言葉について考える

https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/36467529 【カタカムナ・ヲシテ リンク】

https://higan.net/column/2021/02/kotoba1/ 【言葉について考える その1 〜「言葉」で成り立つ世界】より

ここしばらく、「言葉」についてぐるぐると思考を巡らせています。それを少しまとめるために、考えたことを文章にしてみましたので、「言葉について考える」というタイトルで、数回に渡って掲載したいと思います。

「話す」ことと「書く」こと

最近話題となっているのが「Clubhouse」というアプリ。招待制の音声のみのSNSアプリで、私もご招待をいただいて少し使ってみました。お坊さんも含め、いろんな方がお話をされていて、会話を聞いたり、参加したり、これまでにない体験ができるものだなあと感じています。

ところが、なかなかこの「Clubhouse」を積極的に利用しよう、という気持ちになれない自分もいます。どうも私はアドリブで話をすることに苦手意識があるのかもしれません。

「Clubhouse」に限らず、ですが、人と「話す」時には、やはり瞬発力といいますか、一瞬で考えをまとめる力が要求されます。相手の言葉を聞いて、相手が何を求め、何を聞いているのかを考える。そしてそれを自分の知識や経験の引き出しと照らし合わせ、適切なものを選んで、言葉としてまとめる。「話す」ことは誰しもが日常的に行っているものですが、実はとても高度なことをしているように思えます。

それに対して、「書く」ことについては、私はあまり抵抗がありません。むしろ考えをまとめるために「書く」作業を行っている部分もあります。物事を考える時に、私は頭の中で言葉を呟くようにして考えます。けれどそれはぼんやりとしか言語化されておらず、断片的であったり、まとまりがなかったりします。そのぼんやりとしたものを、「書く」という作業を通して輪郭をはっきりさせる。そうして考えたことを整理しなおします。それによって、思考をまとめ、ようやく、「ああ、自分はこういうことを考えていたんだな」と理解できたりもします。

一方、アドリブで「話す」ことは、その考えを整理しまとめることを通過せずに行いますから、自分ですら何を言うかわからない、そういう怖さを感じることもあります。

「言葉」で成り立つ世界

さて、今回こうして「言葉」について考えるようになったきっかけはいろいろあるのですが、その一つは、私たちの世界は「言葉」によって成立しているんだなあと、ふと感じたことにあります。私たちの世界では、物事には必ず「名前をつける」ことを通して言語化します。物の名前、動物の名前、人間にも一人ひとり名前をつけます。新しい動植物が発見されれば、これまでの種と違うことを明確にするために、名前をつける。

例えば、私の息子は恐竜が大好きなのですが、これまでに発見されていない恐竜が見つかれば、新しい名前(学名)が必ずつけられます。学名がつけられる前にも通称・仮称のようなものがつけられたりもします。記憶に新しいところでは、北海道で見つかった「カムイサウルス」でしょうか。この恐竜は学名が付けられる前は地名にちなんで「むかわ竜」という名前で呼ばれていました。

物の名前、つまり名詞だけではありません。私たちの動き・動作にもそれぞれ名前がつけられていて、それらは「動詞」と呼ばれています。また、物事の様子を表す言葉は「形容詞」や「副詞」などと呼ばれます。物の違いを区別するだけでなく、動きや様子の違いも区別するためにつけられているのが、「動詞」や「形容詞」ですが、これも一種の「名づけ」ですし、「名づけ」ることによって、私たちはそれらの動作や様子を、言葉として扱うことができるようになる。なんとも不思議なことですが、こうして物事を言葉に変換して扱うことによって、私たちは人間としての社会的な生活を営んでいます。

他にも、例えば「コンピュータ言語」というものもあり、このインターネットであったり、様々なシステムも、コードと呼ばれるような「言葉」によって作られている。そんなことを思うと、私たちにとって、「言葉」は切っても切り離せないものになっています。

仏教と「言葉」

そしてそれは、仏教においても言えることです。仏教をひらかれたお釈迦様も、「言葉」を用いて教えを伝えていかれました。我々僧侶もまた、言葉を扱い、仏教について語る身です。

ところが、お釈迦様がひかれた「さとり」と呼ばれるものは、本来言語的なものではなかったと考えられます。お釈迦様が「さとり」をひらかれた時、それを人に伝えることはできないとして、自分だけでその喜びを味わっていかれようとされました。しかし、梵天という神の促しによって、教えを伝えていかれる決心をした「梵天勧請」と呼ばれるエピソードがあります。

哲学者・ヴィトゲンシュタインの有名な言葉にも「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」というものがありますが、お釈迦様が伝えることをためらわれたことの背景にも、「さとり」は、もともとは「言葉」で表現できないもの、「不可称・不可説」と呼ばれるようなものでなかったのかな、と推測されます。

