https://www.nibb.ac.jp/evodevo/tree/02_02_land%20plants.html 【陸上植物の進化】より
陸上植物は文字通り陸上にいる植物という意味です。
しかし、藻類の中にも陸上生活をするものがあり、正確ではありません。そこで、専門的には配偶体組織の中で受精卵が多細胞の胞子体(複相植物体:胚)を形成することから有胚植物Embryophytes という用語を用います。ただ、便宜的には陸上植物の方がなじみ深いのでここでは陸上植物を使います。
植物はいろいろな系統を含んでおり、植物の中の緑色植物の一系統が陸上植物へと進化しました。
陸上植物に一番近い緑藻類はZygnematales接合藻目(アオミドロ、ミカヅキモなど)である可能性が高いことがわかりました(Wickett et al. 2014)。 詳細はこちらを参照。
コケ植物
乾燥耐性を持った厚い壁をもち、減数分裂によって生じたことがわかる4集粒の化石が約4億7千万年前から見つかり、このころに緑色植物は陸上化したのではないかと推定されています。
現生している陸上植物の中で最基部で分岐したのがコケ植物Bryophytesです。
コケ植物はタイ類、セン類、ツノゴケ類の3つの系統からなります。遺伝子を用いた解析からまずタイ類が分岐し、次ぎにセン類、そしてツノゴケ類が分岐したと推定されていましたが(Qiu et al. 2006)、この解析には問題があり、その後の解析からタイ類、セン類、ツノゴケ類は側系統ではなく単系統となり、タイ類、セン類が姉妹群となる可能性が高いことがわかりました(Wickett et al. 2014)。詳細はこちらを参照。
初期の陸上植物
陸上植物の祖先が上陸した後でもっとも古い大型化石はシルル紀から発見されていますが、現生のコケのような形態ではなく、二又に枝分かれする形態をしています。
これまで、陸上植物の最基部に位置するコケ植物は側系統群であると推定されていたことと、コケ植物が分枝しない胞子体を形成することから、陸上植物の祖先はコケ植物のような形態をしていたが、化石が見つからないのだろう、そして、二又分枝する化石(前維管束植物)は陸上植物の共通祖先ではなく、維管束植物の共通祖先だろうと思われてきました。
陸上植物の共通祖先が前維管束植物だとすると、現生コケ植物の3系統のそれぞれで独立に二又分枝形態から分枝しない形態への進化が起きなければならないからです。
しかし、Wickett et al. (2014)などの研究からコケ植物が単系統だとすると、前維管束植物が陸上植物の共通祖先であっても、現生コケ植物の共通祖先で二又分枝から分枝しない形態への進化が1回だけおきれば良いことになります。
さらに、最近、面白い実験結果を得ました。コケ植物セン類ヒメツリガネゴケのゲノムを解読し(Rensing et al., 2007)、PRC2という遺伝子を働かなくすると、枝分かれした胞子体を形成するようになり、その形態が前維管束植物に似ているのです (Okano et al., 2009)。このことから、これまで分枝しないと考えられてきたコケ植物の胞子体も、1つの遺伝子の発現を変えるだけで分枝することがわかりました。従って、現状では、
(1)陸上植物の共通祖先はコケ植物のように枝分かれしない胞子体を持っていた、という仮説と、
(2)陸上植物の共通祖先は前維管束植物だった、という仮説は
どちらもありうる仮説であるが、化石がでる分、後者の可能性が高いと考えられます。もちろん、今後、シルル紀から枝分かれしていない胞子体を持つコケ植物の大型化石が見つかれば、前者が正しい可能性が高くなります。
(写真は大阪市立博物館にて撮影)
前維管束植物
前維管束植物
ホルエオフィトン属Horneophytonやアグラオフィトン属Aglaophytonの胞子体は枝分かれをしますが、二次肥厚する仮導管(水や無機養分を運ぶ細胞)を持っていません。これらの化石植物をまとめて前維管束植物と呼びます。
(写真は大阪市立博物館にて撮影)
維管束植物
維管束は前形成層が一次木部と一次篩部へと分化してできたもので、一次木部は水や無機養分、一次篩部は有機養分の通導組織として機能し、効率的に水や養分を運べるようになり、陸上植物の巨大化に貢献したと考えられています。
一次木部には仮導管や導管要素と呼ばれる、死んで穴が空いた特殊な細胞があります。陸上植物の進化の過程で、まず仮導管が生じ、その後で導管要素が進化しました。
リニア類、小葉植物、トリメロフィトン類、シダ類のほとんどは仮導管を持ち導管を持ちません。コケ植物セン類やタイ類は水や無機養分を運ぶ導束(ハイドロイド)や有機養分を運ぶレプトイドという組織を持っています。
木部と導束、篩部とレプトイドが相同か、あるいは、それぞれ独立に進化してきたのかはまだわかっていません。導束細胞と仮導管の大きな違いは、仮導管の細胞壁が二次肥厚して厚くなる点です。リニア類の細胞壁は多少肥厚しますが薄く、それ以外の維管束植物の仮導管の細胞壁はずっと厚くなり丈夫になっています。導管要素の細胞壁も厚くなります。
小葉植物
小葉植物は絶滅したゾステロフィルム類と現生している小葉類からなります。
ゾステロフィルム類は二又分枝する茎のみからなり、茎の表面に突起があります。小葉類は葉脈が1本だけの葉を持ち、この葉はゾステロフィルム類の突起から進化してきたと考えられています。
維管束植物は根、茎、葉の3つの器官を持ちますが、小葉植物の祖先であるゾステロフィルム類と真葉植物の祖先であるトリメロファイツ類はともに根と葉を持ちません。また、茎も単純で現生維管束植物の茎とは異なっています。従って、根茎葉は小葉植物と真葉植物でそれぞれ独立に進化してきたと考えられています。
