俳句とは

http://sekiryusha.blog28.fc2.com/blog-entry-12.html 【津軽の風土と人間愛-成田千空-】より

 成田千空は人懐かしい俳人である。

 千空を初めて五所川原市のお宅へ訪ねたのは、昭和61年10月17日のことだった。山々は早くも秋雪の薄化粧をしていた。

 千空にはそれ以前にも電話や手紙で連絡をし、醇朴実直そうな人柄に親しみをおぼえていた。原稿の依頼を断られたことはなかった。『中村草田男読本』(昭55・「俳句」増刊)に書いてもらった「永遠の青春性」は、生涯の師中村草田男の本質にふれたもので、文学的素養の確かさが感じられ、津軽に千空ありの印象を強くした。

 五所川原では、千空の文学仲間である詩人・葛西仙三氏の運転で、晩秋の北津軽を隈なく見てまわり、荒波寄せる七里長浜の海を背に写真を撮った。かつて海上交通の要衝として繁栄を極めた十三湊は、その昔、津波によって壊滅し、黒々とした遺跡の姿を横たえている。柳田国男によれば、山椒大夫の人買い船の話も、「要するに十三の湊の風待ちの徒然に、遊女などの歌の曲から聞き覚えたものに相違ない」という。八月の旧盆に行われる砂山踊りは、砂原にしみとおる哀調を帯びて、十三湊の盛時をしのばせるとのことだった。

 津軽の冬の訪れは早く、その夜は秋時雨に霰のまじる天候のなか、熱い酒と人柄のにじむ千空の津軽訛りに酔いながら、筋金入りの文学者魂の熱弁に聞き入った。

      北津軽移住

    大粒の雨降る青田母の故郷(くに)      千空

      小竜飛岬行

    蜻蛉生る左右前方潮の筋

      七里長浜

    柞(ははそ)原来て荒海や真つ向うに

      十三潟白鳥

    白鳥の白の濃淡逆波に

      香西照雄を竜飛岬に迎ふ

    秋濤打つ岬や友の怒り肩

      津軽西海岸

    岩千畳鶺鴒よぎり塵もなし

      金木太宰碑

    黄落のいま恍惚と太宰の碑

      南津軽平川にて

    白鳥の何冀(ねが)ふ羽荒々し

      十三潟早春

    戸波立ち岸波ひらく春のこゑ

      五能線

    岩群の生きて波挙ぐ五月かな

      市浦

    身にしむや米ならばよき十三(とさ)の砂

 第一句集『地霊』(昭51)と第二句集『人日』(昭63)より津軽の句を引いた。「竜飛岬行」の句は、太宰治『津軽』とほぼ同じコースを単独吟行した群作中の一句。俳句を始めたころに読んだ『津軽』は吟行の手本となり、以後の千空文学の一指標となった。

 師草田男を津軽に迎えたのは昭和26年8月。草田男50歳、千空30歳。理想的な師弟の年齢差というべきである。

    妻を語る秋栗色の大きな眼     千空

 千空による愛妻家草田男像。草田男がこのとき千空を詠んだ句は、『銀河依然』に収められており、津軽での美しい師弟交歓となっている。

 同年9月、石塚市子と結婚。千空の愛妻俳句は生涯にわたって詠まれ、枚挙にいとまがない。

    妻の眉目春の竈は火を得たり    千空

    大雪の夜は森のごと熟睡(うまい)妻

    妻老いて母の如しやとろろ汁

    わが酒をすこし妻のみ十二月

    方寸の貝雛老いし妻の雛

 ベルファーレン、高村光太郎、草田男とつづく愛妻詩の系譜に連なるという自負が千空にはあった。「俳句研究」(昭61・12)の口絵に、お宅で撮った仲睦まじい二人の写真が載っている。

 千空俳句は、ふるさと津軽の風土と人間愛を基調としつつ、酒を飲むときは酒をあるじとし、悲嘆孤愁のときはかなしみをあるじとして、骨太の抒情的世界を生みだしている。

    白鳥の花の身またの日はありや   千空

    会ふや又別れて遠し麦の秋

    早苗饗のあいやあいやと津軽唄

    ししうどや金剛不壊の嶺のかず

    鬱蒼と東北は雨草田男忌

    津軽いま六根清浄花りんご

    瓜に味噌我はもとより津軽衆 

    鴇(とき)いろの寒の夜明けよありがたう

    黄落の地や無一物無尽蔵

    癌告知負ひゆく雪と氷かな

    寒夕焼に焼き亡ぼさん癌の身は

「黄落」の句は、最後の句集『八方吟』(平19・3)の掉尾を飾る。

 病院のベッドで市子夫人が口述筆記したという「寒夕焼」の句を「俳句」で目にしたとき、私は身振いするような感動をおぼえた。「この一筋につながる」妄執の凄みというほかはない。

