シーボルト「日本」

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私の手元には、ある方から頂いたシーボルトの著書「日本」(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト著 中井晶夫訳)の写しがあります。

 シーボルトは、長崎郊外に鳴滝塾を開き、若い門人を集め、西洋医学や自然科学について教える傍ら、じつは、門人たちから日本国内の情報を集めていました。

 そんなシーボルトのもとに当時知識人の間で話題になっていた義経チンギスハン伝説が届きます。

 彼の著書「日本」の一節からです。

 「憶測をたくましくしようとは思わない。 

 ただ義経が蝦夷に脱出したことを証明しようとし、またこの日本の英雄が蒙古の戦場に出現したということにいくらかでも推測を加えることで、今世紀豊富な資料が開拓されたこの記憶に値する世界的事件に、歴史家の注目を集めたいのである。」

 れっきとした科学者であるシーボルトをして、ここまで言わしめたものは一体何であったのでしょう。

 その理由の一つとして推測されるのが、シーボルトと親交のあったことで知られる間宮林蔵の樺太探検です。

 文化五年(一八〇八年)、幕府の命により松田伝十郎に従い、樺太の探索に向かった間宮林蔵は、樺太が島であることを確認します。

 そして、鎖国破りが死罪になることを知りながら、海峡を渡って黒龍江(アムール川)の下流を調査しています。

 間宮が得た情報は、おそらくはシーボルトにも伝えられたのでしょう。

 なぜなら、シーボルトは後に作成した日本地図において、樺太・大陸間の海峡最狭部を間宮海峡と名付けているからです。

 間宮林蔵の樺太探検の目的の一つは、じつは義経伝説の真偽の解明もあったといわれています。であれば、国禁を犯してまで大陸に渡った理由が見えてくるように思えるのです。

 それはともかくとして、間宮は、アムール川流域で義経に関する何らかの足跡を発見し、それがシーボルトに伝えられた可能性は十分にあるでしょう。

 この熱気は、その後、明治時代にも受け継がれていくことになります。

 アメリカ合衆国で学んで牧師となり、北海道に移住してアイヌ問題の解決を目指す運動に取り組んでいた小谷部全一郎氏(1868年~1941年)は、アイヌの人々が信仰するオキクルミ(アイヌ伝承に登場する国土創造の神)が実は源義経ではないかという話を聞き、義経北行説に興味をもちます。

 その後、満州・モンゴルに旧日本軍の通訳官として赴任する機会を得て、「成吉思汗=義経」の痕跡を調べるべく、満蒙を精力的に取材しました。

 1920年帰国し、勲六等旭日章を授与されていますが、彼はこの調査によって、義経が平泉で自害せず、北海道、樺太にわたり、さらにモンゴルに渡ってチンギスハンとなったことを確信していくのです。

 著書「成吉思汗は義経なり」はベストセラーとなり、各方面に多大な影響を与えました。

 ハバロフスクの博物館にはこの地方から発掘されたという日本式の古い甲冑の一部や笹竜胆と木瓜の紋章のある朱塗の経机があり、ハバロフスクには義経を祀った神社があったと言います。