小葉植物の葉と真葉植物の葉は同じような遺伝子を使って作られているか研究が進んでいますがまだはっきりせず、さらなる研究が必要な段階です(Floyd and Bowman, 2006; Harrison et al., 2005)。日本も主要な貢献をした国際共同研究によって小葉類イヌカタヒバのゲノムが解読されたので(Banks et al., 2011)、今後の研究の進展が期待できます。小葉類は根茎葉に加えて担根体という他の陸上植物には見られない根と茎の中間のような器官を持っており、その起源と進化は多くの謎を秘めています(加藤 1999)。
真葉植物
トリメロフィトン類は茎だけからなり二又分枝しますが、二又した枝の片方が他方よりも大きくなるもの(単軸分枝)が進化しました。
トリメロフィトン類の茎だけの構造からどうやって現生維管束植物の茎や葉が進化したかについては、ドイツのWalter Zimmermannがテローム説という仮説を提唱し、近年の発生学的研究からテローム説の再検討が行われています(Beerling and Fleming, 2007)。これまでの研究からは、おそらく別な仮説が必要になると思いますが、まだはっきりわかりません。
(写真は大阪市立博物館にて撮影)
シダ類
従来、シダ類と呼ばれていた仲間(薄嚢シダ類と真嚢シダ類[リュウビンタイ目、ハナヤスリ目]を併せた群)はマツバラン目、トクサ目と単系統になることがわかり、ここではこれら全体をシダ類と呼びます。
また、シダ類と小葉類をあわせてシダ植物 Pteridophytesと呼ぶことがありますが、系統樹からわかるようにシダ類と小葉類は離れた系統であり、形態も異なっているので、シダ植物とひとまとめに呼ぶのは妥当ではありません。
シダ類と木質植物は独立に茎(維管束系)が複雑化したことが明らかになり、葉の発生様式も異なるので、シダ類と木質植物はトリメロフィトン類から独立に根茎葉を進化させたと考えられています(ギフォードとフォスター 1988、加藤 1999)。
遺伝子を用いたシダ類の系統関係は日本の研究者を中心とした研究が最初であり(Hasebe et al., 1994)、これを元にした国際共同研究によって概要が明らかになりました(Hasebe et al., 1995)。その後、詳細な解析が行われ、Schuettpelz and Pryer (2007)でほぼ全ての系統関係が明らかになりました。
木質植物
シダ類のヘゴは10メートルほどになりますが、幹のほとんどは不定根で幹の中央に細い茎があるだけです。
シダ類と分かれた系統(木質植物)で、一次木部と一次篩部の間に形成層と呼ばれる幹細胞群が進化し、形成層で継続的に二次木部と二次篩部が形成されるようになりました。
植物は光合成をするので、光を奪い合う競争をしています。太い茎を形成できるようになると、風雨で倒れて光に当たりにくくなるのを防げたり、背が高くなることでより光を得やすくなったりする利点があると考えられます。初期の木質植物はトリメロフィトン類から進化した草本植物様だったと推定されますが、その後、化石として残りやすい木本植物が進化したと考えられます。
茎が丈夫になったり、背が高くなることは、生存競争に有利だったので、木質植物である裸子植物と被子植物の繁栄をもたらしました。
注:草本植物と木本植物:維管束形成層をもち二次成長するものを樹木と呼ぶと定義することもあるが、被子植物アブラナ科のシロイヌナズナやシダ植物ハナヤスリ類などでも維管束形成層から二次成長が起こる。したがって、草(草本)と樹木(木本)の明確な定義は困難である。(長谷部光泰:陸上植物の形態と進化[p. 179]より引用)便宜的に、茎の柔らかいものを草本植物、固くなるものを木本植物と呼ぶ場合が多いように思う。
前裸子植物
最初に木となった植物、すなわち、木質植物の基部に位置する前裸子植物はシダ類やそれ以前に分岐した陸上植物と同じように胞子で繁殖していました。
最初の前裸子植物はほとんどのシダ類と同じように1種類の胞子を作り(同型子性)、胞子から発芽した配偶体に造精器と造卵器の両方を付けて受精していました。
その後、大型(雌性)と小型(雄性)の2種類の胞子を作る(異型胞子性)前裸子植物が進化し、雌性胞子からできた雌性配偶体は造卵器を、雄性胞子からできた雄性配偶体は造精器を作るようになりました。
雌性胞子は胚嚢細胞、雄性胞子は花粉の祖先だと考えられています。
種子植物
コケ植物から前裸子植物までの植物は、胞子を散布し、胞子は親植物(胞子体植物体)とは独立に発芽し成長した後、卵と精子を作り受精していました。
ところが、前裸子植物の中に、雌性胞子を親植物の体の中に保持し、親植物の中で受精がおこるようなものが現れました。この突然変異体は、小さな胞子が発芽、成長、受精ができないような乾燥した環境でも子孫を残せるようになったと考えられます。
親の体の中で受精がおき、出来た受精卵は成長し胚となります。胚は親の組織(種皮)に包まれて、親から散布されるように進化しました。これが種子です。種子を作るようになった最初の木質植物が裸子植物です。
裸子植物
種子は適応的だったので、裸子植物は繁栄し、多様な形態を持った種類が生まれました。しかし、現在生き残っている裸子植物はソテツ目、イチョウ目、マツ目、グネツム目の4目だけです。
