たな出発が準備されつつあることを、言外に示している句でもある。過去を問い続ける先に見えてくるものしか信じない、上田玄の頑固な思想の手触りがここにある。

◇ 「發墨」

 この章のパラフレーズは次の通り。

    ※

 「句歌合わせ」という企画があって、「風」というテーマが与えられていた。

   ※

 この章はその原型が書かれた時が、前章より遡る。『鮟鱇口碑』以後、俳句の創作から離れてしまう前に、多行表現俳句に挑んだ習作の時期があったようだ。だがそれは完成形に至らず、途中で断念したのだろう。

その習作時代の多行表現俳句の中から選別し、再構成して、この句集の最後に置いているのである。何故この句集の最後に置いたのか。

その理由はやがて分かる。

   戦がざる   至福   千年の   杉秀は雨滴

「杉秀」は杉の穂と同語源で読みも同じ「杉の秀」のこと。秀には秀でるの意があり、そこから外形が人目につきやすく突き出ている杉の穂のことを指す。

『月光口碑』という句集の最終章「發墨」の劈頭にこの、悠然たる時空に「至福」感を纏わせつつ、「杉秀」へ、その先端の「雨滴」へと、大いなるものから微小なものへのフォーカスの絞り込みを表現した意図は何だろうか。

読者をそんな思いに誘う始まり方である。

 ついに上田玄も歳を重ねて、日本詩歌の伝統的自然観の中に、身を委ねようとしているのかと、一読者としては裏切られたような思いにも駆られる句ではある。だが、次のページの二句目には、元の上田調が置かれている。

   見殺して   旗  また透ける  南無波のはな

 前句の「千年」という歴史の重みを引き摺って、その中で常に「見殺し」にされた魂たちへの眼差しへと収斂させてゆく。「旗」は常に闘いの印であることを止めず、その先に砕け散る「波のはな」が透視されている。

 一句目の佇まいといい、この二句目の受け方といい、上田玄俳句の円熟を感じる。これは多行表現俳句の習作時代には無かった構成意識ゆえの配列だろう。

かつて、多行表現俳句に手を付けたが、その自己評価に惑いがあった時代の句を、自分の文学的主題を明確に把握した今の視座で、再構成してここに蘇生させているのだ。

 表現者にとって「惑い」の中の試行錯誤の時代が、次の表現のステージを切り拓く大切な時間でもある。

つまりこの「發墨」という章は、そんな自分の俳句についての、自己確認の章であるといってもいいだろう。

再編集して蘇生したかつての多行表現俳句も、その後の中断後、上田玄が見出すことになる文学的主題を、先取りしたかのような表現になっていることを、読者も確認することができる。それが上田玄の意図だろう。

   転びても  息の胞子よ  蜘蛛膜に蜜

まるで遺伝子レベルに刷り込まれた「転び」の痛みの素粒子であり、神経集積回路の脳を包囲する「蜘蛛膜」に蓄積された「蜜」である。負の遺伝子を「蜜」と呼ぶ上田玄の情念は過去も現在も健在である。

   日和見や   帆は  潑墨の  われにもあらず

 この句には林桂の先行評がある。「句歌合わせ」という企画で「風」というテーマを与えたのが林桂でもある。林桂はこう書いている。

   ※

 上田にとっては、出立の自覚と確認を促すものになったのかもしれない。「句歌合わせ」というある種のどかな時間は、上田に遠くまできた八○年代を実感させただろう。帆は順風を孕んでいるように思われる。帆に描かれた文字も晴天のもと鮮やかだ。

 しかし、六○年、七○年代を経過してきた上田には、「日和見」と「われにもあらず」の思いの澱が心の中に残っている。この句は、この複雑を引き受けて生きる上田の決心のように響く。句の声調には濁りがないのだから。

   ※

 上田玄の俳句創作環境の周辺にいて、その経緯を見守ってきた俳人たちの、『月光口碑』の評言は、的確にその文学的主題を踏まえたような書き方がされている。『鮟鱇口碑』のときは何故か表現技法優先批評が多く、その主題を読み取ってはもらってはいないように見えた。

 この変化は上田玄という作家の文学性、その固有性が周りにようやく認知されてきたことを意味すると同時に、上田玄の表現技法の向上と深まりを意味するだろう。

 この句集に絞って言えば、「月光口碑」の章の「殯」の思想を、より豊かな表現世界へと広げてゆこうとしている上田玄の俳句世界を、周りの者たちに認知させたことを意味する。

 それは次のような一行ブランク有りの四行俳句に特に顕著である。

   眠り足らざれば  片割れて  未来の虹よ

 一行一行が、その前後と意味文脈的に完全に「切れ」ている。だから読者はその一行一行になんの手がかりもないまま、自分の言語知識と感覚で向き合わされる。その同じ姿勢でブランク行にも立ち向かわされるのだ。

