http://www1.odn.ne.jp/~cas67510/haiku/basyouhaikai 【芭蕉俳諧を「解凍」す 桃印考執筆中】 より
桃印に関する芭蕉の書簡の要点を抜き書きにし、整理してみた。
杉風(杉山)宛
元禄3年3月10日付 尚々猪兵衛・桃印、油断不仕様に可被仰付候
曽良(河合)宛
元禄3年9月12日付 桃印ゆがみなりにも相つとめ候よし被仰聞、大慶仕候。少も出かさずとも、ころばぬ斗大きなる手柄に而御座候。油断不仕候様に御伝奏頼候。勘兵衛も見事口過いたし候由、気毒に存候。親子兄弟いさかひなど不致様に御申付被成可被下候。
曲翠(菅沼外記)宛 元禄6年2月8日付 其元御遣金御用ノ余御座候はば、壱両弐分御取替被成被下候はば可忝候(略)
少々難去内証のすくひ之事出来候故、江戸むきのものには無心難申事故、御心底不看如此御座候
岸本八郎兵衛(公羽)宛元禄6年3月7日頃 手前病人も国本出候而十年余、終一人の母に其後対面不仕、大かた十死と相見え候
岸本八郎兵衛(公羽)宛元禄6年3月12日付 手前病人一両夜少心持かろき体に見え申候へ共、大病之儀故、たのもし気薄く守り暮候。誠隠閑葎の中まで世のありさまのがれがたく、是非なき事に胸をいたましめ罷有候
許六(森川許六)宛
元禄6年3月20日頃 桃隣存之通手前病人先月20日頃より次第次第に重病、此五六日しきりになやみ候而、既十死之体に相見え候(略)旧里を出て十年余、二十年に及候て、老母に二度対面せず、五六才にて父に別候而、其後は拙者介放(抱)にて三十三に成候。此不便はかなき事共おもひ捨がたく、胸をいたましめ罷有候(略)
病人故久々不出候処、曲水(曲翠)病気之よし、手前病人も其日は少心持能候故、病人も我等をすすめ候而まいれと申候故、拙者ひたすら付きそひも窮屈にやと、昼之内出申候
荊口(宮崎荊口)宛
元禄6年4月29日付 拙者、当春、猶子桃印と申すもの、三十余迄苦労に致候而病死致、此病中精魂をなやませ、死後断腸之思難止候而、精情草臥、花の盛、春の行衞も夢のやうにて暮、句も不申出候
曲翠宛
元禄6年11月8日付 諸縁音信を断、初秋より閉関、二郎兵へは小料理に慰罷有候。夏中は筆をもとらず、書にむかはず、書も打捨寝くらしたる計に御座候
<曽良書簡>
芭蕉宛
元禄3年9月26日付 桃印・勘兵衛無事、次郎事等、委伊兵衛申上候由故、略之申候。
桃印の存在について、学者の間で侃々諤々の論議があり、いまだ決着がつかず、謎を秘めている。今栄蔵氏は、寿貞妾説は何かの誤伝として退け、寿貞を芭蕉が親代わりになって面倒をみてきた甥桃印の妻と見る説が現れたとして、次郎兵衛、まさ、おふうの三人の寿貞の子どもは「いわば芭蕉の孫であり、細やかな愛情の目をそそぐのも極めて自然である」と記している。
桃印の死に直面し、芭蕉が受けた衝撃の大きさをうかがわせる書簡がある。芭蕉が荊口(宮崎荊口)に宛てた元禄6年4月29日付の書簡。「拙者、当春、猶子桃印と申すもの、三十余迄苦労に致候而病死致、此病中精魂をなやませ、死後断腸之思難止候而、精情草臥、花の盛、春の行衞も夢のやうにて暮、句も不申出候」と心情を吐露。
白雪(太田金左衛門)宛の書簡(元禄6年8月20日付)には「盆後閉関致候」とある。閉関とは門を閉ざすことであり、ほぼ一ヵ月間、「諸縁音信を断、初秋より閉関、二郎兵へは小料理に慰罷有候。夏中は筆をもとらず、書にむかはず、書も打捨寝くらしたる計に御座候」(曲翠宛元禄6年11月8日付)と述べている。この年は暑気強く、体調を崩したようだが、「此病中精魂をなやませ、死後断腸之思難止候而、精情草臥」と死後も断腸の思い止みがたく、句を作る気力も萎えた芭蕉の姿は、実子の死に劣らない嘆き、落胆ぶりである。桃印の治療費の工面に、芭蕉は曲翠(菅沼外記)に「其元御遣金御用ノ余御座候はば、壱両弐分御取替被成被下候はば可忝候」と頼んでいる。死期が迫り助からないと分かっている桃印の命を少しでも延ばそうと、必死な芭蕉の姿が胸に迫る。