これら4目の裸子植物はそれぞれ形態が大きく異なっているため、従来はまとまった群ではなく、これらのうちのどれかが被子植物に近いのではないかと思われてきました。しかし、日本の研究グループの遺伝子のアミノ酸配列を用いた研究(分子系統学と呼びます)によって現生裸子植物が一つのまとまった群(単系統群)であることが世界で始めて明らかになりました(Hasebe et al. 1992b)。
また、導管を持つ点、雌性生殖器官が花に似ている点からグネツム目(グネツム科、マオウ[麻黄]科、ウェルウィッチア[奇想天外]科)が被子植物に最も近縁な裸子植物であると長らく考えられてきました。しかし、日本のグループによって分子系統学的研究から被子植物よりも他の裸子植物に近縁であることが明らかにされました(Hasebe et al., 1992a)。
絶滅した化石裸子植物は一つのまとまった群ではないと考えられており、どの化石がもっとも被子植物に近いのか、即ち、どの裸子植物が被子植物の祖先になったのかの研究が盛んに進められていますが、まだ結論はでていません(西田 1998)。
被子植物
現生陸上植物のなかで最も繁栄し種数の多いのが被子植物で、約25万から40万種が存在すると考えられています。
種子のもと(胚珠)を子房の中に包み込むことにより、乾燥に強くなり、果実として動物による散布が可能となりました。
被子植物の祖先において、雌雄の生殖器官(雄蕊と雌蕊)がコンパクトにまとまった生殖器官(花)が進化したと推定されています。
花形態は送粉昆虫との共進化によって多様化したと考えられています。
https://www.sake-asaka.co.jp/blog-mononobe/20170810/【第一章 出雲から大和へ】より
2世紀。中国には漢という国があり、北は今日の遼寧省あたりから南はベトナムまで、西はタリム盆地の手前までを領土としていました。その2世紀の第4四半期に入ると地球規模で気温が下がりました。作物は稔らず、各地で飢饉が起きたことでしょう。
中国では184年に黄巾の乱と呼ばれる農民反乱が起こり漢は実質上統治機能を失います。寒冷な気候を避け、西からは遊牧民族の羌(きょう)や氐(てい)が侵入を始め、北からは騎馬民族の匈奴(きょうど)が南下してきます。気候は短期間である程度回復したようですが、3世紀に入ると漢は滅び、魏呉蜀の三国時代へ突入します(厳密に言えば魏の北にあった燕(公孫氏)を含む四国時代であり、朝鮮半島を支配していた燕が魏に滅ぼされた翌239年にヤマト国のヒミコは魏に遣いを出します。ヤマト国については第十五章でも述べます)。
気候寒冷化の影響で朝鮮半島に南下してきた民族から日本に製鉄技術が伝わります。気候が回復するにつれ弥生時代が終わり古墳時代が始まります。最初に大古墳が築かれるのは2世紀末の出雲。まずは出雲から話を始めましょう。
古事記と日本書紀(以下、記紀)にはいわゆる出雲神話が書かれています。因幡(いなば)の白ウサギを助けるのは大国主(おおくにぬし。注)。大国主は海の彼方からやってきた少彦名(すくなびこな)の助けを借りて葦原中国(あしはらなかつくに)を平定します。これらの舞台は出雲(島根県東部)、伯耆(鳥取県西部)、因幡(同東部)ですので、葦原中国はこの一帯のことでしょう。近年の発掘調査で2世紀から3世紀にかけての同国の様子が明らかになってきました。
注:大国主はその名の通り葦原中国の王であるが、国土創造神とも考えられる大己貴(おおあなむち)はじめ大物主(おおものぬし)、八千戈(やちほこ)、大国玉(おおくにたま)、葦原醜男(あしはらのしこお)など多くの名を持つ。記紀の編者は出雲の神々を「大国主」に代表させようとしたものと思われる。
1.都市
妻木晩田遺跡から見る日本海と米子の街
葦原中国の、特別な集落と考えられるのが妻木晩田(むきばんだ)遺跡です。
竪穴式住居骨組(鳥取県むきばんだ史跡公園弥生の館
遺跡は鳥取県西部の大山町の日本海から2km離れた丘陵の尾根上にあり、900棟以上の建物跡、30基以上の墳丘墓が発見されました。「東西約2km、南北1.7km、面積約170ヘクタール(国史跡指定約152ヘクタール)にも及ぶ弥生時代の遺跡としては国内最大級の広さを誇ります。」(鳥取県立むきばんだ史跡公園パンフレットより)
同時期に全ての建物が存在した訳ではなく、紀元前後から3世紀後半までの300年弱、人口密度がかなり低い集落であり続けたことが判明しています。墓地群が建物のそばにあることから祭祀を行う特別な集落であった可能性が高そうです。
3世紀後半にこの集落は放棄されます。後に述べますが、ヤマト国との戦に敗れたものと私は考えています。
写真1:妻木晩田遺跡から見る日本海と米子の街
写真2:竪穴式住居骨組(鳥取県むきばんだ史跡公園弥生の館)
2.港湾集落
精緻な木製品(青谷上寺地遺跡展示館)
鳥取県中部、倉吉市街と鳥取市街の中間あたり、青谷平野には港湾集落がありました。青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡です。妻木晩田(むきばんだ)遺跡から東に37kmです。
この遺跡は日本海に臨む入り江にあり、護岸工事の跡や倒壊したまま泥に埋まった建物、大量の生活用具、人骨が発掘されました。泥の中は適度な湿度があり、酸素が遮断されますので、木製品が非常に良い状態で残りました。人骨には脳も残っていました。
弥生人の脳レプリカ(青谷上寺地遺跡展示館)
住民の主たる糧は漁業と農業。骨角製のヤスやモリ、釣り針、石で作られた漁網の錘(おもり)、それに木製の鍬や鋤、石包丁などの農具が出土しました。狩猟も行いました。イノシシや鹿の骨がたくさんみつかっています。鉄製の鑿(のみ)や刀子で精緻な木製品も作られました。
