長谷川 櫂さんが読む『おくのほそ道』

https://mag.nhk-book.co.jp/article/32794 【大震災後に歩む、松尾芭蕉の「みちのく」 長谷川 櫂さんが読む『おくのほそ道』(1)【月曜日は名著ブックス】】より

誰もが知る『おくのほそ道』は、単なる紀行文ではありません。5か月わたる旅を終えた後、芭蕉(ばしょう)はその生涯を閉じるまでの5年間、推敲を重ね続けました。旅の全体像が周到に再構成された結果、虚実が相半ばする世界的な文学作品が生まれたのです。

累計70万部突破の人気シリーズ「NHK100分de名著ブックス」の『おくのほそ道』読み解きでは、東日本大震災の被災地とも重なる旅の道行きをたどりながら、その思考の痕跡を探ります。

今回は長谷川 櫂さんによる読み解きから、『おくのほそ道』へのイントロダクションを紹介します。(第1回/全5回)

『おくのほそ道』への旅

 二〇一一年春、東日本大震災が起こり、東北地方の太平洋岸一帯を大地震と大津波が襲いました。時をさかのぼると、今から三百年前の夏、この被災地に沿って松尾芭蕉は曾良(そら)と二人、旅をしました。それが『おくのほそ道』です。

『おくのほそ道』は芭蕉がみちのくを旅した紀行文であると考えられています。紀行文とはいつどこを旅し、何をしたかを記した旅の記録、旅行記のことです。しかしながら、この本は厳密な意味での旅行記ではありません。

 というのは、『おくのほそ道』は周到に構成され、文章を練って書かれた文学であるからです。芭蕉がこの旅をしたのは元禄二年(一六八九年)、四十六歳のときですが、五年後、五十一歳で死ぬまで筆を入れつづけました。なぜかというと、芭蕉はこの本を単なる旅の記録としてではなく、確固とした文学として書こうとしたからです。

 たしかに旅の行程はじっさい芭蕉と曾良が旅をした道順にそっています。しかし、旅の細部は芭蕉の手で随所に取捨が加えられ旅の全体は大胆に再構成されています。さらに越後の市振(いちぶり)での遊女との出会いのように芭蕉が創作した話も加えられています。

 その結果、『おくのほそ道』は実と虚の入り交じった物語になりました。しかしながら、すぐれた文学作品がみなそうであるように、『おくのほそ道』も虚実相半ばすることによって、芭蕉の宇宙観や人生観を反映した世界的な文学作品になりました。もし単なる旅行記だったならば、この本がその後、得たような評価を得ることはなかったでしょう。

 読者はここに書かれていることが芭蕉と曾良の二人がじっさい旅で体験したことだろうと思って読んでゆくわけですが、必ずしもそうではない。ほんとうにあったことだろうと思っていると、いつのまにか芭蕉の夢想の世界で遊んでいることになる。つまり、みごとにだまされる。『おくのほそ道』を読むとき、まず大事なことは、この本に書かれていることはじっさいの旅とはちがうということをわきまえてかかることです。

 では芭蕉はなぜ『おくのほそ道』を書いたのか。また単なる旅行記でないとすれば、この本には何が書かれているのか。それを知るためには『おくのほそ道』だけを読むのではなく、今一度、芭蕉の人生の流れのなかにこの本を戻して読まなくてはなりません。

 そこで重要な節目として浮かんでくるのが古池の句です。

 古池や蛙(かはづ)飛(とび)こむ水のおと    芭蕉

 貞享三年(一六八六年)に詠まれたこの句は、それまで他愛ない言葉遊びでしかなかった俳句にはじめて心の世界を開いた「蕉風(しょうふう)開眼の句」でした。芭蕉はこの古池の句から死までの八年間、この句が開いた心の世界を自分の俳句でさまざまに展開し、門弟たちに広めてゆきます。それはじつに密度の濃い八年でした。

 そのなかで古池の句の三年後に出かけたのが『おくのほそ道』の旅でした。芭蕉は歌枕の宝庫といわれたみちのく(東北地方の太平洋側、福島、宮城、岩手、青森の四県)で心の世界を存分に展開しようとしたのでした。歌枕は現実に存在する名所旧跡とちがって、人間が想像力で創り出した架空の名所です。みちのくは辺境の地であったためにその宝庫だったのです。