 小谷部氏は、これらを実際に見た人物として、新潟県岩船郡出身の栗山彦三郎氏を挙げています。

 内藤家舊(旧)藩士であった栗山氏は、日清戦役の前年、部下を率いて沿海州に入り、ハバロフスク地方を探検しています。

 当時、土地の人が崇拝する日本式の神社があり、これを「源義経(キヤンウチョ)」の廟と称していたと言います。

 栗山氏は部下と倶に人のいない機会を窺い廟内に忍び入り、ご神体を検すると笹竜胆の紋のある日本式の甲冑を着けた武者の人形であったというのです。

 また、ウスリースク(写真)に、在留邦人が義経公の碑と称する古碑があり、現地邦人医師によると、摩滅した碑面に幽かに笹龍胆と義の文字が読めたといいます。

 しかし、大亀の形の巨大な臺石のみ残り、その上に建てられていた石碑はロシア人がハバロフスクの博物館に持ち去ってしまいました。

 大正7~8年にかけ、小谷部氏が属する守備隊がこの公園の正面に屯営しています。

 この臺石を確認した小谷部氏は、その上に載せられていたという石碑を確認するため、ハバロフスクに赴こうとしました。

 しかし、当時同地は過激派に占領されていたため、官憲が行くことを許しませんでした。

 そのため、帰国に際し、友人であり当時ウラジオストク派遣軍司令部の弘報部(原文ママ)主任であった中岡中佐に、この石碑の調査を依嘱しています。

 後日、同中佐より以下の報告が送られてきたといいます。

 「ハバロフスク博物館に在る所謂義經の碑と稱するものは白色を帯びたる花崗岩の一種なり。

 右石碑の表面には厚くセメントの漆喰を塗り何物か彫刻しあるものを隠蔽せり。」

 地元の人によれば、日本軍がハバロフスク撤退後に過激派が行ったことであり、博物館長は、この漆喰が何れの時に塗られたのか覚えていないと答えたといいます。

 中佐の友人は、碑面の漆喰を打ち壊して碑文をみようとしましたが、巡警がきて制止されてしまいました。

 小谷部氏は、この行為について

「露國人が殊更に此の古碑を漆喰にて塗り碑文を隠蔽せしは自國に不利なる記事あるが故なるべし」

と非難しています。

 このような出来事を通じ、小谷部氏は大陸における義経の活動を確信していくのです。

(追記 : たいへん驚いたことに、中岡中佐の子孫にあたられる足立百恵さまから、書き込みをいただきました。)

 歴史上、チンギスハンは、モンゴル高原中央からではなく、なぜか沿海を動き、女真族、高麗を相手にした戦闘を開始していくのです。

 母国からは遠く離れており、兵站路を全く無視した動きと言えます。

 その後モンゴル高原に至り、夜襲、朝駆けはもちろん数々の奇襲戦法を用い、タタール、ケレイト、ナイマンといった難敵を攻略していくのです。この辺りは誰かとそっくりです。

 そして、捕虜として捉えたタタトゥンガとともに、ウイグル語をもとに、ほぼ日本の五十音図そのままのモンゴル表記文字を制定し、文字のなかったモンゴルに広めるのです。

 驚いたことに、ウイグル語に新たに加えられた三つのモンゴル文字はひらがなによく似ているのです。

 長くなるので、まだまだ書きたいことはあるのですが、締めに入ります。

 しづやしづ しずのおだまきくりかえし

 むかしをいまに

 なすよしもがな

 静御前が鎌倉へ連れてこられ、決死の覚悟で頼朝の前で舞った時のうたです。

 しずやしずと呼んで愛しんでくれた義経への変わらぬ恋心を歌い上げた切ない詩ですが、頼朝を激怒させたといいます。

 作家の高木彬光氏は、成吉思汗は、なすよしもがな、と読めることを作品にて紹介しています。

 さらに、人気推理作家らしく、成吉思汗を

 "吉"野で別れた時に交わした「また会おう」という約束を"成"す、

 今でも水干("汗"はこのように分解できる、水干は白拍子たちが身にまとった平安装束であり、静御前の象徴)のことを"思"う、

 と読み解いています。これはたまたまの偶然なのでしょうか。

長い文章にお付き合いいただきありがとうございました。

 ついでながら、次週のZOOM講演です。よろしくお願い致します。

https://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken/hakken1903/index.html 【シーボルト「日本」を読んでみた】より

『日本』の扉絵

平戸,出島,長崎,山伏,日本,人物図,

そのぎ,おたきさん,箱根,大村図@和書名「シーボルト 日本」

 ナガジンの「読んでみた」のシリーズ第1弾はフロイスの『日本史』全12巻、続く第2弾はケンペルの『日本誌』全7巻でした。どちらも物凄いページ数で、全部読むのは困難なため、長崎に関連するところに絞り混んで、特集しました。第三弾はシーボルトの『日本』ですが、これまた大ボリュームですので、今回もまた長崎と関わりのあるところを抜き出ししてご紹介します。

<『日本』の翻訳版>

 シーボルトが『日本』を出版したのは、オランダに帰ってから7年後の1832年。ここから19年間、20に分冊して自費出版しましたが1851年に出版を中断。作品は未完に終わりましたが、シーボルトの死後も未刊の草稿が追加され、3度に渡って『日本』は出版されました。今回の「読んでみた」では、1975年に日蘭学会が監修して講談社から出版されものをベースに、中井晶夫氏の訳で雄松堂書店から発行された『日本』(全6巻)を使用したいと思います。各巻の構成は以下のようになります。

(略)

 目次から判断すると、第1巻の「日本への旅」は、バタビアから長崎へ向かう航海記。第2~3巻の「江戸参府紀行」は長崎から江戸への旅行記と推測できます。今回はこの2編を中心に読んでいきたいと思いますが、その前に、第6巻の「シーボルト伝」を参考にして、シーボルトの生い立ちを確認しておきましょう。