驚くべきは交易範囲の広さです。北陸、北九州、瀬戸内海沿岸、近畿地方で作られた土器、それに中国・新王朝(紀元8-23)の貨幣、朝鮮半島で作られた鉄斧などが出土しています。漁港としてのみならず海上交易拠点としても機能していました。
千人分以上の人骨が発見されていますが、その内少なくとも109人分の人骨は埋葬されず溝の中に捨てられた状態で発見されました。「この人骨群の中には、鋭い刃物で傷つけられた骨が約110点(10数人分)見つかっています。
何らかの理由で殺傷された人々と考えられます。これらの人々は約1800年前に生きた人々でした。」(青谷上寺地遺跡展示館展示パネルより)。
中には真っ正面から額に斧を打ち込まれたと思われる女性の頭骨もあります。大国主が葦原中国を平定する過程で戦があったのかもしれません。
この遺跡は3世紀後半、生活道具もそのままに突然放棄されて終末を迎えます。ヤマト国に滅ぼされたものと私は考えています。
写真3:精緻な木製品(青谷上寺地遺跡展示館)
写真4:弥生人の脳レプリカ(青谷上寺地遺跡展示館)
3.大古墳の出現
西谷古墳群2号墓(出雲弥生の森)
島根県出雲市役所の南東2kmに広がる西谷丘陵上には2世紀末から3世紀後半にかけて造られた古墳群があります。その内、2号墓、3号墓、4号墓、9号墓は一辺30m以上もある方墳で、何れも四隅(よすみ)が突出しており、四隅突出型古墳と呼ばれます。このような大古墳は葦原中国ではここにしかありませんのでこれらは王墓と推定できます。後に大国主が祀られる出雲大社は西北10kmに位置します。
西谷古墳群3号墓(出雲弥生の森)
上述の妻木晩田遺跡にある幾つもの古墳は規模が小さいもののやはり四隅突出型です。この祖型は朝鮮半島北部、当時の国名で言えば高句麗(こうくり)に見られますので、葦原中国は朝鮮半島と密接な関係を持っていたことが解ります。妻木晩田遺跡南側の孝霊山は、高麗山とも書きます。記紀に書かれた少彦名(すくなびこな)は海の彼方からやってきて、大国主を助けて葦原中国を平定し、やがて海に去って行きます。少彦名は高句麗系渡来人を象徴しているようです。
四隅突出型墳墓(妻木晩田遺跡)
大古墳を造る土木工事には鋤や鍬など豊富な鉄製道具が必要です。出雲は、2世紀末に高句麗から製鉄技術がもたらされ、いち早く弥生時代から古墳時代に移行したことが解ります。鉄製農具により農業生産性が向上し、人口が増えました。鉄剣、鉄の矢尻など武器の性能も上がり、葦原中国は出雲から因幡まで勢力を伸ばし、更に奈良盆地を目指します。
妻木晩田遺跡から見る高麗山
なぜ奈良なのか。それは奈良盆地は本州中央にあり、物流ルートの要に位置したからです。先ず、九州、四国、瀬戸内海沿岸の物資は大阪湾から河内湖、大和川で水運が可能でした。日本海側の物資は、敦賀から僅かな距離の陸送を挟んで、琵琶湖湖水交通、宇治川、巨椋池、木津川を経て奈良盆地の北隣、木津まで船で運べました。東からは二経路。伊勢湾から鈴鹿川、僅かな距離の陸送を挟んで木津川に至るのが一つ。もう一つは伊勢湾から揖斐川下流域、関ヶ原を越える陸送、そして琵琶湖湖水交通に繋がりました。これらのルートは明治時代に鉄道輸送が始まるまで使用されました。
古代大和水運図
古代大和水運図2
写真5:西谷古墳群2号墓(出雲弥生の森)
写真6:西谷古墳群3号墓(出雲弥生の森)
写真7:四隅突出型墳墓(妻木晩田遺跡)
写真8:妻木晩田遺跡から見る高麗山
古代大和水運図
4.出雲の痕跡
大神神社(通称三輪神社)鳥居
記紀によれば、ある時、海に光が射し大国主の分身(大物主)が現れ、その言葉に従って大国主(おおくにぬし)は大和の三諸山(みもろやま。奈良県桜井市三輪山)に大物主(おおものぬし)を祀ります。出雲を中心とする葦原中国(あしはらなかつくに)の勢力が奈良盆地にまで及んだことを示しています。出雲はヤマト国に製鉄技術を伝えました。
三輪山をご神体とする大神神社(おおがみじんじゃ。桜井市三輪1422)の祀神は大物主です。三輪山の南東際には出雲の地名が今も残ります。
枚岡神社鳥居
記紀によれば出雲の人々も太陽神を信仰していました。その祭祀の場所は、その所在地の地名から枚岡神社(東大阪市出雲井町)と推定できます。
枚岡神社本殿
写真9:大神神社(通称三輪神社)鳥居
写真10:枚岡神社鳥居
写真11:枚岡神社本殿
5.国譲り
記紀によりますと、大国主は太陽神アマテラスに派遣されたタケミカヅチに国を譲ります。その代償に建ててもらうのが出雲大社です。
記紀は、日本の歴史を古く見せるために内容を引き伸ばす必要があり(第九章で詳しく述べます)、同じ話を2回に分けて書いています。最初は神話時代の話としてタケミカヅチに譲ったと記し、次に神話と歴史の中間に位置する神武(じんむ)天皇が九州から遠征して大和に入って初代天皇になったと記し、更に第10代崇神(すじん)天皇を現実の初代天皇として描きました。何れにせよ、九州から太陽神を奉じて東征した勢力が今日の奈良県を中心とする地域から出雲王朝を駆逐し、母国の出雲をも征服したというのです。
近年の纏向遺跡発掘の成果により出雲王朝も神武東征も否定されています。2世紀に弥生文化が崩壊した後、主たるクニの話し合いでヒミコを王に擁立し纏向を首都とした新しい連合国・ヤマトが3世紀初頭に建てられました。出雲は製鉄技術でヤマト国に貢献しました。3世紀後半、出雲はヤマト国と対立し滅ぶことになります。
大和神社
ここでヤマト国の祭祀の場所についても述べておきましょう。
一つは大和神社(おおやまとじんじゃ。天理市新泉町)。纏向遺跡の北側です。祭神は、大国魂(おおくにたま)。筆者はヤマト国の王達の魂を祀っていると考えています。
檜原神社
