Facebook中田実さん投稿記事🍀2024年5月10日(金)🍀🎁『私の終活の旅は小さな叫び』🎁アダムはリンゴがほしかったから食べたのではなかった。禁じられていたからこそ食べたのだ。』💝マーク・トウェイン
🔎📖👀 【『アダムはリンゴがほしかったから食べたのではなかった。禁じられていたからこそ食べたのだ。』 つまり、『リンゴに特別な意味がある』わけではない。そしてもちろんキリスト教の常識である、 聖書にある『ブドウ酒』も、『ブドウ酒自体に意味がある』わけではない。それは、たまたまそこにあっただけだ。それを目にした、あるいは思い浮かべた人間が、その個体を名指ししただけであり、リンゴやブドウ酒に何か特別な意味を持たせようとするのは、狂信的である。 それが『ミカン』だったら、ミカンに何か特別な意味を見出そうとし、『白ワイン』だったら、白ワインに何か特別な意味を見出そうとする。その相対的で虚ろな心模様は、とても滑稽である。見るべきエッセンス(本質)はそこではない。それが問題なのではないのだ。重要なのは『人間の罪』について。キリスト教の7つの大罪は、 傲慢 強欲 暴食 色欲 嫉妬 怠惰 憤怒 が挙げられるわけだが、これらの共通点はみんな『欲望を暴走させた結果』である。 孔子が定めた『罪』は、『利己』。 ソクラテスは、『無知』。 ブッダは、『執着』。 キリストは『罪』だ。 キリストの罪の定義が『罪』といいうのはどういうことかというと、罪という言葉は、紐解くとヘブライ語で『的を取り違える。的を外す。』という言葉に辿り着くようになっている。つまり、7つの大罪でも挙げたように、『欲望の持っていき方を間違える』ことこそ、キリスト教の教える『罪』ということになるのだ。 『アダムとリンゴ』の話然り、人間はその人生を生きていると、実に多種多様な『甘い罠』や『落とし穴』に遭遇することになる。そんなとき、『アダムとリンゴ』の話や、上に挙げた賢人たちの罪の定義の話のエッセンスを思い出せば、首を横に振って冷静さを取り戻し、その誘惑に負けて、堕落の道に足を踏み外すことは激減するだろう。 ➡ https://www.a-inquiry.com/ijin5580/ 】(IQ. 名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう! より)
🔎📖👀 【アダムとイブの物語を簡単に解説!天地創造から人類はこうして誕生した ➡ https://worldclub.jp/turkish/adam-and-eve/ 】(Turkish Culture Club より)
🔎📖👀 【精選版 日本国語大辞典「利己」の解説 り‐こ【利己】〘名〙 自分の利益だけを考えること。自分一人だけの利益を考え他人のことはかえりみないこと。我利。 ➡ https://kotobank.jp/word/%E5%88%A9%E5%B7%B1-657544 】 (コトバンク より)
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【【重要なのは『人間の罪』について。キリスト教の7つの大罪は、 傲慢 強欲 暴食 色欲 嫉妬 怠惰 憤怒 が挙げられるわけだが、これらの共通点はみんな『欲望を暴走させた結果』である。(IQ.より)】 【孔子が定めた『罪』は、『利己』。 ソクラテスは、『無知』。 ブッダは、『執着』。(IQ.より)】
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【【旧約聖書は、【天地創造】の章から始まります。 創造第一日目:何もない真っ暗な世界に、神は光を与え、天と地を創りました 第二日目:大空を創りました 第三日目:海と大地を創り、そこに草や樹を芽生えさせました 第四日目:太陽と月、星を創りました 第五日目:地上に動物と鳥を創りました 第六日目:神は自分を模って男と女を創造しました 第七日目:天地万物を完成させた神は安息し、第七の日を聖別し祝福しました そして次に、【アダムとイブ】の章に移ります。 神は天地を創造し、第六日目に自分を模って土で男を創り、鼻から命の息を吹き込み命を与え、アダムと名付けました。 次にアダムの鋤骨から女を創り、イブ(エバ)と名付けました。 神は二人を苦しみの一切ない、天国のような楽園「エデンの園」に送り、美しくおいしいあらゆる植物を生やしました。 そして園の中央には、「命の木」と「善悪の知識の木」を生やし、神は二人に言いました。 「人間にこの園をあたえよう。自分たちで耕し、守り、全ての木から実をとって食べなさい。ただし、善悪の知識の木の実は決して食べないように。食べると必ず死んでしまうよ。。」 そう言い聞かせました。 神の創った純粋無垢な二人は、羞恥心も猜疑心も持ち合わせていませんでしたから、美しいエデンの園を生まれたままの姿で、神の言いつけを守って幸せに過ごしていました。 