 芭蕉の旅はみちのくを訪ねたあと、今度は日本海側へ抜けて大垣までつづきます。その間、芭蕉は不易流行(ふえきりゅうこう)と「かるみ」という二つの重要な考え方をつかむことになります。不易流行とは宇宙はたえず変化(流行)しながらも不変(不易)であるという壮大な宇宙観です。また、「かるみ」とはさまざまな嘆きに満ちた人生を微笑をもって乗り越えてゆくというたくましい生き方です。

『おくのほそ道』の旅の出発当初の目的は、みちのくの歌枕を訪ねて心の世界の展開を試みることだったのですが、その心の世界は帰り道にさらなる展開をとげ、芭蕉は思いもしなかった旅みやげを二つも手にしたというわけです。

『おくのほそ道』をただの旅行記としてではなく、芭蕉の人生の中にすえて読むことによって、悲しみや苦しみに満ちたこの世界をどう生きていったらいいのかと問いつづける芭蕉の姿が浮かびあがってくるのです。それは大震災後を生きる人々への大きな示唆となるにちがいありません。


https://mag.nhk-book.co.jp/article/32807 【日本最大の詩人=松尾芭蕉? 長谷川 櫂さんが読む『おくのほそ道』(2)【月曜日は名著ブックス】】より

戦乱の時代のあとの最初の大詩人

  芭蕉は日本を代表する最大の詩人です。イギリスは「シェークスピアの国」と呼ばれますが、それにならえば日本は「芭蕉の国」です。ほかに何人か候補は浮かぶけれど、紫式部も夏目漱石も芭蕉には及ばない。

 現代から日本文学史を振り返ると、古代からつづく文学の流れのちょうど半ばに芭蕉という巨大なダムがそびえているようにみえます。それより前の文学はいったんこの芭蕉というダムに流れこみ、その後また芭蕉から流れはじめる。芭蕉以後は『源氏物語』も西行(一一一八─九〇)の歌も芭蕉がそのどこを選び、自分の俳句や文章にどう生かしたかが重要になります。

 なぜ芭蕉は偉大なのか。『おくのほそ道』を読みはじめる前に、まずこのことについて考えておきたい。

 いくつかの理由が考えられます。最大の理由は芭蕉が俳句の完成者だからです。日本で生まれた俳句は世界でいちばん短い定型詩です。ということは、今のところ宇宙でもっとも短い定型詩ということになります。その俳句を完成させたのが芭蕉です。では何をもって俳句を完成させたというのか。この点については、あとでみてゆきますが、ここで確認しておきたいのは次のことです。

 俳句は万事シンプルであることを尊ぶ日本文化の象徴と考えられています。芭蕉はその完成者ですから、日本を代表する詩人となるわけです。このことこそ芭蕉の偉大である最大の理由なのですが、彼が生きた時代に分け入ってみると別の理由もみえてきます。

 芭蕉が生きた時代は一六〇〇年代の後半です。詳しくいうと一六四四年(寛永二十一年)に伊賀上野(三重県伊賀市)で生まれ、一六九四年(元禄七年)、五十一歳(数え年)で大坂(大阪)で亡くなりました。天下分け目の関ヶ原の合戦(一六〇〇年)で勝利した徳川家康が開いた太平の世のただなかの生涯でした。

 江戸幕府がもたらした太平の時代の前には応仁の乱(一四六七─七七)から百三十年以上つづいた戦乱の時代がありました。戦乱は京の都を発火点にして日本全土に広がりました。この長くかつ日本全土を巻きこんだ戦乱の時代が日本の社会や文化に与えた影響は想像を絶するものがあります。日本の歴史を眺めると、この戦乱の時代を境にして、それ以前の日本と以後の日本はまるで別の国であるようにみえます。

 いいかえると、応仁の乱が巻き起こした戦火の中でそれまでの古い日本はいったん滅んでしまった。そして戦火の中から新しい日本が生まれたということです。このとき誕生した新しい日本が修正を加えられながらも現代までつづいているのですが、この新しい日本の最初の大詩人が芭蕉だった。

 さらに踏みこんでみると、百三十年もつづいた戦乱の時代に都だけでなく地方の都市も戦火で焼け、荒れ果てました。これによって貴族や大名や寺社が保管していた多くの古典文学の文献が焼失したり散逸したりしてなくなってしまいました。いつの時代でも戦乱は文化の破壊をもたらします。

