光陰の涼しき

https://kotowaza.exblog.jp/4764142/ 【9.光陰流水の如し(こういんりゅうすいのごとし)】より

 川の流れは一国も休むことがなく、時もまたこの川の流れに似て止まることがない。月日が早く流れていくことのたとえ。

語:光陰=月日。年月。時間。光は日、陰は月。


Facebook木村 正治さん投稿記事

光陰矢の如しを感じる年頃になってくると時間や季節に対する感じ方や向き合い方も変わっていきます。春夏秋冬1つの季節が3ヶ月。3ヶ月で次の季節になります。

日本では「人の噂も75日」という諺がありますね。どのような話題や噂も75日経てば忘れられていくという意味ですが何故75日なのか。

若い頃はよく分かりませんでしたが光陰矢の如しを感じる年頃の今ならジワリと感じられます。75日は2ヶ月半。3ヶ月で1つの季節が過ぎて次の季節になる日本では2ヶ月半が経過すればもう次の季節に意識や気持ちが向かいます。

振り返れば冬の思い出は春になれば話題にならなくなりますし、熱く激しい情熱の夏を過ごしても秋になれば遠い日の事のように感じられます。晩秋には夏のビーチでの思い出話はしないでしょう。四季が巡る日本の風土に刻まれた皮膚感覚からは季節の移ろいが3ヶ月ですから噂も75日という感覚はそのような感覚から来るのだと私は感じています。

また同じように水が豊富で清めや祓いの文化がある日本では四季の移ろいとも合わさって

「水に流しましょう」という皮膚感覚があります。

水と言いましても覆水盆に返らずという事もありますが、水に流すという事もあります。

この感覚は1度でも胸ぐらを掴まれたら永遠に恨む民族気質の国とは全く異なります。

光陰矢の如しを感じる51歳という年頃の今は若い頃の時間認識だった時計時間とは違う時間認識を有するようにもなります。

自分の中に永遠に続く時間や数百年の連続性の上に感じる時間、瞬きに感じる数十年の時間など時計時間とは異なる様々な時間軸が自分の中にできていきます。

あるインタビューで100歳を超えた方々への質問をしているものがありました。

「100歳を超えられて、これまでの100年間はどうでしたか?」という問いかけでした。

何人かの100歳を超えた男女が異口同音「あっという間だったね。」「あっという間でした。」と同じような答えをしていた姿が印象的でした。

まさに光陰矢の如しの時間感覚なのでしょう。時間感覚は年齢を重ねると共に早く感じられます。

子供の頃は1年間がとても長く感じられました。小学生の時は小学校の6年間は一体いつまで続く長さなのかと毎日毎日、担任教師の顔を見てはとてつもなく長い時間に感じられました。

しかし51歳の今は1年間がまるで数ヶ月のような短さに感じられて過ぎ去ります。

この体感時間の変化はどういう事なのか。6歳の頃はそれまでの全人生6年間のうちの1年間

は6分の1の体感時間です。20歳になればそれまでの全人生20年間のうちの

1年間は20分の1の体感時間になります。40歳になればそれまでの全人生40年間のうちの1年間は40分の1の体感時間になります。51歳の今はそれまでの全人生51年間のうちの1年間は51分の1の体感時間になります。

つまり小学校1年生の6歳の時に感じる1年間は全人生の中での6分の1である体感時間に対し、51歳の今、感じる1年間は全人生の中での51分の1に過ぎない体感時間になります。

だから1年間があっという間に感じられるのです。これが80歳になれば1年間の体感時間は

全人生の80分の1となり、100歳になれば1年間の体感時間は全人生の連続した1つの

100年間という体感時間における100分の1に過ぎなくなりますから、まさに一瞬のような早さに感じられるでしょう。100歳の方々がこれまでの100年間はあっという間に過ぎたと異口同音に言っていたのはそのような体感時間の蓄積からくるのでしょう。

ならば宇宙空間における地球時間はどうでしょうか。人の一生は今はたかが120歳程です。

地球時間は40億年程。宇宙時間は果たして・・・。地球時間から見ても人間時間は瞬きに過ぎません。地球時間さへも宇宙時間からすれば一瞬のようなものかも知れません。

人の一生は宇宙時間からすれば極めて一瞬のようなものでしょう。

人が一生を終える時に何を思い何を悔やむでしょうか。何が胸中を巡り何が脳裏をよぎるでしょうか。それは過ごした時間でしょう。過ごした場面でしょう。共に過ごした人の事でしょう。それはつまり、全ては人生の物語という事です。いくら貯金があるかとか、いくらブランド品を持っていたという事は人が一生を終える時には振り返る対象にはなりません。

