月影のいたらぬ里はなけれどもながむる人のこゝろにぞすむ 法然上人

http://www.yutenji.or.jp/info/page-22650/page-22663/ 【「つきかげの いたらぬさとは なけれども ながむるひとの こころにぞすむ」】より

法然上人御作

この御詠歌は法然上人が詠まれたお歌で、現在では浄土宗の宗歌として歌われております。

月の光は山にも里にもくまなく照らしておりますが、ただこれを眺めている人にだけに美しい澄んだ月を見ることが出来ます。同じように阿弥陀様の全ての人々を平等に救おうとされるお慈悲の光は、その阿弥陀様の御心を抱きお念仏をする人のみに住し澄み渡るのであります。

月の光は美しいもので、その光は全てものを分け隔て無く照らしております。しかしその美しさ、感動は、夜空の月に気づき見上げた人の心にしか起こりえません。同様に阿弥陀様のお慈悲の光は常に私たちを平等に照らして下さっておりますが、その御心に気づかなければお救いいただくことはかないません。そしてその御心に気づきお念仏をお称えしたときこそ、私たちは阿弥陀様よりお救いいただけるのです。

どうぞ阿弥陀様のお慈悲に感謝し、お念仏をお称え致しましょう。


https://j-enkouji.jp/pages/20?detail=1&b_id=75&r_id=1269 【「月影の いたらぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞ住む」】より

法然聖人がよまれた歌に「月影の いたらぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞすむ」があります。 月の光が届かない人里はありません。べての里に届いていますが月を眺める人の心にこそ届いてあるというのです。

 月の光は闇夜を照らしてくれます。月の光の有難さですが月を眺めて思う人はなかなかいません。 お念仏のお心を歌でたとえて教えてくださっています。

阿弥陀さまの智慧の光明に照らされて

私たちは南無阿弥陀仏の大きな大きなお慈悲のお救いのなかにあるのですが

阿弥陀さまのお心を聞くことがなかったらもったいないことです。

 月を眺めて「本当にきれいだなあ有難いなあ」と心に思うように

仏法に遇わせていただいた人は「ああ有り難いことだなあ」とお念仏を申す人になるというのです。

 私たちの日々の生活を振り返るとき当たり前当たり前と過ごしていることが何と多いことでしょう。当たり前ということが本当に有り難いと知らされるのが今のコロナ感染禍のなかでの私たちの日暮らしではないでしょうか。

 今まで気づかなかったことに気づかせていただける今まで見えなかったことが見えてくると

お念仏のお心おはたらきをいただきます。 ご一緒に、お念仏申しましょう。


https://www.chion-in.or.jp/kacho/1783/ 【月かげのいたらぬさとはなけれどもながむる人のこころにぞすむ】より 

 これは、法然上人さまが御道詠くださった「月かげ」のお歌で、日常勤行式の「摂益文(しょうやくもん)」の偈文(げもん)である「光明遍照 十方世界」を「月かげのいたらぬさとはなけれども」と、そして「念仏衆生 摂取不捨」を「ながむる人のこころにぞすむ」と、表してくださった御道詠です。

 ある時、子どもさんが「月かげというのは、お月さまにより出来る影ですか」と聞いてこられました。「月かげは、月の光という意味で影ではありませんよ」というお返しをすると、「いたらぬさとはなけれども、はどういう意味ですか」と。「届かないところはないという意味だよ。山も丘も私達の村も、みんな月に照らされているのだよ」と答えました。すると「影になるところは光は照らしていないのではありませんか」と。良い質問だなあと思いました。「その通り。この光というものは必ず影を作りますね。ところが、このお歌の月かげは遮ることができない光で、影のできない光です。だから私達のいのち・こころの一番奥にある、日ごろ気づかない世界まで、この月の光は照らしてくださっているのですよ」と。

 この話を耳にされたならば、そのような非科学的な話がこの世に通じますか、といわれそうです。しかしそこが重要なところです。私達は見える世界を見ていますが、それだけではなく、見えない世界が見える世界を実現させているのです。見えない世界は無限に広がり、ただ在るだけではなく、その世界の力と法則とそれによる大調和が、私を実在させてくださっていると言えます。

 法然上人ご在世の時、私の命はどうしていたのでしょうか。ここに至っているいのちが当時なかったとしたならば、私の誕生はなかったこととなります。そうでなく、いつの世も変わりなく親子の関わりの連鎖により、命が伝えられ・育てられ・生かされて今日の私となっています。

 しかし、この因縁果は、今の私に見えず・感じず・知らず、けれども「いたらぬさとはなけれども」と見放すことなく、守り護って私の脈拍を動かしてくださっているのです。

 人生は旅であると古来の人は語りました。四季折々の変化に喜び・嘆き・感謝の一方で愚痴をこぼし、求めれば求めに応じて満たされない空虚さと不安を抱き、飽くことのない欲望を求めての旅である、と。この不完全な愚かな旅人を阿弥陀様が発見し、全うな者になれと《慈しみの願いと心》をかけてくださっているのです。そして、一時も離れることなく旅人へ語り続けます。

 「旅人よ。有限世界の貴方の命は〈他者〉でなく〈一者〉なのです。貴方の愚痴なる存在は、私自身の悲願なのです。その悲願の結実は、阿弥陀仏の名号なのです。どうか精進あれ…」と。無限世界から有限世界の旅人へお念仏を贈り届けてくださっているのです。時に元祖、法然上人さまは「この時を外して仏縁はない」と、その誓願に応えるくらしを五つ明解にお示しくださったのです。

 その一つは、阿弥陀仏の説かれている経典を拝読し、その真理を聞かせていただきましょう。二つめは、阿弥陀仏の身心を素直に仰ぎ、心にとどめさせていただきましょう。三つめは仏様と私が「一者の行」である礼拝を。四つめにすべてに通じる念仏の中で日暮しを。そして、五つめには仏様のお徳を慕い、せずにおれない供養を。

 この五つの行を日々に勤めるとき、おのずから《こころにぞすむ》ことは間違いありません。その五行により、ただの旅人でありながらも月かげに照らし出された旅人となり、有限を旅し、そしてそれを終えたならば必ず浄土へ導かれるのです。

※平成30年12月25日に行われた、第621回おてつぎ文化講座の講演を要約し加筆したものです。

月刊「知恩」平成31年3月号に本稿をさらに詳しく掲載しています。

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