 関ヶ原の合戦を最後に長い戦乱の時代が終わったとき、焼け野が原に立たされた当時の文学者たち(歌人、連歌師、俳諧師たち)を襲ったのは圧倒的な喪失感だったはずです。それは昭和の戦争(日中戦争と太平洋戦争)に打ちひしがれた日本人の喪失感、さらには東日本大震災を経験した現代人の喪失感と似ていなくもありません。しかし長く全国的な戦乱を体験した四百年前の人々の喪失感のほうがはるかに深刻だったはずです。この喪失感の灰の中から失われた古典をもう一度よみがえらせようという運動が起こるのです。

 たとえば本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)(一五五八─一六三七)は一六〇〇年代前半を代表する京の美術プロデューサーというべき人ですが、彼は「嵯峨本」と呼ばれる美しい古典文学の本を次々に出版しました。『伊勢物語』『徒然草』『方丈記』などの名著がこのシリーズで華麗によみがえりました。表紙や挿絵には絵師の俵屋宗達(たわらやそうたつ)(生没年不詳)が筆をふるっています。中身からも装丁からも古典の香りが焚き染められた古い香のように立ちのぼる。光悦や宗達の仕事からわかるように、一六〇〇年代前半は日本における古典復興の時代(ルネッサンス)だったのです。

 同時にこの時代は多くの古典文学の注釈書が書かれました。時代は少し下りますが、北村季吟(きぎん)(一六二四─一七〇五)は『源氏物語』『徒然草』『枕草子』『伊勢物語』などの注釈書を書きました。季吟がほどこした詳細な注釈には、過去の学者たちによって積み重ねられてきた研究が集約されています。季吟は和歌や俳句でも一家をなした人でもあります。

 広範な仕事が評価され、季吟はのちに江戸の幕府に召し抱えられ、将軍家に和歌や古典文学を教える幕府歌学方(かがくかた)という職につくことになります。イタリアのルネッサンス時代にもレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロら芸術家たちがローマ法王庁や都市国家の君主たちに招かれて仕事をしていますが、これと似たルネッサンス的な光景が日本でもくりひろげられていたのです。

 芭蕉は季吟に二十年遅れて生まれました。いわば次の世代の人です。しかも驚くべき因縁というべきか、芭蕉は季吟の俳句の弟子でした。季吟は当時の俳句の主流だった貞門派(ていもんは)の有力な俳人だったのですが、若き日の芭蕉はこの季吟に俳句を学んでいます。

 季吟と芭蕉が一時期にせよ、師弟関係で結ばれていた。このことは何を意味するかというと、前世代の季吟たちが成しとげた古典復興の成果を芭蕉は自由に使って自分の俳句や文章を書くことができたということです。一六〇〇年代前半が古典復興の時代であったとすれば、芭蕉が生きた一六〇〇年代後半はそれを創作に生かした時代だった。つまり芭蕉は絶好の時代を生きたことになります。芭蕉が日本最大の詩人とされる背景には、こうした時代の力が働いています。

 その芭蕉が人生の半ばを過ぎて古池の句を詠み、その三年後にみちのくへと旅立ちます。その古池の句とはどういう句で、芭蕉と当時の俳句にどういう意義をもっていたのか、そして芭蕉はなぜみちのくへ旅立ったのか。それを探るのが次の課題です。


https://mag.nhk-book.co.jp/article/32813 【「古池」の句は、なぜ画期的だったのか 長谷川 櫂さんが読む『おくのほそ道』(3)【月曜日は名著ブックス】】より

古池の句から『おくのほそ道』へ

古池や蛙飛こむ水のおと 芭蕉

 この句はふつう古池に蛙が飛びこんで水の音がしたと解釈されますが、ほんとうはそういう意味の句ではありません。では、どういう意味なのか。それを知ることが、芭蕉がみちのくへ旅立った理由を知る手がかりになります。

 古池の句の誕生のいきさつを門弟の支考(しこう)(一六六五─一七三一)が書き残しています(『葛の松原』)。それによると、ある日、芭蕉は隅田川のほとりの芭蕉庵で何人かで俳句を詠んでいました。すると庵の外から蛙が水に飛びこむ音が聞こえてきます。そこでまず「蛙飛こむ水のおと」と詠んだ。その上に何とかぶせたらいいか、しばらく考えていましたが、やがて「古池や」と決めました。