もう一つは檜原神社(ひばらじんじゃ。桜井市三輪)。聖なる山・三輪山の裾野、奈良盆地に最初に造られた前方後円墳(箸墓古墳)の真東1.4km。太陽を祀ります。社殿はなく、二本の柱に縄を渡した鳥居が立つだけの原初的な神祀りの姿を留めます。
記紀の記述では宮中にて祀っていた両神を、崇神天皇の時代に「百姓」(一般庶民のこと)の「流離」や「背叛」があった為、それを鎮めるために移して祀り始めたとしています。しかし物部氏が作った八十(多いという意味)の皿で大国魂を祭ったとあり、次の物部王朝になってから滅ぼされたヤマト国の王の祟りに思い当たってそれを鎮めるために祭祀が始まったのかもしれません。
写真12:大和神社
写真13:檜原神社
6.出雲の祭祀
銅剣(国宝。荒神谷博物館)
昭和58年(1983)のことです。大きな四隅突出型古墳のある西谷丘陵から約10km東の島根県斐川町で、それまで日本全国で出土した総数を上回る358本もの銅剣が、整然と埋められているのが発見されました。更に翌年、数メートル離れた所から銅矛(どうほこ)16本、銅鐸(どうたく)6個が発見されたのです。荒神谷(こうじんだに)遺跡と命名され、博物館を含む立派な公園が整備されました。
銅剣出土現場
これら銅剣や銅矛は実用品ではなく祭器です。鳥居龍蔵博士(1870-1953)は、水田稲作が始まった中国長江(揚子江)流域では青銅製の祭器が用いられ、祭りが終わると丁寧に地中に埋めて保管したとしています。次の祭りに使うつもりで荒神谷に埋め、何らかの理由でそのままになってしまったのでしょうか。
銅剣出土情況模型(荒神谷博物館)
紀元前8世紀に訪れる急激な気候寒冷化の時期、中国では周王朝が衰微して遷都し(前771)、春秋戦国時代が始まります。北から押し寄せる難民の圧力に耐えかねた稲作農民は、東へは海を越えて日本列島や朝鮮半島南部に移住しました。弥生時代の始まりです。稲作農民は陸続きの南へも移住し水田稲作が拡がって行きました。
中国のほとんどの地域、日本や朝鮮半島では青銅製の祭器を用いる習慣そのものが廃れてしまいましたが、南への伝播ルートでは受け継がれている場所があります。例えば中国貴州省。「ミャオ族では、いまも胴鼓が村の祭りのときに楽器として用いられている。かつては埋納されていたという。」(佐々木孝明著「日本文化の基層を探る」P.99写真説明より)
写真14:銅剣(国宝。荒神谷博物館)
写真15:銅剣出土現場
写真16:銅剣出土情況模型(荒神谷博物館)
7.刻印と放置
銅剣に刻まれた×印(荒神谷博物館展示パネル)
荒神谷遺跡で発見された祭器ですが、埋めた時期は特定できません。358本の銅剣の内、344本の茎に×印が刻印されていることが気に掛かります。
「時代が下って編纂された『式内宮』として認められた神社の、出雲地方での総数と出土した銅剣の本数との奇妙な一致があげられる。」(Wikipedia「荒神谷遺跡」より)
戦に勝ったヤマト国が、出雲各地で行われていた祭祀を一律に禁じ、祭器を集めて埋めたのでしょうか。
平成8年(1996)、荒神谷から山を隔てて3km余り、加茂岩倉遺跡から39個もの銅鐸が発見されました。内、13個にも×印が刻印されていました。荒神谷遺跡と関係がありそうです。
写真17:銅剣に刻まれた×印(荒神谷博物館展示パネル)
第一章終わり
https://www.sake-asaka.co.jp/blog-mononobe/20170910/ 【第二章 物部王朝<前編>】
2世紀に弥生文化が崩壊した後、主たるクニの話し合いでヒミコを王に擁立し纏向を首都とした新しい連合国・ヤマトが3世紀初頭に建てられました。私はこの王朝を崇神王朝と呼びます。
記紀の記述を見ますと、神話時代と歴史の境に位置する初代神武天皇の後、第2代綏靖(すいぜい)天皇から第9代開化(かいか)天皇までは事績や物語がほとんど書かれていません。これを「欠史八代」(けっしはちだい)と言います。第10代崇神(すじん)が実質上の初代天皇で、記紀も神武天皇と同じく「ハツクニシラス」(初代天皇)とします。
崇神王朝は栄え、奈良盆地に日本最初の前方後円墳群を残しました。しかし4世紀末の仲哀天皇(14代ちゅうあい)の後、応神天皇(15代おうじん)に取って代わられます。
応神天皇陵(誉田八幡宮境内展示パネル)
応神天皇に始まる新しい王朝を私は物部王朝と呼んでいます。はじめにに書きましたが、古事記では履中天皇(17代りちゅう)の形容に「物部」を使用しており、それは天皇が物部氏であることを意味しているからです。
記紀の記述が充実するのは第10代崇神天皇からですが、その寿命は120歳。11代垂仁(すいにん)は140歳、12代景行(けいこう)は106歳といった具合でにわかには信じられません。記紀を基礎とする私の探索は15代応神天皇、即ち物部王朝から始まります。
崇神から物部へと王朝が替わった事はその前後で古墳の規模や副葬品が一変することで解ります。生活レベルでも大規模な灌漑土木工事が行われたり、須恵器(すえき)と呼ばれる高温で焼かれた灰色の土器の使用が始まったり、大きな変化が見られました。
日本書紀は日本の歴史を古く長く見せるために(第九章で詳しく述べます)、応神天皇即位を西暦270年にしています。しかし物部王朝を特徴づける巨大前方後円墳、大土木工事、大量の鉄製品と馬具、須恵器は5世紀初に始まることが確定しています。王朝が始まったのは紀元400年頃と言えます。
応神は北部九州から東征して大和国に入りましたが、最大の特徴は秦氏(はたし)と呼ばれる中国系帰化人と共にやってきたことです。
写真1:応神天皇陵(誉田八幡宮境内展示パネル)
1.秦氏
