「https://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq0000000mbl.html 【譬えば高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥にすなわち此の華を生ずるが如し。」】より
『維摩経(ゆいまきょう)』「仏道品(ぶつどうほん)」『大正大蔵経』第14巻549頁
インドでは蓮華は古来この世でもっとも美しい花として珍重されてきました。仏典にも美しい花と香りによって浄土を荘厳する青蓮華や黄蓮華、紅蓮華、白蓮華など色とりどりの蓮華が登場します。
蓮華はまた菩薩のシンボルと見なされています。凛(りん)とした美しさを誇る蓮の花は汚れた泥水の中から生じ、しかもその汚れに染まることがありません。そのような蓮華の特質がインドの人々を魅了したのでしょう。煩悩が渦まく汚れた世間のまっただ中にあって人々の利益のために活動し、しかも世間の汚れに染まらない大乗の菩薩の願いや生き方が、蓮華のイメージに重ねあわせて考えられたのです。
私たちは菩薩といえば、どこか煩悩のない高い境地にあって、世間から離れて悟りすましているようなイメージを思いうかべがちです。しかるに『維摩経』はそのような人物を小乗であるとして斥(しりぞ)けます。それとは逆に、煩いや悩み苦しみが尽きず、矛盾に満ちみちた私たちの生活のなかにこそ、仏教の深い願いに触れ、仏教の真理に目覚めていく道があるのだと説かれます。自分自身の煩悩を見つめる目が深ければ深いほど、他者の悩み苦しみに共感する心が動きだすのであり、すなわち、自分の悟りを求め(自利)、他者の救いを願う(利他)ような心が生じてくるというのです。煩悩の中においてこそ仏道への目覚めが実現されていくと説く『維摩経』のことばは、世間という泥沼を生きる私たちに、勇気と希望を与えてくれる力強い教えではないでしょうか。
『維摩経』を訳した鳩摩羅什(くまらじゅう)(350-409頃)は、仏典翻訳の事業 を通して中国の仏教、ひいては日本の仏教にはかり知れない影響をあたえた偉大な仏教者でした。その波瀾万丈な人生の途上にあって、彼は権力者のきまぐれによって、僧侶の生命であった戒律を破ることになってしまいます。破戒僧としての恥辱と自責の念は生涯彼につきまといました。しかし、この挫折によって彼は大乗の教えにますます深く耳をかたむけ、宗教的な思索を重ねていったことと思われます。後に長安で仏典翻訳に専念していた鳩摩羅什は、講説するたびごとに、自ら「譬えば臭い泥のなかに蓮の花が生じるようなものです。ただ、蓮の花だけをとって、臭い泥をとらないように」と説いたと伝記は伝えています。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%8D%91%E6%B9%BF%E3%81%AE%E6%B7%A4%E6%B3%A5%E2%80%A6 【卑湿の淤泥】…より
ひしつ/ひしゅう のおでい
湿地の泥沼に蓮の花が咲くように衆生の煩悩の泥の中に如来回向の信心が生ずることを喩えたもの。(証巻 P.319, 二門 P.549、論註 P.137)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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高原陸地 不生蓮華 卑濕淤泥 乃生此華 (『大正蔵』十四、五四九頁)
『維摩詰所説經』仏道品第八
於是維摩詰問文殊師利。何等爲如來種。
ここに於いて維摩詰、文殊師利に問ふ。「なんらをか如来の種となす。」
文殊師利言。有身爲種。無明有愛爲種。貪恚癡爲種。四顛倒爲種。五蓋爲種。六入爲種。 七識處爲種。八邪法爲種。九惱處爲種。十不善道爲種。以要言之。六十二見及一切煩惱皆是佛種。
文殊師利の言く、「有身を種となし。無明・有愛を種となし。貪・恚・痴を種となし。四顛倒を種となし。五蓋を種となし。六入を種となし。七識処を種となし。八邪法を種となし。九悩処を種となし。十不善道を種となす。要をもってこれを言はば、六十二見、および一切煩悩、みなこれ仏種なり。」[1]
曰何謂也。
いわく「何の謂(いい)ぞや。」
答曰。若見無爲入正位者。不能復發阿耨多羅三藐三菩提心。
答えて曰く、「もし無為を見て正位に入る者は、また阿耨多羅三藐三菩提心を発すこと能わず。
譬如高原陸地不生蓮華 卑濕淤泥乃生此華。
譬えば、高原の陸地には蓮華は生ぜず、卑湿ひしつの汚泥にいましこの〔蓮〕華を生ずるが如し。[2]
如是見無爲法 入正位者。終不復能生於佛法。煩惱泥中乃有衆生 起佛法耳。
かくの如く無為の法を見て、正位に入る者は、ついにまたよく仏法を生ぜず。煩悩の泥中に、すなわち衆生ありて仏法を起こすのみ。
又如殖種於空 終不得生。糞壤之地乃能滋茂。
また、種を空に植えれば、ついに生ずることを得ず。糞壌(ふん-じょう)[3]の地に、すなわちよく滋茂するが如し。
如是入無爲正位者不生佛法。起於我見如須彌山。猶能發于阿耨多羅三藐三菩提心 生佛法矣。
かくの如く、無為の正位に入る者は仏法を生ぜず、我見を起こすこと須弥山の如くなるものは、なおよく阿耨多羅三藐三菩提心を発して、仏法を生ず。[4]
是故當知 一切煩惱爲如來種。
この故にまさに知るべし、一切の煩悩を如来の種となすことを。[5]
譬如不下巨海不能得無價寶珠。如是不入煩惱大海。則不能得一切智寶。
譬えば巨海に下らざれば、よく無値むげ[6]の宝珠を得ることあたわざるが如し。かくのごとく煩悩の大海に入らざれば、すなわち一切智の宝を得ることあたわず。」
国訳
いわゆる煩悩を滅却してさとりを目指す小乗の教えと違い、大乗仏教では煩悩に喘いでいる衆生こそ仏種であるとする。
『論註』(論註 P.137)で、『経』(維摩経)に、「〈高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥にすなはち蓮華を生ず〉とのたまへり。これは凡夫、煩悩の泥のなかにありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに喩ふ。まことにそれ三宝を紹隆してつねに絶えざらしむ。」 とある。御開山はこの文を「証文類」(証巻 P.319)で引文され、還相の菩薩の自在摂化を釈しておられる。『入出二門偈』(二門 P.549)では「卑湿の淤泥に蓮華を生ずと。これは凡夫、煩悩の泥のうちにありて、仏の正覚の華を生ずるに喩ふるなり。これは如来の本弘誓不可思議力を示す。すなはちこれ入出二門を他力と名づくとのたまへり。」と、本願によって信心をたまわることとされておられる。
糞壌(ふん-じょう)。糞や落ち葉などで作った堆肥の意。
『安楽集』p.208に、「仏、阿難に告げたまはく、〈一切の衆生もし我見を起すこと須弥山のごとくならんも、われ懼れざるところなり。 なにをもつてのゆゑに。 この人はいまだすなはち出離を得ずといへども、つねに因果を壊せず、果報を失はざるがゆゑなり。 もし空見を起すこと芥子のごとくなるも、われすなはち許さず。 なにをもつてのゆゑに。 この見は因果を破り喪ひて多く悪道に堕す。 未来の生処かならずわが化に背く〉」とある。いわゆる空見という空にとらわれる誤った見解に陥って、菩薩のように利他行を出来ないことを戒める。
煩悩というエネルギーを、ただ滅し 去るのではなく、その意味と方向を転じて菩提へ向けるのが大乗仏教である。
無値(むげ)。値(あたい)のつけられないほど貴重なこと。
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