※
桃印は、芭蕉の桃青から「印」を授けた俳号だが、桃印の句が見当たらない。また桃印は何によって生活費を得ていたのか、まったく分からないが、芭蕉が陰に陽に世話していたことは間違いない。許六(森川許六)宛の元禄6年3月20日頃の書簡に「旧里を出て十年余、二十年に及候て、老母に二度対面せず、五六才にて父に別候而、其後は拙者介放(抱)にて三十三に成候。此不便はかなき事共おもひ捨がたく、胸をいたましめ罷有候」と、拙者介抱にて三十三に成候と述べている。姉の元から江戸に連れて来てからというもの、芭蕉がずっと桃印の面倒を見てきたということが、この書簡から浮かび上がってくる。
単なる「甥」ではない。桃印と芭蕉の間には、何かよほどの事情があるのだろう。芭蕉のもとを多くの門弟が出入りしていたことから、当然、芭蕉が面倒を見ていた桃印との接触もあっただろう。にもかかわらず、門弟たちの遺稿にも桃印に関する記述が見当たらない。死後も断腸の思いやみがたくと痛哭を隠さず、それゆえ気力が衰え、ほぼ一ヵ月間というもの門を閉ざして他人との交わりを断った「閉関」に至る。芭蕉の存在を精神的に支えていた桃印に関する記述が、芭蕉の書簡の断片に見え隠れするのみという事から、桃印への隠れたメッセージを感じる。
芭蕉の「伝記」としては、芭蕉の高弟、服部土芳から主に聞き書きしたされる川口竹人の「芭蕉翁全伝」(宝暦12年、1762年)、安屋冬季の筆録「芭蕉略伝」(安永年間)、梨一の「奥細道菅菰抄」(安永7年、1778年)、蝶夢の「芭蕉翁絵詞伝」(寛政4年、1792年)など、芭蕉の生立ちゃ足跡を顕彰したものが数多あるが、いずれの伝記にも桃印の存在は記されていない。
芭蕉が、その死に「断腸の思い止み難く」と記した桃印の存在を、門弟たちは見事なまでに「抹消」している。桃印を抹消しなければならない「事情」とは、いったい何なのか。
思わせぶりな展開で、桃印の存在を弄んでいるように受け取られるかも知れないが、私自身、芭蕉の書簡等から推測しているだけに過ぎない。飛躍を避けて、残されている資料等から地道に推測を重ね、そして私なりの「桃印説」を打ち出したい。だから、今しばらく我慢してお付き合い願いたい。
※
芭蕉が「一はあねの御恩難有、二つ大慈大悲の御心わすれがたく」と書簡に記している姉とは、兄嫁(半左衛門の妻)という説と、上柘植村山田(芭蕉の生誕地)から四��ほど隔たった愛田村の竹島家に嫁いでいる実姉との二説がある。私は、後者の実姉説を支持したい。兄嫁に対し、芭蕉が「あね」というだろうか。芭蕉の性格からして「あねさま」と表記するのが自然ではないか。半左衛門宛の遺書の末尾にある「ばゞさま、およし、力落シ可申候」のばばさまが兄嫁と考えられる。およしは芭蕉の末妹。
姉の嫁いだ竹島家は農家ではあるが、愛田村の庄屋であり、無足人(郷士)の松尾家より格式が高かったようだ。松尾家の戒名は信士であるが、竹島家は居士、大姉であり、のちに院号を許されている。姉は、芭蕉没後の三年経た元禄10年8月17日に亡くなっている。岡村健三氏が「芭蕉伝記考」の中で、旧家竹島至郎方の過去帳に「湖岸栄江大姉 十三代景勝妻 実ハ上柘植村住松尾儀左衛門娘」と記されていることを明らかにしている。ただ、「芭蕉翁全伝」(川口竹人著)付載の松尾家系略図には姉一人の存在が「女子」と記しているのみで、妹二人については「片野氏ニ嫁ス」「堀内氏ニ嫁ス」と記載している事実と比して、なんとも腑に落ちない。
