今生は病む生なりき鳥頭

https://www.tokyo-np.co.jp/article/33485 【結核を患い、長い闘病生活を詠んでいる俳人の石田波郷に、よく…】より

 結核を患い、長い闘病生活を詠んでいる俳人の石田波郷に、よく知られた晩年の句がある。<今生(こんじょう)は病む生なりき烏頭(とりかぶと)>。

痛切な嘆きがあると感じられる半面、毒を蓄えながら、秋に鮮やかな紫色の花を咲かす「烏頭」の効果であろうか、その生を受け入れているように思えなくもない

▼少なくとも特効薬やワクチンが効力を発揮するまで、われわれの世の中にも「病む生」の側面があるようにみえる。受け入れなければならない新型ウイルスとの共生という側面である。開幕が近づくプロ野球で先日、選手が感染していたと明らかになり、それを思わされた

▼開幕日程に影響はないようであるが、開幕後ならどうであったか。選手の感染に限らず、思わぬ事態は今後もありえよう。再開を目指すJリーグでも先日、選手の感染が確認されている▼思い通りに何事も進まない世の中だと、当事者のみならず広く心構えを持ったほうがよさそうだ。東京五輪をめぐり、政府は大会の簡素化について検討を始めたという

▼開催時期までにコロナ禍が終息している保証はどこにもない。ウイルスと共生しながら迎えるなら、簡素化は避けられないようにみえる

▼一病息災という。一つくらい病気があるほうが体に気を配り、無病よりむしろ長生きする。一病と呼ぶにはやっかいな相手であるが、今生が無病でない時には頼りたくもなる言葉だ。


https://ameblo.jp/brmedit/entry-12070359748.html 【今生は病む生なりき烏頭 石田波郷】より

遺句集『酒中花以後』所収。

集中後半にあるので最晩年の作だろう。

季語は「烏頭(とりかぶと)」で仲秋。

私の見落としがなければ、少なくとも句集に収められている句で烏頭が詠みこまれているのは本作のみ。

トリカブトの漢字は「鳥兜」が一般的。

トリカブトの薬名が「ウズ」で「烏頭」の字を当てる。

あるいは波郷は、トリカブトの毒薬としての一面を強調しようとしているのかもしれない。

とすると、本句は諦念や達観というより、より厭世的な気分のある句ということになる。

「なりき」の「き」という過去を表す助動詞が、「今生」を意識的に遠ざけるかのようで、余計にそういう印象が強くなる。

こういう印象を抱かせる句は、波郷の全句業を見渡しても(少なくとも句集に収められた限りにおいては)他にない。

「死」を冷徹に見据えた作品はあっても、決して厭世的ではない。

これを波郷が俳句では見せなかった人生観の一面と見るべきか、それとも死期迫った心の弱りと見るべきか。

また、仮に波郷があと数年生きたとして、自分の手で句集を編んだとしたら、この句を入集させたかどうか。

間違いなく最晩年の傑作ではあるけれど、少なくとも波郷ファンには心に引っ掛かりを残す作品だと思う。

https://plaza.rakuten.co.jp/kamomeza/diary/201611040000/ 【今生は病む生なりき鳥頭(とりかぶと) 石田波郷/ 病雁の波郷砂町今もある 松田ひろむ】より

「境涯俳句再考2」 石田波郷の句、みなさんの反響も多く、いまさらながら波郷の大きさに感慨を深めました。

私の「鴎座」(2012年1月号)に掲載した「霜の墓論争」も再掲しました。

「境涯俳句再考2」

 今生は病む生なりき鳥頭(とりかぶと) 石田波郷

 没後に刊行された『酒中花以後』にある句。おそらく現代の医学ならば56歳で死ぬことはなかったであろう。忌日11月26日も近い。

画像は深大寺にある波郷の墓と句碑「吹き起こる秋風鶴を歩ましむ」。

名句入門43石田波郷の場合5(霜の墓と境涯俳句) 松田ひろむ

霜の墓抱き起されしとき見たり        石田 波郷

川名大は

「この頃肺結核で亡くなる方が多かったのですが、境涯俳句で言いますと、波郷は草田男、楸邨などの人間探究派の作り方‐季語の象徴化‐を踏襲しています。「霜の墓」は単なる季語ではなく、死を象徴化しているわけです。」(現代俳句講座「戦後俳壇史と俳句史との架橋、そして切断」2011年6月11日)

