希望

https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/14_frankl/index.html 【フランクル『夜と霧』】より

今、日本では自殺者が14年連続で3万人を超えています。震災に見まわれ、全てを失ったという人も少なくありません。

運命に打ちのめされたという人、将来に希望が持てないという人が、世の中にあふれています。そこで8月のシリーズでは、人間の生きがいとは何かを追求した名著「夜と霧」を取り上げることにしました。

「夜と霧」の著者は、強制収容所から奇跡的な生還を果たしたユダヤ人のヴィクトール・フランクルです。精神科医だったフランクルは、冷静な視点で収容所での出来事を記録するとともに、過酷な環境の中、囚人たちが何に絶望したか、何に希望を見い出したかを克明に記しました。

「夜と霧」は戦後まもなく出版され、世界的なベストセラーとなります。アメリカでは、「私の人生に最も影響を与えた本」でベスト10入りした唯一の精神医学関係の書となっています。日本でも、重いテーマにもかかわらず、これまでに累計100万部が発行されました。2002年には新訳本も刊行され、その人気は衰えていません。

「夜と霧」が時代を超えて人を引きつけるのは、単なる強制収容所の告発ではなく、“人生とは何か”を問う内容だからです。そこで今回の番組では「夜と霧」を“人生論”として改めて読みとくことにしました。

戦後、フランクルは「人生はどんな状況でも意味がある」と説き、生きがいを見つけられずに悩む人たちにメッセージを発し続けました。彼が残した言葉は、先が見えない不安の中に生きる今の私たちにとって、良き指針となるはずです。

収容所という絶望的な環境の中で希望を失わなかった人たちの姿から、人間の“生きる意味”とは何なのかを探ります。そして苦境に陥った時の“希望”の持ち方について考えていきます。

第1回 絶望の中で見つけた希望

【ゲスト講師】

諸富祥彦(明治大学文学部教授)

収容所では様々な「選抜」が行われた。ガス室に送られるか、あるいはどの収容所に移されるかは、ちょっとした偶然で決まった。先が見えない中、収容所ではクリスマスに解放されるとのうわさが広まった。しかしそれが裏切られると、急に力つきてしまう人が多かった。自暴自棄になり、食料と交換できる貴重な煙草に吸いつくしてしまう者もいた。過酷な環境の中で、フランクルは考える。心の支え、つまり生きる目的を持つことが、生き残る唯一の道であると―。フランクルは、収容所での出来事を通して、「生きる意味」を学び取ろうと決め、人間の心理について冷静な分析を行う。そしてついに解放され、奇跡的な生還を果たす。

第2回 どんな人生にも意味がある

諸富祥彦(明治大学文学部教授)

私たちは、自由で自己実現が約束されている環境こそが幸せだと思っている。しかし災害や病気などに見舞われた時、その希望は潰える。収容所はその最悪のケースだ。しかしそれでも、幸せはまだ近くにあるのではないかとフランクルは考えた。人間は欲望だけではなく、家族愛や仕事への献身など、様々な使命感を持って生きている。どんな状況でも、今を大事にして自分の本分を尽くし、人の役にたつこと。そこに生きがいを見いだすことが大事なのではないかとフランクルは考えた。そして医師としてチフス患者の病棟で働きながら、仲間たちに希望の持ち方を語った。

名著、げすとこらむ。 ◯「夜と霧」ゲスト講師 諸富祥彦「生きる意味」を求めて

今、大きな悩みや苦しみを抱えている人がたくさんおられます。心理カウンセラーである私は日々そのような方に接していますが、その苦しみはますます切実さを増してきているように思われます。

うつ病の患者さんは今や百万人超といわれています。とりわけ深刻なのは、自殺者の増加です。国の調べによると、すでに十年以上前から三万人を超えています。

一般に、自殺者の背後には未遂の方が十倍から二十倍いるといわれますので、じつに三十万人から六十万人の方々が、毎年死の淵に立っていることになります。

そこまでいかなくても、何かの拍子にふと「死にたい」という気持ちに襲われたことがある方は、その十倍、すなわち三百万人くらいいるのではないでしょうか。

この背景には、現代社会におけるさまざまな問題が横たわっていますが、自分の人生に「生きる意味」を感じながら生きていくことが難しい時代になってきていることは、間違いありません。