<ヴュルツブルクのシーボルト>

シーボルトの父親ゲオルグと母親のアポローニア

資料名 「シーボルト夫妻の肖像画の写真」

 シーボルトが誕生したのは、ドイツの中央に位置するヴュルツブルク。フランクフルトとニュルンベルクの中間にある、現在の人口が13万人の学園都市です。医学・外科学教授だった父ヨハン・ゲオルク・クリストフ・フォン・シーボルトと、母アポローニア・ロッツの間に生まれました。1796年2月17日のことです。シーボルトが1歳の時、父ゲオルクが31歳の若さで亡くなりました。母方の叔父で教会の司祭だったロッツに支援を受けるため、川向こうの隣町ハイディングスフェルトに引っ越したのはシーボルトが9歳の時。その後、高等学校を優秀な成績で卒業してヴュルツブルク大学に入学。父親と同じ道である医学部に進学しました。

 一般にシーボルトは医学者として有名ですが、他にも「地理学」「植物学」「動物学」「言語学」「民俗学」などの学識も深く、歴史書ではよく「万有学者」と称されます。シーボルトの特徴であるこの「広範囲な知識欲」が育まれたのは、どうやら大学時代だったようです。シーボルトが当時暮らしていたのは、父親の友人で解剖学教授だったデリンガー宅でした。弟子として住み込み、動植物の観察法や解剖について教授に直接学んだほか、教授宅に集っていた生物学者、植物学者、考古学者、生物学者、薬学学者、生理学者たちと触れ合うことで、学問の幅を広げることができたのです。

 理想的な環境で学問に励んでいたシーボルトですが、ただ真面目な「勉学の虫」だったわけではなく「やんちゃ」なところもありました。シーボルトは「決闘」の常習者だったのです。大学生活の中で33回も決闘を行い、顔にはその時の切り傷が残っていたといいます。

<バタビアのシーボルト>

 1820年、優秀な成績で医学博士の学位を取って大学を卒業したシーボルトは、以前暮らしていたハイディングスフェルトで自身の医院を開業しました。ところが、2年も経たずに廃業してしまいます。どうも「町の開業医」というポジションに満足していなかったようです。新しい職場を見つけてきたのは、亡き父の弟ヨハネスです。旧友で、兄ゲオルクの弟子でもあるオランダ国王の侍医ハールバウエルにヨハネスが相談したところ、「オランダ領東インド陸軍の外科医に」という話が来たのです。ただし勤務地はバタビア(現在のジャカルタ)。ヴュルツブルク周辺から出たことがない人間が、いきなりアジアの植民地に行けと言われたら普通は躊躇するところですが、シーボルトは二つ返事でOKしました。このバタビア行きの決意を、恩師に報告した手紙が今でも残っています。

 「成人の域に成長した博物学研究の特別な愛好心、この偏愛こそ小生を他の大陸に遠征させる決心をさせたものでした」

 医学的な使命感というよりは、大好きな博物学研究のためにバタビア行きを決心したようです。1822年の6月にヴュルツブルクを出発して、翌年の2月13日にバタビアに到着。27歳の誕生日4日前のことでした。祖国から遠く離れたこの熱帯の地で、シーボルトは砲兵連隊の軍医として配属。すぐにでも動植物の研究を始めたかったのですが、いきなり風土病にかかってしまいました。全治するまで1カ月間、シーボルトのことを何かと気遣った人物がいました。オランダ領東インド政庁の総督ファン・デル・カペレンです。カペレンは、シーボルトの優れた能力に注目していました。それは「医学」だけでなく「自然科学」の知識も豊富だったこと。東インド政庁が今一番必要としていた人材でした。オランダは日本と180年に渡って独占的に交易をしていましたが、以前ほどの利益が上がらなくなっていました。なんとか日本との通商関係を改善しなくてはなりません。そこで考えたのが、知識欲の強い日本人に西洋の進んだ医学や自然科学の知識と技術を提供することで、オランダへの信頼度を上げ、通商条件を有利な方向に持っていこうという作戦です。同時に、日本の地理や動植物などの学術調査も行い、日本への理解を高める意図もありました。深く知ることで新たな貿易品を開発できるかもしれません。出港までの約4カ月間、シーボルトは日本に関するあらゆる情報を集め、来たる学術調査に備えました。

