https://note.com/masachan5/n/n8681228fb49f 【職業人としての柿本人麻呂】より
第一章 氏族社会の和珥族と柿本臣
飛鳥池遺跡群から奈良大仏へ
先の考察から柿本臣は金属鋳造に関係する氏族であるとの仮定の下、奈良時代から歴史を遡ってみます。
近年の飛鳥地方の遺跡調査によると、古代の鉱山採掘跡や鋳造残滓の残る三輪山やそれを取り巻く巻向・穴師地域に近接する飛鳥浄御原宮のすぐ近傍に銅及び銀製品の鋳造を行ったと思われる工場やガラス・銀・金等の材料を使用した宝飾工房の遺跡が出土しています。これらの遺跡発掘の事例から、飛鳥時代の当時、明日香、三輪、巻向・穴師地区一帯は、日本有数の先進技術による銅鋳造の工人が住む地帯だったと推測されます。
さて、金銅仏の製錬鋳造には高温溶融炉の技術が要求されます。滋賀県教育委員会による東大寺大仏の先駆けとなる甲賀寺大仏の試作遺跡である信楽鍛冶屋敷遺跡の発掘で複数の鋳造炉と鋳込み穴の跡が出土しています。その鋳造炉の出土状況からの推定で、それぞれの鋳造炉が異なった形状や鋳込み作業をしていたことが指摘されています。このことから類推して甲賀寺大仏の鋳造には鋳造技法の異なった全国各地の銅鋳造職人が集められていたのではないかと報告がなされています。当然、東大寺大仏の鋳造には、それ以上の規模で日本全国各地から鋳造職人が集められたでしょう。その金銅仏の製錬鋳造の責任者が、さきに説明した柿本男玉です。
東大寺の大仏建立の記録では大仏鋳造に何度も失敗し試行錯誤して(記録記事では、七回の失敗を重ね・・とあります)、完成したとされています。先行する甲賀寺大仏は、その土地柄、百済系の鋳造技術者が鋳造を指導したと思われますが、大仏の鋳造に失敗して何度も火災事故を起こしたようで完成することができませんでした。今日の生産技術の観点から考えますと東大寺の大仏の建立のような巨大な大仏の鋳造には何基もの炉で同時に鋳込む必要があります。このため、鋳造の試行錯誤の内に鋳込み炉等は規模や形が統一され、炉の鋳込みの量や温度が炉の規模・形の統一や炉内の湯の色味によって製造管理が行なわれたと考えます。今日の製品管理の基本からすれば当然に職人の技術水準の統一と作業工程の標準化が行われたはずです。東大寺の大仏建立の時代、柿本臣一族に鋳物師の柿本男玉と同時代人として、後に主計頭となる柿本朝臣市守がいます。その主計頭の職務を考えるとき、主計頭が国家財政の計数管理を行う技術や知識を持つことからすると柿本臣一族とは工業標準化の手法を持つ技術者集団(または職人や技術を指導・管理する監理技能者)だったかもしれません。
少し雑談をしますと、古代の製鉄法には二種類の特徴ある製鉄方法がありました。それは、砂鉄からのたたら製鉄法と鉄鉱石からの箱型炉と坩堝炉とを使う鍛鉄製鉄法の二種類です。その異なる製鉄方法に関係すると思われる祭神として、砂鉄を原料とするたたら製鉄法の遺跡が出雲や但馬の山陰地方を中心に分布し、祭神として金屋子神をお祭りします。一方、鉄鉱石を原料とする坩堝炉の鍛鉄製鉄法の遺跡は山陽地方や琵琶湖周辺を中心に分布し、祭神としては八幡神(または市杵嶋比賣命)をお祭りします。この鉄鉱石からの鍛鉄製鉄法の工程は銅や鉛等の金属製錬の工程に類似し、その遺跡の分布状況からも関連性が指摘されています。先に紹介した備前国の山陽側南部地域での製鉄遺跡もまた、古代では褐鉄鉱を使用する鉄鉱石からの坩堝炉の鍛鉄製鉄法です。
金属製錬と祭神の関係において、鉱石から坩堝炉で鍛鉄を得る製鉄方法で金属製錬をする場合、その鍛冶職人たちは祭神として八幡神(または市杵嶋比賣命)をお祀りします。この風景の下、高市臣、柿本臣や宇佐八幡大社が市杵嶋比賣命を祀ることを考えますと、これらの氏族は大和朝廷の坩堝炉を利用しての金属製錬に強く係わる集団であったとの推定が可能と考えます。このように類推しますと東大寺大仏建立に登場する高市真国、高市真麿や柿本男玉たちの氏族背景と立場が想像できると思います。
そして、当時はまだ氏族社会です。つまり、職業選択の余地はありません。この氏族社会の面から推定して、柿本朝臣人麻呂が柿本臣の一員として金属製錬・鋳造に関わっていた可能性は非常に高いと考えます。
古代の銅及び銀の製法
ここまでの推定で柿本臣が金属製錬・鋳造に深く関わっていることが推測できそうです。この推論に従って柿本朝臣人麻呂の職業を考える前に、古代での金属製錬・鋳造について共通の認識を保つために、少し、金属製錬・鋳造について説明をしたいと思います。
普段に生活する私達では、どのようにして古代の人たちが銅の地金を手に入れたかは想像が出来ないと思います。そこで簡単ですが、当時の銅鉱石から銅の地金を製錬する工程を、現在、進められている飛鳥池生産工房遺跡の発掘の研究報告などから、次のように説明します。
主に西日本の地域ですが、花崗岩やペグマタイトなどの深成岩や熱変成岩が露出しているような地域では金色に輝く黄銅鉱などを見つけることが、今でも出来ます。金属色に輝く部分が優良な鉱石で、銅の地金を製錬する原料になります。西日本の多くの銅鉱石はマグマ活動による地下深部の熱水接触鉱床に由来するようで、多くの銅鉱石は銀や金などの貴金属を僅かに含みます。このため、銅鉱石は同時に貧含有ですが銀鉱石でもあります。
さて、発見した銅鉱石を鏨(たがね)などで砕き、鉱床の母岩から取り出して選鉱所へ集めて来ます。選鉱所へ集めてきた銅鉱石を足踏みや水力の唐臼(からうす)などを利用してある大きさの粒に砕き、その砕いて粒状にした鉱石から人の手で鉱物と石とに根気良く選り分けます。これが採掘・選鉱過程です。