辻褄が合わないといえば、許六宛の書簡に桃印は「五、六才にて父に別候而」と芭蕉は報告しているが、姉の夫、竹島四郎左衛門景勝は「姉」より長生きし没年は元禄14年。許六宛の書簡と大きく異なる。そのところの解明が残っているが、私は、この姉が桃印を16歳まで育てたのではないかと見ている。このことについては追々、説明したい。
話を桃印の病状と「手前病人」に戻したい。
※
曲翠(菅沼外記)宛の金銭融通の書簡(元禄6年2月8日付)には「少々難去内証のすくひ之事出来候故、江戸むきのものには無心難申事故、御心底不看如此御座候」と、まだ「手前病人」との表現は避けている。
いよいよ桃印の死期が目前に迫ってきた三月初め、岸本八郎兵衛(公羽)宛て書簡
(元禄6年3月7日頃)で「手前病人も国本出候而十年余、終一人の母に其後対面不仕、大かた十死と相見え候」と手前病人が出てくる。
現存している芭蕉の書簡で「手前病人」の表現がでてくるのは、元禄6年3月7日頃と同3月12日付の岸本八郎兵衛(公羽)宛書簡、そして同3月20頃の許六宛書簡の三通である。3月12日付の公羽宛には「手前病人一両夜少心持かろき体に見え申候へ共、大病之儀故、たのもし気薄く守り暮候。誠隠閑葎の中まで世のありさまのがれがたく、是非なき事に胸をいたましめ罷有候」と記し、3月20日頃の許六宛書簡では「桃隣存之通手前病人先月20日頃より次第次第に重病、此五六日しきりになやみ候而、既十死之体に相見え候」「病人故久々不出候処、曲水(曲翠)病気之よし、手前病人も其日は少心持能候故、病人も我等をすすめ候而まいれと申候故、拙者ひたすら付きそひも窮屈にやと、昼之内出申候」と「手前病人」との会話の内容の一部を紹介。
「桃印」の名前が初めて出てくるのは、前記、元禄3年3月10日付の杉風宛、同3年9月12日付曽良宛、そして同6年4月16日付荊口宛書簡である。荊口宛では「拙者、当春、猶子桃印と申もの」と桃印の死を知らせ切々と断腸の思いを述べている。
公羽宛の「手前病人」は、すでに公羽が「桃印」の存在を知っているとの前提において成り立つ記述であり、江戸の門人等には桃印の存在は周知の事実だったに違いない。杉風、曽良に宛てた芭蕉の書簡から窺い知れる。
ところが3月20日付の許六宛では「桃隣存之通手前病人先月20日頃より次第次第に重病」と、桃隣存之通と前置きをしつつ手前病人と述べている。桃隣存之通とは、桃隣から聞いて知っているでしょうと言いながら、まだ桃隣から聞いていないのであれば聞いて下さいという意味に取れる。芭蕉は、入門浅いながら許六を画の師として厚遇し頻繁に書簡のやりとりをしていたにもかかわらず、桃印の存在を知らせていなかったのではないか。また、桃印と言わず、「手前病人」に表現をとどめているところに、なにか得体の知れない「はばかり」がうかがえる。
芭蕉は、書簡等に「桃印」の名を記述する事を努めて避けたのではないか。桃印の死後、荊口に宛てた書簡に「拙者、当春、猶子桃印と申すもの、三十余迄苦労に致候而病死致、此病中精魂をなやませ、死後断腸之思難止候而」と桃印の名を記し事情を述べている。桃印のことを記述した芭蕉の書簡がこの他にもあったのだろうが、時の流れとともに散逸し、桃印の死後、桃印の事を記した書簡は現在、この荊口宛の書簡のみ。芭蕉は、桃印の身近にいて、世話をしたり後見してくれている人物以外には、容易に桃印の存在を明かさなかったのではないか。桃印の死後、芭蕉は美濃大垣藩士の荊口に「卒塔婆」の思いで猶子桃印の事を記したのではないか。
研究者の間では、芭蕉の父、儀左衛門には三男あり、長男を与左衛門、次男を半左衛門、そして三男が芭蕉という説がある。与左衛門には二児があり、その一人が桃印で、与左衛門は桃印五、六歳の時に亡くなっており、次男半左衛門が桃印らを引き取り、桃印については芭蕉が江戸に連れて行き、もう一人の甥は半左衛門のところにいて、延宝8年10月22日に夭折したというもの。伊賀上野の愛染院の過去帳に「冬室宗幻 松尾半左衛門甥」とある。「冬室宗幻」とは法号であろうが、奇妙な法号ではないか。