 つまりこの句は、何となく思われているように「古池や」「蛙飛こむ水のおと」の順番にできたのではありません。最初に「蛙飛こむ水のおと」ができて、あとから「古池や」をかぶせた。このうち最初にできた「蛙飛こむ水のおと」は、じっさいに聞こえた現実の音を言葉で写しとったものです。

 一方、「古池」は現実の古池ではありません。なぜなら芭蕉は蛙が水に飛びこむ音を聞いただけで、蛙が水に飛びこむところは見ていないからです。見ていなければ、蛙の飛びこんだ水が古池かどうかわからない。

 では「古池」はどこから来たのか。そこでもう一度、言葉の生まれた順番どおりにこの句を読みなおすと、芭蕉は蛙が水に飛びこむ音を聞いて古池を思い浮べたということになります。「古池」は「蛙飛こむ水のおと」が芭蕉の心に呼びおこした幻影だったのです。

 つまり古池の句は現実の音(蛙飛こむ水のおと)をきっかけにして心の世界(古池)が開けたという句なのです。いいかえると、現実と心の世界という次元の異なるものの合わさった〈現実+心〉の句であるということになります。この異次元のものが一句に同居していることが、芭蕉の句に躍動感をもたらすことになります。このことは芭蕉と俳句の双方に画期的な意義をもっていました。

 では古池の句の画期的な意義とは何か。これを知るには、古池の句以前の俳句がどんなものだったか知らなくてはなりません。一言でいうと、古池の句以前の俳句はずっと言葉遊びの俳句でした。言葉遊びとは駄洒落のようなものです。

 若き日の芭蕉は季吟に俳句を学んでいますが、季吟が属していた貞門派の句とは次のようなものです。貞徳(ていとく)(一五七一─一六五三)の句から、

花よりも団子やありて帰雁(かへるかり)貞徳

 雁は桜の花が咲くというのに北へ帰ってゆく。あれはきっと北の故郷に団子があるからだろうというのです。「花より団子」ということわざをもとにして北へ帰る雁を詠んでいます。

 芭蕉が古池の句を読む直前、隆盛をきわめていたのは宗因(そういん)(一六〇五─八二)の談林(だんりん)派でした。談林の句は同じ言葉遊びといっても貞門よりずっと過激でした。同じく雁の句をあげると、

今こんといひしば鴈(かり)の料理哉(かな)宗因

 雁は今では天然記念物で狩猟は禁止されているので食べるなどご法度ですが、当時は雁もごちそうでした。この句は雁料理の句です。今お持ちしますといったばかりで、いつまでたっても出てこない雁の料理よ。「今こんといひしば鴈」は「百人一首」にもある「いま来むといひしばかりに長月(ながつき)の有明けの月を待ちいでつるかな」(素性(そせい)法師)という歌を踏まえています。

 二つの句を比べると、貞徳の句ははんなりとしてくすくす笑いのおもむきがありますが、宗因の句は大笑いの句です。

 芭蕉も宗因の門下でした。この時期、次のような句を詠んでいます。

塩にしてもいざことづてん都鳥(みやこどり) 芭蕉

 在原業平(八二五─八八〇)は隅田川で「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」とうたいました。都鳥というからには都から飛んできたのだろう。ではたずねてみたい。都にいる恋人は元気かどうか。芭蕉の句はその「いざ言問はむ」を「いざことづてん」とおきかえて、都鳥を塩漬けにしてでも都へ贈ってあげようというのです。のちの芭蕉からは想像もできない、まあ、ぞっとするようなブラックユーモアの句です。

 ところが、宗因が一六八二年(天和二年)に亡くなると、指導者を失った談林派は方向を見失ってしまいます。宗因に学んでいた弟子たちは混乱のなかでそれぞれ俳句の道を探しはじめます。

 芭蕉もその一人でした。こうして宗因の死から四年たった一六八六年(貞享三年)春、芭蕉は古池の句を詠み、俳句に心の世界を切り開いたのです。これが芭蕉が見いだした自分の俳句の道「蕉風」でした。そこで古池の句は「蕉風開眼の句」と呼ばれます。振り返ってみると、古池の句以前の芭蕉には心の世界を詠んだ句はほとんどありません。古池の句はまず芭蕉にとって文字どおり画期的な句だったのです。

 次に俳句にとっての古池の句の意義とはどんなものだったか。はるか古代から日本文学の主流だったのは和歌でした。その和歌は発生以来、一貫して心の世界を詠んできました。平安時代の半ばに完成した『古今和歌集』の序文(仮名序)の冒頭で編者の一人、紀貫之(?─九四五?)が堂々と宣言しています。

 やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。

 和歌は人の心から生まれるものであり、万事につけ心で思ったことを見聞きしたものに託して表現するものであるというのです。「世の中にある人、ことわざ繁きものなれば」とは世間で暮らしていれば、いろいろあるから、という意味です。思う「こと」を見聞きした「もの」に託して言葉にするといっているところに注意してください。

 こうして脈々と人の心を詠みつづけてきた和歌に対して、言葉遊びの俳句が低級な文芸とあなどられていたのは当然です。そうしたなかで芭蕉が古池の句を詠んで俳句でも人の心が詠めることを証明したわけです。これを貫之風にいえば、「古池」という「心に思ふこと」が「蛙飛こむ水のおと」という「聞くもの」をきっかけにして誕生したということになります。この古池の句によって俳句はやっと和歌と肩を並べることができた。

 だからこそ古池の句の誕生は芭蕉だけでなく俳句全体にとっても画期的だったのです。宗因の死後、多くの弟子たちが新しい道を模索したのですが、芭蕉が古池の句で見いだした人の心を詠む蕉風だけが現代にまで影響を与えているのは、古池の句が芭蕉にとって新しい道だっただけでなく、俳句全体の方向を定めるものだったからです。

 芭蕉の『おくのほそ道』の旅はその三年後のことでした。

 のちに本居宣長(一七三〇─一八〇一)は日本文学を貫く「もののあはれ」をとなえますが、この「もののあはれ」にしても貫之のいう「人の心」「心に思ふこと」そのものです。芭蕉は長い戦乱で滅んだ古い日本の文学の心の世界を俳句によみがえらせ、宣長は「もののあはれ」としてとらえなおしたのです。


https://mag.nhk-book.co.jp/article/32818 【松尾芭蕉が展開したかった「心の世界」 長谷川 櫂さんが読む『おくのほそ道』(4)【月曜日は名著ブックス】】より

心の世界を「みちのく」で展開する

 芭蕉はなぜ、みちのくを旅しようと思い立ったか。一つの理由は古池の句で発見した心の世界をいろいろ試してみたかったからです。もう一つの理由はみちのくが心の世界を展開するのに絶好の条件をそなえていたからです。

 みちのくは現在の東北地方の太平洋岸一帯(福島、宮城、岩手、青森の四県)をさします。ここは昔から歌枕の宝庫とされてきました。歌枕とは王朝時代の歌人たちが代々、和歌によって築きあげてきた名所です。気をつけてほしいのは、それは現実に存在する名所旧跡ではなく、歌人たちが想像力で作りあげた名所であるということです。歌枕はいわば架空(フィクション)の名所であり、歌人たちの心の地図にちりばめられた名所なのです。だからこそ芭蕉はここで心の世界を展開しようとした。

 もっと大きな視点から眺めると、次のことがみえてきます。芭蕉が百三十年間もつづいた戦乱の時代ののちに誕生した新しい日本の最初の大詩人だったことはすでに触れましたが、一方、歌枕は王朝時代から中世にかけて栄え、長い戦乱の時代によって滅んだ古い日本の文化遺産です。『おくのほそ道』は新しい日本の大詩人である芭蕉が、すでに滅んでしまった古い日本の遺跡を訪ね、古い日本を弔う記念的な旅だったということになります。

 では芭蕉は古池の句で見いだした心の世界を『おくのほそ道』のなかでどう展開しているか。古池の句の影響が何よりもはっきりわかるのは芭蕉の句です。全部で五十句ありますが、その多くが現実に見聞きしたものをきっかけに心の世界が開かれる〈現実+心〉という古池型の句です。『おくのほそ道』巻頭の句からしてそうです。

 月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予も、いづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへて、去年の秋、江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に、白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先(まづ)心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅(べつしょ)に移るに、 草の戸も住替(すみかは)る代ぞひなの家

 面(おもて)八句を庵の柱に懸置(かけおく)。

 ここに登場する「草の戸も」の句、芭蕉庵もすでに住み手が変わって雛人形が飾られているという意味だとしばしば勘ちがいされます。芭蕉は男の一人住まいだったのですが、新しい住人には妻や娘もいる。だから今や「ひなの家」になった。これはもっともらしい解釈ですが、この句はそんな意味ではない。