 この仕掛けは、多行表現俳句には「よくあること」と言うだけでは済まない、表現方法論的「発明」があるのではないか。

 ブランク行を持つ多行表現俳句について、浅学な私の読書歴の中では、他の俳人の同様のブランクには、「切れ」の効果で生じる「間」のような、韻律的猶予しか感じられなかった。

 だが上田玄俳句のブランク行には、他の行と同じ姿勢で何かを読み取る方向へと仕向けられるような強制力がある。試みに一行一行に向き合ってみよう。下に添えたのが私の心の反応の速記例である。

「眠り足らざれば」・・・・・意識が朦朧としているー。

「片割れて」・・・・・・・・身体的欠損感覚? いや精神のことか。

「ブランク行」・・・・・・・なんなんだ、この境遇。

「未来の虹よ」・・・・・・・未来? 虹? 希望はあるということか。それもどうなるか分かりもしない、遠い未来に? それは希望なのか。限りなく絶望に近い、あるかなしかの希望なのでは。

 以上がブランクを含む全行について私の脳裏に沸き起こった感慨の速記である。大事なのはブランク行で、私が思ったこと、いや、思わされたこと、その反応の有り様である。このブランクはただの「間」ではない。読者を表現の主題へと確実に招きいれる構造としての表現方法としてのブランクなのだ。

 上田玄の新四行定型俳句的「発明」である。

からだ開いて   死ぬ父母や   マリンスノーは

 この句を意味文脈的読みで、頭の中で「マリンスノーは、からだ開いて死ぬ父母」に書き換えて解した者には、この句の持つ文学的主題は決して開示されることはないだろう。それを識りたかったら、前掲句において私がしたように、一行一行とブランク行に向き合い、自分の持つ語彙力と言語感覚を頼りに、可能な限りの心的現象を引き起こしてみる以外にないのである。

 一行一行の意味文脈的読みを一旦停止して、独立したものとして、自分の心の沸き起こる心的揺らぎを大切にして読むこと。「からだ開いて」とは・・・。「死ぬ父母」とは・・・・。この「ブランク」から湧き出してくるものとは・・・・。そして結びの行の「マリンスノーは」は、何の主語なのか・・・・。

こうして能動的に関わってゆく読み方をすると、多様な豊穣な主題が、読者の心に次々と書き込まれては消えてゆくだろう。


https://blog.goo.ne.jp/sikyakuhaiku/e/9b056c3887dcbaf99473c0b235f8c998 【俳句時評182回 多行俳句時評(11) 閉じによる開き 斎藤 秀雄 】より

2024年05月02日 | 日記

 なぜ見えるのか、というシンプルな問いに対し、閉じることによってである、と答えてみたい。目を開けば見えるではないか、と思うかもしれないけれど、目なんてものは、開いたところで、そもそも閉じているのである。「インプット/アウトプット」モデルは、環境にあるものを内部に入力するというわけだから、空き瓶の口から日光を入れるようなものだ。これは、A地点にあったもの(ここでは電磁波のうちの可視範囲)をB地点(ここでは瓶底だろうか)に移動させているだけであり、もしもこれが「見る」という事態であるならば、瓶そのものが不要ではないか(移動だけがあればよい)。

 符号化モデルは、光を受けた瓶底が、別の刺激に「変換」する――電気信号やら化学物質やらに――と想定するかもしれない。けれど、電気信号やら化学物質やらは、それ自体では「照らされた瓶底」と同じである。こうした「変換」をどこまで繰りかえしても、「見える」という事態に到達することはない。

 こう考えてはどうか。見ている私は、電気信号も化学物質も入力(インプット)していない。たしかに私の環境において、可視光や電気信号や化学物質がそれら独自の存在様態でもって存在している、のかもしれない。それらが存在しないならば、私に「見え」が到来することもない、のかもしれない。けれど、私が見ることができているのは、そうした環境要因のさまざまを、入れないことによってである。すなわち、閉じていることによって、私は環境に対して開いているのである。

 という導入が、以下の多行俳句作品を読むことと、いかなる関係にあるのか、僕にもよくは分からない。ただ、この導入文章は、ここから後の文章を書いた後に書かれたものである、と覚書きをしておきたい。

声を失くし 耳を失くし 踊らんか 雪の海溝 上田玄句集『月光口碑』より。

 中空の、それも二重の「内側」を持った石、というものを考えてみよう。彼は僕たちと同様、直接、外側を見ることができない。彼は、もっとも外側の表面・殻・境界(=第一の殻)を、内側に転写する。こうして二重の内側が生まれる。彼は、外側を見るとき、第二の殻の外側において、ただし第一の殻の内側において、見る。彼の「自己(self)」は、第一の殻の内側全体であるはずだけれど、やはり僕たちと同様、第二の殻の内側を自己とみなす。自己とは「『自己ではないもの』ではないもの」だから、自己ではないものを、自己は、みずからの環境において見る。第一の殻の内側で、かつ、第二の殻の外側を、「環境」と呼ぶ。