次に、銅の地金の製錬の前段階として黄銅鉱などの選鉱された粒状鉱石に含まれる硫黄分や土砂分を除去します。除去方法は、焙焼と呼ばれる選鉱された粒状鉱石を円筒炉の中などで木炭や薪などで焼き上げる方法を取ります。粒状鉱石を円筒炉の中で焼き上げて含まれる硫黄を気化・分離し、その焼け跡に残る焼固粒を、再度、粉砕します。その砕粉を比重差から風や水などを利用して土砂分と銅の鉱石部分との分離を行ないます。この焙焼作業の終わった銅の鉱石砕粉に、煉土や融剤となる生石灰(または藻塩や木灰)を混ぜて練り、餅状のもの(以下、餅と呼びます)を作成します。これで、坩堝炉を使う銅製錬での鉱石の準備は完了です。
坩堝炉を使う銅の製錬では、吹場と呼ぶ「半円形のくぼみを持つ溶鉱炉」(=坩堝炉)に木炭を盛り上げ、その積み上げた木炭の表面に餅を載せて、鞴で送風される溶鉱炉の中で木炭火力により溶解させていきます。こうして、くぼみの中に荷吹と呼ぶ赤湯(素銅)が熔出して来ます。この熔出して出来た赤湯の表面には鉱滓が浮かびますから、それを生の松木の棒で掻き取ります。赤湯から表面の鉱滓を取り除いて出来たものが荷吹(にふき)と呼ばれる粗銅となります。
この出来た荷吹を杵と臼で砕き、鉱滓と金属分を選り分けて鈹吹(かわふき)の原料とします。この荷吹で得られた金属分に煉土や融剤となる生石灰(または藻塩や木灰)を混ぜて練り、再度、餅状のものを作成します。これを、再び、溶鉱炉で溶解させて鈹吹と呼ばれる粗銅を作ります。同様にして、この鈹吹をまた溶鉱炉で溶解させて、製錬したものが真吹(荒銅)と呼ばれる銅の地金となります。参考として、こうして出来た真吹には、銀やその他の金属がわずかに含まれています。優良な場合、銅地金に銀が約2%前後(雲州杵築鷺銅鉱山事例、巻末掲載)ほど含まれていたこともあったそうです。一般には、これ以上の銀の含有では銀鉱石の扱いになります。
次に、この真吹と呼ばれる銅の地金に鉛を加えて溶融炉で溶融させます。すると、この溶融した銅(比重8.95)の液体の下部に銀鉛合金(鉛として比重11.36)が溶解温度差と比重との関係で底に沈み込みます。この銅と銀鉛合金の溶融液の表面に水を吹き付けるような作業(いぶき=鋳吹く)を行い、溶融した表面を急激冷却し銅の膜を作ります。この膜を掻き取るような作業を通じて、溶融温度差を利用した金属分離作業をします。こうして、掻き取った銅を再融解して塊として得られたものが練銅や真銅です。
なお、古代日本では、その銀含有量が多かったためでしょうか、銅と銀の生産コストの関係で、真吹段階での銀の分離作業は一回程度のようで銅地金の中の残留銀量が諸外国に比べると多かったようです。このため、中国では日本から銅地金を輸入して銀を取り出していたとされています。なお、この坩堝炉を使う製錬法は、原理は同じですが、対象となる規模と銀鉛合金の溶融液の取り出し方の違いから、江戸期以降の南蛮絞りとは異なった製錬法として扱われます。
参考として銀の製錬の話をしますと、このいぶき作業で得られた銀鉛合金の塊を小割し、それを木灰の上で火炎を吹き付ける作業である小吹きをすると一酸化鉛と銀に分離します。鉛と銀の溶解時の表面張力の関係で一酸化鉛は木灰の中に吸収され、銀が木灰の表面に残ります。こうして、銀が銅から分離、生産されます。これが、灰吹き法と呼ばれる銀の製錬です。
これを手短に実験室のレベルに縮小して説明しますと、近世の鉱物試料の分析方法に吹管を使用する方法があります。この吹管を使用する方法は、銅鉱石の製錬方法と原理的に同じです。皆さんも、中学生時代に理科実験で経験していると思います。この吹管を使用する方法は、半割りした木炭の平らな面に小さなくぼみを作り、ここに鉱物試料の粉末と融剤として炭酸ナトリウムを混ぜ合わせたものを入れ、吹管でブンゼンバーナーの炎を吹き付けると鉱物試料の金属分離が出来ます。この作業で使われる炭酸ナトリウムが先ほど紹介した融剤で、岩石の融け出す温度を下げて金属分離を促す作用をします。この炭酸ナトリウムは、古くは海草を焼いて出来る焼灰の主成分から得られ、その製法にちなんでソーダ灰とも云われています。日本では、その製法から藻塩がそれに相当します。金属製錬過程で、この融剤となるソーダ灰や藻塩を使うか、使わないかで、木炭使用量が大きく違います。そのため、金属の生産コストの観点からも、飛鳥・奈良時代、朝廷は海辺の人々を動員して、大量に藻塩を生産したものと思われます。
ここで、戦時中の藻塩製造作業に関してですが、インターネットには『戦時中の昆布産業』と云う題名で関係する記事があり、その記事を要約すると「通常の海草の塩化カリ類の含有量は二%程度ですが、馬尾藻類(ホンダワラなど)は十数%含むため、これを使用して塩化カリ類を生産した」とあります。植物の生育環境の差で、陸上の草木灰からは水に溶けやすい炭酸カリウムが取れ、海草からは水に溶けにくい炭酸ナトリウムが採れます。記事での「塩化カリ類」とは炭酸ナトリウムのことと思われます。しかし、この記事から、西洋でソーダ灰と呼ばれ、日本では藻塩と呼ばれる炭酸ナトリウムの生産には玉藻(ホンダワラ)が最適であったことが戦時中の藻塩製造作業記事から判明します。これが万葉集で歌われる「玉藻刈る」の風景の背景のようです。
なお、万葉時代の食塩の製法について紹介しますと、遺跡発掘及び文献調査報告によると飛鳥・奈良時代では食用の塩の生産は縦長の土瓶や底の浅い鉄釜・石釜で海水を薪で煮詰める簡易で安価な生産方式で行われていたことが判明しています。現在の「藻塩」と云う商品名称を持つ食塩の生産方法として紹介される、海藻に海水を含ませ天日による濃縮作業を行ってから煮詰めると云う手の込んだ生産方式は取ってはいません。そこには古代に年間数百トンもの銅を製造するのに大量のソーダ灰の需要があるとの想像が出来なかったことから、藻塩の対するイメージの差があると考えます。逆に経済面から考えますと、万葉集歌で藻塩を焼く風景が詠われている近隣には製鉄・製銅が行われた遺跡の存在の可能性があります。製銅では近畿地方では大阪湾の河内国鋳銭司や明石須磨の播磨国鋳銭司が有名です。
