奥坂まや作品をめぐって

http://a-un.art.coocan.jp/za/essay/maya-o.html 【奥坂まや作品をめぐって(句集『縄文』)】より

 奥坂まやさんの句集『縄文』(ふらんす堂、2005年)を拝読しました。帯で藤田湘子さんは、「奥坂まやは胸底にたくさんの花種をたくわえている。それらは実験的新種だから、あるときは大輪の一花となり、あるときは不思議な花苑を現出する」と述べておられます。この一冊のある本質を的確に掴んだことばだと思います。

汗かいて歩めり常にポストは赤  奥坂まや

万有引力あり馬鈴薯にくぼみあり

蛇口あり菊人形の傍らに

たんぽぽに普通列車の速さかな

ていねいにからだ洗へり冬に入る

 確かに、多様な作品を収め、こうしたある種の狙いをもった作品が読者を楽しませてくれる一冊です。

 一読して感じたのは、代表作を狙った、そんな句集なのかもしれないということでした。「蟻死せり科学の本にはさまれて」「兜虫一滴の雨命中す」「ひまはりの遠心力のなかに居り」「木の実落つしづかなひかり体内へ」「物置に箒が威張りクリスマス」といった作品から、そんなことを思ったのかもしれません。これらの作品はある方向を明確に示しています。しかし、その明確さゆえに、作品としての力が弱いように思うのです。

刃物屋に川風とどく祭かな            トラツクに垂るる鎖や羽抜鶏

封筒の密なる白さ原爆忌             馬積みて貨車発ちにけり天の川

蓑虫にヘリコプターの降下音           長々と尾のあるごとし秋の暮

ぎつしりと並ぶ黒靴虚子忌なり          千人の着席の音梅雨深し

わが前を馬過ぐ秋の逝くごとく          手拭のかぶせてありぬ土筆籠

 これらの作品はささやかな詩型である俳句のよさをもっているように思います。読みの可能性がそっと置かれている。そんな言い方ができるかもしれません。


https://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19960712,19961012,19970219,19971007,19990322,20020812,20050428,20070510,20100504,20110627,20110728,20111013,20120128,20120719,20140907&tit=%89%9C%8D%E2%82%DC%82%E2&tit2=%89%9C%8D%E2%82%DC%82%E2%82%CC 【奥坂まやの句】より

 かき氷くづしどうでもよかりけり

                           奥坂まや

女性でなければ、まずは絶対に書けない句。で、このかき氷をどうしたか。作者はきっと、たいらげてしまったはずである。すねているのか、かなり怒っているのか、そのへんの事情はわからない。けれども、男の場合は「くづし」たりもしない。手なんかつけないのだ。奥坂さんは神田神保町の生まれだそうだが、こういうときには、私だったらそれこそ神田の「ランチョン」あたりで、ひとりビールを飲むだろう。(清水哲男)

 夕焼や新宿の街棒立ちに

                           奥坂まや

昭和62年(1987)の作。新宿西口高層ビル街の夕景である。この句を読んで瞬間的に思ったのは「作者はあまり新宿になじみがないな」ということだった。私のような「新宿小僧」にいわせれば、新宿は棒立ちになるような街ではない。第一、高層ビルだなんて、新宿には似合わないのである。私自身、高層ビルのひとつKDDビルの34階で数年仕事をしていたけれど、一度もそこを新宿だと感じたことはなかった。このことは、もちろん句の良し悪しに関係はないのだけれど、なんだか私にはくやしいような作品ではある。そういえば、戦前の流行歌の一節に「変る新宿あの武蔵野の月もデパートの屋根に出る」とかなんとか、そんな文句があった。この歌を書いた人ならば、きっとこの句を歓迎するだろう。『列柱』所収。(清水哲男)

 メロンパン体内すこし朧なり

                           奥坂まや

この句を、どうかメロンパンのように味わっていただきたい。というのも、以前、俳句雑誌ではじめて読んだときには、ひどく気に入った。友人たちにも、ずいぶんと吹聴してまわった。身体的に表現された抒情が、とても素晴らしいと感じられたからである。ところが、しばらくするうちに、一時的にだが、つまらなくも思われてきた。しょせんは、机上で考えた句じゃないか、小賢しい句だなどと……。しかし、またいつしか、やはりこの句は素敵だなと思い直したり、あっちへ行ったりこっちへ来たりと、私にとっては面倒な作品となってしまった。うーむ。「朧」は「おぼろ」。『列柱』所収。(清水哲男)

メロンパンの好きなひとにはすぐわかる。あのパンの衣をめくって見れば、ほら、ほのかに春の衣の朧ろなような明りが射して、あたかも胎内にいるよう……。朧をこのように見事に表現した例はない。メロンパンの句の傑作であろう。パンはパンでもあんパンなら三好達治に「あんぱんの葡萄の臍や春惜しむ 」があり、こちらもあんパン句の傑作であろう。奥坂さんはこの句集により俳人協会新人賞を受賞。一躍若手俳人のスターとなった。『列柱』所収。(井川博年)