 平成19年11月17日、永眠。86歳。三回忌目前に刊行したエッセイ集『俳句は歓びの文学』(平21・10)の装丁に、私は津軽の海と空を背景にした千空の写真を使った。遥かを見つめるその視線には、憧憬と不退転の決意とが秘められている。

 千空の愛した「かえりみて、なつかしいと思うことはすべて恩だ」ということばをかみしめ、清爽な面影を偲ぶばかりである。

     成田千空エッセイ集『俳句は歓びの文学』(角川学芸出版)

      われとわが千の空から花吹雪  千空


https://gendaihaiku.gr.jp/create/guide/ 【俳句入門  対馬康子】より

その1、俳句とは内面の具象である

 俳句は誰にでも書けます。それは、すべての人が、すでに人生の喜び、悲しみなどの経験をこころの奥底にためているからです。

 俳句を書くとは、自分の外にある神のようなものを信じて、それを描こうとして自然の事物や、人事の出来事を書くことではありません。そのようなものはすべて自分の心の産物です。何かを言いたい、人とわかり合いたい、苦しみを癒いやしたい、というあらゆることの答えは、地球が誕生し、いのちが生まれ、人が存在するようになる長い時の流れの中に、人のこころの構造の中に密かに組み込まれています。

 俳句は、すべての人がすでにこころに持っている真実を、俳句の力をかりて具体的に言葉により表出するために日本語がたどりついた独特の短い詩です。

人体じんたい 冷えて東北白い花盛り  金子兜太とうた

死に未来あればこそ死ぬ百日紅さるすべり  宇多うだ喜代子

その2、俳句は俳諧を基本にする

 漢文学者白川静しらかわしずかの『字統じとう』によれば、「俳」とは、〈『説文せつもん』に「戯たわむ れるなり」とあり、もと二人相戯あいたわむ れて演技したものであろう。〉と書かれています。

 そして、「諧」とは、〈本来は神霊を安んずることを言う語であった。神に対する語であるから、意味のよく知られない不思議な語をいう。漢の東方朔とうほうさく は「口諧辭給こうかいじきゅう」、いわゆる諧語かいごをよくして武帝ぶていの寵ちょうをえた人であるが、俳諧はいかい・諧謔かいぎゃくの意味も、もとは呪語じゅごに関するものであった。〉と記されています。

 中島斌雄なかじまたけおが『現代俳句の創造』の中で指摘していますが、俳諧の概念は今から三千年前の司馬遷しばせんの『史記』にあるように、当時の支配者の間をコトバの魔術によって渡り歩いた「俳諧師」に由来します。平安時代には、藤原清輔きよすけが『奥義抄おうぎしょう』の中で、この「火をも水にいひなす」俳諧の技こそ王道であると述べています。

 自己の内面の奥底にある複雑で、多様なこころを表すには、俳諧の精神で自分独特の表現に達することが必要です。それは平明、簡潔な散文表現とは異なる韻律いんりつによる表現効果を主たる目的とする定型短表現です。

はらわたの熱きを恃たのみ鳥渡る  宮坂静生しずお

霞む東京船首の巨おおき斧が向く  中村和弘

その3、俳句は短詩型文学である

 芭蕉も勉強した禅は、心の奥に存在するとされる真実に到達するために、言葉の通常の意味を「大地山河、廓然粉砕かくねんふんさい」することにより、魂を揺さぶります。そのために考え出された短詩型が公案こうあんです。また、空海が確立した真言密教の『声字実相義しょうじじっそうぎ』(『声字義しょうじぎ』と略す)などに見られるように、ゴーギャンの有名な問いである「我々は何者か」に対する答えを示したりする手法として、古来より「句」が駆使されてきました。

 『声字義』とは、「五大に皆響きあり/十界じっかいに言語ごんごを倶ぐす/六塵ろくじん 悉ことごと く文字もんじ なり/法身ほっしん は是実相これじっそう なり」という四句による偈頌げじゅ という短詩型です。世界は何でできているか、という根本問題からはじまり、真言を基本とする東洋言語哲学を打ち立てています。

 たった四行の句から成り立つだけです。こころの真実にたどり着くためには、詩という不思議な力を持った短いことばであることが重要です。句によって一気に自分の内面に入ってゆくのが俳である句です。