秦氏とは、中国最初の統一王朝・秦(しん。前221-前206)の時代、朝鮮半島南東部に移住した中国人集団で、4世紀の新羅(しんら)建国に伴い朝鮮半島南西部の百済(ひゃくさい)経由で九州、そして日本各地に移住してきたものです。
秦氏は、機(はた)織り、畑(はた)作に優れていました。それ以外にも金属加工、治水、土木、建築、商業、窯業、醸造他、多くの分野で高度な技術と知識を持ち、それらを文化と共に日本にもたらしました。
その秦氏を率いてヤマト国の中心に入った応神天皇自身が秦氏であったと私は考えています。豊富な鉄と高度な技術を背景に日本を支配する勢力になったのです。
2.秦氏の王・応神天皇
応神天皇が秦氏であったという理由を以下に二つ挙げます。
日本書紀に記載されている応神天皇のおくり名(本名ではなく、死後おくられた名。15.倭の五王で述べるが、雄略天皇の場合、稲荷山古墳出土鉄剣の文字から生前の呼称がおくりなとなったことが判明)「誉田別」(ホムタワケ、或いはホンダワケ)の検討から始めましょう。最後の「ワケ」はこの頃の天皇の敬称のようです。
応神天皇が開いた王朝の天皇一覧を次に記します。左の天皇名は奈良時代後期から使用される漢字表記のおくり名、右が日本書紀のおくり名を片仮名にしたものです。天皇の呼称を実際に使い始めたのは天武天皇(40代てんむ。在位673-686)ですが、それ以前の大王(おおきみ)にも「天皇」を使うのが慣例です。
15代 応神天皇 ホムタ「ワケ」
16代 仁徳天皇 オホサザキ
17代 履中天皇 イザホ「ワケ」
18代 反正天皇 ミズハ「ワケ」
19代 允恭天皇 オアサヅマ「ワク」ゴ
20代 安康天皇 アナホ
21代 雄略天皇 「ワカ」タケル
22代 清寧天皇 シラカ
23代 顕宗天皇 「ヲケ」
24代 仁賢天皇 「オケ」
25代 武烈天皇 「ワカ」サザキ
この王朝は天皇のおくり名を決めるにあたって、「ワケ」を天皇の敬称として使ったことは間違いなさそうです(「ヲケ」のヲはワ行であり「ワケ」とほぼ同音。「オケ」も同音とみる。「ワク」と「ワカ」は後ろに名詞が来るため語尾が変化したと推測)。
では、「ホムタ」は何を意味するのか。現代の日本語の発声は一音ずつ明快ですが、古代は口にこもった発声でした。筆者の祖父もそうでしたが、今でも奈良県や三重県にはそんな発声方法の人がいます。神主が祝詞(のりと)を上げる時や能、狂言にも口にこもった発声が残っています。「ホムタ」は「ハタ」の古代の発音です。ホムタワケとは、秦大王(はたおおきみ)、即ち秦氏の王を意味するのです。
もう一つの理由。中国の歴史書・隋書(巻81列伝第46東夷倭国)には、「竹斯国又東至秦王国 其人同於華夏 以為夷州疑不能明也(中略)自竹斯国以東,皆附庸於倭」(筑紫国の更に東、秦王国に至る。その国の人は中国人と同じ。蛮族の国とする理由は不明。筑紫国以東は皆倭に属す。)と書かれているからです。倭(わ。日本の蔑称)の中心は「秦王国」でした。「秦王国」とは、中国の秦(しん)王朝の時代に朝鮮半島に移住した「秦人」(しんじん)を称する中国人の後裔が建てた国であることを意味します。
応神天皇は秦氏の王でした。とすれば一つの疑問が浮かびます。秦氏、即ち中国人なら必ず持つ姓を天皇家は持たないことです。日本の大王になるにあたって姓を消したのでしょうか。それもあり得ます。
ただ私は、ヤマト国が征服される十年ほど前の391年に倭が海を渡って朝鮮半島南部を制圧している事実(広開土王碑文。以下に述べます)があり、その倭を率いた人物が応神天皇と推定できることから、応神の父は倭人(日本人)、母が秦氏(中国人)である可能性が高いと考えます。
北部九州の倭人の有力者が秦氏の王女を娶り、その間に生まれた王子が秦氏の王・応神天皇ではないか、ということです。こう申しますと読者の皆さんは倭人と秦氏の婚姻関係があり得たのか疑問を感じられるかもしれませんが、それは当時の朝鮮半島の民族分布を知れば納得いただけます。詳細は、7.百済との関係で述べます。
因みに日本書紀では応神天皇の父は仲哀天皇(14代ちゅうあい)という実在性の乏しい人物、母は神功皇后(じんぐうこうごう)という架空の人物です。神功皇后は仲哀崩御後、応神天皇即位まで64年にわたって国を治めたことになっています。神功皇后が行ったとされる三韓(高句麗、百済、新羅のこと)征伐は応神天皇と推定される倭王がヤマト国を征服する前に成し遂げた事業を反映しているようです。
高句麗の広開土王碑文には「百残新羅旧是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡海破百残■■新羅以為臣民」(百済と新羅は旧来(高句麗の)属民であり(高句麗に)朝貢していたが、辛卯年(391)、倭が渡海し、百済、(二字不明)、新羅を破って臣民とした)と書かれています。
3.葛城氏との関係
物部王朝を特徴付けるのは葛城(かつらぎ)氏との関係です。次の物部王朝天皇一覧にまとめましたが、葛城氏との姻戚関係が始まる二代目以降、葛城氏が妻もしくは母でない天皇は安康(あんこう)と最後の武烈(ぶれつ)だけです。安康は暗殺され、武烈は王朝を譲っています。葛城氏との姻戚関係を持つことが天皇の条件であったようです。
物部王朝天皇一覧:
世代数 天皇 特記事項
第一 15代 応神(おうじん) 九州から東征し崇神王朝を滅ぼす。
第二 16代 仁徳(にんとく) 葛城氏から皇后を迎える。
第三 17代 履中(りちゅう) 葛城氏が母。墨江中津王の反乱。
同 18代 反正(はんぜい) 葛城氏が母。
同 19代 允恭(いんぎょう) 同
第四 20代 安康(あんこう) 暗殺される。
同 21代 雄略(ゆうりゃく) 葛城氏が妻。百済を再興。