現在、発掘された富本銭等の古銭の金属分析結果から、人麻呂時代にはこのような金属製錬方法が確立していたことが確認出来ます。後年の発明とされる真吹法や灰吹法とは生産効率を上げた改良製法であり、その冶金技術の原理は飛鳥・奈良時代からさほどに変わってはいません。なお、生産技術の要請からすると銅と錫の合金である銅銭や青銅器を安定的に製作するには、このような純金属の生産技術がないと実用の製品として製造することができません。そして、人麻呂の時代、銀や銅は眺めるお宝では無く、銀銭や銅銭と云う通貨として、ある一定量は市井に流通していました。つまり、飛鳥・奈良時代、都市では銀や銅などの金属は日常の風景となっていました。
参考に、人麻呂時代の有名な銅鉱山では、銅の黄銅鉱類と鉛の方鉛鉱類が近隣で産出する事例が多いようです。人麻呂ゆかりですと、
播磨国多可郡加美
長門国阿武郡蔵目木
長門国美祢郡長登
の地域の鉱山がそうです。
鉱業に関わる補足的な雑談
話題として、紹介した銅や銀の製錬作業の付随物として、鉛からは女性の必需品である白粉(おしろい)や紅が生産されます。白粉は古代では胡粉(こふん)と云いますが、実際は鉛白を指します。鉛白は人肌と相性がいい白粉ですが、その一方、肌になじみやすい分、鉛中毒を起こします。このため、鉛中毒の原因が判明し、人々が認識した昭和以降は使用されなくなりました。それでもこの鉛白は飛鳥時代から昭和初期まで使われ続けた代表的な基礎化粧品です。
その鉛白の製法は正倉院宝物の化学分析報告によりますと、それは日本だけに見られる特別な製法だったようです。その製造工程としては、先に説明した銀製造の副産物である一酸化鉛や鉛を食酢に溶かし酢酸鉛水溶液とし、これに藻塩(ソーダ灰)を熱湯に溶いて作った炭酸ナトリウムと塩化ナトリウムとの混合水溶液で中和させます。すると、不溶物の塩化鉛や酸化塩化鉛が鉛白として沈殿します。中国や西欧の製法では瓶に食酢を注ぎ、その食酢に触れないようにして鉛を瓶に入れ密閉しておくと鉛の表面に純白の鉛白が出来ます。一方、日本独特の製法では塩化鉛や酸化塩化鉛などが複雑に混ざった形で生産されるために純白に近い白色から青白色まで、その色調をコントロールすることが出来たようです。そして、その製法から生産された鉛白が顔料として正倉院に残る宝物に広く使われていることから推定して、飛鳥・奈良時代の早い時期にはこの日本独特の製法は発見されていたと考えられています。また、正倉院宝物に使われた顔料研究の成果から純白に近い白色から青白色までの色合いの違った鉛白の製造が確認されていますから、宮中の女性が要求すれば自分の肌色に合わせた好み色での白色系のベース化粧品の入手は可能だったようです。
また、頬紅や口紅になる光明丹(紅)は鉛から得られる顔料でやや橙色の紅色をしています。白の顔料である鉛白は一酸化鉛を食酢に溶かしたものを藻塩の水溶液などで中和して得られますが、口紅となる光明丹は一酸化鉛を長く炎で熱すると四酸化三鉛として製造されます。当然、古くからの明るい紅色の水銀系の丹も生産されていました。
化粧品に関してみてみると、これらの製法の存在や『続日本紀』の記事などから推定して、白、朱、黄色、緑色、青色の鉱物・油脂系の顔料は生産されています。さらに、それらの顔料を延ばし化粧品とする油料として椿油や萱油などが流通していたようです。従いまして、持統天皇以降の貴族階級の女性は、化粧方法は別として明治・大正時代の女性とほぼ同等の化粧品を使用することは可能だったようです。当然、墨筆はありましたから、化粧筆もあったはずです。
女性の必需品の化粧品にちなみ、もう少し脱線して、古代では高級装飾品であるガラス玉の製法を説明します。そのガラス玉の製法は、意外なことに銅の製錬工程と同じです。使用する原料を銅鉱石から石英や長石に変えることでガラスを得る事が出来ます。少し乱暴な説明ですが、輝銅鉱などの銅鉱石を砕き、それを人手で金属鉱物の部分と白い石の部分(石英・長石)に選り分けます。この金属鉱物の部分に藻塩を混ぜて熔かすと銅の地金になり、白い石の部分に藻塩を混ぜて熔かすとソーダガラスになります。つまり、製法と作業場は同じで材料が違うだけです。このソーダガラスの製造の過程で、藻塩に金属の微粉末を混ぜると色ガラスになり、蜻蛉玉の材料となります。藻塩を混ぜて熔かす時に酸化鉛を加えますと加工性の良い鉛ガラスの透明なガラスが出来ます。これに銅の微粉末を加えると加工温度によってブルーからレッドまで広範囲に色が出て来ます。
古代において金細工と同程度に銀細工やガラス細工の宝飾品が珍重されているのは、このためでしょうか。およそ、それは銀細工やガラス細工の宝飾品の生産工程に起因する高度な技術水準が必要だったためと考えられます。現在、銀細工がポピュラーになったのは、大量に消費する工業用銅の製錬に伴い必然的に生じる付随銀の生産から、世界的に銀の生産量が飛躍的に増大しています。そのため貴金属としての銀の価値が大暴落しました。一方、ガラス製品は原料の入手が容易であることと高温炉の普及などによって身近なものになりました。
こうした点から見ますと、銅の精錬技術者はその要請される技術が宝飾品や化粧品の製法に近接するため宮中の高貴な女性たちと接触する機会は多かったと想像します。そして、その技術者を統括する宮中の木工寮の長官は、ある種、現代の宝飾商やデザイナーのような役割を果たしていた可能性があります。
https://note.com/masachan5/n/n4f890b9ce702 【第二章 職業人としての柿本人麻呂