とごく簡単にしか述べていないが、この句はいわゆる「霜の墓論争」を引き起こした句である。

「霜の墓」(を作者が)抱き起されしとき見たり

と読むのか

(倒れていた)「霜の墓」(が)「抱き起こされしとき」(作者が)見たり

と読むのかの論争である。

 森澄雄は、波郷が病床にあったことを知りながら、「波郷が見たものはまさに抱き起された霜の墓であった」とした。しかし、後に「僕は重大な誤解をした。(略)当然波郷が抱き起されるのでなければならぬ」と訂正している。

波郷自身は 「私は戦後の大病の床中で、

 霜の墓抱き起されしとき見たり

といふ句を作つたが、霜の墓が、人夫の手で抱き起こされるやうに掘り起されるのを(あるひは戦災で焼けたふれた墓を霜のまヽ起さうとするところを)、感動的に見てゐる句と解されてゐるのを読んで私自身おどろいたことがある。しかしなるほどこの句は、省略された「われ」の語の置き場所で、さういふ解が生れるのである。しかし俳句は散文を省略して十七字にしたものではない。散文とはおのづから異つた、独自の文章法があることを、見のがしてはならないと思ふ。

 「霜の墓」のあとには「を」も「の」もつかない。隔絶して、しかも迫るが如くそこにあるのである。霜の墓とわれとの正面である。「を」をつけたり「の」をつけようとする散文訳をしようとしてはいけないのだといつては不遜になるだらうか。」(「蓮の中」、一九六二年十月「国語通信」)

 さらに

「俳句では主語の省略はほとんど当然のこととされてゐる。古典の文章に主語の省略されてゐることの多いのとは、事情がちがふ点もあるが、俳句の場合は、略される主語は常に「われ」であるといってよいと思ふ。

夜濯ぎや草ひとすぢが頬に触る

といふ句をみると、この句の作者は女で、自ら水辺にしゃがんで、夜すゝぎをしてゐて、その頬をくすぐる草一筋の感触に、心をとらはれて作つた句と思ふのが当然である。ところがこの句は私の先輩の牛山一庭人氏の作で、一庭人氏が夜すゝぎをするとは思はれないから、この句は夜すゝぎをする女を作者が傍観してゐて、その夜目にも白い頬に、灯りをうけた草の一葉がふれてゐるのを、美しいと感じて生まれた一句といふことになる。

 かういふやうに二つの場合があつて、その表現が一つであることは鑑賞者にとって不都合なことであるが、さうかといつて、この句の表現に不分明の部分があるといふのではない。

 私の句で、

霜の墓抱き起されしとき見たり

といふのがある。白々と霜をおいた墓。病み疲れた身を家人に抱き起されたとき、窓外にその墓をまざまざと見た驚き、感動がこの句を生んだのである。私はこの句の表現を得、満足したのであって「霜の墓」と下十二の間の小断絶は、だれが見ても見落されるはずがないと思ってゐた。

ところが、この句は、倒れて霜をおいた墓を人が抱き起してゐる。ちやうどそのとき、私はそれを見た。さう解釈できる、またさう解釈することは間違ひではない。しかし、それが作者の意図とちがふことはいふまでもない。俳句表現上の一つの狎れが、表現の正確をいくらかくづすことになり、作者の意図しない解釈を生じるのではないか、さういふことのないやう、一つだけの正しい解釈に常に限定しうるやうな表現を、心がけねばならないといふわけだ。

しかし、私は、それはやはり「俳句」の固有の方法を重視しない考へ方ではないかと思ふ。一句の中の「断絶」は切字などで表現されるが、この句のやうに、接続させない文字どほりの断絶もあるわけである。俳句の方法として明文化して強要することはできないかもしれないが、俳句を多くよむことによって、加担してもらひたいと思ふのだ。

この句は、

 霜の墓、わが抱き起されしとき見たり

であって

 霜の墓(を)わが抱き起されしとき見たり

のごとき、テニヲハの省略ではないのである。ましてや

  霜の墓(が)抱き起されしときわが見たり

ではない。

私は一句の主人公は常に「われ」でなければならないと考へてゐる。もちろんこの考へ方は少し極端かもしれない。古今の俳句のなかには、さうでないものもある。しかし、このやうに考へるところに基礎をおかなければ、俳句の方法は確立されないのではないかと思ふのである。」(『俳句哀歓‐作句心得』一句の主人公)