そんな状況ですから、今回、「生きる意味」を求めて悩み苦しむ人を援助し続けてきた精神科医ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』を「100 分 de 名著」で取り上げることになったのは、たいへん意味のあることだと思っています。

『夜と霧』は、第二次世界大戦の際、ナチスの強制収容所に収容されたフランクルが、みずから味わった過酷な経験をつづった本です。

みなさんもご存じのように、ナチスのユダヤ人迫害は非道をきわめました。ゆえに、この本も、目を覆いたくなるような陰惨なドキュメンタリーになってもおかしくありませんでした。しかし、そうはならず、むしろ、世界中の人々の感動を呼び、時代を超えて読み継がれる超ロングセラーになったのです。

なぜでしょうか? それは、この本が、そこで行われ続けた陰惨な事実にもかかわらず、それでもなお見出すことのできた人間精神の崇高さに着目して描かれたものであるからだと思います。

『夜と霧』の著者である精神科医というと、いつもうつむき加減にもの思いにふけっている深遠な思想家を思い浮かべる方が少なくないかもしれません。フランクルは、そうした深遠さを持ちながらも、情熱的で、行動的で、バイタリティにあふれた人でした。

過酷な経験をくぐりぬけたフランクルは、戦後、堰を切ったように精力的に著作の執筆や講演活動などを展開します。その活動は、まさに生命力にあふれたものでした。

フランクルの本は読むだけで勇気づけられるところがあります。多くの精神科医の書いた本は専門家向けのものですが、フランクルの本は、読者がみずから生きる意味を見出していくのを支える力を持っています。

以前、私はNHKの「ラジオ深夜便」という番組でフランクルの思想を紹介したことがあります。

その数日後、NHKに一枚の葉書が届きました。

「私は今、五十代半ばのホームレスです。仕事を失い、家族も失って、もう人生を投げ出してしまおうと思っていました。死のうと思っていたのです……。そんな時、たまたまつけたラジオで、先生の、フランクルのお話をうかがいました……。もう少し、生きてみようと思います。ありがとうございます……」

そんな内容でした。

フランクルの思想はそれにふれた人の魂を揺さぶる力を持っています。

かくいう私自身、十代半ばから二十代前半にかけて人生の悩みに煩わされ、悶々としていた時に、フランクルの本に救われたことがあります。

フランクルの思想は、人生に対する見方(立脚点)を一八〇度転回することを私たちに求めてきます。

たとえば、「人間が人生を問うに先立って、人生から人間は問われている」「幸福を求めると、幸福は逃げていく」「悩むことは人間特有の能力である」といったように、です。

フランクルを読むうちに、私たちは、「私の幸せはどうすれば手に入るのか」「私の自己実現はどうすれば可能なのか」という「私中心の人生観」を、「私は何のために生まれてきたのか」「私の人生にはどのような意味と使命(ミッション)が与えられているのか」という「生きる意味と使命中心の人生観」へと生きる構えを一八〇度転回することが求められるのです。

フランクルの思想のエッセンスは次のようなストレートなメッセージにあります。

どんな時も、人生には意味がある。

あなたを待っている〝誰か〟がいて、あなたを待っている〝何か〟がある。

そしてその〝何か〟や〝誰か〟のためにあなたにもできることがある。

このストレートな強いメッセージが多くの人の魂をふるわせ、鼓舞し続けてきたのです。

フランクルが『夜と霧』を書いた頃のヨーロッパと今の日本とでは、考え方が異なるところも少なくないでしょう。時代もずいぶん変わりました。私たちは今、強制収容所のような特殊な環境にいるわけでもありません。

しかし『夜と霧』は、そうした時代の違いを超えて私たちの心に響く真理に満ちています。否、私たちが生きているこの時代は、収容所とはもちろん違った形ではあるけれども、生きる意味と希望を見出すのが困難になっているという意味では、現代を生きる私たちも「見えない収容所」の中にとらえられて生きている、と言っていいような面がないわけでもありません。