<シーボルト 長崎へ>

『日本』に掲載されている長崎港と出島の図

平戸,出島,長崎,山伏,日本,人物図,

そのぎ,おたきさん,箱根,大村図@和書名「シーボルト 日本」

 『日本』の1巻には「日本への旅」と題して、1823年の6月28日にバタビアを出港後、バンカ島を経由して8月12日に長崎に上陸するまでの45日間の航海記が記されていました。さっそく読んでみましょう。

 7月12日、熱帯の海で凪のために船が進まないという苦しい状況下で、なぜかシーボルトは生き生きとしています。海上に「海蛇」を発見したからです。網とバケツで60センチクラスの海蛇を3匹も捕まえました。19日、船の周りを飛んでいた3メートル級のアホウドリを撃ち落として胃を開き、どのような餌を食べているのかを調べました。28日には、陸地から20キロも離れた海上を飛ぶ蝶を観察。自然科学研究三昧の毎日です。そんな生き物好きのシーボルトですが、ウンザリするほど嫌いな生物もいました。時より寝室に出現するムカデやサソリです。中でも、船内に何千といるゴキブリには悩まされていました。シーボルトは、この害虫を少しでも駆除するための方法を記しています。半分のところまで水を入れた陶器のふちに、砂糖を溶かした赤ワインを塗りつけるというもので、甘いワインの香りでゴキブリをおびき寄せて水に落とす、シーボルト式「ゴキブリホイホイ」です。

 8月5日の夜明け、琉球諸島から米や砂糖を持ち帰る途中で嵐に遭い、何日も漂流していた薩摩藩の輸送船を救助しました。シーボルトは初めて出会う日本人に興味津々で、彼らの立ち振る舞いを細かく観察、記録しました。しかし、その日の午後、今度はシーボルトの乗った船が嵐に遭います。強烈な風が吹き、海は荒れ狂って船は上下に激しく浮き沈みました。イスや机と一緒に転げ回るという壮絶な状況の中で、シーボルトはなんとか寝室までたどり着き、できる限りの力で自身をベッドに縛り付け天に身を任せます。嵐は翌日まで続きましたが、幸いなことに船は危機を乗り越え、8月9日に長崎港に碇を下ろすことができたのです。オランダ船に監査のため日本の役人たちが乗り込んできました。ここでシーボルトはまたもや危機に陥ります。監査役役人に同行しているオランダ通詞(通訳)のオランダ語がシーボルトよりも上手かったのです。出島にはオランダ人以外は上陸できないルールになっており、数年前にオランダ語がうまく話せなかったベルギー人が強制送還になっていました。シーボルトが話すオランダ語を不審に感じた通詞の尋問に対し、シーボルトは、自分は「ヤマホランダ」つまり高地のオランダ人ゆえに訛りがあるのだ、といってこのピンチを切り抜けました。

<チーム・シーボルトの結成>

川原慶賀が原画を描いた江戸参府行列の図

平戸,出島,長崎,山伏,日本,人物図,

そのぎ,おたきさん,箱根,大村図@和書名「シーボルト 日本」

 オランダ商館の重要な仕事の一つに「江戸参府」があります。独占貿易の感謝を伝えるため、商館長自ら献上品を持って江戸まで赴き、将軍に拝謁するというものです。貿易が盛んだった時代は毎年行われており、1690年から2年滞在したケンペルは、2回江戸参府に参加することができました。ところが、貿易量が半分に落ち込んだ1790年以降は4年に1回になり、シーボルトは6年間滞在したにも関わらず江戸参府参加は1度だけでした。「日本の調査」というミッションを持ったシーボルトにとって、日本縦断の旅は最大のチャンス。「江戸参府紀行」の序文で「国土とその産物について得た知識ならびに国民の文化程度。商工業・国家や国民の社会慣行などについての私の見聞を、あらゆる方面にわたって広げることがいまや来るべき江戸旅行の主目的であった」と書いています。この旅で最大限の成果をあげられるよう、2年かけて入念な準備をしました。調査は1人で行うよりも複数のほうが効率的です。そこでシーボルトは調査団を作ることにしました。江戸参府に参加できるオランダ人は商館長、書記、医者の3名だけです。ただしオランダ人が自分で費用を負担すれば、複数の従僕を連れていくことが許されていました。そこでシーボルトは、専門性の高い能力を持った8名を雇い入れ「チーム・シーボルト」を結成したのです。