 俳諧の不思議な力を活用して一気に自分の内面を具象化させるのが、俳諧の句である「俳句」です。したがって俳句は短いことがその本質です。

おぼろ夜よのかたまりとしてものおもふ   加藤楸邨しゅうそん

万の翅はね見えて来るなり虫の闇  高野ムツオ

その4、俳句は定型詩である

 自分のこころの深層は、未知なる世界です。荘子そうしが描くような鬼神きしんや、超現実の存在が自由に行き来する世界とつながっています。多くの芸術家が、この世界に入るためのあらゆる努力を行いました。リルケやマラルメはその典型といえるでしょう。しかし、彼らはあやうく精神を病む一歩手前まで行ってしまいました。

 芸術家が、自分のこころの奥にある真実に安全に到達するために「形式」が存在します。形式は、芸術家が見境なく未知の世界にさ迷いこむことを防ぐための「審美距離」を与えてくれます。

 俳句型式は、千年を超える日本の詩人たちの様々な努力の結果到達した奇跡の定型短詩ていけいたんしの形式です。この俳句型式を活用する限りにおいて、あらゆる芸術家の試みは、リルケやマラルメがおちいった危険から守られます。

 日本の俳句定型は、日本語の持つ内なる秩序から進化、発展してきました。現在の日本語を基礎とした俳句の五七五の形式のもつ審美距離は万全のものがあります。しかし、社会の変化にともない言語は変わってゆきます。五七五の定型に書かされるのではなく、定型を駆使して新しみを書くことに挑戦してまいりましょう。その意味では定型のいろいろな可能性が開けてゆくことでしょう。

地の底の燃ゆるを思へ去年今年こぞことし  桂 信子

鈴に入る玉こそよけれ春のくれ  三橋みつはし敏雄

その5、季語と切れ字

 季語の有無の問題は、審美距離の問題とは関係はありません。ただ自己の内面に存在する真実は宇宙形成の真実とつながっていることが、多くの芸術家、哲学者、宗教家によって指摘されています。

 特別の象徴的な言葉を駆使した多くの作品例と芸術的経験から、特定の場所、時間、置かれた心理状況などに応じて、有効に機能する言葉が発見され、それが経験的に収集され、編纂へんさんされてきました。

 季語として収集されている言葉以外にも、象徴的役目をする語はあります。そのような象徴語が、すべて同じ効果を持つものではありませんが、初心の頃は、すでに存在する成功例や機能をよく吟味して、積極的に学習し、活用することが必要です。

 正岡子規まさおかしきが『俳諧大要はいかいたいよう』の修学しゅうがく第一期において、季語をマスターすべき必修事項としているところです。

 また、五七五からなる短い散文さんぶんから韻文いんぶんへと変貌を遂げるために有効な、不思議な語が切れ字です。

 前述の『字統』で「や」を引いてみると、「呪医じゅいが、矢で病気を祓はらう時のかけ声である。」との記述があります。この言葉が入ることにより意味の脈絡は断たれ、十七音の「ことば」の空間に異なった役割が与えられ、それらが響き合う重構造がつくりだされます。切れ字には、「や、かな、けり」以外にもいろいろな言葉でこれが可能になります。季語の勉強と並んで切れ字の成功例を学ぶことも大切です。

しんしんと肺碧あおきまで海のたび  篠原鳳作ほうさく

人寰じんかんや虹架かる音響きいる  寺井谷子

夢の世に葱ねぎを作りて寂しさよ  永田耕衣こうい

その6、俳諧自由である

 以上の俳句の本質をまもる限りにおいて、それ以外は「俳諧自由はいかいじゆう」の精神で俳句を作りましょう。

 審美距離をさらに狭めて、いろいろなスタイルを確立することができますが、制約が多いほどこころの崩壊を防ぐには安全です。一方、不必要に制約を拡大することは、こころの「表面」を具象化ぐしょうかして伝達することは容易になりますが、こころの「内面」を具象化することを困難にします。入門した俳人たちが十年ぐらい経た後に、この問題に直面します。

鉛筆の遺書ならば忘れ易やすからむ  林田紀音夫はやしだきねお

水枕みずまくらガバリと寒い海がある  西東三鬼さいとうさんき

じゃんけんで負けて蛍に生まれたの  池田澄子

その7、非空非実の文学

 芭蕉がその俳諧に於いて到達したものは、非空非実ひくうひじつの文学のレベルです。軽みかろみの思想にあらわれているように、自己の内面を見つめ、それを物に託して表現しました。