若き柿本朝臣人麻呂の行動域】より
ここまでの説明からすると、柿本臣は金属の製錬や加工を行う氏族であったと考えても良いようです。古代が氏族社会であり人々はその所属する氏族に縛られるとすると、その柿本臣の姓を持つ柿本朝臣人麻呂もまた氏族社会に縛られた一員です。ここでは、その視線から職業人としての柿本朝臣人麻呂を考察していきます。
ここまでの考察で、人麻呂はその柿本臣の姓から金属製錬・鋳造に関わる氏族の一員です。一方、壮年期以降の柿本朝臣としての人麻呂は、草壁皇子や高市皇子の挽歌や持統天皇の吉野や紀伊への御幸に随伴し臣下を代表して寿歌を捧呈する官人・官僚の姿を見せています。その壮年期以降の人麻呂の姿が才能と技量で官人として成功した後の姿とすると、人麻呂の青年期は己の所属する氏族に従い、その氏族固有の職業に従事している人麻呂の姿と見ることが出来るのではないでしょうか。つまり、大伴旅人が軍人として官界にデビューしたように大伴氏に武闘派氏族の側面を見るのと同じ感覚です。
ここでは、その可能性を下に万葉集に載る人麻呂歌集の歌の多くは人麻呂自身が詠ったものとし、その青年期の活動は金属製錬・鋳造に関わる氏族の一員として行ったと仮定します。その仮定の下、人麻呂歌集に見られる旅の歌は人麻呂自身が旅をしたときに詠われたものとし、その旅をした地域と旅の目的を考察します。
万葉集の歌を見ていく前に、皆さんに私が意図する先入観を持っていただくために、もう少し製鉄について寄り道をします。
日本の歴史学者が唱える古代史の常識では、石器時代、青銅器時代、鉄器時代の順に文明は進化したことになっています。ところが、生産工学や冶金工学の分野からすると、この順番は非常に悩ましい話です。製鉄は鞴が発明され高温炉が確保されると、叩出し技法で製錬が可能なために金属としての生産技術としてはさほどに高度な技術要求ではありません。近年、従来の専門家が唱えたものとは違い、褐鉄鉱などを原料とする海綿鉄からの製鉄法では千度程度の比較的低温でも製鉄が可能なことが確認されています。これは食器類となる須恵器を焼くときに求められる温度よりも低い温度です。
ところが、青銅器の場合、それを金属製品として使用するのならば青銅器が青銅と云う合金による製品であるがために純銅・純錫・純鉛などを精錬する生産技術とそれを使って生産された純度の高い銅や錫の母材が合金と云う青銅を製造するときに要求されます。ご存知のように、殷・周時代の古代中国では既に使用目的別に青銅の製造における純銅と純錫との配合が規定されています。つまり、逆説的には生産工学において青銅器時代の中国では純銅・純錫・純鉛などを精錬する生産技法が確立していたことになります。するとここで、古代において鉱石から如何に純度の高い銅・錫・鉛などの金属を得ていたのかが問題になります。この各種の純度の高い銅・錫・鉛などの金属が得られなければ、合金製品としてのまともな青銅は作れません。このことが生産工学からすると悩ましいのです。そして、いかにして古代人は高純度の金属母材の調達をし、青銅器を製造したのかと云う問題は、日本の歴史学者を特別とすると、生産技術の分野では未解決事項です。参考に錫鉱石(酸化錫)の製錬には褐鉄鉱からの製鉄より高温の千百度前後の恒温熱源が必要です。
このためでしょうか、製品や技術輸入国であった古代日本では考古学上の青銅器時代と鉄器時代の区分を明確にすることは出来ないようです。ただ、斜に構えて金属史を考えるとき、鉄器は異種金属との合金ではありませんので低温加熱程度での作業により再加工が容易です。一方、青銅器は比重の似通った銅と錫の合金であることから一度製品になったものの再利用には、高温炉で鋳直す以外は技術的に困難です。生産コストからも一般に青銅製の銅銭がありますが、まず、鉄銭が経済的に普及しないように安価な鉄器は庶民のものです。一方、本来の色である金銅色に輝く青銅器は国家・王族のものです。およそ、鉄器と青銅器との生産技術の困難性や腐食性を考慮した時に、生産されたものが残存する確率は雲泥の差になると想像されます。このためでしょうか、現在、金属史ではその発祥の地とされるトルコ高原での遺跡発掘状況などからも、隕石鉄加工を別とすると世界的には青銅器時代と鉄器時代とで、どちらの時代が先に誕生したかの結論は出ていないようです。
さて、日本の金属古代史に目を向けると、現在の発掘考古学の成果において近江・飛鳥浄御原宮時代に大規模な製鉄コンビナートの存在が確認されているのは、丹後半島の竹野(たかの)川流域と近江の瀬田丘陵ぐらいのようです。その遺跡の発掘時の製鉄残滓の分析から竹野製鉄コンビナートは朝鮮半島からの輸入砂鉄を原料に使用し、瀬田丘陵製鉄コンビナートは近江高島方面の鉄鉱石を使用していたと推定されています。もし、鉄鉱石からの製鉄が可能ならば、大陸渡来の生産技術を以ってすれば銅の製錬も十分、可能です。
ここで、瀬田丘陵製鉄コンビナートより古い丹後半島の竹野川流域の竹野製鉄コンビナートに注目しますと、この竹野製鉄コンビナートは製鉄原料として朝鮮半島からの輸入砂鉄を使用していました。この原料輸入に焦点を当てますと、その所在地が重要な要素になります。所在地に注目して、その周辺に残る伝承や神社の縁起などを探ると、この竹野製鉄コンビナートの近傍には竹野郡網野の水江にある網野神社付近が浦島太郎伝説を持つ日下部(くさかべ)氏の本拠です。そして、この日下部氏は丹波国の丹後半島、長門国の穴門、河内国の住吉などを拠点とした古代の海運を生業とするような氏族です。さらに竹野郡網野に接して間人(たいざ)と云う地域があり、この間人地区は聖徳太子の母親の穴穂部(あなほべの)間人(はしひと)皇后(こうごう)ゆかりの地です。その地名由来では聖徳太子一家が戦乱を避け一時滞在したこともあるとの伝えの残る、大和中央権力と濃密な連絡を想像させるような地域です。歴史では、この丹後半島の竹野郡は竹野氏、凡海氏、間人氏や日下部氏など古代史を周囲から飾る氏族の本拠です。そこにこの古代でも有数の竹野製鉄コンビナートが存在していました。