芭蕉の断簡で気にかかるものがある。半左衛門宛の11月26日付で「つづき申候はゞ何とぞとりとめ申度、さてもさても難儀仕候、御推し被遊可被下候。もはや御苦労に御座候故、如此御座候。先久ゐへはさたなしに仕候。あんじられ候而益なき事に候間、いかていと成行候共、急には申遣し申まじく候。其元へも段々には申進じ候まじく候間、左様に御意得可被成候。およしにも右の通御よみきかせ被遊可被下候。以上」。断簡であり執筆年次は推定の域を出ないが、元禄6年と元禄5年説の二説がある。元禄5年であれば桃印の病状を知らせたことになるが、そうなると桃印と「久居」との関係を解きほぐさなければならない。桃印の病状がいよいよすすみ、筆マメな芭蕉は半左衛門に事細かく報告していたのであろう。半左衛門は、それを受けて芭蕉に「久居」に連絡するかどうかと、聞き合わせたものと考えられ、その返信としてこの書簡が送られたのではないか。
芭蕉は「先久ゐへはさたなしに仕候。あんじられ候而益なき事に候間、いかていと成行候共、急には申遣し申まじく候」と、久居へは連絡をしないでいただきたい、久居に案じられても益なき事であり、(桃印が)いかように成り行くとも急には連絡しないで下さい、と兄半左衛門に対し、芭蕉にしては珍しく強い調子で述べている。
半左衛門に対しても「其元へも段々には申進じ候まじく候間、左様に御意得可被成候。およしにも右の通御よみきかせ被遊可被下候」と、余計な心配をかけまいとして桃印の病状連絡を控える旨記しており、およし(芭蕉の末妹、後に半左衛門の養女となる)にも読み聞かせてくださいと頼んでいる。
この書簡が桃印の病状にからむものだというのは、単なる私の推測だが、その推測が荒唐無稽なものでなければ、桃印と久居の「関係」が桃印解明のキーポイントとなる。半左衛門が久居に知らせるかどうか、気を遣わねばならぬ事情を抱えていて、芭蕉はそれに対し、「久ゐへはさたなしに仕候。あんじられ候而益なき事に候間、いかていと成行候共、急には申遣し申まじく候」と、まるで父親のごとく言い切っている。桃印についての関係先の連絡から何から何まで芭蕉の支配下にあり、兄半左衛門にも口出しを許さない芭蕉の気色が伝わる。
桃印の解明のカギを握る存在と見られているのが「寿貞」である。
野坡(芭蕉の門人)が門人風律の「小ばなし」に「寿貞は翁の若き時の妾にて、とく尼になりしなり。其子次郎兵衛もつかい被申し由。浅談」という記述が、明治45年「俳味」三巻一号紹介されてから、芭蕉と寿貞の関係に関心が集まった。「小ばなし」は広島の俳人多賀庵風律が聞き書きを集めたもの。野坡は、芭蕉が提唱した「かるみ」を代表する門人として知られ、元禄6年冬から翌7年の春にかけて深川の芭蕉庵にしばしば足を運んでいた。当然、寿貞や次郎兵衛らと顔を合わせ言葉を交わしたであろうから、その野坡からの聞き書きによる「小ばなし」の虚実を問題にする声はあまりなく、その聞き書きを事実と認めたうえで、研究者らの関心は妻帯していなかった芭蕉における「妾」の意味や、寿貞と桃印の関係、さらには寿貞の親兄弟にあるようだ。
白百合女子大教授の田中善信氏は著書「芭蕉二つの顔」の中で、寿貞と桃印の関係に触れ、密通によって桃印は寿貞を連れて「どこかに身を隠していたのだと思う。つまりかけおちである」と推理している。確とした資料がないものだから、資料の空白を埋めて人間関係を浮かび上がらせるには「想像力」に頼るしかない。そのため、さまざまな推理の展開がなされ、歴史上の人物だからいいようなものの、存命していれば名誉毀損で訴えかねられない。例え、歴史上の人物であっても、子孫が健在の場合はあまり見当外れなことで祖先への「名誉感情」を損う行為があれば、訴訟に至る事もあるのではないか。