 二重中空の石が、海深く、ゆっくりと沈んでゆく。無数のマリンスノーとともに。《雪の海溝》は静謐であるだろう。そのことは、この石も知っている。この石の持つ世界において、みずからが沈んでゆく《海溝》は静謐である。その静謐さは、けっして《耳を失くし》たことが理由ではない。この四行目、《雪の海溝》を読む僕たちの多くが、静謐さを想像するだろう。《耳を失くし》たこの石は、だから、「それに加えて」静謐な世界を持つのだ。二重中空の石の表面の、すぐ外側の静謐さ(《海溝》の静謐さ)を、彼は第二の表面(内部の外殻)の外側、つまり環境に持っている。《耳》の無いこと、聴覚の無いことは、この環境世界に一種独特の質感を与える。質を変容させると言うべきか。《海溝》の巨大な静謐さの上に、《耳を失くし》たことによる私秘的な静謐さが上塗りされる。僕たちは、その私秘的な質感を知ることはできないにしても、しかし、その弱々しい私秘的上塗りの「かすれ」「透け」のようなもの、塗りの痕跡を想像してみることはできるのではないか。

 最終行に置かれた巨大な静謐さの、遡行的な効果によって、《耳》《声》はともに聴覚刺激語であるようにも見える。そう読むことも誤りではないかもしれない。けれど、《声》の無いことは、《耳》の無いこととはまた異なる質感を、世界に与えることになる。《声》は環境に「働きかける」能力を持つからだ。目の前に軽い障害物があるとき、もしも手があるならば、それらをどかして、環境を変形させ、それから進むだろう。手があるとき、僕たちは「手ありき」の世界を構築する。環境に働きかける力能、世界を変形させる力能を喪失することは、したがって、世界の根本的な変容を、僕たちにもたらすだろう。歯車を失ったまま回転するシャフトのように、しばらく、一種独特の「あてどなさ」を体験させるだろう。

 ふたつの要素の喪失、《声》と《耳》の喪失は、それぞれに世界を変容させる。おそらく「世界が失われている」とさえ感受される。《踊らんか》という呼びかけ・語りかけは、他なる何かに届く見込みを喪失している。声なき者から、耳なき者への呼びかけであろうし、二重中空の石としての語り手から、語り手自身への語りかけであろう。その声なき呼び声は、二重中空の石の内側で、こだまし続けることになるのだ。

目瞑れば届く 月光  繃帯越しの  昨日かな

 上田玄句集『月光口碑』より。

 一・二行目をまずは「目蓋の裏に浮かぶ」という慣用表現に引きずられながら読んでみよう。そう読んでも間違いではないはずだ。句集名に刻印されているように、本句集所収の作品には実に多くの《月光》が描かれている。それらの《月光》が閉じた目蓋の裏に次々と到来する。本句集には上田による渡邊白泉論が二篇、収録されている。「渡邊白泉の枯野」および「渡邊白泉の繃帯」である。掲句には《繃帯》の二文字が刻印されているから、白泉の《繃帯を巻かれ巨大な兵となる》《繃帯が上膊を攀ぢ背を走る》といった句との参照関係を想定することも、不当ではないだろう。つまり、ここで語り手は、戦場にふりそそぐ《月光》を思い描いているのかもしれない。

 ただ、《届く》という措辞に、ほんの少しの違和を感じることもまた、許されるかもしれない。「目瞑れば浮かぶ」でも「目瞑れば描く(描かれる)」でもないのである。慣用表現を逸脱して、リテラルに読む誘惑に駆られもする。語り手が目を瞑ると、あたかもそれを原因とするかのように、《届く》ことが、《月光》の到来が、成し遂げられてしまう、というように。

 こうしたリテラルな読みは、実のところ、三・四行目の与えてくる不思議な質感に促されてのことである。《繃帯越しの/昨日》を、穏当に読むことはできるだろう。「昨日ついた傷に、繃帯越しに触れてみる」だとか、「消毒液が一日経って、繃帯に染みをつくった」だとか。こうした穏当な読みは《昨日》を換喩表現として読んでいることになるのだろうけれど、収まりがよいとはあまり思えない。「前日」という意味であれ、「近い過去」という意味であれ、《昨日》が語り手に、《繃帯越し》に触れてくるのだ。

 そしてまた、ここでの《繃帯》の質感と、目を瞑るときの目蓋の質感とが、「覆う」ものとして、強く通底する。《月光》は《目瞑》ることによって、《昨日》は《繃帯越し》であることによって、語り手にとってのいまここに、到来する。多少脱線するならば、この《繃帯》が、語り手の目を覆っていると想像する誘惑にも駆られる。いささか読みすぎになってしまうだろうけれど。

 この「到来」の感触は、「思い描く」という能動性からはひどく隔たりがある。《昨日》が、遅延して到来する。語り手は、《目瞑》ることで引き起こされる感覚の鋭敏さによって、あるいはまた《繃帯越し》が引き起こす感覚の鈍感さによって、この遅延、ズレを感受することに立ち会うことができたのである。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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