この製鉄に関する説明を踏まえて、『万葉集』の人麻呂歌集の歌を見ていきたいと思います。
木津川中流域 久世付近
泉川の辺にして間人宿禰の作れる謌二首より抜粋
集歌一六八五
原文 河瀬 激乎見者 玉鴨 散乱而在 川常鴨
訓読 河の瀬の激つを見れば玉をかも散り乱りたる川の常かも
私訳 川の瀬の流れの激しさを見ると白玉を散り乱したようだ。この川はいつもこうなのだろうか。
山背国讃良郡 久世付近
名木河にて作れる謌二首より抜粋
集歌一六八八
原文 炙干 人母在八方 沾衣乎 家者夜良奈 羈印
訓読 炙り干す人もあれやも濡衣を家には遣らな旅の印そ
私訳 濡れた衣を火に炙り干す人は私のほかにいるでしょうか。この濡れた衣を家に送ってやりましょうか。この濡れた衣は辛い旅の証です。
近江国高嶋郡の阿渡川流域
集歌一六九〇
原文 高嶋之 阿渡川波者 驟鞆 吾者家思 宿加奈之弥
訓読 高島の阿渡川波は騒くともわれは家思ふ宿りの悲しみ
私訳 高島の阿渡川の川浪は騒がしいが、私は故郷の家を思い出します。人と離れる旅がわびしいので。
伊賀国上野郡の木津川最上流
集歌二一七八
原文 妻隠 矢野神山 露霜尓 〃寶比始 散巻惜
訓読 妻隠る矢野の神山露霜ににほひそめたり散らまく惜しし
私訳 妻が籠ると云う矢野の神山が露霜によって色付きだした。その美しい黄葉が散るのが惜しいことです。
万葉集の歌から推測すると、集歌一六八五の歌を詠った間人宿禰や人麻呂は、この歌が詠われたときに連れ立って行動していたと思われます。万葉集では、この間人宿禰の名前は不明ですが、姓(かばね)としての間人宿禰については続日本紀 天平十七年(七四五)四月の記事に載る甲賀大仏建立時の工人の中に同族と思われる外従五位下丹比間人宿禰和珥麻呂の名前があります。このときの人選から推定して、丹比間人宿禰和珥麻呂は大仏の鋳造を担当していたようです。本来の八色姓からは間人宿禰ですから、間人宿禰は丹後国竹野郡間人(現京都府京丹後市)に関係すると思われます。先に説明したように、この竹野郡は瀬田丘陵製鉄コンビナートが稼動する前は、日本最大の製鉄コンビナートが存在した場所です。憶測になりますが、丹後半島の竹野郡に関係する間人の姓を持ち、丹比間人宿禰が甲賀大仏の鋳造に関わるなら、この集歌一六八五の歌を詠った間人宿禰は、なんらかの形で金属製錬に関わる人物と考えられると思います。なお、和珥麻呂が複姓の丹比間人宿禰と称しているのは、血に丹比連のものが入っているためと考えられます。
一般に、人麻呂歌集の歌に対する表記論では、これらの歌は略体歌や非略体歌に分類されます。そこから詠われたのが一番遅い時期としても持統天皇紀の早期以前の歌と推定されます。私は人麻呂歌集の歌の編年推定では略体歌や非略体歌は両立していたとする立場ですが、それでも歌が詠われた場所、史実、順列などを勘案して、これらの歌が詠われたのは、天智天皇の近江朝時代の歌と考えています。
さらに人麻呂の職業を推定するのに重要なこととして、ここで紹介した歌が詠われた場所は近江国高島、山背国久世、伊賀国名張の山中です。これが注目すべき点です。鉱山や鉱石採取に興味のある御方には、滋賀県の安曇川上流の朽木、京都府から滋賀県の宇治川水系の田上・信楽一帯、京都府・奈良県・滋賀県の木津川水系の山中に、金属の製錬・鋳造に関係する人物が何らかの目的でこれらの場所に来ていたと聞くと、その目的がなんであったのかが直ぐに判ります。現代の私たちですと趣味における銅鉱石やペグマタイト(巨晶)に含まれる多様な鉱石の標本採取ですが、人麻呂の時代は鉱業としての鉱山・鉱石探査と思われます。
こうした時、人麻呂が万葉集の中で御幸のように目的がはっきりとした公務以外で地方を訪れ、歌を残した場所は現代の鉱石マニアが標本採取に必ず訪れたいと思わせる場所です。
近江国高島の山中 滋賀県の安曇川上流の朽木
山背国久世の山中 京都府から滋賀県の宇治川水系の田上・信楽一帯
京田辺の甘南備山一帯
伊賀国名張の山中 京都府・奈良県・滋賀県の木津川水系の山中
播磨国加古の山中 兵庫県加古川水系の山中:多可または生野
長門国阿武の海岸 山口県長門市の海岸線:長門市日置や萩市山田青長谷
山口県萩市奈古や須佐から島根県益田市高山(神山)
集歌一六八八の歌は、地理では京都府城陽市から宇治市近辺を詠うものです。宇治川の南岸を仕事や住居の拠点とした場合、宇治川上流には磁鉄鉱石で有名な犬打川があり、近隣の京田辺市には水晶やペグマタイトで有名な甘南備山があります。このように、間人宿禰と人麻呂とは何らかの鉱物鉱床の探査に係わる仕事をしていたのではないかと窺わせるのです。
次に、集歌一六九〇の歌は滋賀県高島の歌です。ここは、続日本紀 天平宝字五年(七六一)の記事で藤原恵美押勝が鉄穴(鉄鉱石鉱山)を賜ったと示される土地です。また、詳細な地名は不明ですが、『続日本紀』によると大宝三年(七〇三)九月に志貴皇子に近江国の鉄穴が下賜されていて、およそ、それは琵琶湖北岸と推定されています。このように、正史に載るほどの鉄鉱石の鉱山に関わる地域に、人麻呂は何らかの目的で訪れています。
さらに、集歌二一七八の歌から推測されるように、名張から分け入り木津川の最上流の山辺郡山添の山中で秋の時期におよそ一~二月の期間に渡って、何らかの調査をしています。上野市の資料によると、当該地域の地勢は「地質学的には、上野盆地北縁から南東縁にかけての地域はイルメナイトを主とする山砂鉱床(砂鉄鉱床)などがある」とあります。さらに、この木津川の別の支流の上流の滋賀県大津市田上関津町には、トパーズ、黄鉄鉱や磁鉄鉱で有名な田上山があります。もちろん、万葉集に載るこれらの歌からは人麻呂がこの地を訪れた理由を直接に知ることは出来ません。