 万有引力あり馬鈴薯にくぼみあり

                           奥坂まや

不思議な句ですね。なんだか、わかったようなわからないような。くぼみが引力でできたのかね。ニュートンも驚く新発見。馬鈴薯(じゃがいも)は秋の季語。新じゃがは夏の季語。でもポテトじゃ季語は無理だろう。同じものでもカタカナは季語にならない? 鮭は季語でもサーモンじゃ駄目? 奥坂さんは1950年生れ。藤田湘子門。この句は自信作と見えて、句集に同名の『万有引力』がある。このひとも私、好きだなあ。(井川博年)

 たんぽぽの絮吹いてをる車掌かな

                           奥坂まや

山間の駅。単線だと、長い時間停車して擦れ違う列車を待つ。少し疲れた客はホームに降りて、背伸びなんかをしたりする。ベテランの車掌はホームの端のたんぽぽ(蒲公英)を無造作に摘んで、いかにも所在なげに絮(わた)をふっと吹いている。その子供っぽい仕草に、作者は好感を覚えつつ、春ののどかさを味わっている。私などにも、とても懐しい光景だ。ところで一点、私は「吹いてをる」という文語調にひっかかった。作者は現代の人なのに、なぜ「吹いている」ではいけないのだろうか。ひっかかったのは、外山滋比古『俳句的』(みすず書房・1998)を読んだ影響もある。外山氏の一節。「俳句は文語によることになっている。どうして文語でなくてはいけないのか、と反問する野暮もない。口語に比べて文語の方が何となく、すぐれているように感じる向きがすくなくない」。句の場合、べつに作者はエラそうにしているわけではないが、多少は「をる」のほうが「すぐれている」と思ったのかもしれない。思ったとすれば、根拠は文語表現のほうが句のすわりがよいという点にあるだろう。すなわち、伝統によりかかっての安心感があるということ。とかく口語の腰はふらつく。が、ふらつく口語と取っ組み合わない文芸ジャンルに、未来は期待できない。俳誌「鷹」(1998年6月号)所載。(清水哲男)

 炎天の原型として象歩む

                           奥坂まや

あるところで、作者は「俳句作品は、それぞれの季語へのお供え物であると思う。もうすでに存在するような作品では季語に喜んでもらえないので、なるべく新しくかつ深いものを捧げたい」と述べている。となれば、掲句は季語「炎天」へのお供えものだ。「炎天」に具象的な「原型」があるはずだという見方は、深いかどうかの判断は置くとして、たしかに新鮮だと思った。夏をつかさどる神の意味の「炎帝」という季語は「もうすでに存在する」が、具象的ではない。そして、その原型は猛暑などはへっちゃらの「象」だと言うのである。しからば、この象はどこを「歩む」象なのだろうか。と、気にかかる。動物園なのか、アフリカやアジアの自然の中なのか、それともインドやミャンマーなどの労働の場なのか。どこでもよいようなものだけれど、私には飼育されて働いている象の姿が浮かんでくる。つまり、動物園の象とは違い、文字通りに人間と共存しているからこそ、酷暑に強い象のたくましさが引き立ち、まるで炎天の原型みたいに思えてくるのも自然な成り行きと感じられるからだ。少年時代に雑誌で読んだ巽聖歌の詩の書き出しに「象の子はどしりどしりよ、日盛りのまちを行ったと」(表記不明)とあった。子象のたくましくも愛らしい姿を描いた詩で、止めは「赤カンナ盛りだったと」と抒情的だが、その健気さに打たれてしまった。掲句を知ってすぐに思い出したのがこの詩で、そういうこともあるので、どうしても人とともに働いている象のイメージにとらわれてしまうのかもしれない。『列柱』(1994)所収。(清水哲男)

 たんぽぽに普通列車の速さかな

                           奥坂まや

季語は「たんぽぽ(蒲公英)」で春。福知山線での大事故の後だけに、余計に沁みいってくる句だ。二通りに解釈できると思う。作者が電車に乗っている場合と、通過する電車を眺めている場合と。乗っているのであれば、いわゆる「鈍行」ゆえの気楽さと楽しさが読み取れる。ローカル線であれば、なおさらだ。見るともなく窓外を見やっていると、線路沿いに点々と黄色い花が咲いているのに気がついた。「ああ、たんぽぽだ。春だなあ」。そう感じただけで、心が温かくなってくる。乗っていない場合には、たんぽぽを近景にして、遠くをゆっくりと行く電車を眺めている。いかにも牧歌的というのか田園的というのか、ちょっと谷内六郎の世界に通じていくような眺めだ。私は後者と取りたいけれど、読者諸兄姉は如何。いずれにしても、たんぽぽに猛スピードは似合わない。一面に咲き乱れている菜の花あたりだと、新幹線のスピードでも似合いそうな気もするが、たんぽぽは黄色いといっても小さくて地味な花なので、あまりのスピードだと視界から省略されかねないからだ。したがって、句の手柄は「速さかな」の止めにあるだろう。「速さ」という言葉は抽象的でありながら、しかし句では逆に具体として読者に印象づけられるのである。なかなかの技巧の冴え。実作する方なら、おわかりになるだろう。『縄文』(2005)所収。(清水哲男)