寿貞について、今日学会で認められている事実は「次郎兵衛、まさ、おふう」の三人の子供があり、元禄7年5月下旬~6月初めに深川の芭蕉庵で没したことだけである。芭蕉が「尼寿貞が身まかりけるとききて」と前書きして詠んだ
数ならぬ身となおもひそ玉祭り(有磯海)
この句が残されている。
芭蕉の伝記では、竹人の「芭蕉翁全伝」に「猪兵衛、寿貞なほ尋ぬべし」とあるだけで、他の伝記で寿貞に触れたものはない。
芭蕉の書簡で寿貞に関する記述を抜粋し、一覧にした。
曽良宛
元禄7年5月16日付 寿貞も定而移り居可申候。御申きかせ、乍慮外奉頼候。
杉風宛
元禄7年5月21日付 折々深川へ御なぐさみに御出あれかしと存候。され共、寿貞病人之事に候へば、しかじか茶をまいるほどの事も得致まじくと存候。これらが事共などは、必御事しげき中、万御苦労に被成被下さるまじく候。
猪兵衛宛
元禄7年5月21日付 深川の様子具に重而御申こし可被下候。
猪兵衛宛
元禄7年6月3日付 理兵衛細工無之時分、せめて煩不申候様に御気を可被下候。右之通寿貞にも御申きかせ可被下候。おふう夏かけて無事に候哉。様子具に御申越可被成候。
猪兵衛宛
元禄7年6月8日付 寿貞無仕合もの、まさ・おふう同じく不仕合、とかく難申尽候。好斎老へ別紙可申上候へ共、急便に而此書状一所に御覧被下候様に頼存候。(略)何事も何事も夢まぼろしの世界、一言の理くつは無之候。ともかくも能様に御はからひ可被成候。
芭蕉の「遺書」にも寿貞の記述がある。
元禄7年10月10日口述 伊兵衛に申候。当年は寿貞事に付色々御骨折、面談に御礼と存候所、無是非事に候。残り候二人之者共、十方を失ひうろたへ可申候。
寿貞と桃印の関係について、密通説あり、夫婦説ありさまざまだが、芭蕉の「若き時の妾」(小ばなし)の寿貞が、なぜ桃印と夫婦になったのか。その桃印を、芭蕉は何ゆえ、実子にまさる愛情をそそぎ、「病中精魂をなやませ、死後断腸之思難止候而」の心境にいたるのか。なんら合理的な説明がなされていない。
今栄蔵氏は「新芭蕉講座 弟7巻書簡篇」(三省堂)で「寿貞妾説には疑問が多く、実は芭蕉の甥養子猶子桃印の妻で次郎兵衛はこの夫婦の子とするのが妥当と考えられる」と小ばなしの記述を否定し、次郎兵衛を寿貞桃印の子としている。
それならば、芭蕉と寿貞、桃印らの関係を承知していたはずの其角の「芭蕉翁終焉記」に「寿貞が子次郎兵衛」とあるのが説明つかない。また、いくら早婚の時代ではあったとはいえ、三十三で没した桃印と次郎兵衛との年齢が16~17歳しか離れていない。芭蕉は、桃印16歳の時に旧里から手を引いて東下りをしたはずだから、そのとき桃印はすでに寿貞と関係があったとするのは論理的に無理があるのではないか。
伊賀上野の念仏寺の日過去帳の二日の部に「松誉寿貞 中尾源左衛門殿」とある、寿貞の法号を見つけだした菊山当年男氏は著書「はせを」(昭和15年11月刊)のなかで、意味深いことを記述している。少し長くなるが、寿貞理解には欠かせない内容なので紹介する。
「然るに寿貞を松尾家の家人として、菩提寺愛染院に盆会を営まず、寿貞里方の念仏寺で、然も中尾源左衛門を表面の施主として供養して居る点、何か事情がありそうに見える。この事情こそは芭蕉と源左衛門と半左衛門と及寿貞の母や姉弟のみが知ることで、他の窺い知らるゝ所ではないのみならず、今日に於ては唯推測に過ぎないが、思ふに正式に結婚届をすました仲ではないといふ外に、寿貞と藤堂家との間に解けきらぬ謎があって、之に介在する中尾源左衛門が、すべての引受役にでもなって居たのではないだろうか、『芭蕉翁全伝』の『寿貞尚尋ぬべし』という一節も、著者が芭蕉の為に寿貞の素性を蔽ひ隠したと云うのでなく、何か藤堂家に憚る所があってと見た方が妥当の様に思はれる。それはたとひ年代を経た昔のことであったにしても、士大将として伊賀付藩士の筆頭を誇る家柄として、内輪の不取締から起こった事情が明るみへ出ることを極端に好まなかったからであろう」と、芭蕉の主筋の藤堂家との表に出せない「関係」を指摘。