ここで、金属加工技術から近江・飛鳥時代を考えるときに、滋賀県大津から草津にかけての丘陵地帯に飛鳥から奈良時代に稼働した優良な鉄鉱石を原料とする製鉄工場遺跡が数多く出土しています。その規模や重要性から、発掘者や研究者はこの遺跡群を瀬田丘陵製鉄コンビナートと名付けています。この瀬田丘陵製鉄コンビナートについて、正史では日本書紀の天智九年(六七〇)の記事に「是歳、造水碓而冶鐵」とあり、この頃から水力を利用して唐臼で鉄鉱石を砕き、大規模製鉄を開始したと思われます。製鉄工程に関わる記事を正史に載せたのは官営の大規模な瀬田丘陵製鉄コンビナートがこの頃に正式操業に入ったためと考えられます。足痛とも称される足踏み式唐臼から水力式唐臼への転換は、製鉄の規模の大きさを示すものでしょう。そして発掘の成果報告によると、この製鉄コンビナートが使う鉄鉱石の供給は滋賀県の高島市の比良山地及び大津市田上山付近であろうと推定しています。つまり、そこは人麻呂の歌にゆかりのある場所です。そして、さらに重要なことは、この製鉄コンビナートの製鉄法は中世から近世日本の主力となる砂鉄からのたたら製鉄法とは違い、鉄鉱石からの製鉄方法です。つまり、八幡神(または市杵嶋比賣命)を祀る技術者系の製鉄法で運営されていた製鉄コンビナートなのです。
歴史では、天智天皇は京を志賀(滋賀)の大津に移し、その大津京に大和の住人を移住させています。そして、先に見たように、天智九年の水力唐臼の記事が示すように、そのころ瀬田丘陵製鉄コンビナートが開発されています。この製鉄コンビナートは当時としては大規模なもので、少し遅い日本書紀の記事になりますが、天武十四年(六八五)に大和朝廷は周防及び太宰に、同時にそれぞれ一万斤(約六トン)の鉄片を送っています。畿内での在庫の必要性を考えますと、少なくとも大和朝廷は数万斤(二~三十トン)の鉄片在庫を保有していたと思われます。その生産基地が、この瀬田丘陵製鉄コンビナートです。
ここで、柿本人麻呂に戻ります。
個人的な人麻呂歌集の歌の編年推定から、人麻呂は壬申の乱の前の近江朝時代に大津京に住んでいます。以下に紹介する人麻呂と隠れ妻との万葉集の相聞歌 集歌二四三六や集歌二四四〇の歌から推定して、近江朝時代には既に琵琶湖には琵琶湖北岸の高島にある香取の津から琵琶湖南岸に位置する志賀の辛崎への大船の運航があったと思われます。ここから、瀬田丘陵製鉄コンビナートの存在とその原料となる鉄鉱石を勘案しますと、高島郡で選鉱された鉄鉱石を瀬田へと送る琵琶湖の水上運搬があったと推定できます。瀬田の対岸となる志賀の辛崎は、琵琶湖を行く大船から川を遡る内航船への積み替え港の機能を持っていたと思われます。その積み出し港の高島に大和の住人である人麻呂が滞在していたこと自体が、市杵嶋比賣命を祀る柿本臣の一員である若き人麻呂の職務を物語っているのではないでしょうか。つまり、これらの状況証拠から類推して、若き人麻呂の職務は優良な鉱石・鉱脈を探査する鉱山技師です。
集歌二四三六
原文 大船 香取海 慍下 何有人 物不念有
訓読 大船の香取の海の慍(ふつ)下(くだ)しいかなる人か物思はずあらむ
私訳 大船が高島の香取の入江に碇を下ろすように、逢えないことへの怒りを下す。どのような人が、逢えない恋人に物思いに深けないことがあるでしょう。
集歌二四四〇
原文 近江海 奥滂船 重下 蔵公之 事待吾序
訓読 近江の海沖漕ぐ船しいかり下ろし隠りて公し事待つ吾ぞ
私訳 近江の海の沖を漕ぎ行くような大船が碇を下ろして浦に籠るように、家に籠って仕事で離れている貴方の訪れを待つ私です。
https://note.com/masachan5/n/n08382d1b8df2 【職業人としての柿本人麻呂
柿本人麻呂と三神社縁起】より
柿本臣一族について、その祀る神について考察しました。そして、その祀る神から類推して、『万葉集』の歌から柿本人麻呂は、青春時代、鉱山技師であった可能性を見出しました。一方、その柿本人麻呂自身も祭神となり、現在、多くの人に祀られています。ここでは祀られる神となった背景を探ることから柿本人麻呂の姿を考察してみたいと思います。
ほぼ、神として祀られる柿本人麻呂を確実に平安期以前まで遡れる縁起は、石見国美濃郡益田の戸田柿本神社縁起、長門国大津郡新別名(長門市油谷)八幡人丸神社縁起、武蔵国の川越氷川神社摂社柿本人麻呂神社縁起だけのようです。その他の人麻呂神社は人麻呂を歌聖として尊敬しての勧進や創建が主で、明石人麻呂神社に代表されるような神主自身の歌聖人麻呂への思い入れが縁起のような神社です。なお、益田市の高津柿本神社は柿本益田氏の氏神社と扱わせて頂き、柿本人麻呂が美濃郡小野郷戸田に残した子孫の繁栄の証しとしますが、人麻呂自身とは直接には関係しないとします。
筆者が行った万葉集の歌の分析から想像して、柿本人麻呂は人生で二度、大和から石見国美濃郡(現益田市)及び長門国大津郡(現長門市)付近に赴任しています。一度目が天武年間の初めで、二度目が慶雲年間頃です。このため、島根県益田市の戸田柿本神社縁起と山口県長門市の新別名八幡人丸神社縁起では、微妙にその伝承が違います。戸田柿本神社縁起は最初の天武年間に石見国美濃郡に赴任したときのもので、新別名八幡人丸神社縁起は二度目の慶雲年間の長門国大津郡に赴任したときのものと推定されます。
では、その三神社の縁起では、どのようになっているかを見てみます。