けれど、人に伝えるためにはどうしても「言葉」にする、言語化する必要があります。ですから、お釈迦様が成道後、生涯伝道に励まれたのは、まさに「さとり」の言語化への挑戦だったと言えるのではないでしょうか。

お釈迦様の教えの中に、いろんな比喩や物語のようなものが見られるのは、伝わりやすい、理解しやすいように、ということもあると思いますが、そのような形でしか「言葉」として表現できなかった部分もあるのかもしれません。

そしてその後も、経典としてまとめられたり、他言語に翻訳されたり、解説が加えられたりしてきました。仏教が今日まで伝わっていることの背景には、様々なお坊さんたちが「言葉」と向き合い続け、挑戦し続けてきた歴史があるのでしょう。ですから、仏教においても、やはり「言葉」は重要な役割を担っているのです。

https://higan.net/column/2021/03/kotoba2/ 【言葉について考える その2「言葉」の力】より

前回は、私たちと言葉が切っても切り離せないものである、ということを考えましたが、今回は「言葉」のもつ「力(ちから)」について考えてみたいと思います。

言葉に「力」ある、というと、魔法のようなものであったり、言葉によって不思議なことが起こせる、あるいは「言霊」のようなものを想像してしまうかもしれませんが、そうではなくて、もう少し機能的な意味での「力」、と理解していただければと思います。

「バルス」と「くしゃがら」

言葉に「力」があるものとして最も有名なものは、「バルス」かもしれません。多くの日本人が見ているであろう、ジブリの代表作の一つ『天空の城ラピュタ』に出てくる言葉です。

この「バルス」という言葉は、「滅びの言葉」として登場します。実際には、ラピュタを浮遊させている「浮遊石」と呼ばれるものの力を解放する効果があったように見えますが、滅びの言葉であっても、石の力を解放するためであっても、「バルス」という言葉になんらかの力(機能)が加えられていたと理解できると思います。つまり、言葉そのものに「力」があるというよりも、言葉にはなんらかの「はたらき」を付属させることができる。言葉とは、そういう特徴(力)を持っていると言えそうです。私たちが日常で使う「パスワード」などもその一例かもしれません。

そしてもう一つ、こちらはマンガ『ジョジョの奇妙な冒険』からのスピンオフ、短編小説として描かれた『岸辺露伴は動かない』の中にも、不思議な力を持つ言葉が登場します。NHKでドラマ化されたことでも話題となりました。

それは「くしゃがら」という言葉ですが、この言葉は、とにかく正体不明。いくら探しても調べても、どういう意味の言葉なのか一切わかりません。だからこそ、気になりだしたら最後、この言葉にとり憑かれたようになり、廃人のようになってしまう。主人公の岸辺露伴はこの言葉を、人の好奇心を通じて伝染する「言葉そのもの」あるいは「この世の禁止用語」と表現していますが、全く意味が不明な言葉でありながら、人の心を掴んで離さない力が言葉にはあるのだ、ということを示唆しているようにも感じられるエピソードでした。

そう言えば少し前にTwitterで国交省北海道開発局が「ばばばばばばえおうぃおい~べべべべべべべべべえべえええべえべべべえ」という謎のツイートをしていたことが話題になっていました。なんらかの手違いから起こったことだと考えられますが、この言葉(というか文字列)が広く拡散され話題になったのは、「くしゃがら」という言葉に惹かれてしまうのと、同じような現象だったのかもしれません。

名をつける

けれどこのような特殊な例だけではなく、私たちが普段使っている言葉にも、実は力があるのではないでしょうか。岡崎玲子さんのマンガ『陰陽師』の中には、次のようなセリフが出てきます。

この世で一番短い呪(しゅ)とはなんだろうな

名だよ

呪とはようするにものを縛ることよ

ものの根源的な在様(ありよう)を縛るというのは 名だぞ

「名」とは言葉です。名をつけることは、物事を言語化することであり、そのものの在様を固定化していく。つまり言葉を用いて、縛りをつける、枠組み化することであり、それが陰陽師の用いる「呪」と呼ばれるもののベースにある、ということを言っているのでしょう。

その一例になるのかどうかわかりませんが、Twitterでこんなつぶやきもありました。

何かわからないもの(現象)でも、それに名をつける、つまり言葉を用いて扱っていくことで、その不確かなものを固定化していく。それによって、人間の理解を超えたものを、人間の領域へと引きずり込んでしまう。そういう機能が言葉にはあるのかもしれません。私たち日本人にとって馴染み深い「妖怪」という存在も、もともとはよくわからない不思議な「現象」だったものに名前を与え、言語化し、姿を与えていくことによって、私たちが理解できるものへと変化させていった。そしていつの頃からか、恐怖の対象だったものが愛されるキャラクターにまでなってしまうわけですから、名前をつける、言語化することには、やはり力があると言えるでしょう。

