命の循環

死と再生は一つ 命の営みそのものは死と再生の繰り返しです。

和多志たちは 動物の命を食することで 罪責感を煽られますが それは人間の死への恐怖の投影現象と言えるのではないでしょうか?

愛犬らんは 年老いて 自分の力で二階に上がれなくなってからはそれまで恐れていたものに対し 何一つ動じなくなりました。

命は命の循環によって支えられます。肉体の死を白装束で祝う文化も 喪服で嘆く文化も存在します。聖書には一粒の麦が死ぬことにより 千倍、万倍の麦の命を結ぶ譬え話があります。

同じく聖書の創造物語では 人間が 動物、植物を(感謝を持って)食することは 祝福されています。

また命は循環することで 進化の過程をたどります。

動物が死を恐るとは 人間の勝手な感情移入かもしれません。

そのうえ「奇跡の脳」の著者ジル・ボルト・ティラーさん(左脳出血から立ち直った 神経細胞学者)は 左脳が鎮まるとき「人生の思い出から切り離され、神の恵みのような感覚に浸り、心が和んでいきました。」「意識は悟りの感覚、あるいは意識と心が和んでいきました。」「意識は悟りの感覚、あるいは意識と融合して『ひとつになる』ところまで高まっていきました。」「心地よいのです。」と語ります。

人間は左脳に後悔や、思い残すことがなければ 安らかな死を迎えうるとも言えます。

思い残すことがないとは「人生でやりたいと願ったことが完了した」あるいは「自分を必要としているものが居ない」、「別れを嘆くものがいない」ことかもしれません。

あるいは人生に飽き飽きしていることかもしれません。

いずれにしても 生と死はセットであり 死が前提の(他の死によって支えられる)命の歩みを感謝を持って歩みたいと願います。

修道院では「メメントモリ(死を覚えよ)」が挨拶だと言われます。

震災の痛みが死の痛みを余りにもリアルに感じさせます。死を覚えることは生を問うこととも言えます。


https://kaede.buyshop.jp/blog/2022/12/07/171721 【命の循環】より

このところ初冬らいし寒さになってきました。ていざなすのシーズンも終わると来年の土作りのために山へ落ち葉を集めに行きます。燃えるような紅葉は春に芽吹いた葉達が最後の命を燃やしているようで役割を終え土に帰る為に土の上に落ち来年以降の芽吹きの力になります。この命の儚いサイクルを強く感じる地域に住み多くを教えてもらいました、山から分けてもらう落ち葉で茄子を育て多くの数の茄子を収穫しています、落ち葉を養分に育てた茄子を販売し自らも食します、茄子1つにも数百の種がありそれも命です、人一人が生きるためにどれだけ多くの命の犠牲の上に生かされてるか深く感じるようになりこの地域で生きている事の尊さを実感しています。

Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事

■草場一壽陶彩画展 龍と復活の女神たち  展示作品紹介『イワナガヒメ』より

●イワナガヒメは、「いのち」の象徴 

神話によると、コノハナサクヤヒメの美しさに魅せられたニニギノミコトは、すぐに求婚し、許されるのですが、父であるオオヤマズミノカミは、姉のイワナガヒメも一緒に嫁がせます。ところが、ニニギノミコトは、美しいコノハナサクヤヒメだけでよいと、醜いイワナガヒメを追い返してしまいます。

 オオヤマズミノカミは怒り、ニニギノミコトにこう告げます。

「私が娘二人を一緒に差し上げたのは、コノハナサクヤヒメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄し、イワナガヒメを妻にすれば、命は岩のように永遠のものとなると誓約を立てたからだ。コノハナサクヤヒメだけを妻にするならば、命は木の花のようにはかなくなるだろう」。

コノハナサクヤヒメは、木の花のような一代の栄華。見える世界の(有限の)いのち(カタチ)の象徴です。一方でイワナガヒメはいのち「そのもの」であって、循環・再生という永遠のいのち(大生命)の象徴です。

 33周年の記念すべき作品のテーマを「大生命」と考えたとき選んだのが、この、大いなるいのちの象徴である「イワナガヒメ」でした。

●桃の神話

 イワナガヒメを題材にした作品を「桃華の姫」と名付けました。

桃は古代より、特別な力(霊力)があるとされています。

中国では、桃は崑崙山の主人である女仙・西王母が持つ果実で、3000年に一度実を結ぶ長寿の仙果。古代より生命力のシンボルとされ、病魔も邪気も払って、生命の躍動を助けるものと信じられてきました。