菊山氏は、後年「芭蕉の『猶子桃印』考」のなかで、芭蕉の長兄半左衛門、末妹およしの兄弟についてはもはや詮索すべきものがなく、残った山岸家に嫁した姉、片野、堀内の両家に嫁した妹らはそれぞれ相当な暮しをし、殊に二人の妹は商家であっただけに余裕のある暮しをしていたのだから、わが子の養育を芭蕉に頼むなどは、夢にも考えられないとして、桃印の母を寿貞の二人の姉のうちの一人と推測。「猶子桃印の母は三千世界にたったひとり『七郎右衛門方あねごぜん』の寿貞の長姉、念仏寺過去帳の『享誉利貞信尼 寿貞尼姉』がそれだと私は推断を下したいのである。否むしろこの『あねごぜん』この『寿貞尼姉』を外にしては桃印の母がないからである。私が芭蕉の許六宛の書簡を読んだ瞬間、桃印の母の姿が眼に浮かんだというのはこの『あねごぜん』の姿であり、この『寿貞尼姉』の姿でもあった」の記述。
桃印の母を寿貞の長姉、法号享誉利貞信尼(念仏寺過去帳)とした菊山氏の「推断」には、藤堂家への特別な配慮が働いていたのではないかと、私には思える。芭蕉の研究に大きな功績をあげた「はせを」で、菊山氏は「寿貞と藤堂家との間に解けきらぬ謎があって、之に介在する中尾源左衛門が、すべての引受役にでもなって居たのではないだろうか」と推測していたが、後年、桃印の母をあっさり寿貞の長姉として片付けてしまった。菊山氏は、寿貞は若くして藤堂家に奉公にあがり、そこで同じ奉公人であった芭蕉と知り合い、桃印をもうけたのではないかと、「芭蕉と寿貞」(文芸春秋 昭和12年1月号)のなかで夢物語ふうに推測していたが、三年後の「はせを」の段階では奉公先の藤堂家との解け切らぬ謎を指摘。さらに晩年にいたって、桃印は寿貞の長姉の子とした菊山氏の「推測の変遷」には、今なお子孫の健在な藤堂家への配慮というか遠慮があったのではないか。芭蕉の偉大な研究者が、極めて個人的な事情で説を曲げたとは考えたくもないが、しかし、寿貞と藤堂家との「解け切らぬ謎」を提示したまま、急に桃印は寿貞の長姉の子と舵を切られては、むしろ解け切らぬ謎が増幅する。
それでは、お前の説はどうなのかと問われるだろうが、寿貞・桃印に関する先人らの研究成果に基づく事実関係を私なりに整理しながら、結論部分で持論を展開したい。
菊山氏が調べたところでは、寿貞には二人の姉弟があり、この二人は伊賀の上野に住み、菩提寺は念仏寺。寿貞の施主となった中尾源左衛門家と同じ菩提寺であり、「享保三戌四月廿六日 歓誉光安浄喜 寿貞尼舎弟」「享保三戌四月廿九日 享誉利貞信尼 寿貞尼姉也」と過去帳に記載がある。寿貞の弟と姉の法号であり、菊山氏は二人とも「寿貞尼舎弟」「寿貞尼姉也」と寿貞を主とした表わし方に着目し、「寿貞はあまりにも有名な芭蕉の妻であったといふ事が、これ等二人の姉弟には歓びであり、誇りでもあったといふことの窺ひ知られる所以であって、一面この過去帳への直接記入した住職も、芭蕉と寿貞、寿貞とその姉弟の関係を心得て居て、斯くは記入したものと思はねぱならぬ」(はせを)と記述。
寿貞は、「芭蕉の若き時の妾」ということから、何か日陰の存在のような気配があったが、過去帳の記載ではむしろ、寿貞の身内は寿貞の存在を誇りとし、死後、過去帳において自身の存在を寿貞との肉親関係に求めているという事実は、菊山氏が論述するように「旧里」では寿貞は知られた存在であったに違いない。