名の持つ力

他にも、この「名」には力があると考えることができます。例えば「リンゴ」という言葉。この「リンゴ」という名(言葉)一つで、私たちはある果物のことを想像できるでしょう。皮が赤くて、皮を剥くと白い果肉があり、食べるとシャクシャクとした歯ざわりがして、ほのかな酸味と甘味のある、あの果物です。

しかしもし、「リンゴ」という言葉を使わずに、その果物を表現しようとすると大変です。その果物の持つ特徴を全て羅列しなければなりません。落語の「寿限無」ではありませんが、いちいちそのようなことをしていては、なかなか意思の疎通が図れません。そう考えると、「名」というものは大変便利な道具です。

一方で、別の角度からこのことを考えていきますと、この「リンゴ」という言葉自体には、「リンゴ」そのものの持つ特徴、「皮が赤くて、皮を剥くと白い果肉があり、食べるとシャクシャクとした歯ざわりがして、ほのかな酸味と甘味のある」というものがあるわけではありません。ところが、「リンゴ」という言葉一つで、その特徴をもその言葉の中に含んでしまうことができます。

そればかりか、「リンゴ」という言葉一つで、リンゴが好きな人は「リンゴ食べたいなあ」と思うかもしれませんし、リンゴにまつわる思い出がある人はその思い出を思い出すかもしれません。そう考えてみますと、「リンゴ」という言葉には、リンゴそのものの持つ特徴を含み込んでいくことができ、そのイメージを他者に届け、さらには心にいろんなことを思い浮かべさせる、そういうはたらき、「力」があるのではないでしょうか。

つまり、「名」には、そのものの持つイメージを収め込む器のような役割をし、そのもののイメージをそのまま他者に伝え、共有できる。さらには人の心に作用するはたらきも持つ。「名」は、本来的には物と物とを区別するための記号です。しかし、ただの記号を超えた力・機能というものも備わっている。そんな風にも見ていけるのではないでしょうか。

と、「言葉」が持ちうる力、というものを考えてみました。いろいろ書きましたので、最後にちょっとまとめておきましょう。

・言葉には何らかの機能を付属・付加させることができる

 ex)「バルス」、「パスワード」

・言葉(名)は、漠然としたものを固定化するはたらきがある

・言葉は、理解できないものを理解できる形にする

・言葉(名)は、そのものの持つ特徴を収める器の役割を果たす

・言葉(名)は、イメージを他者に伝えることができる

・言葉は、人の心に作用する

 ex)思い出の想起、「くしゃがら」「ばばばばばばえおうぃおい~」

http://www.aritooshi.org/blog/index.cgi?key=93 【言葉に宿る力<言葉について その2> 】 より

  古来より日本人は、言葉には、特別な霊力が宿ると考えていました。『万葉集』の中に、「言霊の幸わう国」という表現があります。言霊(ことだま)とは、言葉に内包された霊力、また、言葉を唱えることによって、霊力が発揮されるとする考え方のことです。これは、精霊信仰の一環としてとらえる見方や、また人の心を動かす作用としての側面からも説明されますが、このような考え方を日本文化の一つの特徴とする説もあるそうです。

 本来は、呪文・呪詞のみが神の威力に裏付けられた権威をもっていたとされる考え方もあるそうです。民族宗教で、共同体祭祀として発展してきた神道は、細やかな教えは不要でした。

 「神道は、言挙げしない」のが特色であると言われます。それは、言葉に霊力があるとする言霊思想とも関連し、声高に言い立てることを禁忌とする習慣が存在していていました。神道が、ことさらに理論的な教理や教説を主張しないのが特徴であるということを強調してこのように言われるようになりました。

 自らが口にした言葉それ自体に超越的な力や働きがあると考えるのは、現代社会でも残っています。例えば、結婚式などのおめでたい席で、死や病気などを連想させる言葉はタブーとされるなど、不吉なことを連想させる言葉を使うのを避け、他の表現に変える、忌詞(いみことば)は、今も生きています。

 また、言葉の響きを重視する思考法は、忌詞以外にも見られ、病人のお見舞いにシ(死)ク(苦)ラメンやサイ(再)ネ(寝)リアの花は避けるなどは、語呂合わせ的解釈によります。語呂合わせも言霊信仰の表れと言えます。