日本でもふるく古事記や日本書紀にも登場しています。

古事記によると、イザナギノミコトが死んだイザナミノミコトを連れ戻そうと黄泉の国に赴いたとき、鬼に追いかけられてしまいます。イザナギが地上の世界(生)と黄泉の世界(死)の境目である「黄泉つ比良坂(よもつひらさか)」までたどり着き、麓に生えていた桃の木から3つの実をとって投げたところ、鬼は一目散に逃げ出したとあります。その功績で、桃の実は「オオカムズミノミコト」と名をいただく神にもなりました。

また、2009年、邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、祭祀(さいし)に用いたとみられる、2800個もの大量の桃の種が見つかっています。祭事や信仰、呪術の対象として古くから珍重されてきたことがわかります。

中国にも日本にも、「桃信仰」と言えるようなものがあり、どちらも、いのち=再生をテーマにしています。

●桃太郎伝説

 日本人にとって、「桃」で最もなじみの深いのは、桃太郎と桃の節句でしょうか。

桃太郎のおはなしは、前述のイザナギノミコトの神話を起源にしたものとも言われています。室町時代の末期頃までに口承の昔話として成立し、江戸時代になって文字化され、明治期には国定教科書に採用されました。古い、古いお話です。

こうしていくつもの時代を経ていますから、「鬼」というものの概念、見方も時代によって変遷してきたと思います。

そのはじまりは、まず端的に「恐ろしいもの」でしょう。恐ろしいは畏れるに通じ、つまりは、人間の力の及ばないものかもしれません。

そして、鬼は異形のもの(先住民や渡来人、漂着民)ともなりました。支配者から排除される存在です。

それが、「悪事をはたらくもの」にもなっていきます。勝者の歴史の中では、鬼は「退治されるもの」となったのです。退治する側(こちら側)と退治される側(あちら側)という相対的な概念が生み出した「鬼」というわけです。

●いのちは平たい。いのちに美醜はない。

どのいのちも、大いなるいのちから生まれ、大いなるいのちに還っていきます。

大きな、巨きな循環の中で、過去のいのちも未来のいのちも手をとりあって結ばれているのです。高低もなければ上下もなく、是非もなければ善悪もない、「大生命」の世界です。

しかし、相対的な概念にとらわれたために、コノハナサクヤヒメもイワナガヒメも「絶対的」ないのちの存在にも関わらず、美醜と言う「相対的」なものにされ、本来の「いのち」を見えなくしてしまいました。

鬼の存在を考えることは、そうした視点を再考する契機になるかも知れません。昔話を背景に、そんなことを思います。

●桃の節句

 もうひとつ33の数字にちなんで・・・桃と言えば3月3日の「桃の節句(=節供)」。桃の読みが「百歳=ももとせ」に通じることから、健康や長寿への祈りが込められています。また、冬の気(陰)と春の気(陽)がせめぎあうこの季節に、いのちの実である桃が生命の躍動と再生の役目を果たすと考えられてきたのです。

 桃はまた実がたくさん実ることから、子宝に恵まれる、から女の子の健やかな成長を願うという意味も込められています。

桃の種は婦人病を治す生薬でもあり、血流をよくするといった効能もうたわれているようです。

桃華の姫に託す思い

 目に見えるものを価値とする土の時代から、心や魂を基調にする風の時代へと移ったと言われています。

時代を変えるのは、さてなんでしょう?

土の時代、時代を変えるのは「文明」という信仰がありました。なぜなら、「豊かさ」こそが、求めるものだったからです。

その豊かさとは、目で見えるモノ、得にお金で勘定できるものでした。言い換えれば、消費できるものでした。消費者として、豊かさを追いかけてきたのです。

 いのちも(自然や人間も)また同様に、消費の対象となりました。選抜されたり、差別されたり、その基準は、「出来る・出来ない」「役にたつ・役にたたない」「優れている・劣っている」といった、傲慢で相対的な価値観です。

美醜といった目に見えるだけの違いや、それの違いを鬼にしてしまう勝者の視線、排除の構造もまた、そんな相対的な価値観によるものだと思います。

時代は大きく揺れて、次のステージに移ったようです。

いまあることの奇跡を、その喜びをかみしめながら、いのちの華を咲かせていきましょう。みな桃華の姫のごとくに、美しいいのちの花です。

永遠なるかな、わがいのち。わがこころは、大宇宙にして、ふるさとは・・・大生命。あなたの存在こそが大生命の願いであり、また祈りでもあります。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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