振り返り時に懐かしみ時に悔やむのは全て過ごした時間や場面のことばかり。つまり一生を終える時に残るのは人生の物語だけだという事です。

光陰矢の如しの時間を感じる年頃になった今はこれからの人生をいかに悔いの無い時間を過ごすかいかに人生の物語の時間を刻んでいくのかという時間軸の視野に立って展望したいですね。行きたい場所がある・・・。過ごしたい時間空間がある・・・。共に過ごしたい相手がいる・・・。全ての営みがいずれ光陰矢の如しとなり過ぎ去る中で魂が燃焼するような時間と場面を大切にしていきたいですね。


Facebook髙橋 眞人さん投稿記事

こんにちは。

【今日の名言】朱熹(しゅき=中国南宋の儒学者、朱子学の創始者)

少年老い易く、学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず(年月が過ぎ去るのは早いもので、自分は若いと思っているうちにすぐ年老いてしまう。それに反して学問はなかなか思うように進まない。だから寸暇を惜しんで勉強しなくてはならない)。

「今日やらなくても明日がある」「今年やらなくても来年がある」などと言ってはいけない。

人の意見が自分と同じか違うかで、喜んだり怒ったりしてはいけない。その時の気分次第で人を使ってはいけない。

血の気の怒りはあるべからず、理義の怒りは無かるべからず(自分勝手に怒るのはやってはいけないことだが、道理が通らないことに怒らないのも、またいけない)。

精神一到何事か成らざらん(精神を集中すれば、何事でも達成できる)。

物事が達成できないときは、まず自身の志の弱さを責めなさい。

人は欲を持っているとき、心の強さを失っている。心の強い人は、欲には屈しないものだ。

大疑は大進すべし、小疑は小進すべし、疑わざれば進まず(学問は疑うほどに進歩し、疑わなければ進歩しない)。

※3月9日は朱熹の命日(1200年)です。


https://ameblo.jp/takatanbosatsu/entry-11621257372.html  【池の涼しき汀(みぎは)には 夏の影こそなかりけれ】より

 木高き松を吹く風の 声も秋とぞ聞こえぬる

                           『梁塵秘抄』 (巻二)

  ――池の涼しい汀(みぎわ)には、もう暑い夏の様子はうかがえない。 松の高い

     梢に吹く風も、清涼な秋の音の風情となって……

久しぶりに 『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』 からの一首。

後白河法皇が生涯を賭して収集編纂した白拍子(今様)の曲集で、当初、二十巻あっ

たとされるが大半が失われ、巻一、二、十の三巻のみが伝承する。 古典文学史上

もっとも惜しい散逸と謂われている。

さて、この歌、歌意は明瞭で現代語訳の必要はなかろうが、どんな調べで謡っていた

か現在では不明。 いくつか復元が試みられているようだが、どれも推定にすぎない

ようだ。 作者ももとより不明であるが、この歌に限って、平安後期の僧、寂然の作と

され、作者名の明らかな今様として貴重な歌と謂われている。

秋の到来を、池と松風に寄せて謡っている。 現代では、池といっても、防水防災上、

土堤で囲われてしまって、この歌のような 「涼しき汀」 などという風情はあまり感じ

られないが、当時は、さぞかし風情があっただろうと推察できる。 愚生の世代の幼少

年の頃は、まだ、このような 、汀の風情があった。 夏の夜には草木の中に蛍が飛

びかう様を見ることも出来ていた。

夏の暑さばかりではなく、夏の風物も影をひそめ、松に吹く風もすっかり秋……

「声も秋とぞ聞こえぬる」…、「声も」 の 「も」 に秋の到来に万感の想いが込められ

ており、この一首に生き生きとした息吹きを与えている。

この歌のすぐ前にはこんな歌が…

  松の木陰(こかげ)に立ち寄りて 岩漏る水を掬(むす)ぶ間に

  扇の風も忘られて 夏なき年とぞ思ひぬる

  ――松の木陰に立ち寄って、一休みし、岩間から漏れる清水を掬(すく)って飲め

     ば、涼しさもまた格別。 扇の風など欲しいとも思わなくなり、酷暑の夏のない

     年だと感じたことだ……

なだらかな調べに乗って、木陰と清水の涼しさを愛でている。 その涼しさは、扇もい

らぬくらいだ、と粋なことを言っている。 これは夏の歌だが、木陰や冷えた水に涼を

求める、というのは現代でも同じ。 こちらの方が、共感度はより深いかもしれない。 

内容の多彩さと白拍子らしい粋な感性は、掲載歌(池の涼しき…)より優るものがあ

ろう。

                        宝石緑

まだ残暑が厳しいが、こんな曲で、気分を軽やかに。

 チャイコフスキー 組曲 『くるみ割り人形』

             レオナード・バーンスタイン指揮

             ニューヨーク・フィルハーモニック

やや古い録音だが、バーンスタインの若き頃の溌剌としたバレエ音楽が聴きもの。

                      宝石赤 宝石赤 宝石赤

ナゾの人 出典 『新編日本古典文学全集 42 神楽歌・催馬楽・梁塵秘抄・閑吟集』

           (新間新一・外村南都子 校注 P.302, 小学館)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000