フランクルの言葉の中に、一つでも、生きる意味と希望を求めていく手がかりを見つけてくだされば幸いです。

第3回 運命と向き合って生きる

【ゲスト講師】

諸富祥彦(明治大学文学部教授)

収容所では、極限状態でも人間性を失わなかった者がいた。囚人たちは、時には演芸会を催して音楽を楽しみ、美しい夕焼けに心を奪われた。フランクルは、そうした姿を見て、人間には「創造する喜び」と「美や真理、愛などを体験する喜び」があると考えるようになる。しかし過酷な運命に打ちのめされていては、こうした喜びを感じとることはできない。運命に毅然とした態度をとり、どんな状況でも一瞬一瞬を大切にすること。それが生きがいを見いだす力になるとフランクルは考える。幸福を感じ取る力を持てるかどうかは、運命への向き合い方で決まるのだ。

<「夜と霧」(旧版)霜山徳爾訳 みすず書房 より抜粋>

スープの桶がバラックに持ち込まれた。(中略)私の冷たい両手は熱いスプーンにからみついた。私はがつがつと中味を呑みこみながら偶然窓から外を覗いた。外ではたった今ひき出された屍体が、すわった眼を見開いてじっと窓から中を覗き込んでいた。二時間前、私はこの仲間とまだ話をしていた。

ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。

各個人がもっている、他人によってとりかえられ得ないという性質、かけがえないということは、——意識されれば——人間が彼の生活や生き続けることにおいて担っている責任の大きさを明らかにするものなのである。

愛する人間が生きているかどうか——ということを私は今や全く知る必要がなかった。そのことは私の愛、私の愛の想い、精神的な像を愛しつつみつめることを一向に妨げなかった。もし私が当時、私の妻がすでに死んでいることを知っていたとしても、私はそれにかまわず今と全く同様に、この愛する直視に心から身を捧げ得たであろう。

苦悩の意味が明らかになった以上、われわれは収容所生活における多くの苦悩を単に「抑圧」したり、あるいは安易な、または不自然なオプティミズムでごまかしたりすることで柔らげるのを拒否するのである。われわれにとって苦悩も一つの課題となったのであり、その意味性に対してわれわれはもはや目を閉じようとは思わないのである。

第4回 苦悩の先にこそ光がある

【特別ゲスト】

姜尚中(東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授)

フランクルは、生きる意味は自ら発見するものであり、苦しみは真実への案内役だと説いた。最終回では、フランクルの言葉に支えられながら生きてきたという、東京大学教授の姜尚中さんをスペシャルゲストとして招く。姜さんは「与えられた運命を引き受け、それをバネにすることで成長が生まれる」と語る。第4回では、シリーズの集大成として、先行きの見えない不安が広がっている今、わたしたちは生きる希望をどのようにして見いだすべきか、フランクルの思想から共に語りあう。

こぼれ話。

「夜と霧」こぼれ話

「夜と霧」が日本で出版されたのは、第二次大戦からまだ11年しかたっていない1956年のことです。ナチスの強制収容所ついて、まだあまり知られていなかった当時、この本の日本語版を出そうとした人たちの慧眼には驚かされます。その後、知る人ぞ知る名著として読みつがれてきたわけですが、精神科医であった著者・フランクルが提唱した「ロゴセラピー」(人が自らの生きる意味を見出すことを助けることで、心の病を癒す心理療法)については、専門家でもない限り、ほとんど知られていませんでした。そこで今回のシリーズでは、「ロゴセラピー」の考えをふまえながら、「夜と霧」を読みとくという視点で番組を作ることにしました。今「生きる意味」を問うことは、閉塞感が漂う震災後の日本にとって大切だと思ったからです。このコンセプトを決めた後、制作協力をお願いしているテレコムスタッフのディレクターにさらに取材してもらったところ、「夜と霧」が被災地でよく売れているという事実が分かりました。そこで今回は、仙台と岩手でのロケも織りこみながら、構成を立てることにしました。「100分 de 名著」では、常に新しい切り口で解釈することを目指しています。これからも独自の取材を交えながら、今読むべき名著を紹介していきたいと思っています。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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