<チーム・シーボルト メンバー紹介>

川原慶賀が原画を描いた最上徳内の図

平戸,出島,長崎,山伏,日本,人物図,

そのぎ,おたきさん,箱根,大村図@和書名「シーボルト 日本」

「ビュルガー」

 ビュルガーは1825年に、シーボルトの日本調査を手助けするために派遣された人物で、江戸参府には「書記」として参加しました。この旅でビュルガーは、シーボルトの右腕として大活躍、旅行記には幾度となく名前が出てきます。

「鉱物類はいっさいビュルガー博士に渡し、いっそう精密な調査を頼んだ」

『シーボルト「日本」第三集』38頁

「私はこの道を植物学上の目的で歩き回ったが、一方ビュルガー氏は地質学的調査に没頭した」

『シーボルト「日本」第三集』50頁

上記の記述から、ビュルガーは主に地質学の分野を担当していたことがわかります。

「川原慶賀」

 写真が発明される以前は、記録として残しておきたい物は絵に描くしかなく、画家を連れていく必要がありました。本国から呼び寄せたオランダ人の画家がいましたが、江戸参府には行けるオランダ人が三人と決まっていたために、シーボルトが日本に来る以前からオランダ商館専属の絵師として出島に出入りしていた川原慶賀に白羽の矢が立ちました。

「夕方、日本人の画家登与助が竹崎からもどってきた。私は下関の西の地区の景色を写すために、彼をそこへ行かせたのであった」

『シーボルト「日本」第二集』321頁

「登与助」というのは慶賀の通称です。この江戸参府では、シーボルトの「カメラ」となって大いに描きまくりました。

「高 良斎」

 阿波出身の医師で、シーボルトが信頼する門人の一人。オランダ語がスラスラで、植物学と漢学に長けていることからメンバーに選ばれました。良斎のほかにも医学の門人「二宮敬作」、「ショウゲン」「ケイタロウ」らも同行しました。いく先いく先、シーボルトに治療してほしい病人が詰め掛けており、彼らがシーボルトの助手をつとめたものと思われます。

「私の門人や従者は、地衣やコケの類を集めるために非常に急な斜面をよじ登り、何度も足をしっかり踏みしめて、インドの大トカゲのように険しい岩にしがみついていた」

『シーボルト「日本」第二集』252頁

「弁之助」「熊吉」という作業担当のメンバーがいました。捕えた動物を剥製(はくせい)にしたり、採取した植物を乾燥させて標本にしたりするのが彼らの仕事。こういった技術は出島にいるときに仕込んでおきました。「庭師」も一人同行、植物の採取などを担当したと思われます。猟師も連れて行きたかったのですが、旅行中の狩猟は禁じられていたため諦めました。

「外部スタッフ」

 長崎でシーボルトの指導を受けた門人たちのうち、すでに地元に戻っていた者たちは、シーボルトが滞在している宿まで訪ねてきました。地元の産物を集めてくる者もいれば、学位論文を提出する者もいます。また他にも、手紙のやり取りで知り合った者や、現地で会い、そのまま門人になった者など多数の「外部スタッフ」がいました。主な人物としては「山口行斎」「水谷助六」「伊藤圭介」「大河内存内」「湊長安」「最上徳内」が挙げられます。

<チームプレイ>

川原慶賀が原画を描いた琵琶湖の景色

「武具,合戦図,武家,風俗,東海道,下関@和書名「シーボルト 日本」」

の中の「東海道・琵琶湖の景」

 

 2月25日のミッションは下関「壇ノ浦」の海峡の測量。役人には「博物採取」に行くといって出てきました。この日のメンバーはシーボルト、ビュルガー、川原慶賀、高良斎と外部スタッフの山口行斎、伊藤杢之允です。海峡の景色を慶賀にスケッチさせている間に、他のメンバーがコンパスで測量しました。役人に怪しまれないための用心でしょうか、測量機具はあらかじめ送っておいて、村はずれの猟師小屋で受け取りました。現地に詳しい伊藤の説明を聞いて海峡の幅や潮流を記録するという見事なチームワークを発揮しました。

 

 3月8日のミッションは兵庫県の港「室津」の調査。シーボルトは午前中に経度緯度の観測を行ない、その後は来客と病人の診断に忙殺されましたが、その間、慶賀は港とその周辺をスケッチし、門人たちは珍しい魚や鳥を探索に行きました。午後にはシーボルトも現場に向かい、港の地形を詳しく観察しました。この港にヨーロッパの海軍が攻め込んだ場合「港口に日本船を沈めて出口をふさぐことができる」などと軍事的なシミュレーションも行なっています。