 そらまめのみんな笑つて僧のまへ

                           奥坂まや

そらまめは莢が空にむかって茎につくことから「空豆」。莢のかたちが蚕の繭に似ていることから「蚕豆」の字があてられるようになったという。「おたふく豆」は、そらまめの中でも特に大粒の実の品種を指すようだ。この句の面白さはそらまめがお多福の顔になってコロコロ笑っている景と、講話を聴くため僧の前に並んでいる人達が笑っている情景の二つが同時に含まれているように思えるところである。これは上五の「の」が軽い切れを含むとともに、「みんな」という不特定多数を表す言葉に掛かっていくからだろう。インターネット事典ウィキペディアによると、そらまめは花に黒い斑点があり、豆にも黒い線が入っている。そのせいか古代ギリシャやローマでは葬儀の食物に用いられたそうだ。ピタゴラスはそらまめの茎が冥界とつながっており、莢の中には死者の魂が入っていると考えたという。僧侶はあの世とこの世の橋渡しを司る人。そらまめと僧の結びつきを考えると、この情景はこの世の情景を描きながらも、日常からちょっとはみ出た次元の世界を描いているように想像できる。時空を超えたその世界にそらまめの「笑い」を響かせると、その笑い声はただ明るい童話的な笑いでなく、不気味な哄笑の雰囲気もあり、それもまた面白く感じられる。『縄文』(2005)所収。(三宅やよい)

 お早うと言ふはつなつのひびきなり

                           奥坂まや

平成19年からは今日が「みどりの日」。先月29日の「昭和の日」となった元「みどりの日」には、なんだか人間の都合で移動していただいた感もあるが、ともあれ日本列島はGWのまっただ中。心地よい陽気に連なったお休みで、羽を伸ばしている方も多いだろう。「おはよう」には、「お早くから○○ですね」の前半が残された挨拶であるという。業種によっては、昼過ぎや夜間になっても「おはよう」の挨拶を交わすところがあるが、これも自分より早くから働いている人へのねぎらいとともに、スタートの意欲や意気込みが含まれるのだと思うと納得がいく。また、英語の「Good morning」にはたいてい最後に名前を付けて、その人へ、と向けられるが、日本語の「おはよう」には窓を開いて朝の光りに、若葉を満たした街路樹に、道ゆく猫に、と投げかけられ、万象から活気をもらうおまじないのような効用も感じられる。明日は立夏。暑いさなかの立秋や、こごえる立春など、少々やせがまんを強いられるような節気のなかで、唯一気温と言葉が一致する気分の良い節目である。「初夏(はつなつ)」のはつらつと清々しい季節にむかって、今朝は「おはよう」を言ってみる。『縄文』(2005)所収。(土肥あき子)

 若楓おほぞら死者に開きけり

                           奥坂まや

楓(かえで)は紅葉も美しいが、青葉の輝きも見事だ。歳時記で「若楓」と、独立した季語として立てられているのもうなずける。この句のシチュエーションはいろいろに想像できるが、私は納骨の情景を思い浮かべた。普通の墓参りよりも少々厳粛な気分で親族や関係者が集まり、服装も黒っぽい。上天気なのだろう。折りからの初夏の風にあおられて、それまで墓をおおっていた楓の影が払われ、ぱあっと日が降り注いでくる。思わず見上げた目には、真っ青な「おほぞら」が……。そこでいささか鬱屈していた作者は、一瞬救われたような気持ちになったのだろうが、その気持ちを自分のそれだけにとどめず、埋葬される死者と共有しているところが素晴らしい。いや、楓はむしろ死者のためにこそ大空を開いてくれたのだと詠んだ作者の、大きな包容力を伴った情景の捉え方は、読者をもまた癒してくれる。単なるスケッチを超えた佳句だと思った。『妣(はは)の国』(2011)所収。(清水哲男)

