現在を大切にふみしめて

Facebook清水 友邦さん投稿記事  

過ぎ去った日のことは悔いず まだこない未来のことにはあこがれず とりこし苦労をせず

現在を大切にふみしめてゆけば 身も心も健やかになる 過去を追ってはならない 未来は待ってはならない ただ現在の一瞬だけを 強く生きねばならない (法句経 ブッタの言葉)   

仏教の開祖のお釈迦様は紀元前5〜6世紀頃、インドとネパールの国境付近のルンビニーに生まれました。

日本や中国などの大乗仏教では誕生日を4月8日に、悟った日を12月8日に、お亡くなりになった涅槃日を2月15日として法要が営まれます。

インド・スリランカでは、お釈迦様の誕生も成道も入滅もヴァイシャーカ月(インド暦の第二の月・4月か5月)の満月にウェーサク祭といって盛大にお祝いをします。

お釈迦様の名前はサンスクリットでガウタマ・シッダールタ、パーリ語では、ゴータマ・シッダッタ(Gotama Siddhattha)といい、シャカ族の聖者という意味の釈迦牟尼・釈尊とも呼ばれています。

お父さんはスッドーダナ(浄飯)といいます。シャカ族は稲作をしていた部族だったようで、お父さんの兄弟は白飯(シュクローダナ)、斛飯(ドロノーダナ)甘露飯(アムリトーダナ)と皆オーダナ(飯)という名前がついています。

お釈迦様もオーダナ(飯)がついた名前だったかもしれません。

なにしろ、2500年以上前の事なので、ゴータマ・シッダッタでさえ、本当の名前なのか怪しいのです。

ゴータマは最上の牛でシッダールタはすべてを成就する者なので、漢訳では「一切義成就」と書かれています。

仏陀(ブッダ)は「目覚めた人」や「悟りを開いた人」という意味なので他の仏陀と区別するためにゴータマ仏陀と呼ばれます。

ゴータマ仏陀のお母さんのマーヤーは、生まれてすぐに他界したので父親はお母さんの妹のパジャパティーを妃に迎えました。

ゴータマ仏陀は叔母さんに育てられましたが、何らかの欠落感を抱えて生きづらさを感じていたのではないかと思われます。

ゴータマ仏陀は、結婚をして長男が生まれたにも関わらず、妻子を捨てて出家してしまいました。

15冊ほど仏伝の書籍を読んでみましたが、どの書籍も初期仏典をもとにしているので、ゴータマ仏陀のエピソードは一緒でした。

ゴータマ仏陀は、古代マガダ語で説法したと言われています。

仏典が成立する過程はすべて口伝だったようです。

当然、記憶力がいい人と悪い人がいたでしょう。

長文と単文では、単文の方が憶えやすいので詩の型式で伝えていったようです。

説法を沢山憶えている人が、経を伝えない内に死んでしまうと、伝承が失われてしまうので、教典を文字に記すようになっていったのです。それが紀元前1世紀頃だといいます。

研究者の間ではサンスクリットやパーリ語に翻訳したニカーヤや阿含が一番古い仏典ではないかと言われています。

それでも伝承から経が成立したのは仏陀滅後300年も経っています。

その間には、ゴータマ仏陀の教え以外の人の考えが入って来たり、記憶から文章にするときの解釈などの追加がはいっている可能性があります。

初期仏典そのものが、伝承の過程で多くの手が加えられ変えられていることが、すでに明らかになっています。

仏教の在家は戒律を守る事こと、出家者に食事の供養をすること、仏像や仏塔を礼拝し寄進することなどが重要な徳目になっています。

そうすることによって来世は天に生まれて幸福になるというものです。

そのようなことがパーリ語の仏典に仏陀の教えとしてのっていますが、仏像、ストゥーパ崇拝は後から付け加えられたことがわかっています。

そのほかにも仏陀の当時の歴史にない風俗、習慣がパーリ語の仏典に記されている事が明らかになっています。

漢訳の大乗仏教のよりもパーリ語の仏典のほうが古いのでテーラワーダ(上座部)が純粋の仏教で、それ以外は異端であると思い込んでいる人がいるようです。

しかし、テーラワーダの仏典の言語であるパーリ語は、ゴータマ仏陀が直接話していた言葉ではなくて、何処かの機会にマガダ語を聞いた周辺の国の人が自分の言葉に直して、スリランカに伝わったのでした。

時代によって文化が異なり、喩えなどの解釈が困難になったり、教えが途絶えたりしたこともあったかもしれません。

仏陀以外の師の言葉が仏陀の言葉として仏典に記されたこともあった事でしょう。

仏陀の教えといっても、唯一の古い資料であるアーガマの成立自体が、仏陀滅後かなり経っています。

アーガマ成立以前に、基になる九部経や十二部経の経典があったとことがわかっています。

パーリ語の仏典が成立したのは、仏陀滅後400~600年経ってからなので、パーリ語仏典の成立年代は、実際には初期の大乗仏典とたいして変わりがなくなります。

ゴータマ仏陀が直接はなされた直伝の教えが純粋の仏教と定義すれば、どの仏典ものちの弟子の説が混入されているので、テーラワーダも大乗仏教も純粋の仏教だとは言えなくなってしまいます。

チベット仏教中興の祖ツォンカパは教典には、誤った教典(未了儀)と誤りのない教典(了義)があって、その区別を知ることが大切だと言っています。

誤りのない教典でも 教典には文字通り理解してよいものと、文字通り理解せずに背後の意図を汲み取る必要のあるもの、あるいは文字通りに理解してもよいが、それだけでは真実ではないので それ以外の真実を探求をする必要があるもの 、それらの区別を理解することが必要と述べています。