それほどの寿貞であるにもかかわらず、過去帳への記載が「松誉寿貞 中尾源左衛門殿」と簡略すぎるのが不思議といえば不思議なことだ。通常は一行の真ん中に法号、右肩に年号、左下に俗名を記すことになっているが、なぜか年号、俗名がなく、その代わり中尾源左衛門殿とある。中尾源左衛門は、菊山氏によると俳号槐市のことで、藤堂新七郎家の家臣で、芭蕉とは奉公時代に「朋輩として同僚として相結んだ」人物。
桃印について、不可解の最たるものは延宝4年(1676年)夏、芭蕉(33歳)は16歳の桃印を連れて江戸に帰っているが、その後桃印は一度も故郷(伊賀)に戻っていない点だ。田中喜信氏の「芭蕉ふたつの顔」によると、藤堂藩は藩法で領民に対し、他国に働きに出るものは役所の指図を受けたうえで出国し、出国後五年目には故郷に帰り役所に出頭することを義務付けていた。芭蕉は寛文12年(1672年)出国し、五年目の延宝4年(1676年)に帰国している。藩法し従っている。しかし、桃印は出国五年目に帰国していない。藤堂藩は貞享4年(1687年)3月10日、他国に居住する商人たちに「今明年中に故郷に戻り役所に出頭することを」命じている。出頭しない不届き者については、どこにいようと探し出して詮議のうえ「その品により曲事に申し付け」ると宣言していると田中氏は記述している。芭蕉はこの「触れ」に従って貞享4年10月帰国の途についているが、この時も桃印は帰国していない。「藤堂藩がこのような制約をもうけたのは、他国で浮浪者が出ることを恐れたからだと思う」と田中氏は推測。自藩の領民が他国で浮浪者になるような事態は藩政の失態として問われかねない。藤堂藩の立場を保つためにも領民から浮浪者を出さないための対策として厳しい制約を設けたのだろう。
当時の藩法は縁座制であったため、藩法を犯せば当人のみならず親類縁者の罪に問われた。たとえば、藤堂藩では領民が江戸で職に就いた場合は、手形(就職証明書)を国元の役所に出すことを定めているが、期限までに手形を提出しない時は、「その村の庄屋・与頭は過銭(罰金)、親兄弟は牢舎、親兄弟がいない者は親類か縁者一人が牢舎である。その上さらに親類・縁者ならびに村中で必ず本人を捜し出すように命じており、本人については『軽重をただし、死罪あるいは牢舎・過銭たるべき事』という罰則規定をもうけている(「宗国史」外扁「国約志」)」(「芭蕉二つの顔」)。
桃印が藩法を犯して帰国していないのだから、当然、芭蕉はもとより伯父にあたる半左衛門、さらには町内の人々にも累が及ぶことは避けられないはずだが、桃印はその咎をまったく受けていない。そればかりか、芭蕉は帰国のつど、藤堂新七郎家からも手厚くもてなしを受けている。芭蕉が仕えた蝉吟(藤堂主計良忠)の子、当主の探丸(良長)から酒肴を下賜されたり、下屋敷の花見に招かれたり、さらに帰郷中は当方の「下屋敷で過ごすがよい」などと驚くほどの好意を得ている。
芭蕉と藤堂家の「関係」にも言い知れぬ謎があるようだ。
桃印の藩法破りの事実が明るみになれば、芭蕉や半左衛門も牢舎はまぬがれなかっただろうが、しかし、藤堂家は桃印の存在を承知していたのではないか。芭蕉が兄半左衛門や身内、町内の者に累が及ぶと分かっている藩法破りをやるとは考えられない。芭蕉の身内に対する細やかな思い、藤堂新七郎家との関わりにおいて、何の保証もなしにそうしたダイソレタことをする人物ではない。また、門人等の口から早晩、江戸屋敷や国元に伝わるのは分かり切ったことだ。芭蕉は、判断力を有する慎重な人物だ。藤堂新七郎家との何らかの黙契がなければ、桃印を江戸に連れてゆき藩法破りをするはずがない。その裏事情を推理してゆきたい。
(8月4日記 執筆つづく)
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