伝承と血縁において、一番、柿本人麻呂に近い戸田綾部氏が祀る私的な神社である戸田柿本神社の縁起では「綾部家は大和で柿本氏に語家(かたらや)として仕えていたが、後年、柿本氏の氏族と共に石見国美濃郡小野郷戸田に移り、その柿本氏と語家綾部家の娘の間に誕生したのが人麻呂である」となっています。また、別の縁起で「戸田郡の語家(かたらや)の柿の木のもとに一人の男子が・・」とあります。さらに、『人丸秘密抄』に「人丸は天武天皇御時三年八月三日に石見国戸田郡山里といふ所に語家命(みこと)といふ民(たみ)の家の柿本に出現する人なり」とあります。ただ、この『人丸秘密抄』は、綾部家の柿本神社縁起と『新撰姓氏録』に載る柿本姓の由来とを合わせた姿がありますので、「天武三年八月三日に石見国美濃郡小野郷戸田に柿本人麻呂と語家綾部の一族が大和から遣って来て、人麻呂と語家綾部の娘の間に一人の男子が生まれた」と云う出来事と「和珥族の支族で敏達天皇の時代に庭に柿の木が生えていたことから和珥臣から柿本臣に改姓した」との伝承とを併せて鎌倉時代以降に和歌道の門人への秘伝として創作されたと考えるのが良いと思います。
さて、この綾部氏は一般にはその名に示すように紡織にかかわる技術系の渡来氏族とされていますが、伝承では語家綾部家とありますので、この戸田綾部氏は人麻呂の語学(=漢字・漢文)の先生のような立場、または、大和人である人麻呂と渡来系技術者とを仲立ちする百済系言語の通訳のような立場であったと推定されます。この戸田綾部氏の戸田柿本神社の縁起を補強するものとして、埼玉県川越に川越綾部家が祀る氷川神社摂社の人麻呂神社があります。この人麻呂神社は川越綾部氏の祖を祀るものとして柿本臣人麻呂を祖神としています。『柿本人麻呂と川越他(山田勝利、氷川神社社務所)』によりますと、川越綾部家はその家系図と縁起からすると石見国美濃郡の戸田綾部家から奈良時代後期から平安時代初期頃に分家し、丹波国何鹿郡(いかるがぐん)綾部(あやべ)庄(しょう)の下司(げし)(=開拓地主、または、委託管理者)になっています。歴史ではちょうどこの頃、天平勝宝元年(七四九)から六年頃に柿本朝臣市守が丹後国守に任官しています。つまり年代的には丹後国守柿本朝臣市守と川越綾部家の先祖は丹波国何鹿郡で出会っていた可能性があります。場合により川越綾部家の先祖が本家の当主である柿本市守を頼って丹波国へ移ったのかもしれません。その後、この川越綾部氏は近江国を経て北条早雲の活躍した時代の永正二年(1505)に関東の川越へと移り住み、川越氷川神社に祖神として柿本臣人麻呂を祀っています。伝承ではこの川越綾部氏もまたその家系図では柿本臣人麻呂の子孫となっています。なお、丹波国何鹿郡綾部郷の綾部(あやべ)は「和名抄」では漢部(あやべ)と表記しますが、肥前国綾部庄の例からすると平安中期から後期までには既に漢部は綾部の表記に変化していたと推定されます。
川越氷川神社摂社の人麻呂神社は、少なくとも五百年は遡れる正しい歴史があります。また、川越綾部氏が何鹿郡綾部庄での先祖の職業を下司としている点からも、十分、伝承として信頼を置けると思います。下司(げし)の言葉が官職の地位を示すものとして使われたのは平安初期から中期の時代ですので、川越綾部氏の歴史と身分を誇るために下司(「げし」から「げす」への変化)の言葉の価値が下がる後年に付記した伝承とは思えません。このことからも氷川神社摂社の人麻呂神社の縁起と伝承は相当に正確ではないかと考えます。
さらに面白いことには川越綾部氏が伝える伝承での柿本人麻呂の命日は三月十八日です。これは島根県益田市の戸田綾部氏が伝える柿本神社の縁起に示す命日と同じです。大田道灌が死んだ後の室町時代後期の関東の川越で、歌聖の柿本人麻呂の子孫と名乗っても、当時としては藤原氏一門の冷泉家の歌人に対抗するには、あまりメリットはなかったのではないでしょうか。このためか、川越の人麻呂神社には室町から江戸期に和歌の免許皆伝の象徴となっていた摂津住吉大社から伝授された頓阿法師の人麻呂木像が、歌聖ゆかりの証しとして安置されています。本来、周囲の人たちが川越の人麻呂神社の由来を真剣に信じていれば、摂津住吉大社からの人麻呂木像伝授は不要か、逆に川越の人麻呂神社からなんらかのお墨付きが摂津住吉大社へ下される立場です。それに川越綾部氏は綾部の姓であって歌聖の柿本姓ではありません。京都や関東の人は石州益田の戸田綾部氏の戸田柿本神社の縁起や川越綾部氏の分家の話は知らないでしょう。つまり、人が戸田綾部氏と歌聖の柿本姓との関係を知らなければ家系図創作のメリットはありませんから、川越綾部氏の伝承は奈良時代後期の戸田綾部氏まで遡れると思われます。また、川越綾部氏が戸田綾部氏との間で室町時代になんらかの都合で緊密な連絡が結ばれた事実が無いのならば、両者の伝える奈良時代に遡る伝承は信頼できると思います。このことは逆説的に本家、戸田綾部氏の伝承の補強でもあります。
一方、長門国の大津郡新別名(現長門市油谷)には八幡人丸神社縁起が伝わっています。この八幡人丸神社縁起は、江戸時代後期に長州藩が取り纏めた寺社資料である『防長寺社由来』によると天平宝字年中(七五七~七六五)に立てられた弓弦葉八幡宮の社外末社である人丸社に伝わる伝承を弓弦葉八幡宮が伝えるものと、人丸社神護寺である真言宗松雲山柿本院人丸寺が荒廃・廃寺となった後の天正年中(一五七三~一五九二)に再建された浄土宗松雲山大願寺が享保八年(一七二三)に長州藩に寺社由来を提出するために伝承から起こした人丸縁起とがあります。弓弦葉八幡宮が伝えるものは元和年中(一六一五~一六二三)に焼失しており、現在の縁起は伝承からの復元です。このような背景があるためか、その八幡人丸神社縁起の内容には、地元だけの伝承、戸田柿本神社の伝承、元寇弘安の役での蒙古長門襲来の時の地元の記憶や江戸期での人麻呂伝承等が取り込まれています。なお、弓弦葉八幡宮の人丸社は江戸期に長州藩の庇護下に入り、藩が人丸社の再建の援助を行っています。それが明治期の神社合祀政策によりに弓弦葉八幡宮と合わさり、現在の八幡人丸神社です。ここで、近隣の美祢郡赤郷の長生山八幡宮には「往古に不思議の瑞顕があり奈良の内裏に奏上し、豊前国宇佐八幡太神を勧請した」との伝承が残されていました。また、地元に残る長登の地名の由来が奈良登りの言葉の訛りとの伝承を踏まえ、これらが契機となって平成元年からの長登銅山遺跡の発見へとつながっています。これらの状況を踏まえると長門市油谷の地元だけに伝わる八幡人丸神社縁起の伝承については参考に出来ると考えます。
