https://y-oono.jimdofree.com/%EF%BC%93%E5%B9%B4/%E4%BF%B3%E5%8F%A5/ 【俳句の可能性】より
読解の手順
1 音読する
俳句は声に出してよむことが基本である。音読することにより、発音やリズムなど、文字を見るだけでは気づかなかったさまざまな作者の工夫が見えてくる。
2 イメージ化する
俳句もまた、正岡子規の提唱した「写生」(目に見えた景色をそのまま詠み、そこに情感を込める)が中心である。作者が目にしたのはどのような景色か、絵に描いてみる等、映像化してみる。
教科書にも書かれている通り、俳句は短歌以上に省略されている。したがって省略された部分をいかに想像で補うかが解釈や鑑賞の鍵となる。場合によっては、作者の意図以上に優れた解釈が存在する。
3 「切れ」をさがす
多くの俳句には「切れ」が存在する。「切れ」とは、作品に「間」をもたらし、空間的、時間的、意味的な広がりをもたせるものである。
「切れ字」で簡単に判別できる場合もあるが、分かりにくかったり「切れ」がなかったりすることもある。「切れ」は、作者が強調したり余韻を持たせている部分(感動の中心)をつかむ手がかりとなる。
4 季語をさがす
「歳時記」等で調べる。その季語が効果的に使われているかどうかを確認する。良い句というのは、他の季語では代用がきかない、まさにその季語しかない、という季語の使い方をしてある句である。
季語のない場合は、季語がないことによってどういう句になっているか、季語の代わりに中心になっている語はないか考える。
5 構造を調べる
主語・述語、修飾・被修飾の関係を確認し、倒置や挿入、対比などがあれば、その効果を確認する。
対比とは、例えば「古池やかわず飛び込む水の音」の「古池」と「かわず」の対比である。この異なるものの取り合わせが良い句が、優れた俳句とされる。逆に「古池」に対して「涼風」とか「水しぶき」等はイメージが平凡・貧困で駄作とされる。
6 助詞を補ってみる
俳句は「の」「に」「て」などの接続語が省略されている。様々な接続語を補ってみることによって、多様な解釈が生まれる。
7 効果的な表現を見つける
別な表現、一般的な表現だったらどう印象が異なるか考えてみる。その中で、句の表現の新鮮さ、独創性を確認する。
俳句の可能性
どの子にも涼しく風の吹く日かな 飯田龍太
大意 どの子にも、風が涼しく吹いている良い日だなぁ。
季語 涼し(夏)
どこ1 校庭の木陰でクラスメイトとくつろいでいるときのこと。
どこ2 幼児の頃、海辺で遊んだときのこと。
だれ 子供(複数)
切れ字 「涼しく風の吹く日かな」
感動の中心
作者は、子どもたちが集まっているところに、涼風が吹いている今日というこの日に感動している。
情景
「どの子」も風を「涼しく」感じていることから、「どの子」も汗をかくくらい活発に動いていることがわかる。その涼風にあたり、気持ちよさそうにしている子ども達を見て、作者は感動している。
鑑賞
子どもというのは「希望」や「未来」がある一方で、自立するまでは周囲の影響を受けて生きていかなくてはならない存在である。この句は、なにげない日常の一場面を切り取ったものであるが、子ども一人ひとりのかけがえのない命や人生を思うとき、作者のあたたかく慈愛に満ちた視線が感じられる。(金山桜子)
いくたびも雪の深さを尋ねけり 正岡子規
大意 何度も、雪の深さを尋ねたことであった。
季語 雪(冬)
どこ 作者の家の中
だれ 重い病気で寝ている作者
切れ字 「尋ねけり」
状況
作者正岡子規が結核性脊椎カリエスで身動きができなくなり、なくなるまで病床生活を送ったのは、東京根岸の子規庵であった。ここで母八重(やえ)と妹律(りつ)の献身的な看護を受けた。雪が降ったというのに障子がさえぎって庭の様子が見えない。病床から動けない子規は、自分の目でどのくらい雪が積もったのか、自分で確かめることができないのである。そこで母や妹、あるいは病室に出入りする人に、積雪の様子を幾度も尋ね、庭や道路や公園に積もった雪景色を想像している状況を詠んでいる。「いくたびも」と詠んだところに、雪を喜ぶ子規の気持ちが表れている。ちなみに、子規庵にガラス障子を弟弟子の高浜虚子が入れてくれたのは、明治32年であるため、それ以前の句。
俳句を味わう
赤い椿白い椿と落ちにけり 河東碧梧桐
大意 赤い椿、白い椿、と落ちたことだ。
季語 椿(春)
切れ字 落ちにけり
鑑賞
作者は、紅白二色の椿が隣り合って落ちていく鮮明な対照の美しさを表現している。赤い椿、白い椿と時間差で落ちていく様子を表現使用としているのか、赤い椿が白い椿と落ちていくこを表現使用としているのかは読者に委ねられる。
椿の花が落ちている。赤い花が落ちてはっとする間もなく白い花が落ちことに感動している。。ひとつだけでも鮮やかな色だが、このように落ちていく花びらの、赤と白の対比もまた目に鮮やかに映る。
バスを待ち大路の春をうたがはず 石田波郷
大意
バスを待ちながら大路にたたずんでいると、日はうらうらと照り、街行く人の装いも明るく軽やかで、街路樹も芽吹き初めて、疑いもなく春だと感じられることである。
季語 春(春)
切れ バスを待ち/大路の春をうたがはず
対比 春とバス
鑑賞
停留所でバスを待つ間に見える様々な景色…視覚的には春の日差しや新緑、聴覚的には鳥のさえずり、嗅覚的には花の香り、触覚的には温かな空気と、味覚以外の五感すべてから「大路の春を疑わず」と感じた。濁音の多さも街の喧騒が感じられる。春の大路の様子をいろいろと想像できる句である。待ちわびる対象として「春」と「バス」を重ねている。つまり、作者はバスを待つ時点では春の到来に気づいておらず、装いも冬のものであったことが考えられる。「早く春が来て欲しい」という気持ちがあり、周囲の状況から、既に春が来ているコトへの驚きが感動の中心である。「うたがはす」の断定的な切れの強さが、春到来の若々しさを伝えてくれる。
資料
この句は、昭和8年、作者が東京・神田の大通りでバスを待ちながら、周囲の風景などに何気なく目をやっている時に着想を得たものである。この時代、バスはとてもモダンな乗り物であった。
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