 古来から、人びとが言霊の働きに期待して、祈りや願い、場合によっては呪の言葉を口にしたのだろうと考えられます。

 私たち神主が、神さまに向かって発する言葉が祝詞(のりと)です。祝詞の歴史は、古く、天岩戸の前で、アメノコヤネが奏上したフトノリトゴトがルーツといわれています。祝詞の語源については、諸説あるのですが、呪的なものと密接な意味をもつ{ノリ}と{ト}からなるとする説が通説になりつつあるそうです。このことから祝詞は、言霊の働きを強く期待した祈りの言葉であると同時に神さまを讃え、誠の心を披歴する言葉といえます。

 祝詞には、多くの種類がありますが、いずれも『万葉集』などで用いられている大和言葉で語られ、荘厳な響きがあります。神職は、養成期間中に祝詞の勉強をしてそれぞれの祭祀に合わせた祝詞を作る勉強を致します。現代語では、使用しない言葉で書くので、非常に難しく、また荘厳に響くように奏上するのは、日々の修練が必要です。

参考文献:「神道事典」 弘文堂

       「神道」  ナツメ社

http://user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/2014-06-16-1.html 【#1876. 言霊信仰[kotodama][japanese][taboo][sound_symbolism][arbitrariness][semiotics]】より

 言霊(ことだま)とは,言葉に宿る霊力を指し,古代日本人は言葉を神秘的な働きをするものと信じていた.秋山・三好 (19) による説明を引こう.

呪言や呪詞など日常の言葉とは異なる働きをする言葉には、不思議な霊力が宿ると考えられていた。口に出して言い立てた言葉は、そのまま事実として実現され、よい言葉・美しい言葉はサキハヒ(幸)をもたらし、悪い言葉はワザハヒ(禍)をもたらすという、“言”と“事”の同一性が信じられていたのである。こうした言葉に宿る霊力(言霊)に対する信仰を言霊信仰と呼んでいる。

 言霊という語は,『万葉集』に3例現われる.

 ・ そらみつ 倭(やまと)の国は 皇神(すめがみ)の 厳(いつく)しき国 言霊の 幸(さき)はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり (巻五・山上憶良の長歌の一部)

 ・ 言霊の 八十(やそ)の衢(ちまた)に 夕占(ゆうけ)問ふ 占(うら)正(まさ)に告(の)る 妹(いも)はあひ寄らむ (巻十一・柿本人麻呂歌集)

 ・ 磯城島(しきしま)の 日本(やまと)の国は 言霊の 幸(さきは)ふ国ぞ ま幸(さき)くありこそ (巻十三・柿本人麻呂歌集)

 最初と最後の歌は,いずれも遣唐使派遣にかかわる歌であり,「対外的な緊張の中で,国家意識の目ざめとともに〈言霊〉への信仰が自覚された」(秋山・三好,p. 19)とされる.最後の歌を参照して,日本は「言霊の幸ふ国」(言霊の霊妙な働きによって栄える国)と呼ばれることがあるが,実際には言霊への信仰は日本(語)に限らず,古今東西に例がある.むしろ,言語をもつ人類にとって一般的な現象と考えられる.

 祝詞,神託,呪文はとりわけ古代社会で重視された言霊信仰の反映であるし,忌詞 (taboo) の慣習と,それによって引き起こされる婉曲語法 (euphemism) の発達は,現代の諸言語にも広く見られる.記号の恣意性 (arbitrariness) への反例として広く観察される音象徴 (sound_symbolism) やオノマトペ (onomatopoeia) ,また古代ギリシアで起こった「#1315. analogist and anomalist controversy (1)」 ([2012-12-02-1]) の論争も,記号とその指示対象とを同一視しようとする傾向と深く関係している.五十音図の並びに深遠な意義があると説く江戸時代の音義説や,ユダヤ教で発展した「#1455. gematria」 ([2013-04-21-1]) などの言葉占いも,言霊信仰の現われである.Ogden and Richards の「#1770. semiotic triangle の底辺が直接につながっているとの誤解」 ([2014-03-02-1]) への警鐘も,人々が「記号=指示対象」と同一視してしまう根強い性向への危機感からであった.言霊信仰は,決して前近代的な慣習ではなく,現代でも息づいている「言語の盲信」である.

 言語情報にあふれた現代には,一方で「言語の不信」という問題がある.言語の盲信と不信という問題を意味論や記号論の立場で解決しようとするならば,まずは記号と指示対象との関係を正しく理解することから始める必要があろう.言霊信仰という話題は,この議論に絶好の材料を提供してくれる.

 ・ 秋山 虔,三好 行雄(編著) 『原色シグマ新日本文学史』 文英堂,2000年.

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000