 ことごとく髪に根のある旱かな

                           奥坂まや

確かに髪にはことごとく毛根がある。しかし日常モードで使われる毛根は「毛根にチカラ」とか「毛根を強くする」なんてヘアケア用語のレベルにとどまっているように思える。それが、「髪に根のある」とことさらの表現に「旱」が続くと、水のない白く乾ききった大地にしぶとい根を張る植物のイメージと毛根が重なり合う。それとともに、ことごとく根のある黒髪をみっしりと頭にいただく鬱陶しさと、物を涸れつくす「旱」の白く乾いた眩しさが思われる。相反する要素が暑さという共通項で繋がり「かな」という切れでくっきりと印象づけられる。こうした句を読むと、なだらかに読みくだす十七音に置かれた言葉の配列の妙を感じずにはいられない。『妣の国』(2011)所収。(三宅やよい)

 天高しほがらほがらの伊勢うどん

                           奥坂まや

からっとした秋晴れが何日か続いている。暑くもなく、寒くもなく公園に寝転んで透き通った空を見上げるのにいい頃合だ。そんな気持ちのいい秋の天気と取り合わされている「伊勢うどん」とはこれ如何に。ウィキペディアの説明によると、「黒く濃厚なつゆを柔らかく煮た極太の麺にからめて食べる。麺をゆでる時間が非常に長く、通常のうどんが15分程度であるのに対して1時間弱ほど茹でる」そうで、伊勢参りの人のために提供されたのが始まりとか。きっとおおらかで素朴なうどんなのだろう。参道の店で伊勢うどんを食べると長旅の疲れも癒えて「ほがらほがら」と機嫌がよくなるのだろう。広々と澄みわたった空にほがらかに唄ううどんが「伊勢へおいでよ」と呼んでいる気がする。『妣の国』(2011)所収。(三宅やよい)

 いつさいの音のはてなり雪ふるおと

                           奥坂まや

今週月曜日の夜九時過ぎ位か、障子を開けると雪になっていた。雪の予報は出ていたのでやっぱりと思ったが、それにしても久しぶりに見る霏霏と降る雪だった。また大げさなと、忠栄様の母上に叱られそうだが、つぎつぎに落ちる雪に、つい口を開けて見とれてしまった。雨音が聞こえなくなると雪になっている、というのがふつうだけれど、降る雪を見ているといつも、雪を聞いている、という気分になる。その、おと、は確かに、耳に届く音ではなく、全身で感じる静かで賑やかな気配のようなものなのかもしれない。その夜の雪はすぐにまばらになり、それでも我が家のベランダには数センチ積もった。そして静かに眠ったまま、朝日に光りながら消えてしまった。『妣の国』(2011)所収。(今井肖子)

 暑からむいとしこひしの大阪は

                           守屋明俊

この間オリエンタルカレーの懐かしのパッケージを見つけて思わず買ってしまった。その昔、日曜日の昼と言えばオリエンタルカレー提供の「がっちり買いまショウ」を見ていた。いとし、こいしが司会だった。当時は物足りなかったけど、二人にはやすし、きよしのようなしゃべくり漫才にはない大人の味わいがあった。大阪の暑さは格別で、奥坂まやの句にも「大阪の毛深き暑さ其れを歩む」という句がある。湿気が高くてそよりとも風の吹かない大阪の夏はむうっと息が詰まる暑さだ。しかし掲載句は「暑からむ」と推定になっている。大阪から遠くに離れ、今はいない「いとしこいし」の洒脱な漫才を想うように大阪の粘る暑さを懐かしく思っているのだろう。今年の大阪も暑いだろうか。京都の夏、名古屋の夏、東京の夏、それぞれの都市に似合いの人や事柄を取り合わすことで暑さの受け取り方も変わってきそうだ。『日暮れ鳥』(2009)所収。(三宅やよい)

 芒挿す光年といふ美しき距離

                           奥坂まや

名月を鑑賞するときに、芒(すすき)を挿す。よい風習と思います。ただし、中秋の名月の日、晴れているとはかぎりません。また、都市生活者なら、月を展望できる住環境をもつ人は、少数でしょう。それでも掲句を読むと、「芒挿す」という行為に意味を感じます。これは、月に向けて、自身の位置を示して、月と自身との直線距離を確定する動作です。ここを起点にして、時間と空間の美学が始まります。ふつう、一万光年などという使われ方をする「光年」を単独で使い、物理的な単位とし て提示しています。「光年」という時間の単位は、そのまま宇宙空間に存在する天体との距離を示します。奥坂さんは、そこに「美しき」を形容している。たしかに、宇宙物理学は、美学に近いところがある学問です。それもふまえて、掲句は、何億年もかかる距離を旅する光そのものが持っている性質に対して、「美しき」といいます。それは、宇宙的な速度を輝きという現象で見せてくれる性質です。名月の手前に芒を置く風習は、月を借景とするシンプルな生け花のようでもあり、家の中に、月を客として招き入れる風雅な遊びでもあるでしょう。明晩は、芒を挿してみようかな。『縄文』(2005)所収。(小笠原高志)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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