 ここは芭蕉がみちのくへ旅立つのを前に深川の芭蕉庵を人に譲り、別の草庵へ移る場面です。そこで芭蕉庵への別れの印として「草の戸も」の句を草庵の柱にかけて残してゆくのです。とすると、まだ新しい住人は芭蕉庵に住んでいないことになります。では「ひなの家」とは何か。

「ひなの家」は芭蕉が芭蕉庵を去るにあたって、この草庵もやがて「ひなの家」になるだろうと想像したものなのです。いいかえると、「草の戸も住替る代ぞ」という現実に直面して、心のなかに「ひなの家」となっている未来の芭蕉庵を思い描いた。現実ではなく想像しているからこそ「ひなの家」はよけい華やかなのです。それは目の前にある現実の華やかさではなく、障子が内側から明かりで照らされているような心のなかの華やかさです。

 『おくのほそ道』巻頭のこの句も〈現実+心〉という古池型の句です。芭蕉は三年前、古池の句で見いだした心の世界を、『おくのほそ道』の最初の句でさっそく応用したわけです。このことは『おくのほそ道』が古池の句の延長上にあることを知らないと気づかないかもしれません。

 『おくのほそ道』を読んでゆくと、古池型の句がつぎつぎに登場します。書き出しの部分につづく千住での門弟たちとの別れの場面もそうです。

 弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明(ありあけ)にて光おさまれる物から、不二の峰幽(みねかすか)にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつまじきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。

  行(ゆく)春や鳥啼(なき)魚の目は泪

 是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。

 この「行春や」の句の「行春」は春は行き、人は旅立つという現実をさしています。一方「鳥啼魚の目は泪」はその現実に触れて芭蕉の心に湧きおこった鳥は鳴き魚は涙を流しているという芭蕉の想像、つまり心の世界です。

「草の戸も」の句も「行春や」の句も現実に触れて心の世界を開いた古池型の句ですが、どちらも現実、心の世界という順番で並んでいます。これは原因、結果の順にいう句です。

 これに対して本家本元の古池の句は心の世界を先にいって、次にそれを呼び起こした現実を添えています。これは結論(いいたいこと)を先にいってから原因(そのわけ)をいう句です。古池型の句といってもこのふたつがあります。

 少々先のことになりますが、芭蕉が平泉で詠む、 夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡

 この句は現実の「夏草」を先にいって、心の世界である「兵どもが夢の跡」をあとでいっています。

 閑(しづか)さや岩にしみ入(いる)蟬(せみ)の声

 立石寺で詠んだこの句は心の世界である「閑さ」を先にいって現実の「岩にしみ入蟬の声」をあとでいっています。このように順番は逆ですが、どちらも現実に触れて心の世界を開いた古池型の句です。


https://mag.nhk-book.co.jp/article/32828 【『おくのほそ道』は「構造」がわかるとおもしろい——長谷川 櫂さんが読む『おくのほそ道』(5)【月曜日は名著ブックス】】より

河の関までは旅のみそぎ

 さらに読み進むまえに『おくのほそ道』全体の構造を明らかにしておきたい。結論を先にいうと、『おくのほそ道』は歌仙(かせん)を面影にしています。

 歌仙は連句の一形式です。連句とは連衆(れんじゅ)(参加者)が長句(五七五)と短句(七七)を交互に詠みあうものですが、全部で三十六句つづける連句が歌仙です。歌仙の構造をみると、初折(しょおり)の表と裏、名残の折の表と裏という四つの部分から成り立っています。歌仙では一巻のなかで春夏秋冬すべての季節を詠むことになっていて、月や花を出すところもあります。必ず恋の句も詠みます。歌仙の構造を表にすると次のようになります。

 芭蕉は歌仙の名手でした。俳句は自分よりうまい弟子がいくらもいるが、歌仙こそは「老翁が骨髄」(『宇陀法師(うだのほうし)』)と豪語するくらい、歌仙に打ちこみ、腕前に自信と誇りをもっていました。

『おくのほそ道』を読むと、歌仙の構造が面影のように浮かんできます。月の座、花の座など細かなところまで完全に一致するはずはありませんが、歌仙が四部に分かれるように『おくのほそ道』も四つに分かれています。