といい、切れの問題、省略の問題、また一句の主人公の問題としている。

波郷は「霜の墓」で切れているのだ。という。しかし、それだけではない。

 俳句は作者名がついて解釈されるべきかどうかの問題がある。私は牛山一庭人の句の波郷の解釈には賛同できない。波郷は作者が男性であるからという。しかし、句にはどこにも男女が書かれていない。つまり波郷は俳句を作者名をつけて鑑賞しているのだ。これは一句独立として解釈する場合には、まっとうな方法ではない。

 さらには言葉の厳密性など多くの問題がある。

 私はこの句には構造上の欠陥があると考えている。

 それは「霜の墓」という名詞で切れ、下五で「とき見たり」と再度、動詞の終止形で切れているからである。「霜の墓」の切れが明確であるならば、当然「抱き起されしとき見たり」「霜の墓」(を)となる。しかし切字としては「見たり」という終止形が強い。波郷も上五は「小断絶」といっている。これを主とすると「霜の墓」(が)「抱き起されしとき見たり」という解釈があって不思議ではないことになる。

 つまり「霜の墓」の切れが弱いのだ。これを補うために、作者の境遇(作者名を付けて)で解釈することになる。これは俳句の「読み」としてはどうだろうか。 (中略)

ところで「見たり」は、

動詞(連用形) 助動詞(終止形)

見る    +  たり

で、この場合の「たり」には、①継続・進行 ②完了存続 ③完了の意味がある。その用法としては、特に問題がある訳ではない。

なお、「抱き起されし」の「し」も問題の助動詞であるが、この「し」は「完了存続」の「し」で、「過去完了」の「し」ではない。「抱き起されている」と「ている」をつけたとき「進行形」になる場合は「完了存続」があると覚えているといい。

五七五のリズムを離れるとすれば

抱き起されしとき‐霜の墓(を)見たり

であろうが、それでも誰が、という解釈は残る。つまりこの句は動詞の多用によって、主体が移動するのだ。

 (私が)抱き起された ‐(私が)見た  抱き起こしたのは(誰か)家人か

 (墓が)抱き起された ‐(私が)見た  抱き起こしたのは(誰か)墓掘人夫か

ということになる。こうした叙述的な方法が、もともと無理だったのだ。

波郷は「(俳句には)散文とはおのづから異つた、独自の文章法がある」。というが、私は俳句に独自の文章法(文法)があるとは考えていない。三上章の明らかにした「ぼくはウナギだ」のような、片言のような文も立派な日本語で、俳句も当然ながら日本語なのだ。

この句は、作者の境涯を離れて、きっぱりと「霜の墓を見たり」だけでよいのだが、波郷はどうしても「抱き起されしとき」と言いたいのだ。

波郷も「一句に動詞は一つでよい」(『俳句哀歓‐作句心得』)といっている。しかしこの句の場合は、いいたいことが多かったのだ。つまりそれが境涯俳句であった。

 波郷に「見たり」の句としては

秬(きび)焚や青き螽(いなご)を火に見たり  石田 波郷

の句もある。上五を「や」で切って、下五で「見たり」とさらに終止形で切ることには、だれが見ても違和感があろう。

そういう意味では、「霜の墓」の名詞切れも気になる。WEBの「俳句情報検索」などで調べても、名詞切‐見たりの例は少ない。

上五の名詞切では、 

藤の花春隠れゆく裾見たり 尾崎 紅葉  

春の雪兜目深の瞳を見たり 石原 舟月

霧の中「受胎告知」の目を見たり 石原 八束  

天高し屋根に跨がる子を見たり  太田 鴻村

春の海振子の如き日を見たり   小川原嘘師

冬欅末代つひの離農見たり    荒井 正隆

 中七の切れでは、

文知摺の石や緑雨に綾見たり 大橋 敦子  

だけである。

 やはり俳句の基本として、下五が「見たり」の場合は、次のように一句一章とすることが基本であろう。

旗のごとなびく冬日をふと見たり 高浜 虚子  

渤海を大き枯野とともに見たり  山口 誓子

渦潮を蓮のうてなといま見たり  三好 潤子

ただし、波郷は「霜の墓とわれとの正面である」という。対決、対比といってもいい。その場合は、上五での名詞切が許されるのであろうか。

私の疑問はなかなか解消しない。(後略)

追記(2016年11月4日)

私の「霜の墓」考察は、やや句の構造に拘りすぎていたようだ。その構造は別として考えると、この句はやはり名句であることは間違いない。「霜の墓」の切なさが胸を打つ。現在では結核の恐怖は基本的になくなったが、ガンの恐怖は消えない。しかもだれもが避けられない「老・病・死」を考えると「境涯俳句」の意味をもう一度考えるべき時であろう。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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