<私の小さな研究室>

 

 シーボルトは「駕籠(かご)」のことを「宙に浮かんでいる私の小さな研究室」と称しました。旅の多くの時間を駕籠の中で過ごしますが、研究魔のシーボルトですから、この時間を無駄に過ごすことはしません。とは言っても駕籠は人が担いで歩くのですから、揺れて研究どころではないのではないでしょうか。この疑問に対してシーボルトは「駕籠の担い手による」と答えています。不器用な百姓が担い手だった九州の街道では、まるで荒い駄馬に乗っているような揺れで、陸にいながら「船酔心地」だったそうです。ところが京都-江戸間の担い手は熟練していて揺れが少なく、本を読むことも文字を書くことも、眠ることだってできたと言います。

 

 シーボルトは、駕籠にある物を積んでいました。経度を測る「クロノメーター」、緯度を測る「六分儀」などの測定機具です。さらに重たい研究書も持ち込んでいたので駕籠の担ぎ手が「腹を立てた」そうですが、シーボルト本人は「楽だったはず」と言っています。というのは、シーボルトが駕籠に乗らないことが多かったからです。景色を見ながら門人たちと歩くのが好きだったこともありますし、緯度軽度を測定するにも都合が良かったのです。軍事機密上、このような測定が許されるわけがないのですが、日本人にこうした機具の知識がないことをいいことに、まんまと観測していたのです。次のような記述があります。

「ビュルガー氏と私は、妨害を受けずに観測できるように、行列の先を急いで進んだ。しかし我々が六分儀をとりだすと、すぐさま数人の警護の役人が近づいてきて、我々の意図を訊ねた」

『シーボルト「日本」第二集』242頁

 この時は「天文学の機械を使って正午ごとに時計を合わせているのだ」といってピンチを脱しました。

<『日本』を読んでみよう>

シーボルト

資料名「〔シーボルト関係写真〕20」

 2月15日に長崎を出発してから143日目、7月7日にシーボルト一行は長崎に帰り着きました。旅行記には「使節がたいそう憧れていた出島のわが牢獄に帰り着いたのである」と記されています。使節とは商館長のスチュルレルのことですが、自由がない牢獄のような場所なのに「使節がたいそう憧れていた出島」というのはどういうことでしょうか。この言葉には、シーボルトのスチュルレルに対する皮肉が込められています。本来スチュルレルは、チーム・シーボルトの要になるべき人物です。使節団の代表として、シーボルトが存分に学術調査できるような環境を作るのが彼の役目のはずなのですが、実際はその逆でした。シーボルトは次のようにボヤいています。

「私は悲しい気持ちでそのことを告白せざるをえないが、この人はジャワにおいては私の使命に対してたいへん同情をよせ、非常な熱の入れ方で援助を惜しまなかったのに、今この日本に来てしまってからは、私の企画に関連していたすべてのことに対して、ただ無関心であったり冷淡であったばかりでなく、無遠慮にも妨害を続けて頓挫させ、困難におとしいれようとさえしたのである」

『シーボルト「日本」第二集』171頁

 旅の途中、我慢の限界に達したシーボルトはなんとスチュルレルに決闘を申し込みました。この行動からも分かる通り、シーボルトはとても情熱的な人です。富士山の美しさに感動したり、駕籠で居眠りしてしまい、興味があるものを見損なったと悔しがったり、オランダかぶれの日本人を見て面白がり「これは独創的な喜劇だ」とスチュルレルに耳打ちしたり、なんとも人間味あふれる好人物なのです。未知の国に来て、見るもの聞くものが珍しくて知識欲が爆発しているシーボルトに、読んでいるこちらまでワクワクしてきます。『日本』を読む前と後では、シーボルトの印象がまるで変わること間違いなし。シーボルト『日本』、ぜひ一度手にとってみてはいかがでしょうか。

『シーボルト「日本」第一集』訳者 中井晶夫(雄松堂書店/1977)

『シーボルト「日本」第二集』訳者 中井晶夫(雄松堂書店/1978)

『シーボルト「日本」第三集』訳者 中井晶夫(雄松堂書店/1978)

『シーボルト「日本」第六集』訳者 中井晶夫(雄松堂書店/1979)

『シーボルトのみたニッポン』(シーボルト記念館/1994)

『花の男 シーボルト』大場秀章(文藝春秋/2001)

『シーボルトと町絵師慶賀』兼重 護(長崎新聞新書/2003)

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