 芭蕉の旅がその境地を高めて、造化ぞうかに随順ずいじゅんするということから、より自己の内面を見つめ、その表現の透明度を高めるという方向に作風が進化して行きました。そして、主観しゅかんと客観きゃっかんという、西洋的な二分論のレベルを超えた両者の融合の世界に到達しました。

 現代俳句はこのレベルを前提として、更に深く、広く、世界の変革と進歩に相応し、新しい作品を創出することが期待されています。

鱒ますとなり夜明け身を透く水となり  中島斌雄

雲は秋運命という雲も混じるよ  金子兜太


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拙稿の一部です。ご笑覧を。

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そして響きの海へ

『月の裏側』という著書のなかで、「日本文化は調べ(tone)の文化である」といみじくも指摘したのは、フランスの文化人類学者のレヴィ=ストロースでした。

かれは、数回来日して神武天皇の古里などを隅々まで歩き、そこで実際に、ある神霊の声を聴き、日本には西洋人の見えない世界が生きていることを発見しました。「知性の世界」にいる西洋からは見えない「調べの世界」が日本に息づいていることを発見して、ストロースは非常に驚いたのでした。「月の裏側」は、地球からは見えないけれども、表と対をなすものとしてやはり実在していたのです。  

 欧米を論理の文化、神学の文化とすれば、わが国はそれと対照的な調べの文化、響きの文化といってよいでしょう。私どもは、自由主義やバルト神学といった一貫性のある体系的な論理や神学によって説得されることよりも、天地(あめつち)に生り成りて鳴る「響き」の心地よさを味わって物事の良しあしを判断することを好んでいます。体感して「腑に落ちる」身体感覚を重視しているのです。

わが国は、和歌、俳句、謡曲、詩吟、カラオケといった多様な響きを発展させてきましたし、浮世絵や漫画、絵文字、アニメも調べの文化の延長上にあります。それは、日本語の倍音豊かな母音の響きがもたらす右脳と左脳の精妙なバランスによって磨き上げられてきたものと多くの脳生理学者は指摘しています。

 この響き(resonance)の文化を、ひとつの思想に体系化したのは、ほかならぬ真言密教の空海でした。空海は、宇宙を構成する地、水、火、風、空の五大要素は、すべて響きを発している、「五大みな響きあり」と説きました(『声字実相義』)。

これは驚くべき発見です。思弁の得意なインド人のシャカが、「因果の無限連鎖」ととらえた実相を、日本人の空海は、身体感覚で感じとる「響きの無限連鎖」におきかえたのです。マントラと想念の響きを伝えることを通じて、身体と宇宙の因果を調えようとしたのです。真言密教は、池に波紋が広がるように宇宙の海に調和のとれた響きの波紋を伝えようとする、まさに「響きの宗教」といってよいものです。

最近の素粒子物理学では、物質は五次元ないし十一次元の膜に存在の根を持つ極微なヒモの振動体であるというヒモ理論が登場してきています。電子、原子も分子、細胞もすべてヒモの波動体であるというのです。とするなら、「五大みな響きあり」という空海の説は、そろそろ「五大みな響きなり」と修正してよいのではないでしょうか。天地を構成する地、水、火、風、空は、響きの事(こと)タマとして生り、成り、鳴っているのですから。

 いうまでもなく、事タマや言タマだけでなく、形も数も想念も響きの波動体であり、意識体(タマ)であります。三角、四角、丸とそれらの組み合わせのカタチから発する響きはカタタマと呼ばれ、1から9までの数とその組み合わせが出す波動はカズタマと呼ばれています。愛や憎しみなどの想念は、瞬時に地球の裏まで飛んでいくオモイタマであることは、水の氷結結晶の国際実験からも裏付けられています。

 わが国の「和」の国体物語は、このようにコトタマとカタタマ、オモイタマなど多重のタマの響き合わせを通じて、近代論理とイデオロギーによって乱された世界の波動を調えていくことを目的としています。中東における諸宗教の対立と戦乱がもたらしている地球の波動の乱れ、中共の国内圧制と民族弾圧が招いている波動のゆがみを、ヤマト心は響きあう言葉と想念と祈りを持って調え、雄々しき行動でもって整えていくことを求められています。

 カオス理論によると、北京で羽ばたいた蝶の響きは、連鎖反応を起こしニューヨークで嵐をよぶことがあるそうですが、これからの日本は、コトタマをはじめ、多重のよいタマを響かせ、地球と宇宙によい波動の波紋を伝えて因果の連鎖を調え、対立と紛争に明け暮れる世界を包みこんでいくことが使命となるでしょう。それを先導するのが、宮中賢所でささげられる、地球の祭祀王たるスメラミコトの祝詞の響きであってほしいと私は願っています。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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