 まず『おくのほそ道』全体が太平洋側と日本海側の二つに分かれている。境は東北山中の尿前(しとまえ)の関です。このふたつは歌仙の初折と名残の折にあたります。このうち太平洋側はみちのくの入口である白河の関までとみちのくに分かれます。これが初折の表と裏です。一方、日本海側は越後の市振の関までとその先に分かれます。旅する順にいうと、白河、尿前、市振という昔の関で四つに分かれる。

 おもしろいことに四つの部分ごとに芭蕉の関心が変わる。まず江戸をたって白河の関までは長旅のための禊(みそぎ)です。次に白河の関を越えて尿前の関までは歌枕を訪ねる旅です。ここがいわゆるみちのくです。『おくのほそ道』の冒頭に「白川の関こえんと」「松島の月先心にかゝりて」とあったのを思い出してください。松島をはじめとするみちのくの歌枕を訪ねることが『おくのほそ道』の旅の第一の目的でした。

 さらに尿前の関から市振の関までは太陽や月や天の川といった宇宙の旅です。最後に市振の関から大垣までは人間界の旅です。これも表にしてみます。

   第一部(江戸 —— 白河)旅の襖 ── 初折の表

   第二部(白河 —— 尿前)みちのくの歌枕の旅 ── 裏

   第三部(尿前 —— 市振)宇宙の旅 ── 名残の表

   第四部(一振 —— 大垣)人間界の旅 ── 裏

 この構造が頭に入っていると、『おくのほそ道』はわかりやすく、かつおもしろい。表を見ながらいうと、私たちは現在、第一部の旅の禊の部分にいることがわかります。芭蕉と曾良(一六四九─一七一〇)を追って千住から北へ歩いています。ここから白河の関までの間にいくつもの神社や寺を訪ねます。草加を過ぎて、まず八島明神(室(むろ)の八島)、日光では東照宮、裏見(うらみ)の滝、那須では八幡宮(那須神社)、光明寺(こうみょうじ)、雲巌寺(うんがんじ)とつづきます。そこで詠んだ芭蕉と曾良の句をあげると、

 あらたうと青葉若葉の日の光         

 

芭蕉(日光東照宮)

 剃捨(そりすて)て黒髪山に衣更(ころもがへ) 

曾良(黒髪山)

 暫時(しばらく)は滝に籠るや夏(げ)の初(はじめ) 

  

芭蕉(裏見の滝)

 夏山に足駄(あしだ)を拝む首途(かどで)哉         

芭蕉(光明寺)

 木啄(きつつき)も庵(いほ)はやぶらず夏木立(なつこだち) 

芭蕉(雲巌寺)

 なぜ芭蕉と曾良はこうも次々に寺社に詣でたのか。それはみちのくの旅を前にして身を清め、旅の無事を願うためだったはずです。この性格がよく表われているのは日光の黒髪山〈男体山)を詠んだ曾良の句と裏見の滝での芭蕉の句です。

 黒髪山は、霞かゝりて、雪いまだ白し。

  剃捨て黒髪山に衣更

                 曾良

曾良は、河合(かはひ)氏にして、惣五郎と云へり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水(しんすい)の労をたすく。このたび、松しま・象潟(きさがた)の眺共にせん事を悦び、且は羈旅(きりょ)の難をいたはらんと、旅立暁髪を剃て墨染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。仍(よつ)て黒髪山の句有。衣更の二字、力ありてきこゆ。

 同行の曾良の紹介を兼ねたくだりですが、ここで曾良は髪を剃り、墨染に衣をかえ、名も宗悟と改めたとあります。出家はしなくても僧の姿となって旅にのぞむ覚悟なのです。芭蕉も同じ思いだったはずです。

 曾良の句は更衣(衣更)の句です。更衣は春の袷(あわせ)を夏の一重に改めることですが、ここではみちのくの旅を前に身を清めるという意味合いを含んでいます。

 廿余丁山を登つて、滝有。岩洞(がんとう)の頂より飛流して百尺(はくせき)、千岩の碧潭(へきたん)に落たり。岩窟に身をひそめ入て、滝の裏よりみれば、うらみの滝と申伝え侍る也。

  暫時は滝に籠るや夏の初

 芭蕉が裏見の滝で詠んだのは滝籠りの句です。裏見の滝は滝の裏にほこら(岩窟)があって、そこに身をひそめて滝を拝むのでこの名があります。それを芭蕉は「滝に籠る」といっていますが、これは滝の水で身を清め、滝の神にご加護を祈ったということです。

 曾良は仏に念じ、芭蕉は神に祈る。どちらも典型的な禊の句です。

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