その地元だけに伝わる伝承として八幡人丸神社の縁起では、「齢既に五十に余り給えば中津国の故郷忘れ難しとして和銅三年多田羅のはまを出、西海の波涛に漂ひ長門国大津の郡奥入江に着賜ふ、此地の至景他にことなりとて三年の春秋を送り給ひぬ」とあります。また、長州大津郡奥入江新別名にあった人丸社神護寺の後となる大願寺(現、油谷長安寺)の本地垂迹 松雲山柿本人麿縁起では、「太夫、姓は柿本、名は人麿。蓋、上世の歌人なり、持統・文武天皇の聖朝に仕へ、新田高市の皇子に遇ふといへり、仰人丸は権化の人にして、高く神明の思ひを振へり、(中略)、和銅三年多々羅のはまを出、西海の波涛に漂ひ長門国大津の郡入江に着賜ふ、此所の至景也にことなりとて三年の春秋を送り給ひぬ、・・・」とあります。
この八幡人丸神社の縁起について考えますと、縁起は人麻呂が老齢になり大和の国の故郷が恋しくて帰る途中に難破して隣の国に流れ着いたにもかかわらず、景色が良いからとそこに居ついてしまったと述べます。これは、少し、おかしいと思います。普通は老齢での帰国途中での難破で救助された後は故郷の大和に帰るか、遭難の前に住んでいた大宰府に戻るか、どちらかだと思います。さらに当時の「祓い」の風習で、官人以外で他所者が先住者のいる土地に住むことは難しいと思います。すると、人麻呂は、故郷に帰ろうとするのを住民が懇願して留めて崇めるような人物であったか、難破以外の何らかの理由で三年ほど、この地に住んでいたと考えられます。官吏は職務規則から勝手に自分の意思で任地と任期を変更することは出来ませんし、人麻呂は寿歌や挽歌を奉呈するような官人です。民間人ではありません。また、当時の官人登用の原則で朝廷に処罰として罷免されない限り、よほどの老齢か、疾病に苦しんでいない限り官人を退くことは出来ません。つまり、官人である人麻呂は、難破・漂着した先の住民が望んでも、人麻呂の意思でその任地と任期を変えることは出来ません。従って、縁起の内容は太宰の多田羅(現在の福岡市東区多々良浜)から長門方面への航海での難破では無くて、長門国大津から太宰の多田羅への航海での難破と解釈した方が良いと考えます。
つまり、縁起の元となった伝承は「高齢の人麻呂が三年ほど住んだ長門国大津から太宰の多田羅経由で大和へ向けて出発したが、すぐに難破した」だったのではないかと考えます。後年に「人麻呂が大和の都がある東に行くのに西の太宰府がある多田羅の地名が出てくるのは変だ。多田羅から船出したのだろう」と勘案して縁起が伝わる途中で変わったと推測します。平安中期以降とは違い、飛鳥・奈良時代の朝鮮半島との緊張関係の下に本州西端部の国防を担当する長門国府の本拠として長門国大津郡(現長門市)に国庁が置かれていたとしたら、その上京ルートは長門大津‐大宰府娜大津の多田羅(多田羅・草野津は陸路)‐豊前国京都郡の草野津(かやのつ)‐瀬戸内海‐難波大津の船旅になります。これは縁起とは、ちょうど逆の上京ルートとなります。なお、『万葉集』に載る長門国守巨曽倍對馬が詠う角島とは、大津郡新別名がある油谷湾の入り口にあり、比治奇(響)灘に面して浮かぶ島です。
この和銅三年(七一〇)について、万葉集 巻一と巻二とにおいて人麻呂の歌が平城京(寧樂宮)時代に詠われた歌の直前に置かれており、古くから人麻呂は和銅三年三月の奈良遷都以前に死んだとの伝承があります。このあたりから和銅三年の縁起が創られた可能性が考えられます。逆に、これを根拠に和銅二年に死没したと云う説があります。ただ、根拠はありませんが恣意的に「和銅元年頃に、三年間住んでいた人麻呂が死んだ」との伝承が「遷都のあった和銅三年に三年間住んでいた人麻呂が死んだ」へ変化したと強い願望を持って無理に理解したいと考えます。なお、戸田柿本神社縁起と高津柿本神社縁起では、神亀元年甲子(七二四)三月十八日に高角鴨嶋で「卒」した柿本人麻呂に対して鎮魂の社とその神護寺を建てたとありますから、命日の三月十八日は、まず、動かないと思います。
ただ、ここで理解していただきたいのは、戸田柿本神社縁起、川越氷川神社摂社柿本人麻呂神社縁起と新別名八幡人丸神社縁起とは、歌聖としての柿本人麻呂を神として祀ってはいません。戸田綾部氏と川越綾部氏とは一族の祖としての柿本人麻呂ですし、長門国新別名八幡人丸神社は、昔、地元に住んでいた中央政府の偉い人を祀っているのです。そこが、多くの人麻呂・人丸神社との違いです。
それぞれの縁起は、人麻呂がその地で何をしていたかは語っていません。中央の役人としてその地に遣って来て、そこに住んでいたことを語るだけです。ただし、石見国美濃郡戸田と長門国大津郡新別名とは、飛鳥・奈良時代の銅鉱山に関係する地域ですし、特に長門国大津郡新別名は重要な銅鉱山開発の拠点です。そこに金属製錬や鋳造を生業とする柿本臣の一員である柿本人麻呂は来ています。それも天武年間初め頃と慶雲年間頃との二度に渡って、何かしらの公務でこの地に派遣されたと縁起は伝えています。
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