ところがある時、知恵を授けられた蛇(悪魔の化身)が、イブの耳元でこうささやいたのです。 「この善悪の知識の木の実を食べてごらんなさい。決して死なないし、むしろ目が開け、神のように善悪を知る者となるのだよ。」 イブは蛇の言葉に惑わされ、とうとう禁断の果実を手にし、食べてしまうのです。 それは甘やかでおいしく、イブはアダムにも食べるよう勧め、とうとうアダムもそれを食べてしまいました。 その瞬間、二人の中に羞恥心や猜疑心、自己防衛、怒り、嫉妬、悲しみ…など、無垢とは反対の感情が芽生えたのです。 二人は自分たちが裸であることに気付き、すぐさまイチジク葉で身体を隠しました。 これを知った神は激怒し、約束を破った罰として女性には産みの苦しみを、そして男性には命を終えて土に返るまで、土を耕して食物を得る苦しみを与えました。 そして二人をそそのかした蛇には「一生腹で這い回り、あらゆる家畜や獣の中で呪われる存在となるのだ」と言いました。 アダムとイブには、エデンの園にある「生命の木」の実を食べて不死となる権利を与えないとし、園を追放されることとなりました。 「善悪の知識の木の実を食べると死んでしまう」という神の言葉通りになったのです。 神の言いつけに背いたことで、永遠の命と引き換えにエゴを手にしてしまった人間の罪…これを、キリスト教でいう人間の【原罪(一番最初の罪)】というものです。 アダムとイブが禁断の果実を食べてしまったことから、神の子であり、本来は神と同じような能力を持つはずの人間が、生まれながらに根本的な罪を背負っているとされているのです。 それを、この人生でキリストを信じ祝福をいただき、罪を許されることで天国へ導かれようとするのが、キリスト教の教えなのです。(European Styleヨーロピアンスタイル より)】
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私は長年(67)生きてきて、旧約聖書の事にしてもアダムとイブの事にしても、知っている様で実は見るべき本質を見ていませんでした。
何がが問題なのかを勉強させて頂きました。
よく目から鱗が落ちると言いますか、それに近いものを経験したと思います。
とても嬉しい気持ちです。
やはり、勉強していると、時にはこうして感動もするものなのですね。みなさんの中にも、そう思われた方がいらっしゃるのではないでしょうか?
それにしても、いつも長くてすみません。🙇
Facebook加藤隆行さん投稿記事【自由ってなんだろね】
「ああ、自由になりたい」そんな言葉をよく聴きます。不自由な人はその不自由を取り除こうと「他人」を変えようとします。「他人」を変えようとすると「他人」に執着し、「他人」に振り回され、「不自由」になります。
自分のコントロール外のものをなんとかしようとすることで、自ら「不自由」に”縛られ”に行きます。
自由な人は「他人」を変えようとしません。「他人をどうするか」よりも「自分がどうしたいのか」でものごとを決めます。
その時、「他人」と利害がぶつかることがあれば「他人」に「こうしてくれればありがたい」と「お願い」や「交渉」はしてみるかもしれません。
しかし「他人」がそれを聞き入れてくれなくともそれも相手の「自由」だと知っています。
「まあしょうがないな」「相手には相手の都合があるっぺ」と思い「じゃあ自分にできることをしよう」と自分のコントロール内のことに取り組みます。
相手の「自由」を認めると自分が「不自由」になると思っている人はめちゃくちゃ多いのですが、それは大きな大きなカンチガイです。相手の「自由」を認めないと自分が「不自由」になります。相手の「自由」を認めると自分が「自由」になるのです。
相手の自由を認めないということは相手に束縛されているのと同じです。
「自由」の意味は他からの束縛を受けず、自分の思うままにふるまえること。
そして「由」とは「よりどころ」という意味で「自らを、よりどころにする」という意味。
「他を、よりどころにする」人には「自由」は訪れません。
他人も環境も関係ない。「じゃあ私はどうしたい?」これが「自由」を取り戻す本当の方法です。
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さて、ここまで読んできてなんで私はこんなに「不自由な人」になってしまったのだろう、
と思う人もいると思います。
それは昔むかし、まだ私が小さかった頃に私の「自由」を認めてもらえない環境にいたからかもしれません。
だから他人を変えないと自分は自由になれないと思い込んでしまった。
でももうアナタは「自由」なのです。環境の奴隷や被害者ではありません。
自分をよりどころにしてください。「ほんとうは私はどうしたい?」ただただそれだけが答えです。
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