第五 22代 清寧(せいねい) 葛城氏が母。皇后、皇子女共になし。
同 23代 顕宗(けんそう) 葛城氏が母。履中天皇の孫。
同 24代 仁賢(にんけん) 同
第六 25代 武烈(ぶれつ) 蘇我王朝の継体天皇(第六世代)に譲る。
4.葛城ソツヒコ
物部王朝と葛城氏の姻戚関係は二代目の仁徳天皇(16代にんとく)に始まります。
仁徳は、葛城ソツヒコ(日本書紀では襲津彦、古事記では曽都毘古)の娘・磐之媛(いわのひめ)を皇后とし、その間に生まれた三人の皇子が順に天皇位を継ぎます。履中(17代りちゅう)、反正(18代はんぜい)、允恭(19代いんぎょう)です。
娘を天皇に嫁がせることができた葛城ソツヒコとはどのような人物だったのでしょう。結論から言えば、記紀は意図的に記録しなかったようで手掛かりはあまりありません。それには理由があるはずです。残されたわずかな手掛かりから追っていくことにしましょう。
5.建内宿禰
先ずはソツヒコの父。古事記によれば建内宿禰(たけしうちのすくね。日本書紀では武内宿禰と表記)というとんでもなく長寿の人です。
どれくらい長寿かと言いますと、景行天皇(12代けいこう)から仁徳天皇(16代)まで5代の天皇に仕えました。日本書紀は景行天皇の即位を西暦71年に設定しており、仁徳天皇は西暦399年に没したことになっていますので、その寿命はもはや人類の域を超えています。
日本書紀では孝元天皇(8代こうげん)の曾孫、古事記では孫と記します。
ここから言えることは、建内宿禰とは王の血を引く家来を包括的に示す概念であり、架空の人物ということです。とんでもない長寿にしたのは、前王朝・崇神王朝から物部王朝まで継続して仕えた忠臣がいれば天皇の血筋を「万世一系」と偽装する補強材料になるからです。「万世一系」の偽装については第七章、第九章で述べます。
6.葛城氏のルーツ
古事記が建内宿禰の子とする葛城ソツヒコですが、建内宿禰が架空の人物である以上この線では追えません。
ソツヒコに関する記述は古事記になく、日本書紀に書かれたのもわずか5ヶ所。その最初と最後の記事の期間は人類の寿命を超えています。
ソツヒコを実在の人物と考えた場合、娘を天皇の皇后にする点から見て王の血統に極めて近い人物とするのが素直ですが、それをうかがわせる記事は何もありません。
次の系図をご参照下さい。葛城氏は仁徳、履中、雄略と三人の天皇に娘を嫁がせる家柄にもかかわらず古事記はもちろん日本国の正史である日本書紀に親族の記録がほとんどない、いわば娘を出すだけの存在です。こんなことがあり得るのでしょうか。逆説的に言えばこれが大きな手掛かりです。
系図
実は一つだけ考えられます。それは出自が外国の場合です。日本書紀は中国にならって、日本が中国と並び立つ立派な国であることを示すために8世紀に編纂された日本国の正史です。神代(かみよ)から日本に続く天皇家に外国人の血が混じっているとは絶対に書けなかったからです。
ではその外国とはどこか。それは百済(ひゃくさい)です。学者でもない筆者が「葛城氏は百済人だった!」などと言い出すと、素人の「トンデモ日本史」と感じられるかもしれませんが、日本書紀にはその手掛かりが残っています。
日本書紀応神天皇39年2月の記事に百済の直支王が妹・新斉都媛を応神天皇に仕えさせた(「令仕」)とあります。天皇は媛を皇子に与えたものか、その後については書かれていません。
雄略天皇2年7月の記事に百済の池津媛を天皇の嫁に出したにもかかわらず石川楯が手を付けてしまい焼き殺されたこと、同5年4月にそれを知った百済王は今後は媛を出さないと言ったことが記されています。百済王の媛が天皇に嫁ぐことが常態であったことを物語ります。
百済との繋がりを追ってみましょう。
7.百済との関係
5世紀の朝鮮半島
当時の百済は今の日本人が考える「外国」の感覚ではありません。「五世紀の朝鮮半島」地図をご参照下さい。
3世紀の朝鮮半島南部について中国の正史「後漢書」や「三国志魏書」には、朝鮮半島南西部・馬韓(ばかん)と南東部・秦韓(しんかん。辰韓とも書く)では言語、習俗が異なったこと、秦韓人は中国・秦王朝の時代(前221-前206)に逃れてきた漢人(中国人)であることが書かれています。馬韓と秦韓に挟まれた弁韓(べんかん。後の加羅と任那)は倭人(日本人の蔑称)、穢(わい)人、韓人、秦韓人の雑居地域になっていました。
4世紀も後半になり、先に高句麗(こうくり)を建国していた穢人が馬韓に百済を建国しました。やや遅れて北方の騎馬民族・匈奴(きょうど)が秦韓に新羅(しんら)を建国します。更に「辛卯年(391)、倭が渡海し、百済、(二字不明)、新羅を破って臣民とした」(高句麗の広開土王碑文)のです。即ち5世紀の朝鮮半島南部は韓人、秦韓人、穢人、匈奴、倭人の居住域が複雑に入り交じり、その上に建国されたばかりの百済、新羅の二国、それに日本の拠点である任那(みまな)が乗っかっているというイメージです。
そもそも応神天皇は秦氏の王であり、北部九州を経由して秦氏と共にヤマト国に入り物部王朝を建てました。秦氏とは秦韓人(漢人)のことです。新羅から日本に至るには百済の協力が不可欠です。
日本書紀のソツヒコの5つの記事は全て新羅との戦いか百済に関するもので、秦氏の移住を述べた次の記事もそうです。
「応神天皇14年、天皇は帰化を望む弓月民(ゆづきのたみ。秦氏のこと)が新羅の妨害で日本に来られないことを知り、ソツヒコを派遣した。成果がないので同16年8月、精兵を新羅に差し向けソツヒコと共に連れ帰った。」
その応神天皇16年には「百済の阿花王が亡くなり、人質として日本に来ていた直支王を帰国させ王位に就かせた」と書かれています。