どこの世界も似ていますが同じ経典でも自分の主張に都合の悪い部分は誤った教典として、自分の主張の正しさを引用するとき時は正しい経典とする傾向があります。

最近は陰謀論だと相手の主張にレッテル貼りをするのが自我=マインドの戦略です。

2世紀ごろに原始仏教集団は「小乗(ヒーナヤーナ)」と大乗(マハーヤーナ)に分裂しました。

大乗(マハーヤーナ)仏教と名乗る人々は従来の伝統的・保守的仏教を「小乗(ヒーナヤーナ)呼んで、自分たちの大乗仏教の方が多くの人々を救うことができる大きい教えとしました。

仏教において最高の境地は阿羅漢果(あらかんか)といって阿羅漢(アルハット)に到達した境地でしたが、その境地を大乗(マハーヤーナ)仏教は自己の救いだけ求める縁覚(一人行く者)としてレベルの落ちる低い境地としました。

そして、人々の救済のために尽くす自利と利他を実現する菩薩を、阿羅漢よりも上とする論理を、大乗仏教は展開したのです。

小乗仏教のヒーナヤーナのヒーナは捨てられた劣っているという意味の差別的な名称なので、呼ばれた仏教徒は自分たちを小乗仏教とは呼びません。

テーラワーダ(上座部)仏教と呼んでいます。

上座部に対応して呼ぶと大乗仏教は下座仏教になるわけです。

大乗(マハーヤーナ)仏教の華厳経は五十二の修行の段階が示されていて、十信・十住・十行・十回向という四十もの段階を経て始めて最後の菩薩道に入る事ができるとされています。

その十段階を「十地」と呼んでいます。

しかし十地の最初の歓喜地に達したのは中観のナーガジュルナ(龍樹)と唯識のアサンガ(無著) のたったの二人しかいません。

最後の境地の法雨地(ほううんじ)まで達したのはゴータマ仏陀ただ一人というわけです。

それ以外の仏教徒は皆レベルが低いという事になります。

大乗仏教といっても初期の大乗仏教だけでも般若系、華厳系、浄土系、法華系、維摩系、唯識系、中観系があり、その後の歴史をたどれば密教も出てきて、仏教と名乗ってはいても本尊から修行法も全く異なるといってもいいくらいの広がりがあります。

ゴータマ仏陀のみが唯一覚醒した人間でそれ以外は認めないのか、あるいは出家したものだけが覚醒できて、それ以外は無理なのか、あるいはゴータマ仏陀のように我々一般大衆も覚醒ができるのか。いろんな考え方があります。

仏教のそれぞれの派は優劣のランク付けして、(天台智顗の五時八教の教相判釈、華厳法蔵の五教十宗、浄土善導の「観経疏」、空海の十住心論など)それぞれが自分の教派の教えが一番優れていると主張しました。

商売は同じジャンルの競争相手と競っています。

大乗仏教のロジック(理由付け)は他店との商品の差別を明確にして地域一番店を目指す営業戦略のようなものです。

歴史的に素朴な一般民衆は仏教に加護を求めるのみの存在として、難解な教理とはまったく無縁のままに、ただ出家者だけをささえる存在として仏像や仏塔崇拝の中で生きてきたのが、古代から中世までの共通した社会構造でした。

インドでは、イスラムが台頭すると仏教をささえた社会構造が崩壊したために、仏教は一度滅んでしまいました。

自我=マインドは自分が特別だという考えに囚われています。自我=マインドは自己中心的です。玄奘三蔵はヒンズー教徒を仏教よりも劣っているとして外道と呼びました。

そして、覚醒した、悟ったからといって自我=マインドがなくなるわけでありません。

ですから悟ったからと言ってただちに、英語やスワヒリ語が話せるようになったり スケートで4回転できるようなったり 弓矢の名手になったり 大工仕事が上手になったり 料理の天才になったり プロの演奏家や歌手や作曲家になれたりするわけではありません。何でもできる全知全能の神のような存在になるわけではないのです。

空海は蝦夷を「人を食う鬼の類であって、非人の仲間である」「羅刹の流(たぐ)いにして非人の儔(ともがら)なり」といっています。

残念ながら悟ったといっても、マインドはその時代と地域の文化、政治、思想、団体、部族、民族、国家の影響下にあり、特定の段階にとどまったままなのです。

自我=マインドは自己中心的な段階から自己中心性が減少していく段階に成長していきます。

利己的段階     = 私

自集団中心な段階  = 私+私たち

普遍的な段階    = 私+私たち+すべての人々

統合的段階     = 私+私たち+すべての人々+すべての存在

自我=マインドの成長は自立性の増大、 自己愛の減少、 アイデンティティが拡大し、 脱中心化することを意味しています。

成長とは個人だけの成長ではなく地球全体、宇宙全体が成長しなくてはならないのです。

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」宮沢賢治

仏教はたくさんの宗派がありますが 空性を理解する智慧と、慈悲と愛が心に生じることでは

仏教間の違いは末梢的なことになるでしょう。

仏教だけでなく人間の本質(エッセンス)が明らかになれば世界中のあらゆる宗教は違いで論争する事に意味がなくなり宗教間の争いが自然消滅するでしょう。

自我=マインドと本当の自分との交通整理ができた人が増えてくれば世界は統合され地球は新しい次元に向かうでしょう。

    過ぎ去った日のことは悔いず

    まだこない未来のことにはあこがれず

    とりこし苦労をせず

    現在を大切にふみしめてゆけば

    身も心も健やかになる

    過去を追ってはならない

    未来は待ってはならない

    ただ現在の一瞬だけを

    強く生きねばならない

        (ブッタの言葉)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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