応神天皇以降も物部王朝の期間を通して日本は百済と極めて密接な同盟関係を続けます。これについては後に述べます。
地図 :5世紀の朝鮮半島
8.葛城ソツヒコの正体
百済は高句麗と同じツングース系民族・穢人が中国東北部から南下して朝鮮半島南西部に建てた国です。一方、新羅は中央アジアの騎馬民族・匈奴(きょうど。フン族)が朝鮮半島南東部に建てた国です。両国は4世紀の建国から7世紀に百済が滅ぶまで抗争を続けました。
百済の敵が新羅なら、秦氏の故国・秦韓を奪ったのも新羅。物部王朝と百済には協力し合う素地がありました。新羅に対抗するには盟友関係をより強固なものにする必要があったはずです。その一番の方法といえば、それは血の結束です。
応神天皇と百済王は互いの皇子と王女の結婚を考えたのではなかったか。応神の後を継ぐ皇子は仁徳。バランスを考慮すれば磐之媛は百済王の媛ということになります。
私は葛城ソツヒコは百済皇太子、そして百済王であったと考えます。先に引用した秦氏移住記事の「ソツヒコ」を「百済皇太子」と読み替えても筋が通ります。日本書紀は意図的な操作が多く必ずしも信用できませんが、同16年の記事の直支王がソツヒコとすれば丁度当てはまります。
天皇家に百済王の血が入っているのなら475年頃(高句麗で12世紀に編纂された「三国史記」によるが、同書の記事は誤差がある)の百済滅亡後、雄略天皇(21代ゆうりゃく)が百済を再興した理由、660年に再び百済が滅亡した後も再興を目指して朝鮮半島に出兵した理由、何れも無理なく説明できます。
9.幻の葛城氏
葛城ソツヒコの墓と言われる宮山古墳(御所市室)
葛城ソツヒコは百済王でした。その後天皇家に嫁ぐ「葛城」の媛もその時の百済王の娘と考えて良いでしょう。
一方、従来の学説は葛城という地名と氏素性を結びつけ、「葛城氏」なる豪族が葛城に存在したと考えました。葛城とは奈良盆地南西部の地域名で、現在の大和高田市、葛城市、御所市(ごせし)あたりです。
同墳丘上の靫(ゆき)型埴輪(靫は矢を入れる道具)
御所市室(むろ)にある宮山古墳は墳丘長238m。全国で18番目の規模ですから天皇もしくは天皇に準ずる人物の墓のはずです。
ところが物部王朝の天皇墓は大阪府堺市、松原市、藤井寺市、羽曳野(はびきの)市に集中していますし、築造された5世紀初頭は日本で二番目に大きい誉田山古墳(応神天皇陵。墳丘長425m。羽曳野市誉田)と三位の上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵とされるが筆者は仁徳天皇陵と推測。墳丘長365m。堺市西区石津ヶ丘)の築造が行われており、対応する天皇がいません。
そこで仁徳天皇の皇后を出した葛城ソツヒコの墓とされたのです。「葛城氏」がこれだけの規模の古墳を造れたということになり、「葛城氏」は天皇家に匹敵する豪族とされました。
同横の八幡神社(応神天皇を祀る)
写真2:葛城ソツヒコの墓と言われる宮山古墳(御所市室)
写真3:同墳丘上の靫(ゆき)型埴輪(靫は矢を入れる道具)
写真4:同横の八幡神社(応神天皇を祀る)
10.葛城氏の実態
掖上鑵子塚(わきがみかんすづか)説明板
ソツヒコは百済王ですから葛城に墓を造ることはありません。ならば誰の墓か。私は磐之媛の輿入れに従って片道切符で来日し、媛を支えた百済王族の墓と考えます。記紀は仁徳天皇が磐之媛のために葛城部(かつらぎべ。葛城に設けられた奉仕集団)を定めたと記します。百済王族と葛城の関係はここに始まります。
同前方部角
日本書紀には雄略天皇5年4月に百済王の弟・昆支が派遣されたこと、武烈天皇3年11月に百済王族とみられる意多郎が亡くなり高田丘(大和高田市?)に葬られたことが記されています。
御所市柏原には5世紀半ばに造られた墳丘長150mの前方後円墳(掖上鑵子塚古墳)もあります。百済から極めて地位の高い王族が、おそらく途切れずに日本に派遣され、それら王族は葛城に葬られたことが推定できます(注)。「豪族葛城氏」は幻ですが、葛城には葛城部があり百済王族と繋がり続けたことは間違いありません。
注:これを補強するものとして次の記述を引用する。「室宮山古墳の後円部には二つの埋葬主体があり、前方部にはおそらく二つ、もしかしたら三つの埋葬主体があると言われていて、五人くらいの被葬者が眠っています。(中略)朝鮮半島の安羅伽耶(咸安)産の陶質土器が出ています。朝鮮半島製の土器ですから朝鮮半島に関わりのある人でないと持ち込むことができないものです。」(纏向学からの発信 第6章 ヤマト王権と葛城の有力地域集団 坂靖)
写真5:掖上鑵子塚(わきがみかんすづか)説明板
写真6:同前方部角
11.百済王族の役目
では、百済の王族は何のために日本に派遣されてきたのでしょう。
5.百済との関係で引用した直支王のくだりから人質と考えることができるでしょうか。死ぬまで留め置かれる人質などあろうはずもありません。没後は天皇に準ずる規模の古墳に葬られており、最高の国賓として遇されていたことが解ります。とするならば百済王の代理として日本に駐在した、現代で言う大使と考えるのが素直です。以下、便宜上「百済大使」としましょう。
百済は隣国新羅の脅威に絶えずさらされており、百済外交の最重要課題は朝鮮半島における日本との同盟関係の維持です。その為に最も重要なことは天皇と百済王の姻戚関係を継続することです。
百済王の命を受け百済大使として日本に赴任した百済の王族は、天皇に嫁いだ百済王女を支援すると共に、次の天皇もしくは次期天皇と目される皇子に百済王の媛を嫁がせることを主たる任務としていたと私は考えます。
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